なんとなく気になる村があった。ソンコーン郡のスィブンヘンという村。東南アジアの土器作り村を踏破して作成されたレファート・リストで所在地がどうも誤記されているようなのだ。ちょっと時間があったので探してみようということになった。
国道13号線を南下、聞いては走り、走っては聞く。そして確かに村に着いたのだが誰に聞いても土器は作っていないという。がっかりしつつ、最後に市場で尋ねてみると、近くに昔作っていた人が一人いるという。車を降りて、教えられた方向へ田んぼのあぜ道を歩く。
15:30ようやくお宅に着いた。そこにいたのはBさん(60歳)と夫Cさん(75歳)夫婦。そして娘夫婦と孫。残念ながら土器作りは3年前に止めていた。ここはP村。
話を聞いているうちに、実は自分たちはタイ人だという。50年前にここに来たという。
えっ、そうか移住してきたのか…。ここまではお正月のラオス日記で紹介したようにタイのイサーンでよくある話だ。土器作り技術の拡散の背景に良田を求めて移住を繰り返すイサーンの歴史があったことをアメリカ人のレファート・コート夫妻が明らかにしている。
庭先にある水甕モーナムを見て、何かおかしい・・・。ラオス南部に一般的なモーナムではないのだ。そして、合点がいった。これはやっぱりイサーンの形だ!それは自分たちがタイ出身だという話とほぼ同時だった。
さらに、自分たちはウボンラチャタニー県出身だという。「タカン・プーポンから来た」。ひょっとして・・・D村では?「いや、隣のSY村だよ」「あたしの兄弟はまだ村にいるよ」
D村は2008年から私が毎年通っている村で、この村もSY村から分かれた。D村のポターたちは今でもSY村の田から粘土を掘っている。
なんで突然訪ねてきた見知らぬ日本人が、自分たちの故郷のことをこんなに良く知ってるんだ!そんな雰囲気で目を白黒させながら、なつかしい故郷の話に花が咲いた。
Bさん家族は他の10家族とともにタイのSY村から歩いてここに来た。ベトナム戦争にアメリカが介入する前の話である。8haを2000$で買い、何年もかかって森を開墾した。タイに帰った人もいたが、やがて70軒(すべてSY村出身世帯)になり、みな土器を作っていた。
隣のN婆さん(78歳)もポターだったよ。もう目が見えないし、耳もよく聞こえないけど。一緒に作ってたんだよ。訪ねると夫のHさん(68歳)が移住の頃の話を聞かせてくれた。叩き板や当て具など土器作り道具は、ラオス南部と違いタイ・D村と共通点がある。しかし、他との交流を持たずガラパゴス化したことで、呼び名がラオス風に変わるとともに、技術や器形の一部にD村との違いがあらわになった。実に興味深い。
細い糸を辿りながら出会った家族。この二つの家族の私的な歩みのなかに土器作り技術拡散の大きな歴史ドラマが詰まっている。
写真1:Cさんと孫
写真2:市場で働くBさんと娘
写真3:Bさんで使用中エンナム
写真4:Bさん宅の庭先で移住の頃の話を聞く
写真5:同上、無台・蓋なし。タイでは「モー・ウ・ナム」と呼ぶ。知ってるけどラオス式で呼ぶんだそうだ。
写真6:Nさん家のモー・ティン。高台付き。タイではモーイオイといい、蓋付だ。
写真7:連結炉穴。竹の子を茹でている。縄文時代の遺跡からも検出されている。