帰国してもう2週間たったけれども、ラオス・C村の水田景観が強く脳裏に焼き付いている。
雨季の天水に頼る自然灌漑の水田。その中にルンパ(養魚池)があり、畦の水口には小魚を捕る漁具が仕掛けてある。カエルや川エビもかかる。田には水生昆虫が泳ぎ、小さなトンボが舞う。農道脇の木々、草には昆虫が群れ、乾季になれば畦にネズミが穴を掘る。放牧の水牛・牛たちが落とす牛糞は田の肥料になり、そこには大小のマグソコガネが宿る。そして、みんな人がおいしくいただく。
2011年の1月に初めて訪れたときは、電気もトイレもなかった。なんと土器の多い(器種数・量とも)村なんだろうと、狂喜したおぼえがある。暗くなってから村に到着し、最初に訪ねた家で見たのが蛇を茹でている所だった。その蛇も今では少なくなったと聞いた。その後、来るたびに村の環境は少しずつ変化している。
なかでも主たる生業の稲作と水田漁業を巡る環境は厳しい。同じ天水田稲作地帯である東北タイ(イサーン)やラオスの農村部では各世帯が平均2.6ha(集約化が進む現代日本の一戸当たりの経営耕地面積(販売農家)は田畑含めて約2.3ha。「農林業センサス」)ほどの耕地を保有する。
しかし、ここでは0.6haと少ない(周辺の村と比較しても少ない。売買や相続の影響)。前者では、政府が進める農業の近代化、すなわち多収穫品種(ハイブリッド米)、化学肥料、農薬、農作業の機械化がパッケージとして急速に普及し、自給的な農業から米を販売し、現金収入を得る資本主義経済下の農業に脱却していった。
C村も例外ではなく、いまその波が押し寄せている。
各世帯は水田の所有面積も狭く、自給したうえで米を販売できるのは1割強しかない。半数以上の世帯は購入に頼らざるを得ない(ただし、種籾も含め、親族間での分配など共助システムが機能している)。
2010年に初めて耕運機を保有する世帯が現れ、しかし、その後数年間は依然水牛・牛での耕作が一般的だった。しかし昨年の調査では逆に家畜に頼る世帯が数世帯になってしまった。高価ではあるが、多機能な耕運機を購入したり、お金を払って借りて耕作するのである。今回訪ねて、水牛と牛の多さにびっくりした学生もいただろうが、実はこれでもここ5年で約5割減なのだ。貯蓄用に飼っているので、自分たちでは食べない。
そのほか、稲刈りの道具が穂刈具から鎌にシフトしたり、精米機を購入する世帯がでてきたりもしている。
一方で、イサーンやラオ族の天水田で急速に普及した「ハイブリッド米・化学肥料・農薬」という農業近代化の波はにぶい。うるち米を栽培するここでは、タイでも普及した「カオ・マリー」がハイブリッドの主力品種だ。しかし、化学肥料・農薬は投入されない。よって生産量はあがらない。その大きな理由は、水田漁業とみられる。タンパク源を魚に依存するO族にとって農薬の投与は水田漁業の放棄を意味するからだ。
私が子供のころは、毎年水田の中干しや水落しの時期に、たらい一杯のフナやドジョウ、ナマズが取れた。泥出ししてから甘露煮にして食べるのがおいしくて夏の楽しみだった。田んぼにはヒルがたくさんいて、何匹も足に付いた。それを引っ張って取るのが嫌で、農作業の手伝いがきらいだった。水路には小魚や川エビ、ゲンゴロウ、ヤゴなどあまた水生生物がいた。小学校高学年のころに田んぼの圃場整備が終わり、急速に、農薬、化学肥料、機械化が進んでいき、気が付くと、タニシやヒルがいなくなり、イナゴのいない田んぼとなった。
ルンパがあり、水田漁業が生きているC村の環境に豊かさを感じるのは、そんなノスタルジックな感覚とともに、私たちが失いつつある自然の生態をよく知り、資源を持続的、循環的に利用する(過剰に獲得しない)、ラオス流にいうとLOHASな暮らし方をしているからなのだろうか(Healthは問題が多いが)。
とはいえ、確実に換金作物(たばこ)の栽培やプランテーション・レーバーとしての出稼ぎが増え、もはや現金収入なくしては家計は成り立たない。それは外から見れば貨幣経済に翻弄されているかのようにみえるが、伝統的な生活を基盤としながら、社会への適応、多角的な経営戦略として積極的に取り込んでいっている。物質的豊かさや労働時間の短縮化、健康などを勝ち取りながら。家を離れてコーヒー農園で働くのも楽しい、とAさんは語っていた。
あの「ルンパ」が象徴する水田漁業の営みは、コメの生産性をあげるための「化学肥料・農薬の大量投与」と調和は難しい。「農業の集約化」「生活の近代化」の中でいまの集落・水田景観はどのように変わっていくのだろうか。貨幣経済が急速に浸透するラオスの農村で、彼ら、彼女らはどのような選択をしながら、村の歴史を刻んでいくのか。これからも見つめていきたい。