12月8日。毎年、最後のまちあるきはうっすら雪化粧をした風景を見ながら歩く。
この日も明け方に降った雪が、里山の木々を軟らかく包んでいた。
今回はこれまで集めたデータの補足調査が中心だった。1年生から卒業生まで多彩な顔ぶれが揃った。これまで頑張ってきた4年生が締切りまで2週間足らずという卒論の追い込みで出られないのはしょうがない(そんな中、朝8時に参加する気満々で来た4年生がいた。あなたの心意気を忘れません!)。
私の班は唯一未調査だった市街地の新規鳥居を調べて回った。
2つの興味深い事例に接した。1つ目は個人宅で祀っていた稲荷神を家主が亡くなった後、町の鎮守とは別に近所の人たちが自分たちの神として祭祀を受け継いでいる例があった。2つ目はかつて地主の個人宅にあった鳥居と祠が、その土地が料亭に売却されたことを契機に移転し、それを町内の鎮守として祀っている例である。元は木製の明神系鳥居だったが、改築に際し、祭神に合わせ石製の神明鳥居に変わった。ちなみに石材は高畠石ではなく安価な外国産御影の加工品が用いられている。
神社や鳥居もこうやって社会の荒波にもまれ変遷していることがわかる。
かつて村々にあった八百万の神、請われて田舎に引っ越してきた神。逆に大きな神社には諸事情で合祀されるようになった神が集っている。人が作りだした神様ゆえか、そうやって人の都合で右往左往させられもしてきた。
神社とそこに集積する石碑の数々は、自然を畏れ、その恵みに感謝し、人と人のつながりを大切に生きてきた地域の信仰の証である。現代社会に暮らす私たちは先人たちが伝えてきたこの信仰と「装置」をどう受け止め次の世代に渡すのか。半年間、たかはたの石鳥居を歩きながらそんなことを考えてきた。
愛宕山神社の鳥居。手元の写真を見てみたらしばらくの間に随分姿をかえていた。
上:2009年
中:2011円震災後 貫が折れ額束落ちる。右の木鼻がトラックにぶつけられ破損脱落
下:現在 2012年に貫・木鼻が木材に
最下:愛宕山山頂の勝軍地蔵堂
実は愛宕山鳥居のすぐそばにもうひとつ別の鳥居があったことは余り知られていない。
明和年間の銘を持つ薬師堂(羽山)の鳥居と同工品でKさんの庭に立つ諏訪神を祀る鳥居(八角柱で台輪も八角)だ。90度向きが異なり羽山の方を向いていたという。30年あまり前にここから現在地に移築された。おばあちゃんが現地で往時のことを語ってくれた。
この3年間のまちあるきの中で、そんな小さな変化をたくさん見、そして記録してきた。
静的な事象を記述するのではなく、変化するコトやモノが束になって、ストーリーとなってはじめて今の高畠らしさが描きだせるのだろう。途切れることのない地域の暮らしの歩みから醸し出される個性。移りゆく社会に翻弄されながらも土地に根付きひたむきに生きてきた人々の足跡をもう少し追いかけさせてもらおう。
城郭遺構の年代をきめるのは難しい。城は主が変わるたびに改修を繰り返し、現在残っているのはその最終形態であるからだ。
いま東北の戦国史でホットな話題となっているのが米沢の館山城。上杉の町で売っている米沢は、伊達氏の故郷のひとつでもある。伊達政宗が育った「米沢城」は実はこの館山城だったというのが最近の見方である。市教委が行っている確認調査で今年度、枡形門周辺から石垣がみつかった。また、その前面から門・土塁の整備、郭の造成の際に埋め立てられた大規模な空堀も見つかった。
さらにこの石垣等が最終的に「きれい」に壊されて城が廃絶している。いわゆる「破城」である。この壊し方にも特徴がある。
問題はこの石垣造りの格式高い枡形門を整備したのは誰か?
そして、城を壊したのはいつ、誰が?
石垣構築以前の空堀からは16世紀前半~半ばの遺物が出土するという。
石垣の型式属性は、隅角部算木積み。角石直方体化。角脇石なし?。築石控え長く小面ノミ加工多用。布積み傾向。
上杉には慶長5年に築城途中で放棄された会津若松市の神指城があり、一部本丸の石垣が調査されている。
これだけ特徴や比較材料がそろえば年代はかなり絞れる。
あきらかに最終段階は伊達の城ではない。
さてどんなストーリーが描けるか。
遺構は文献史料には出てこない歴史を描き出す。だから面白い・・・・。
もう一題。
米沢市の戸塚山では201号墳の発掘が行われている。従来ないと思われていた山の北麓から見つかった古墳状の高まりだった。調査の結果、やはり古墳だったが、中世に積石をして塚として再利用していることが分かった。周辺からは同様の塚がほかに二つ見つかっており、この山は古墳時代以降も信仰の山として利用されて続けてきたことになる。古墳単体としてはそのような例は珍しくないが、ここではほとんどの支群で多様な中世墓が複合している。史跡としての価値付けをどのような観点で行うか。これから歴史学の研究も取り入れながら調査が続く。
旅行口コミサイト:トリップアドバイザーが選ぶ、行ってよかった城の№1は「熊本城」だという。築城400年祭の平成20年度は観光客220万人余りを集め、その後減ったとはいえ昨年度は約160万人が訪れた。年間総入場者数でも世界遺産の姫路城や二条城、大阪城、名古屋城の上を行っている。
観光客は日本人だけではない。中国人、韓国人、タイ人などアジアを中心にたくさんの外国人の姿を見ることができる。
国の特別史跡「熊本城跡」ではここ15年で本丸御殿など7つの建造物が復元され、現在は馬具櫓と平左衛門丸の塀の復元が行われている。城の象徴ともいえる天守(模造RC造)は1960年につくられた。それまでは誰でも天守台の石垣に登れたという(委員長談)。扇の勾配を実感できたわけだ。熊本城の慶長初期の石垣は進入角が45~50度と浅く、中ほどまで簡単に登れるが、「ノリ返し」のある上部では直立してロッククライミングのようになる。
ここは石垣だけでなく、宇土櫓をはじめ11棟の櫓、ほかに門や塀、たくさんの重要文化財建造物が魅力を高めている。これに先の復元建造物を加え、全国各地で進む平成の築城ブームの最先端を突っ走っている。
しかし、この2月、復元整備の根拠となる調査や研究、体制が不十分であると文化庁からクレームが付き、市は仕切り直しすることとなった。今回はその1回目の会議だった。
地元の経済界や市民(観光プロモーションが専門の人もいる・・・さすが熊本)、様々な研究分野の人々の意見を聞きながら事業が進められる。
ところで日本人はなぜこんなに城が好きなのだろうか?
わたしは城マニアではないし、仕事以外で行くことは少ない(しいて言えば石垣マニアかもしれないが)。
確かに城跡は、観光地が共通して持つ、壮大さ、美しさ、静けさ、古さ、珍しさなどを併せ持つ。熊本城の大きな魅力である石垣もこれにあてはまる。このほか日本人が城跡が好きな理由で大きいのは、地域性とストーリー性ではなかろうか。
多くの日本人は身近な場所に「城」をもっている。いつの頃からか定住性が高くなり、生まれ育った土地の記憶に深く思いを寄せるようになった。地域アイデンティティーを記念物や郷土の英雄に託するのである。自分の「城」とよその「城」を比較してそのありかを知る。
戦乱の時代に城を舞台に繰り広げられた物語は近世以降多くの書物に記録され今に伝えられてきた。今の戦国武将ブームはゲームや漫画から始まったかもしれないが、それは昔からずっとあった。死が今よりもはるかに身近だった時代に、生きる力をみなぎらせていた人々を憧憬するからなのか。血沸き肉躍る、下剋上や国盗りのスリルや人間ドラマに興味をそそられるのか。人の命が軽く扱われ、残虐な人間の本性がむき出しの社会だったことには目をつぶりつつ・・・
来年の大河ドラマは「黒田官兵衛」。たまたま今年、姫路や中津や福岡と官兵衛ゆかりの城を見て歩いた。官兵衛ほど伝説逸話の多い武将も少ない。どんな脚本なのか。どんな人物像を描くのか。現代社会を映す鏡となるはずだ。
大河ドラマは昔「天下御免」というのを見た記憶があるが、それ以降まともにみていない。さてどうしようか。そんなことを考えながら、城を歩いた。
写真は銀杏城の異名を持つ熊本城。葉が黄色く染まる。古城(第一高校)の石垣、枡形門を入る学校の正門。野良猫軍団にがんつけられる。
久しぶりに野焼き場に煙が上がった。
洋画の院生が土器でトチノミのあく抜きをした。制作のテーマが木の実食だという。
民俗例を聞き書きし、本も読んで木の実食の歴史を勉強して、実際にやってみたいという。
生(水浸け)のトチを味見し、加熱したアクを舐め、トチを齧る。そして、灰合わせした煮汁を舐めて、びっくり!
芸術を志す学生がリアルを求めて世界を広げようとしている。表現の根幹に何があるのか。自分とは、人とは、人と人の関係(社会)とは、人と自然の関係とは・・・・そんな問いを持った時、われわれは彼らと同じ土俵で話ができる。
作品は頭や技が生み出すのではない。自分自身を肥やし、己を表現するのだ!
恩師の言葉である。
おもわず、がんばれ!と応援したくなる。
天気予報が外れたのか、今日は穏やかな測量日和となった。
おかげで慈恩寺院坊跡の調査を何とか終えることができた。一昨日と2日間、休憩なしで頑張った学生たち。お疲れ様でした。長い石段の上り下りたいへんでした。測量しながらだとそうでもないですが・・・
何のためになる。何かのためになる。それはわからない。
しかし、確実に言えるのは、フィールドには出会いや発見がある。それが人を肥やし、生きる喜びとなる・・・・・
お稲荷さん3兄弟
石工サミットが終って、石鳥居調査も佳境に入ってきた。今日も4班に分かれ、新たな出会いを求め各所に散った。
3連休のなか日。今回は卒業生が仕事の都合で出れない代わりに、新人の1年生2名が初参加した。時間に余り余裕がなく、記録作業に追われたが、高畠の風景とそこに育まれてきた生業や信仰の息吹を感じることができただろうか。
秋が深まると里山を背景に立つ石鳥居の表情も際立つ。みんな住宅地図に載っていない鳥居を探すのにもなれてきた。「ゼンリン」なんってたいしたことないね・・・・と。
金原新田の風景は忘れられない。とあるお宅で神社の縁起を書いた古文書を見せてもらった。この旧家の老夫婦、昭和30年代後半、家の堆肥場を作るのに、山の上にあった石切り場から自宅の馬とそりで角石を曳いてきたそうな・・・。冷たい雪の上を。85歳の爺さんと奥さんが若かりし頃を懐かしむ、その笑顔がなんともいえず素敵だった。
あいかわらず傷ついた鳥居が目立つ。貫や木鼻が新材に取り換えられるか、脱落している。笠木・島木は破断や亀裂をカスガイで止めている。雪国の鳥居の宿命とはいえかなり高齢化が進む。一方でそれらは修理し続け、大事に守ってきた証でもある。私たちの作業は、そんな鳥居の現状・病状を記すカルテづくりの第一歩といえる。
将来、この悉皆調査が保存管理の礎となり、地域を歴史を紐解く道しるべの一つになればいい。
今日のお気に入り
「古文書のある旧家 原田さん」
「床下の修羅3基とどんづき」
「シーソーの製造票 柴田鉄工場 電話253番」
「築100年の家の石塀と蔵の基礎石」
「夢殿のようなサイロ」
修羅とどんつきがひっそりと眠る神社
慈恩寺ではここ数年、国指定史跡を目指した総合調査が行われている。
研究室では昨年と今年に分けて、院坊跡の測量調査を実施している。
申請が大詰めに来ており、まだ終わっていない調査は・・・・切羽詰まってきた。
2日は秋晴れの土曜日、有志が集まり地形測量を行った。
10月27日(日)「たかはた石工サミット-往年の石工の技が今蘇る」を開催した。
参加者は80名余り。遠くは兵庫県、静岡県から。福島県、宮城県から10名。心配した台風の直撃は避けられたものの時折小雨が降る肌寒い一日だった。
チーム「まちあるき」の学生らは高畠石に関するポスターを制作し、午前中、会場の壁面に展示した。石工道具の展示とあわせ、短い時間だったが協力して素早く設営をすませた。
まず主催者、町教育長のあいさつに続き、2台のスクリーンで高畠石採掘の歴史について発表した。片方は石切り工程を動画で流した。
次いで、引地さんが展示してある石工道具の使い方を解説してくれた。
実演①はホッキリヅルによる角石の石切り。これまで最後の石切職人として活躍された後藤初雄さんの仕事しか見たことはなかったが、今回、はじめて引地兼二さんがツルをふるってくれた。職人によりいくつかの動作の違いがあることを確認した。実演②は森一さん、深瀬さんによる間知石作り。ツキタガネを使った発破がけからゲンノウ割りまで一連の作業を実演してくれた。
みなさん、齢80を迎え、現役を引退して久しい。森さんは実に50年ぶりだという。本人たちは謙遜するが、体で覚えた技は簡単には忘れない。84歳の後藤初雄さん、89歳の森谷広衛さんも元気な姿をみせてくれた。瓜割で稼いでいた小梁川勝一さんも懐かしそうに昔の話を聞かせてくれた。
引地道春さんらが指導してくれたノミとセットウによる石加工、ノミ・ツルの焼き入れ(鍛冶)。閉会時間が過ぎても体験を続ける参加者がいたほど盛況だった。特に彫刻専攻の女子大生の見事なノミさばきに感心し見入っていた森谷さんの姿が印象的だった。
20代の大学生や30代の若いひとたちがおおぜいきてくれた。
「生身の体と道具一つで石を切る」
石切り体験をした若者たちは何を感じただろうか?
高畠まちあるき-石鳥居の悉皆調査の第4回目。
朝9時にふるかわ邸に集合。ネームプレートと調査グッズを持参し、4班に分かれ町内各地に飛び散る。脚立、5mスタッフ、クリノメーター、レーザー測距計、角度計、コンベックス、2枚の記録シートと画板、コンデジ・・・・
一日中雨降りにもかかわらず調査を続け、今日も30か所以上の鳥居のデータが集まってきた。16時過ぎからぬれた体を温めながら報告会。奥様が出してくれたそば茶と味のしみただいこん煮が空きっ腹にしみる。
高畠では圧倒的多数を占める明神系の石鳥居は18世紀半ばごろから建ち始めたようだ。
その初現期とみられる石鳥居の形や加工の特徴がわかってきた。肥前系といわれる北目の「愛宕山鳥居」とも共通する。
また、北に来るにつれて「八角柱」が増えてきた。いったいいくつあるのだろうか?楽しみである。
もうひとつ分かってきたことは、鳥居というと「神社」を連想するが、ここでは山麓のあちこちに明確な社名のない石鳥居と祠が多数存在することだ。それらはたいていは「山神」や「稲荷」をまつる。「毘沙門天」や「千手観音」「馬頭観音」などもある。集落の「鎮守様」と扱われているものもあるが、もう少し小さい単位で祀られている(場合によっては一族で)。明治期に「神社」に編成されなかった社たち。
山野の開発とともに屋敷の周辺、里と山の境のあちこちに神や仏を祀った姿がみえてくる。鳥居のない祠だけのものとなると、その数はしれない。これに加えて屋敷神(これも山の神や稲荷が多い)がある。もちろん火伏せ(古峯・秋葉)、水神・竜神、三宝荒神・・・・ほんとうに神様だらけだ。。。。
人知のしれない自然や思いのままならない日常のくらし。神に祈り、感謝する暮らしが垣間見える。
鳥居の形は祀られている神様と対応している。当たり前のことだが、これまでそんな風に鳥居をみていなかったので、いまさらながら教えられた。
今日は本殿の形とも対応していることを確認した。
平入りで独立棟持ち柱をもつ神明造(伊勢神宮など)の神社には神明系鳥居がたっている。そして神社名は(皇)大神宮・・・・これまで漠然と見ていたモノがやっとつながってきた。
知識として知ることよりもこうやって再発見していくプロセスが面白い。フィールドワークの醍醐味だ。
3連休で宿がなくて困っていたら、主催者側から改修中の空き家があるとお誘いをいただいた。風呂が使えなくて(徒歩1分に温泉あり)、トイレの水が流れなくて(夜修理に来てくれた。感謝!)、ちょっとカビ臭くて(リセッシュしたら快適)、ゴキブリやクモなどいろんな虫がいて(平気な子たちが退治)、蚊も飛んでいて(温泉から蚊取り線香一巻きをいただく)、不気味なふすまの張り紙に怯えることはあっても、それ以外何の不都合もない、われわれには十分すぎる宿だった。スタッフの温かいおもてなしの心に包まれてみんなで仲良く寝た。
翌朝、学生たちは5時半に起き、6時半からまちあるきに出かけた(私だけ7時まで寝ておりました)。7時半から明治年間に建てられ登録文化財になっている鈴木家の石蔵内部やお稲荷さんをみせていただく。外壁は見事な桜目の石材をふんだんに使っている。家主夫妻と長田さん(建築史)の解説を聞きながらその構造を勉強した。2階建ての石蔵は美術館別館となっていて「海女ちゃん」の写真が展示されている。朝から房総の海女のたくましさに触れて眠気が一気に醒めた・・・・
鋸山ツアーの一団約30名は9時にロープウェイ乗り場に集合。ここから、近世以前にさかのぼるとみられる山麓丁場、近世・近代に「中石」を取った山腹丁場と、道なき道を歩いた。普段歩いている落葉樹の森とは違い、照葉樹の森は暗いが低木が少なく歩きやすい。目立ったのはイノシシの「ヌタ場」。泥の上でのたうちまわったあとや、ミミズを探してか、土を掘り返した跡があちこちにある。サルも含め、野生動物被害はここでも深刻らしい。
もとの道を下り、ロープウェイで一気に山頂へ。房州石製のポストの前で記念写真。恋人の聖地。ここから手紙をを出すと思いがかなうらしい・・・・。思い人がいないのか、手紙を出す学生は誰もいなかった。
百尺観音のある日本寺の境内に入り、いよいよ山頂域の石切り場ツアー。切り立った壁の高さは、最も高いところで98mという。ここでは70m、80m級の壁が林立する。高畠では高くて30mにすぎない。そのスケールは桁外れで、奥に掘り進んだところもあり、ビルの廃墟のようでもある。
大規模丁場の前面にはズリ(くず石)や製品を搬出する細い通路がある。「口(中)抜き」という。こうなると手間がかかるため丁場は廃絶を迎える(鈴木氏の解説)。確かに高畠等でも同じような廃絶の仕方をしている。合点がいった。
圧巻は「樋道」と呼ばれる石降ろし道。急斜面に石を敷き、藤蔓で連結した石をウォータースライダーのように滑り落としたのだという。にわかには信じがたい話である。
鈴木氏の芳家石店の丁場では毎年、鋸山コンサートが行われる。ここでは壁に「桜目」を切り出した跡がみられた。また索道やチェンソーなどの機械類が錆びついたまま放置され、往時の賑わいと時間の経過を感じさせてくれる。今後は鉄のさび止め等の措置が必要となろう。
12時半をまわり、参加者に配られたおやつのバームクーヘン(金谷名物)をみんなで頬張る。
最後は、運搬役の女性たちがネコ車に80kgの切石を3個ずつ積んで下った「車力(しゃりき)道」。かつてはここを1日に3往復をしたという。ブレーキをかけながら下りるのは命がけである。そして上る時は約50kgのネコ車を背負って上る。考えられない。
2日間晴天に恵まれ、地域を愛し、石を愛する人たちと交流することができた。
地域で豊かに生きることは、先人たちの財産を引き受け、次世代につなぐ営みのなかに、集った人々が時の流れの連続性と土地の固有性に誇りを感じつつ、ありふれた日常に感謝しながら暮らすことなのだろう。
帰路、寝不足と山歩きで心地よい疲れが車中を包む。
東京湾アクアラインからスカイツリーを横目に首都高を抜けて、東北道にはいったころにはもう日が傾いていた。