城郭遺構の年代をきめるのは難しい。城は主が変わるたびに改修を繰り返し、現在残っているのはその最終形態であるからだ。
いま東北の戦国史でホットな話題となっているのが米沢の館山城。上杉の町で売っている米沢は、伊達氏の故郷のひとつでもある。伊達政宗が育った「米沢城」は実はこの館山城だったというのが最近の見方である。市教委が行っている確認調査で今年度、枡形門周辺から石垣がみつかった。また、その前面から門・土塁の整備、郭の造成の際に埋め立てられた大規模な空堀も見つかった。
さらにこの石垣等が最終的に「きれい」に壊されて城が廃絶している。いわゆる「破城」である。この壊し方にも特徴がある。
問題はこの石垣造りの格式高い枡形門を整備したのは誰か?
そして、城を壊したのはいつ、誰が?
石垣構築以前の空堀からは16世紀前半~半ばの遺物が出土するという。
石垣の型式属性は、隅角部算木積み。角石直方体化。角脇石なし?。築石控え長く小面ノミ加工多用。布積み傾向。
上杉には慶長5年に築城途中で放棄された会津若松市の神指城があり、一部本丸の石垣が調査されている。
これだけ特徴や比較材料がそろえば年代はかなり絞れる。
あきらかに最終段階は伊達の城ではない。
さてどんなストーリーが描けるか。
遺構は文献史料には出てこない歴史を描き出す。だから面白い・・・・。
もう一題。
米沢市の戸塚山では201号墳の発掘が行われている。従来ないと思われていた山の北麓から見つかった古墳状の高まりだった。調査の結果、やはり古墳だったが、中世に積石をして塚として再利用していることが分かった。周辺からは同様の塚がほかに二つ見つかっており、この山は古墳時代以降も信仰の山として利用されて続けてきたことになる。古墳単体としてはそのような例は珍しくないが、ここではほとんどの支群で多様な中世墓が複合している。史跡としての価値付けをどのような観点で行うか。これから歴史学の研究も取り入れながら調査が続く。