新しい出会いと発見に心を躍らせ、今年もまた旅に出る。「知らない」ということは何と素晴らしいことか。人やモノと触れる濃密な時間は自身の視野を広げ、狭い価値観を相対化する。
恒例の年末年始の東南アジア調査。今年は前半がタイ東北部(イサーン)。後半がミャンマー中部。
出発の夜、突然山形新幹線が大雪で運休。急きょ仙台から東京に向かう。いつものごとく新幹線内で年賀状書き。一晩泊まって羽田の午前便でタイに入った。東京の朝は快晴。バンコクもいつものように暑い。空港で両替のレートを見て愕然とする。円安はグローバル企業を潤すが、小旅行者の懐を直撃する。
夕方、コンケーンに飛んでドライバーと合流、翌日からの調査の打ち合わせをした。
今回の目的は、これまで訪ねた土器作り村の成立時期やどこから移住してきたかを聞き、裏付け資料を探すことだった。タイ東北部の5県9か村を回った。
イサーンの農村は、もともとラオ族やモン・クメール系諸族が居住しており、約200年前に起こったタイとビエンチャン王国(ラオス)の戦争を契機に、ラオ族の南下に加え、イサーン南西部のコラート周辺(タイ・コラート族)から人々が北へ、西へ進出していった。
イサーンの農民は土地に縛られず、より豊かになるため良い土地を求めて次々と開拓移住していく。同じ稲作農耕民でありながら、定住的な近世・近代の日本農民のイメージとは異なる行動様式を持つ。50年前まではラオスとの間で気軽に国境を越えて移動した。大切なのは故郷の土地よりも、網の目のように張り巡らされた親族関係のネットワーク。祭日には遠隔地であっても頻繁に訪問し合う。ハーナーディー(ハーティディンディ)と呼ばれるこのような移住習慣は人口拡大社会と未開地の存在、近代的上昇志向などが背景にある。
驚くのは、村の人たちの情報量の豊かさだ。特に村々の地理情報や地勢、身内の動向。よく知っていて、小さな村の名前を尋ねてもたいがい即答してくれる。その理由が伝統的な生活様式にあることは、後で全く正反対のミャンマーを訪ねてはっきりと分かった。