歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2011-08-06

高畠石をあるく


第3回高畠まちあるき−町並み編−開催

9:00「ふるかわ」の駐車場に集合。まず、芸工大の長田さんが大きなパネルを使って第1回の成果と本日の予定を説明。午後から雷雨の予報が出るなか、雲行きを心配しながらのスタートとなった。歩いたのは前回やり残した安久津二区〜鳥居町の西側。開始とともに気温が上昇、今回も炎天下での作業となった。15:30終了とともにスコールがやってきた。古川邸で乾いたのどを潤しながら、調査のとりまとめと成果発表会を行い、17:30ごろに解散となった。

今回は町議選前日であったのと諸行事が重なり、地元勢は遠藤さん、古川さんのお2人。これに芸工大メンバーが加わり、14名が3班に分かれて調査に入った。学生は歴史遺産学科と建築環境デザイン学科の2年〜大学院生が参加した。

安久津二区、下有無川のほとりに小さな社地がある。鳥居や社殿がないので車だとつい通りすぎてしまうが、高畠石の石祠や石塔、旗竿石などが並んでおり以前から気になっていた。このたび、社地の隣に住む森さんから「お天王様の境内」という高畠町文化財保護会の会報のコピーをいただいた。これはかつて神社のお向かいに住んでおられた山口留雄さんが一つ一つの石祠、石塔の由来を丹念に調べあげて書いたものである。これによれば、お天王様(祭神は素戔嗚尊)は木造のお堂だったが、大正15年に現在の石のお堂に作りかえられたという。隣の石祠は火伏の神−秋葉山、その隣は湧水の豊富な安久津にふさわしい水神様。さらに庚申塔、酬恩碑、灯籠の由来等が書かれている。半分に折れた日月の石塔は有無橋上流の護岸工事の際に発見されたものを有志が持ち込んで建てたという。前回の青龍寺でも屋代川に流れてきた馬頭観音碑を大事に祀っていた。高畠の人々は無縁の石塔も大切に扱ってきたのである。これらは自然を畏れ敬い、感謝しつつ五穀豊穣、無病息災を願って生きてきた住民の想いを映し出している。お天王様に初なりのキュウリを供えてお参りする習慣は今も続いている(写真)。

Oさんはもと山石工。3年前に高齢のためやめた。この方のお宅はこれまで調査した中では最多の高畠石を記録した。特筆されるのは今では町内でも数少なくなったサイロが現存することだ。下部は切石を円筒形に組み、上部に方形の木造小屋をのせる。トウモロコシ飼料などをいれたそうだ。向かいには藁小屋に隣接して角石を方形に積んだ堆肥置き場がある。現在はぶどう栽培に係る堆肥場として利用されている。大正期に始まった酪農は、稲作と結びついて有機農業の里−高畠の顔となった。高畠石で造られたサイロと堆肥置き場は、近代の高畠の人々が自然を有効に利用しながら地域に根ざした生業を営んできたあかしであり、「高畠らしさ」を代表する遺産ではなかろうか。

そして「まちあるき通信」第1号でも紹介された「石臼置き」。今回も出会いました。Tさん宅では庭へつながる園路で2列に敷いた切石に混じり、ぽつんと一つ石臼が埋め込まれていた。「石臼置き」は姫路城や佐渡相川・米原市曲谷(石臼産地)、東本願寺別邸庭園など各地に例があり、近世には広く石積みの意匠として用いられるようになった。これらはそれぞれに象徴的な意味を付与されているそうだが、現代の高畠の人々はどんな想いで石臼を置いているのだろうか。そういえば、私の実家(石川県)でもまったく同じようにして使わなくなった石臼を家の角に置いている・・・・・はて?

次回のまちあるき−町並み編は、このまま二井宿街道を東にのぼり、10月8日(土)に実施します。

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