朝6:30大学を出発。学生たちと房州石の里ー富津市金谷を訪ねた。
5回目を数える「石の町シンポジウム」。昨年、高畠にお招きした金谷ストーンコミュニティの代表の方々が主体となって企画運営している房州石の学術的価値づけを目的としたシンポジウムである。しかし、参加してみると分かるが、決して研究者だけの集まりではない。世代、職業を越えた各層の人々が参加し、県外からも応援団が駆けつける。
金谷の丘陵は江戸後期~明治・大正・戦前にかけて大規模に採掘され、その稜線は景勝地「鋸山(のこぎりやま)」と称されるほど石切りによって人工的な山容に姿を変えた。その規模は伊豆青石とともに全国一の規模を誇る。
房総の海をながめながらお昼の弁当を食べる。背景にみえるのは鋸山の山並み。
現在は国定公園となり首都圏から多くのハイカーでにぎわう。関東大震災の復興期には町の80%が石材業に従事したといわれる。しかし、もう石は産出していない。往時の石工たちはだれがこのにぎわいを予想できただろうか。
山中に眠るあまたの石切り場跡・石引道(車力道)、町なかの屋敷まわりを囲む石塀は「石の町」の記憶を呼び起こす。車の入らない路地が起伏のある地形に沿って複雑に入り組む町並み。どんな景色に出会えるか、ふと誰かに出会うかもしれないドキドキ感。不思議な魅力的をもった町だと思う。
金谷で生きることは、先人たちの暮らした土地の記憶を学び、その遺産の上に豊かな未来を展望することだ。そんな想いを共有する人々が集まるのが「石の町シンポジウム」。そして、想いに賛同する研究者が各地から集まってくる。人の交流がまた人を呼び寄せる。
「恋人の聖地」のモニュメントのある海辺のレストランで、石の好きな人が集まった夕食会がひらかれた。チーム「高畠まちあるき」の学生たちも一人ひとりが石の専門家である。「石蔵」「サイロ」「なつかわ(石船)」「石塀」「入川樋」「石祠」「石のある風景のスケッチ」堂々と自分をそう名乗ることができる。
学生たちには過分のおもてなしを受けた。握り寿司を食いきれなかったのが心残り。
ありがたいことだ・・・・・また来よう!
恒例の天羽高校吹奏楽部と合唱部によるミニコンサート、アニメソングからポップス・演歌メドレー。座っていられなくて手拍子を叩きまくった。金谷最後の石切り職人鈴木士朗氏と聞き書き甲子園の高校1年生。世代を越えて職人の魂を引き継いでいく。
防波堤のうえでお弁当食べる学生たちのとなりに親子3人。真ん中で控えめなお父さんととびっきりの笑顔をみせる母娘。同僚がカメラにおさめてあげた。房総の海を背景に素敵な家族の絵だった。
鋸山からは高層ビルが林立する首都ー東京、三浦半島、伊豆半島、箱根、富士山が一望できる。かつて、ここで石を切っていた職人たちは高みから変貌する社会をどのようにみていたのだろうか。
朝いちで福岡城上之橋御門の石垣修復現場をみせてもらった。堀縁につくられた枡形門の石垣。
水堀なのでさぞ地盤が悪いとおもいきや、岩盤の上に築かれていた。根石から2段が玄武岩や礫岩の自然石で、上部を花崗岩の割り石で積むという使い分けがなされていた。解体に伴い、背面栗石内部から大きな石を用いた石列が多数見つかって話題になった。石垣の背面構造にはまだまだ知らない技が隠されている。問題意識を持ってしっかり調査しないといけない。
午後から大分県の杵築城の藩主御殿の調査を見せてもらった。こちらも豊臣期の石垣、細川の城代、松井家時代の馬場の遺構(地下施設)が見つかったと話題になった遺跡だ。海浜に面した城で地盤が弱いため、建物の礎石の下には一石ずつ、長さ1m以上、太い松杭が5本ずつ打たれていた。クロマツではなく、アカマツを使っているところが面白い。北側には慶長期の石垣が良好に残っていた。杵築といえば、2年前のゼミ旅行で訪ねた城下町が印象深い。早朝の朝もやの中、勘定場の坂の上であった中学生の「おはようございます」の挨拶で、この街がいっぺんに好きになった。日本一着物が似合う町、サンドウィッチ型城下町?いろんな形容があり、観光地化しているが、それでも生活感ある街並みが好きだ。歴史館のホールにあるジオラマは一見の価値がある。往来を行き来する人、広場に集まる人がいる。金額を聞いて2度びっくり!いまではむりだろう。
暗くなってから中津城を見学した。こちらも2年前の最終日、福岡空港に向かう途中、城か唐揚げかで大いに迷ったあげく、断念した城だ。福岡城の黒田家が九州に来て最初に入った城。NHK大河ドラマが黒田官兵衛に決まって町は盛り上がっている。7世紀に作られた神護石を壊して石材を調達し、築いた城だ。石材が規格的で、後から附け足された細川時代の石垣より新しく見えてしまうのが不思議だ。
やっぱり、九州はいい。
小鹿田(おんた)焼は国の重要無形文化財。機械化せず、朝鮮系の蹴轆轤の技術を一子相伝で伝えてきた。
昔は授業でよく紹介していたが、実は来たことが無かった。念願かなって今日訪ねることができた
皿山は上流の池ノ鶴とあわせ重要文化的景観にも選定されている。水路を各家庭に引き込み、水車で土を粉砕する音が、谷間の集落にこだまする。ロクロは一家に2台(親子)、水車は3基。あるお宅をみると水車が1基しかない。不思議に思って聞くと、跡継ぎの息子さんを亡くされたとのこと。お皿を買いながら少しばかり小鹿田焼の話をうかがった。
今日は地区運動会の日。夕方から皿山あげての宴会が陶芸館の2階で行われていた。あのビデオで見た光景がいまも続いているようで、うれしくなった。
皿山へのぼる途中の集落ではこれから稲刈り。秋晴れの空に黄色く垂れた稲穂とヒガンバナが映えていた。ふとみると、山里の神社に石鳥居が3基。思わず車を止めた。
鳥居を見てびっくり!扁額と額束が一石でできている。笠木・島木は2つの部材からなり額束の部分で連結している。いくつかみた神社の石鳥居はみなこのタイプだった。所変われば品変わる・・・・・
山を降りてから、日田にもどり、咸宜園と豆田町の重要伝統的建造物群保存地区の町を歩いた。秋ということでクリとブドウの大福を買ってみた。
高畠石の石切りが最初に始まった聖地だ。ここの石は硬質で風化しにくい。質がよいのである。
いよいよ、このまちを歩く時が来た。
K氏宅にある古文書には、天保年間にはすでに12か所の石切り場の存在が記録されていた。
今日の発見はいろいろあったが、巨大な「なつかわ」が目白押しだったこと。
写真は最大のもので全長5mある。側面には柾石と呼ばれる石目が浮き出している。
宝船に見立て、舳先側が蔵に向くように置くのが本式だという。確かにそのように置かれている家が多い。石の産地に根付いた庭園文化。いまでも浮嶋や松をたて金魚を泳がせる家もある。
冬場は水を抜き、保温措置をして凍み割れを防ぐ。
今日は石鳥居の2回目-高畠町南部の和田地区を歩いた。山間部、山麓部にたくさんの石鳥居が眠っていた。4班に分かれ、今日だけで40か所あまりの石鳥居をまわった。皇太神宮などを除くと、明神系鳥居が圧倒的に多い。
山の神、雷神(水神)、稲荷、火伏せの神、毘沙門天、千手観音など、さまざまな神仏を祀る。
村の鎮守だけでなく、個人宅や一族で祀る小規模なものも少なくない。住民たちが、人知のしれない自然を恐れ、感謝しながらその懐で真摯に生きてきたあかしである。
高畠の石鳥居は江戸中期~幕末に盛んに建てられ、その後、何度も修理しながら現在にいたっている。
ここは豪雪地帯である。また、凝灰岩にとってもっとも怖い凍結融解が頻繁に起こる地域である。そのせいで鳥居は倒れたり、部材が折れたりしやすい。折れたものはたいがい神社の片隅にひっそりと眠っている。
実際にまわってみて、倒壊したものや傷ついたものの多さが印象に残った。去年、雪で落ちた笠木・島木を上げたばかりなのにまた落ちた鳥居もあった。新潟地震で倒れ、木製に変えたものもあった。個人で祀っているため経費のせいで倒れたままにしてある鳥居もあった。大きなカシワの木の根元に石碑だけおいて祀っている神もある。一方で山の神講や古峰ケ原講が生きている地区もある。
一部で、石鳥居の所在が「におい」でわかるようになってきたとの声。それは地形や植生、集落構成を読むことだ。ちょっとは住民の目線に立てるようになったのかもしれない。
石鳥居を記録することは、高畠石の歴史をたどる作業であると同時に、この地に暮らしてきた人々の信仰のありようとその変化から、地域社会の現状と将来を考えることでもある。
12、13日の二日間、4人の方々から集中的に石切りの話をうかがった。
これまでは「まちあるき」のなかのヒアリングであったが、今回はお宅に上がらせていただき、それぞれのライフヒストリーに耳を傾けた。学生たちには、分かりづらい話は図解、実演し、時には山に出向いて往時の話をしてくれた。若かりし頃の写真もみながら。
石切りの皆さんは大正13年、昭和9年、10年生まれともう80歳、90歳のご高齢だ。それぞれ人生を振り返りながら、遷ろう社会のなかで石切りの仕事とどう向き合ってきたか。
貧しさや米を食べるために、暑い夏も、雪の冬も石を切った。ひたむきで一途な生き方は美化されがちだが、人生の節目節目で迷いや逃避もあった。そこで何を考えどう行動してきたか。
語り終えたとき、学生たちに向けられた眼差しと笑顔が忘れられない。
若者に託そうとした職人たちの思いを感じただろうか。
ユニックやレッカーを使わない時代、6人と棒一本(一本坊主という)で笠木をつりあげ石鳥居を施工した話。実に興味深かった。
発掘調査はだいたい終盤に大きなドラマが待っている。もちろん、そんなことはないに越したことはない。
前庭部からピット列が検出された。柱列の可能性が高い。1つは最初からみえていたが、精査したら3個になった。古墳の入り口に敷き石を囲むように木造のなんらかの施設が廻っていたようだ。
この古墳は円墳ということになっている。昨日の調査委員会でも指摘されたが、実は墳裾の石積みは多角形になっている。墳丘は東西が長く、南北は短い。遺跡は想像力(可能性)をもって調査に望まないと見落としてしまう遺構が多い(ほんとは見つけられる遺構の方が少ないのだろう)。
終末期古墳にはこのような形態は少なくないようだ。「円墳」という思い込み…は恐ろしい。