3月7日
今日も朝からNLC。Tさん家で掘り棒を借り、窯跡の現場に行く。午前中の発掘は連れにまかせ、私はTさんから成形道具や窯詰めのこと、ライフヒストリーなど、ヒアリングを続ける。
Tさんは目下自宅の建設中。柱組み(建ち前)の後は、自力で家を作る。いま壁のブロック積みと窓枠作りの最中(写真1)。現在の家は約30年前に建てたもので手狭になった。道路に面して小さなショップを営んでいるが、そのオープンな空間に液晶テレビが鎮座する。やや違和感あり。埃かぶりっぱなしで大丈夫なんだろうか。
Tさんは8歳で見習い仕事を始めた。戦争後、再開し、長くHさん(20年ほど前、80歳で亡くなる)という土器作りの「神様」の補助をやっていた。Hさんはこの村のリーダーで、製作者はみんな彼から習って、最盛期には10世帯以上が土器を作っていたという。事実かどうか検証はできないが、NLC村の技術の系譜をHさんとその父親にたどる構図ができていた。
先日デモをやってくれた2つの回転台はHさんが作り、使っていたものだった。彼らにとって回転台は「たからモノ」だという。「家があるのはこれのおかげなんだよ。これがあれば土器を作って売れるんだから・・・・」回転台は実用的な「財」というだけでなく、精神の拠り所にもなっている。初日のN村の元職人さんも同じようなことを言っていた。
TさんはHさんの補助をしながら、「いつも怒られてばっかりだったよ」と、神様と一緒に仕事をした昔を懐かしがった。Hさんが亡くなった20年前、ようやく自立して、奥さんの補助で土器を作るようになったのである。
いつも怖い顔をしているTさんがニヤリと口元を開いた瞬間があった。道具の名前を順に尋ね、回転台を受ける「軸」の呼び名を答えたときだった。「Khoiって言うんだぜ」男性器を示す隠語だ。
滑りを良くするためにラードを塗るがこの日は石鹸で代用した。
それからBさんのお宅へ器種調査に行った。Bさんは竹を割いてムアイ(米蒸し用の竹製容器)を作っていた。ひと通り聞いて最後に「ナムタオ」がでてきた。見たいと言うがないという。この村にはそこかしこにひょうたんが転がっている。各家庭で田で水を飲むときの水筒として使っている。ナムタオとはヒョウタンをモデルとした水筒兼水差し容器である。
Dさん、お寺にあるから見せてやる、ついて来いという。この村に「Hotay Pidok」という名刹がある。ヤシの葉に書き刻んだ500 年前の仏典4,000巻を収蔵する。
これまで何度もお寺の前を通っていて、入り口にある「靴を忘れないで!」という英語の看板が意味不明??不思議だった。訪ねてみてわかったのは、ここは境内に入るのも土足厳禁、門の前で靴下も脱がなくてはならないのだ。足の裏がチクチクしながら土の上を歩いた。高僧のプライベートルームを訪ね、何度も跪伏拝礼、訳をを話して古いナムタオを見せてもらった。見てびっくり!何度土器ではないか。名僧曰く、寺に伝わった300~400年前のもの。かつてはこの村で女性の土器作りがあったという。
帰りがけにBさんがポツリ。この池にアメリカ軍が落とした200ポンド爆弾(不発弾)が2個沈んでいると。村人の記憶の中にベトナム戦争(ラオス内戦)はまだまだ風化しない。寺を出ようとして、はっと気がついた。そういえば靴を脱いだんだった。慣れると素足で歩くのは確かに気持ちいい。看板の意味が少しは分かったかも。
お寺を出ると高いビンロウの木に実(女性たちが噛むキンマの材料)がたわわについていた(写真)。
お昼から窯跡に戻り、酷暑のなか、昼飯抜きで窯跡の実測と写真撮影をする。10年間で燃焼部がどのように埋まっていったか、埋没過程がよくわかる。
その後、お世話になった人にあいさつし、タイから移住したCさん、Hさん一家がいるP村を再訪する。