今日は第2回目の高畠まちあるき。場所は青龍寺〜羽山。このお寺はもと修験道の坊院として栄え、神仏分離後は天台宗の寺院となった。高畠の聖地−羽山を東に拝み、その麓にある薬師堂を中心に数多くの石造物が集積する。
今日は芸工大から10名、地元からは午前中6名、午後3名の参加を得て、記録作業を行った。
高畠石の石造物は中世〜明治期におよび70点あまりを数えた。
凝灰岩は表面の風化が激しく文字や図像の読み取りが難しい。1点ずつ略図を描き、寸法を測り、読み取った文字を記入していく。読みにくい文字は懐中電灯で影を作りながら読んでいく。読めなかった文字が太陽光の角度が変わり一瞬にしてわかることもある。
お酒の神様「松尾大明神」の供養塔には当時の造酒屋の名がずらりと並ぶ。講の人々がこの前で神を祀り、新酒の出来を祈るとともに、酒の値段を談合したという。一つ一つ読んでいくと高畠石の会のメンバーからは○○酒屋の先祖だ!と廃業した家も含め、ほとんど人の現在地が判明していく。現代と土地の記憶、モノの記憶がつながっていく瞬間である。
この「大念仏」石塔はかつてこの地で念仏踊りが盛んだったことをうかがわせる。
主題「大念仏」の右には「屋代」、左には「北條」とある。
基礎は4段と豪華で、2段の下台(芝台)には人名がずらりと並ぶ。
「屋代」はこの高畠町の旧・屋代郷、「北條」は高畠町と接する南陽市南部の旧・北條郷を指す。
この地で念仏踊りが始まったのは、上杉鷹山の時代といわれる。当時この一帯が大旱魃に見舞われ、これを憂えた鷹山が「大念仏」と書いた幟を屋代郷と北条郷に下賜して雨乞いをさせたのが始まりとされる。
以来豊作祈願の神事として、置賜郡内各地で奉納されたらしいが、今ではほとんど行われていない。そのなかにあって、南陽市鍋田の「大念仏おどり」(大符神社の春の例祭、市指定無形文化財)は北條郷の念仏踊りを引くものとして貴重な存在である。
この青龍寺にある「大念仏」石塔は鷹山の事績を証明し、現在は途絶えてしまったが屋代の人々の五穀豊穣の祈りを今に伝える文化遺産といえる。