庄内と村山を結び、湯殿山詣りの道として著名な六十里越街道を歩いた。
地元の方々の努力で石畳遺構が顕在化し、一部復元されるなどして歩きやすくなっている。山形に来てもう10年になるが歩いたのは今日がはじめてだった。
かつて信仰の人、物資を運ぶ人、参勤交代の大名・家臣団など、さまざまな階層の人々がそれぞれの思いを胸に行き交った日本海側と内陸を結ぶ大動脈だ。
石畳も地区によって一様ではない。岩石種や施工方法に違いがある。分担施工−割普請だったことをうかがわせる。
この最後の「舗石」は石塔の記年銘から文政年間に施工とみられている。大半は幅4尺で統一されているが、長さ3尺の安山岩の大型石材を横に並べているところもある。表面にはノミ加工がみられ、あたかも石垣石のようだ。
見どころは石畳だけでない。茶屋跡の礎石と石垣、追分に立つ石塔(新たに発見!)、巨石の供養塔がならぶその名も石塔坂、志津番所からの旅程を示す丁石、志津村の入り口に立つ常夜燈と石塔群、そして志津五色沼周辺の石塔群。
しかし、石仏は1体もない・・・・。岩石種の違い、自然的要因なのだろうか?宗教的理由なのか?