前日までの雨はどこへやら。まちあるき晴れのジンクスは今年も健在。
あたらしく1年生が参加し、各学年と卒業生がそろった。昨年から参加している2年生は班リーダーに昇格し、自ら質問し、聞き取りシートも記入するようになった。
夏の暑い日も、冬の木枯らしの日も、ただひたすら石の写真を撮り、寸法を測るという単調な作業の繰り返し、先輩のかげで石の話に聞き耳をたてていた去年までと、いまは全く違う世界が見えているのはないか。
ともあれ、今回はフレッシュな顔ぶれがそろったことでチーム全体が明るくなった。不思議なもので、それはお話をしてくれる住民の側にも伝わる。
昨年土地を買って引っ越してきたHさん(昭和33年生)。奥さんの生家はお向かいの隣の家。したがって40年ぐらい前のこの辺りの景色を鮮明に覚えている。「ここに柿の木があって、その根元に屋敷明神があったよ」と。「その藪の向こうに祠があるから、行ってごらん」「むかしは石塀はなくてみんなウコギ垣だったよ」「ほら、まだそこはウコギだよ」
ウコギと言われても学生たちはピンとこない。怪訝そうな顔をしていると、傍に行って新芽を摘んでくれて「てんぷらにして食べな!」 見て、触って、食べて・・・・
お向かいのうちの小屋には昔「お菓子を焼く窯があったよ」。Kさん家を訪ねてみると、裏にはに窯を解体した石材が土留めに使われていた。家人のばあさんに訪ねると、焼きまんじゅうを焼いて滝沢屋に納めていたんだよと。
そこにはアーチ形の石橋があって、冬は坂でソリをしたわ。そこにあった分校は3つの集落の1~2年生が冬の間だけ通ったの。わたしが最後の生徒で翌年からはスクールバスで町に通うようになったと。ひとつひとつ子供時代の記憶をよみがえらせ、懐かしそうに案内してくれた。
山から柴を刈ってきてささげの蔓竿を削っていたSSさん(76歳)。中学2年のとき、沢福等から大きな石をリヤカーで引いてきて、ひとりで「なつ川」を彫った。近所の石切りATさんにツルを借りてほったさ。当時はどこの家にもあったし、買うとお金かかるからね。夏には川で雑魚をとってきた生かしておいたよ。ここには木を植えて魚が隠れられるようにしたんだ、と。4~5年はそうやって使ったよ。
別のSさん家でも魚の隠れ家がある「なつ川」に出会った。魚好きだった爺さんの弟(石工)がほったんだよ。いまでも夏になると毎年、水草と金魚を生けて観賞するよ、と奥さん。
そして奥さんがやってる床屋には最近、石工さんに頼んで作ってもらったという安山岩製の石鉢があった(写真)。中をみると水の中に金魚が「泳いで」いるではないか。さすがなつ川を現役で使っている人らしい・・・涼しげでいいですね、というと。ニヤリ・・・。金魚は偽物だった。だんなもだまされたというから、なかなかの代物である。
「なつ川」が何か、長年の疑問がひとつ解けた。米沢藩時代に始まった藩士の贅沢を慎む箱庭に淵源があることを2年生が調べてきた。なるほど…と思いつつ、やや脚色の匂いもするかな・・・・。いずれにしてもなつ川は近現代に新たな価値が付与され、土地の石工たちが山で彫り、住民たちが憧れて思い思いに使ってきた。庭と石を愛する心が根付き、夏の風物詩として小魚(金魚)を生けるという慣習が細々とではあるが続いている。
黒曜石の塊を石のハンマーで叩いて、うまく縦長の石刃を剥いだ時の「音」は独特だ。職人は仕事しているときの熟練度を「音」で聞き分けるという。わたしは石器の製作技術には疎いが、先生の叩く音と、学生がおっかなびっくり叩く音は聞き分けられる。
石を叩く学生をみていると実にうらやましい。こんなにふんだんに黒曜石を割ることができる。そして、剥片で鹿の角や木材を切ったり、輝石安山岩(サヌカイト)と硬質頁岩と切れ味や耐久性を比較したり…
自分の指から血を流しながらも黙々と鹿角を削る学生、もう熟練者のような構えで大きな黒曜石の塊を割っていく学生。大汗かいて、一気の溝切りで鹿角ハンマーを仕上げた学生。
自分の身体と素朴な道具のみで一歩進んだ機能的な「道具」を作る。これは人類が歩んできた軌跡である。幼少期の火遊び、川原での石拾い、泥んこ遊び、木登り、隠れ家や陣地を作る遊び、魚釣り・・・・これらは個体発生が系統発生をなぞるように、個人が人類進化の過程を追体験する行為なのだという。現代は生活環境の変化から、子供たちがこのような人類史の記憶をトレースすることなく大人になっていく。
その身体感覚は間違いなく変化していくだろう。
指を切るような剥片を持つ感覚、硬軟さまざまな円礫を握る感覚、角を切る感覚、石がうまくはげた時の運動感覚・・・・自然素材に触れる感覚、それが身体にフィットし、滑らかな身体動作と一体化する感覚。そんな感覚を一瞬でも味わってほしいと願う。
これは木曜午後、考古学応用演習の授業。
2年生が石器製作技術の復元に関する実験考古学的研究方法を学んでいる。先史時代の人々はどんなハンマーを使って石を剥いだのか?
先週までは弥生・古墳時代の土器による炊飯調理法の復元がテーマ。土を捏ね、土器を作って炊飯調理法と痕跡のモデル作りに挑んだ。素材が土と火と水から、石や角や木にかわったというわけである。
実験考古学は考古資料の痕跡を読み取る(解釈する)一つの方法論であると同時に、人にとっての身体性、人と自然との関係を思考する場を提供する。
韓国からトマンナヨー(さようなら)
韓国へ来てから5日目で時が流れるのは早く、いよいよ最終日へと近づいてきました。今回は、旧石器祭り最終日の5日と6日の全谷里先史博物館とソウル観光について書いていきたいと思います。
旧石器祭り最終日は、日本と同じく韓国も祝日こどもの日で、沢山の小さい子がブースに体験しに来てくれました。そのため非常に忙しくブースの他にも先生が国際ブースエリア中央で黒曜石の石割りショーを行うなどして大盛況でした。そのなかでも終始サポートしてくれた韓国軍の方にはとてもお世話になり、私たちの韓国の人達に対する黒曜石の説明を余すことなく体験に来てくれた方々に伝えてくれたと思います。今回軍人さんの通訳のおかげで私たちは、韓国という文化の違う人達と沢山関わりコミュニケーションがとれたのです。これは、私たちにとって非常に貴重な体験となりました。今でも感謝しています。
6日目は、最終日で午前中に荷物をまとめ、割った黒曜石などを強引にキャスターに詰め込み、荷物が重くなったところで全谷里先史博物館に行きました。博物館はとても現代的な造りであり、考古学的な博物館とは思えないくらいの立派なところで、全谷里遺跡は東アジアのなかでもとても歴史的にも貴重な旧石器遺跡ということもあり博物館からでも遺跡の偉大さを感じられました。
博物館の展示では、旧石器祭りでも人気だったハンドアックスと呼ばれる石器や先史時代の住居のレプリカなどの展示品を先史時代の説明とセットで展示されており、展示品に魅きつけられわかりやすく説明された博物館でした。また、この全谷里先史博物館を設立する際、長井先生が展示構想や黒曜石の展示などで深く関わっているということを知りました。
午後からは、全谷里からタクシーを使いソウルへ移動し、現地に着いたのは夕方の5時くらいでした。その後は世界遺産の景福宮(キョンボックン)近くまで行き、みんなで記念写真を撮った後に先生が女子に最後楽しめるようにと明洞(ミョンドン)と呼ばれる観光客に大人気のショッピング繁華街へ行き、韓国での最後の晩餐もここで行いました。
今回、韓国全谷里へと旧石器遺跡のお祭りに長井先生と6日間、同行させて頂き国際的な学会での語学の痛感さや韓国という異文化の社会のなかでのたくさんの人たちと関わり、考古学の分野だけではなく、様々な点で学ぶ事が多く非常に内容の濃い1週間でした。
また、この場をお借りして全谷里に招待していただいた、長井先生を始め韓国漢陽大学の裴基同教授、先史博物館の李漢陽さん、最初から最後まで、生活面でお世話になりましたシンさんや、韓国で出会った方々には、このような素晴らしい経験をさせて頂き心より感謝の意を申し上げます。
高畠はヤマザクラや遅咲きのソメイヨシノ、じゅうたんのような菜の花、シバザクラ、チューリップ、ハナミズキ、レンギョウなど里山から街中がカラフルな花であふれています。
今日は、14名が5班にわかれ、二井宿街道の住宅景観を特徴付ける高畠石-「屋敷明神」「石塀」「サイロ」「ナツカワ」の集中調査を行いました。学生リーダーも世代交代し、そのOGたちとフレッシュな顔ぶれが調査を牽引します。昨年までの網羅的な石探しから、あらかじめ用意した聞き書きシートによる統一的な質問、データの採取を試みました。お忙しいなか、快く調査に協力していただいた皆さんに深く感謝申し上げます。
まずは、昨年度末に完成した「石材記念碑」解説板の前で記念撮影。
これは幕末に沢福等(さんぶくら)丁場を開いた島津次郎兵衛氏と、その流通を支えた遠藤友之助氏を顕彰して、明治44年に島津氏の弟子たちが建てた記念碑です。沢福等は良質の石材を長く供給し続けた高畠石を代表する石切丁場です。島津家には当時の古写真残っており、その写しをプレートにはめ込んで石碑建立の経緯を解説してあります。高畠町教育委員会が予算化、東北芸術工科大学が原稿を作成し、高畠石の会会員によって設置されたものです。これからは高畠石を訪ねる際のランドマークとして活用されることでしょう。
写真にうつる背後の山並みは現地に立ってみると今もみることが出来ます。石材記念碑は、時代とともに移り変わる街並みを100年以上にわたって、この場所で見守り続けてきました。まちあるきは、社会や生業の変動とともにあった「地域の日常」を、人とモノの記憶から住民とともに掘り起こし、紡いでいく活動です。この「日常」が、大切なものを失いつつある現代社会にいくつものメッセージを伝えます。記念碑が地域の歩みを振り返り、未来のありようを考える場として長くあり続けることを願っています。
「屋敷明神」の再調査。なぜ、3基も並ぶのか・・・・
「水神様」「お稲荷様」「屋敷明神」石祠の信仰はひとつではない。
どこの家にもあったサイロ。酪農から果樹栽培に生業が移り変わるとともに壊され、その姿が消えていった。
しかし、再利用されたサイロの石材から往時の姿をしのぶことができる。
写真はサイロ上部の小屋掛けを下ろし、田んぼの稲杭保管庫に利用。
出発前、あわただしく調査方法を確認する。
韓国からカムサハムニダ!
さて、その1の続きですが…押圧剥離は学生が実際に見本を見せてから子供たちにやってもらうという方法で行い、子供たちは夢中で押圧剥離を行っていました。2回も来てくれた人もおり、押圧剥離の面白さを多くの子供たちに実感してもらえたと思います。石器でモノを切ってみる体験では、黒曜石の切れ味に多くの子供たちが驚いていました。
祭り1日目は18:00頃終了、その後3日間の祭り全体のオープニングセレモニーが開催されました。私たちは今回のお祭りの外国人招待者として特別待遇を受けることができました。ステージ前方に席が用意されており、その後、夜のコンサートと花火を見ることができました。
今回、私たち学生が今まで学んできたことを子供たちに教えるという立場に立ち、黒曜石に普段触れたことのない韓国の人々に黒曜石とはどのようなものかなどを説明し、理解してもらうことがかなり難しいことを知りました。しかし、回数を重ねていくことでどのようにしたら子供たちに理解してもらえるかを考え、試行錯誤していくことができました。また、今まで学んだことがどれだけ知識として覚えているかを確認できる機会でもあると思います。最終日には、子供たちの笑顔がより多く見られるように明日からも頑張っていきたいです!
韓国からカムサハムニダ!
もう韓国に来て三日が経過しました。いよいよ、5月3日~5日5日にかけて旧石器祭りが始まります。今回は祭り1、2日目について書いていきたいと思います。
会場は全谷里の公園で行われました。旧石器時代の祭りということもあり、提灯がハンドアックスの形であったり、原人の生活を再現した像が所々にあったりと会場は旧石器時代一色でした。この祭りでは、私たち以外にもブースを開いており、貝殻などを使ってのアクセサリー作りやアーチェリー体験など、遊びながら旧石器時代を学べるものが多くありました。このような祭りを開催できるのは、全谷里の人々だけでなく、他の地域の人たちも遺跡に興味を持っているからであると思うし、遺跡をこれから先も保護していくためにもとても重要な祭りであると実感しました。日本も見習っていくべき点でもあると思います。
さて、お祭りは1日目から多くの参加者が集まりました。8時半から準備を始め、10時からブースを開きました。私たちの東北芸術工科大学のブースでは、日本から送った黒曜石や頁岩を使い、直接打撃や押圧剥離の体験、そして石器を使ってジャガイモや革などを切ってみる体験等を行いました。韓国では珍しい黒曜石を目にした参加者たちは「宝石ですか?」「何処で取れますか?」などと多くの人が興味を示していました。直接打撃は危険を伴うので、子供たちが長井先生から直接教えてもらい、中には鋭いナイフを取る強者もいました。
韓国からアニョハセヨー!
私たち歴産2年生4名と企画構想2年1名合わせて5名は今回、5月1日から7日にかけて長井先生が毎年、漣川郡から招待されている全谷里旧石器遺跡の国際学会(韓国文化遺産ワークショップ)と全谷旧石器フィスティバルに参加しました。
このフェスティバルに参加する学生5名の内、3名は初めての海外でした。そのため、今回の海外旅行は不安要素が多くありましたが、これからの多くの人々との出会いや、初めての経験に胸を膨らせていました。
私たちが今回フェスティバルで滞在するのは全谷里(チョンゴクリ)という場所で位置的には韓国の北の方にあり、北朝鮮に非常に近い場所にあります。そこにある全谷里には先史時代の遺跡があることで世界的にも有名です。全谷里に行くには、ソウルから高速バスで2時間以上かかりました。
初日は、ほとんど移動に費やし現地の全谷里についたのは夜中で、これから学会とお祭りで共にする各国(韓国・スペイン・ドイツ・中国)のメンバーとの食事会を開いてもらいました。
5月2日、私達は朝食後、近くの漢灘江(ハンタン川)へ行きました。そこには、旧人の時代に使われていた石英岩という白くてきれいな石を拾うことができました。石英岩は私たちが普段実習とかで使っている黒曜石と違って不規則的に割れ加工がやりづらい石でした。午後から考古学の学会に出席し、様々な国の人たちの調査報告を聞きました。ドイツやデンマークは先史時代の身なりや生活を実践していく実験考古学について発表を行っており、日本ではなく海外の考古学を知り視野を広げることができたと思いました。
我らが長井先生は三内丸山遺跡を題材として、遺跡整備の在り方と日本の文化遺産の諸問題について発表しました。学会はすべて英語と韓国語で行われており、その中でも、韓国の高校生が特別招待されていて、すべて英語で発表を行っているのを見て、私たちよりも年下なのに英語でしっかりと発表を行っていることに、私たちの英語力の無さを痛感しました。この学会から、語学力・考古学の面でも考えさせられることが多くありました。
4月13日、土曜日、3年生初の野外調査に行ってきました。行き先は、高畠町の日向洞窟(国指定)遺跡です。縄文時代が始まる頃の研究の学史に名前を残す、全国的に有名な遺跡です。長井ゼミ主催で参加者は考古専攻生、6名でした。
午前中、高畠町にある県立うきたむ風土記の丘考古資料館を訪問。まず、私たち学生は、先生の紹介で渋谷孝雄館長にご挨拶。自己紹介などして、柔らかな雰囲気になったのち、館内の展示品を見学させていただきました。矢柄研磨器や無茎石鏃、有茎石鏃といった、私にとって初めての単語がずらり。いろいろと勉強させていただきました。ナイフ形石器と石刃は一見形が似ているものの、用途に違いがあるのか?同じ草創期に作られた打製石斧と磨製石斧は用途によって違いがあるのか?など、疑問や興味が湧いてきました。渋谷館長に打製と磨製の石斧の違いを伺ってみたりと、個人的には石斧に興味をもちました。
午後は日向洞窟へ。洞窟西地区の発掘調査者であり、高畠町教育委員会の井田さんと合流しました。以前にこの洞窟に来たときには気づかなかったけれども、洞窟の前には、芸工大生がデザインしたという看板がありました。高畠町のホームページには桜が咲いていましたが、残念ながら今回は・・・。
午後からは、洞窟周辺の分布調査を開始しました。男子3人は遺物の場所を目印にする釘を持って遺物探索、女子3人はGPSとノート書記と取り上げ管理。与えられた役割を全うすべく動きました。他の男子は「10点~15点は見つけたよ」とのこと・・・。その頃の女子達は「風が強い~!」とか、立ったり座ったりの連続なもんですから「腰痛ーい!」など、辛そうな声が耳に届きました。表面採集品が思いのほか多かったため、私たち生徒はこのまま採集を続けることとし、長井先生は次に来る時の下見ということで、渋谷館長とその他の史跡・洞窟遺跡の探索に出かけました。
17時近くになって先生が戻ってくる頃には、こちら学生も終わりに近づいてきました。最後に取りこぼしのある遺物を回収、皆で手分けして現地を略測して、今回の調査を終えました。この畑を掘ったらどれくらいの遺物が見つかるのやら・・・ものすごくワクワクします。
看板をバックにみんなで記念撮影しました。
個人的に重度の花粉症にかかっていたものですから、内心ビクビクしていましたが乾燥しておらず、強風だったため、花粉が飛んでなかったので良かったです!
最後に、昨年の新庄の調査では2~3点ほどしか見つけられなかった遺物を、今回は10点以上見つけることが出来ました。少しずつですが、普通の石との違いを見分けられるになったのではないかと実感しました。
今日(19日)の午後(13:30~17:00)、第4回目の「高畠石ゼミ」が開かれました。1年間のまちあるきを経験した2年生3名が「ナツカワ」「サイロ」「屋敷明神」についてそれぞれ発表しました。(最近硬い石を扱う石器グループが活躍しているので「石ゼミ」の名がおびやかされつつある)
総延長3km、戸数にして170。春夏秋冬、暑い日も寒い日も、1軒、1軒歩いて集めたデータ。みんなの汗と涙の結晶です。この膨大なデータを、2年生たちがすべてエクセル入力し、石材の利用地図をイラストレーターで描いてくれました。
そして、いまは「集める」「分ける」「相関を探る」という分析に挑んでいます。その中でいろいろ仮説を立てて、思考し、検証データを探していくことが重要です。
発表内容は4年生の卒論より進んでいるかも。これからますます期待が高まります。
こんど訪ねるときはこれまでとは全然違う風景がみえてくるはずです。お世話になった村の人たちにおみやげ話をもって、もう一度会いに行きましょう。
今年度の高畠まちあるき(通算第15回目)は5月12日(日)がスタートです。
あらたに参加したい方、大歓迎です。気軽に北野か長田までお声掛けください。
昨年後期の考古学基礎演習で、6人程度の班に分かれ、それぞれ川で石を拾い、拾った石の分類を行った。この授業で私たちは、大学周辺の地質や河原石の組成を班ごとに考察して、その結果を皆で協力して発表した。しかし、石の種類は意外にも多く、区別するのが難しかった。各班でばらばらに名付けられ、統一した分類をすることが課題として残っていた。授業が終わっても調べ続け、最終段階までは来たものの、まとめていくにはもうひと押しというところだった。
そこで、3月1日の正午ころ、岩石学者のお話しを伺い、ヒントをいただくことを目的として、山形県立博物館に行ってきた。その日は長井先生が午前中から博物館で調査をする予定であった。誘っていただいたので私も行ってみた。
これまで私たちは、見た目や色、重さなど、感覚に頼って石の分類をしていた。しかし、含まれる鉱物や基質?組織?で分けることを知り、そうした時に、私たちの考察とは全く違うものになることも知った。そのため、頭の中が少々混乱してしまったが、同じ石なのに見方や見る人が違うと全然違った考察になるのは、当然のことなのだが、面白いと思った。
長井先生と博物館学芸員とのお話の中には、鉱物の名称など聞いたことのない言葉もあった。それでも、今回お話を聞いたことで、独断により奇怪な名前がついていた石や結論を出せずにいた石についてはなんとか解決が出来そうだなと感じた。
時間としては一時間ほどであったが、とても濃い時間を過ごすことができた。
今回いただいたヒントをもとにして、これから最終の分類、見直し作業を行って、まとめていく。聞いたお話をそのまま使うのではなく、自分の考えをそこに加えて、自分なりの結論を導いてみたい。あと一息、頑張りたい!