歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-03-27

遷りゆく社会と土器作りの多様性によせて-技術・モノ・人

  女性が電動ろくろで植木鉢を挽く(CK村)

 3月10日(日)

朝、急きょ予定を変更。国境を越えてタイ・ナコンパノムに行くことに。相変わらず臨機応変というか、行き当たりばったりというか。

朝のFriend ship bridgeⅢはすいていた。ラオス側もタイ側もわずか10分で通過。ここはバスがないので橋の上を歩いて国境を越える人も少なくない。大勢がメコン川を眺めながら歩いている。車はラオスではシートベルトをしなくてもいいし、飲酒運転もとがめられない。しかし、タイに入るとそういうわけにはいかない。道もよくなるので、この橋一本でなんとなく気分が変わる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ナコンパノムから50km、シーソンクラムを目指す。目的のHP村に着いた。村入口の看板にオーン(水甕)やハイ(壷)の絵があり、さすが…と思い、聞き取りするが、焼き物の気配が感じられない。よく聞くと、ここはセメント製オーンがO-TOP(特産品)に指定されているが、焼き物は作っていないという。しかし、相当古い野焼きのオーンを使っており、パラーを漬けている見事な焼き締め陶器ハイ・パデックもあった。土器はサコンナコーン県のCK村産だとわかった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

早速、CK村を訪ねた。幹線国道22号AH15に面して窯を所有する一軒の工房があった。のぞいてみると、女性2人、男性2人がそれぞれ電動ロクロを回していた。聞いてみるとこの村はもともと女性の土器作り村(野焼き)だった。10年前に止めて、ロクロ成形、窯焼きに変わった。その時、女性たちはロクロ技術を習得して、ガターン(植木鉢)や伝統的なオーン、北タイスタイルのモーナム(水甕)といった売れ筋商品の生産にシフトしていったのである。胎土には土器で使用していた混和材チュアを用い、窯は使うがみな素焼きで赤い色をしている。あまたあった土器作り村が社会の変化とともに消えて行ったのに対し、CK村は新技術の導入と需要に見合う生産戦略で、生き延びた一つの例と言える。当時の経緯を聞きたいと思ったが、焼き締め陶器クロックを作っている村があるというので、先を急いだ。

 

途中、国道沿いでガイヤーン(焼き鳥)をたべる。隣のショップで涼んでいたら、店の女性が日本語で話しかけてきた。茨城県つくばに21年間住んでいて、日本人と結婚したが子供ができなかったので4年前に分かれて帰ってきたそうだ。いい思い出を語ってくれ、「日本はいいところね」と。つらいこともたくさんあっただろうに、救われた気がした。

 

タウテンという町に着き、大きな池を抜けるとP村があった。村の中を走ると何軒かの庭先に粘土が山のように積まれていた。ここは粘土採掘地(池)が近く材料コストが安いのが立地上のメリット。

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんどの工房は日曜日で仕事が休み。テレビの前でキックボクシングの試合に熱狂している(賭けているから…)。仕事中の1軒を訪ねる。男性が電動ロクロでクロックを作り、女性が石膏型ロクロで植木鉢を挽いていた。若干のヒアリングをし、改築中の窯づくりを見せてもらった。

いま窯は7か所あるがみな日干し煉瓦の地上式窯である。これは8年使った。昔はディン・ポーン(アリ塚)の窯だったよ。もうないけどね。

別の工房で話を聞くと、「森のお寺」の中に1基だけあるという。訪ねてみると、それは確かにお寺の境内にあった。「昔の窯」として保存しているようにみえた。ラオスでみた地下式穴窯に似ているが、煙道がやたら太い。この差はなんだろう?  

 

アリ塚窯の製品

この村は270軒中30軒で土器をつくる。古い回転台が朽ちて捨てられていた。昔は男2人がペアで手回しロクロを回す土器作りだったと。アリ塚の窯を使わなくなってもう14~15年はたつだろう。20年前まではハイ(壷)を中心に多様な焼き締め陶器を作っていたが、その後クロック(搗き鉢)中心に変化した。現在では植木鉢も作る。ラオス南部の10年前の変化がさらに10年早く起こっていた。

ラオスの焼き締め陶器生産地では、かつては農村の需要に応え、多種類の製品を作り、女性が作る土器と補完関係を保ちながら存在していたが、社会の変化を前にして、生産を止める産地があった一方で、燃料コストの低い窯構造を導入し、需要のみこめる特定器種に集約化することで存続した例がみられる。ルアンパバン・C村、タケークのNB村、アッタプーのTH村など。もちろん、タイでも同様の変化が起こっていた。北タイではムアングン、中部タイではコ・クレット、東北タイではダーン・クウィアンなど、外部からの職人・技術も受け入れ、そうやって一大焼き物生産地に成長した。

変貌する社会に翻弄されながらも、人々はさまざまな適応をみせて生きていく。変化の激しい社会に生きる村人たちの生きざまに教えらえることが多い。

 

アリ塚窯の前の池では女性たちが黙々と四手網漁を行っていた。

 

 

翌日、帰りの飛行機は黄色いくちばしのNOK-AIR。AIRーASIAもそうだが、LCCは離発着にも無駄がない。動き出したらあっという間に飛び立つし、着陸したらスピード出したまま、倒れんばかりの急カーブでターミナルに走る。

 

 

東南アジアはASEAN共同体の結束を強めつつある。2015年の経済共同体構築を期に、民間人もビザなしで自由に行き来できると盛り上がっている(写真:あちこちに加盟国の国旗が並ぶ)。さらにタイ高速鉄道(新幹線、2014着工)が5路線で計画され、中国昆明からラオス、イサーンを縦断して、バンコクへ向うルートができる。ますます人やお金が流動化し、怒涛のように中国資本や外来文化が入り込むだろう。タマサートやマイペンライの精神を持つひとびとが、これをどう受け入れ、拒絶し、したたかに生きていくのか。ラオス・タイ東北部の人たちの暮らしの変貌を伝統的な土器作り・利用者の目線から見つめていきたい。日本もあれから2年。震災後の社会の変化、変化しないもの、あれこれ考えながら家路についた。

 

2013-03-26

初めて土器つくりを見る子供たちのまなざし

3月9日(土)

6:30に市場で朝食。弁当代わりのフランスパンを買って村に向かう。車は奇岩が林立する石灰岩山地の合間を縫って走り、8:00にSL村に着く。

 

この村は約150年前に山手1kmにあるNA村(土器作り村)から分かれ、森を開墾しながら拡大してきた。今は50軒ほど。20年前は35軒ほどで、ほとんどの世帯で土器を作っていた。土器作りを止めてもう15~20年になる。この村に電気が来たのは2000年であるが、周辺はもっと早く電化し、そのせいで土器が売れくなり止めたという。年末に訪ねたときに、成形を見たいと言ったら快く引き受けてくれ、今日の再訪となった。

 

土器作り経験のある女性はもう3人しかいない。ポターはBさん(73歳)、Sさん(63歳)、Lさん(63歳)。Bさんがリーダーである。成形動作に無駄がない。3人に共通するのは結婚してNA村に住むことになり、そこで土器作りを学んだことである。BさんとLさんは夫がNA村生まれなので、夫方に嫁いだことになる。土器作りは農閑期の副業であるが、夫はそれぞれ仕事を持っており、土器作りは手伝わなかったという。

販売も自分たちが行商した。日帰りできる片道4~5kmの範囲をハープ(竹の天秤棒)でカブン(竹籠)を2個提げ、前と後ろに2個ずつ積んで歩いたそうだ。

 

今日はBさんとSさんの二人が作ってくれる。昨日練習もかねて大小の土器10個ほどを作っていた。

事前にお願いして粘土とチュアを用意しておいてもらい、朝、粉砕・土練りから工程を再現してもらった。粘土採掘場所は、現在のSL村の入り口(約1km)にあり、NA村に住んでいた時から変わらない。かつては森の中だったが、開墾が進んで今は田んぼの真ん中になっている。現状だけ見て「田土」利用というと語弊がある。

チュアと粘土の粉砕は娘たち(40歳前後)がやってくれた。味わいのある竪臼(かつて米を搗いていた)と杵で搗く。小さい頃に手伝っていたせいか、勝手知った仕事ぶりである。Sさんの14歳の孫をはじめ、近所の子供たちは始めてみる土器作りとその道具に興味津津。

 この村の成形技法は、ラオス南部サワンナケート県のBan・Buk等を指標とする技術の範疇に入る。しかし、あて具は一般的な土製ではなく木製を使うのが特徴。家具にも使われるマイ・パユムという硬い木である。叩き板や杵もこれで作る。

主力製品は水甕のモーウナム(小はモーウ・ノイという)、鍋モーケン大・小である。ここの水甕は胴長である。そのため、叩き成形の工程が長いことが予想された。案の定、台上成形3回、手持ち叩きを5回行う。Ban・Bukでは台上成形1回、手持ち叩き3回で仕上げる。その間に小刻みに乾燥段階を挟むので、一日に成形できる個数は少なくなる。

縦溝の叩き板を使うのはBan・Bukと共通するが、叩き板の扱いや姿勢が違うため、器面に残る溝の方向が全く違う。痕跡から技術を復元するときに注意が必要だ。

 

もっとも大きな特徴は2ビートの叩き。左手のあて具1回に対して、右手の叩き板で2回叩く。実にリズミカルである。ドラム叩きでは普通かもしれないが、土器の成形では初めて見た。左右の手を違ったリズムで動かすのは難しい。各地のポターたちは成形の熟練を音で聞き分けるという。2ビートの場合、リズム感が悪いとすぐわかってしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 乾燥の合間を利用して、Lさんの娘がお昼を御馳走してくれた。この村では三食もち米を食べる。朝蒸したご飯、火に炙った干魚、スパイシーな青とうがらしのつけ味噌と生の小魚をつぶしたつけ味噌(パラーではない)、あざやかな色の花芽(にがい)、ささげ(あまみ)。さまざまな味わいのおかずが混じる。買い込んできたフランスパンは子供たちのおやつになった。

 

3世代が集い、かつての村の生業を振り返る時間。土器作りを受け継がなかった今の第2、第3世代はおばあちゃんたちの暮らしぶりをどんな気持ちで聞いたのだろうか。 

Sさんの孫や近所の子供たちに聞いてみた。おばあちゃんたちが土器作るの見て、「どう?」「はじめて見たわ!」「やってみたい?」「う~ん、やらない。私にはできないわ・・・・」そういいながら、じっと動作を見入っている姿が印象的だった。

 

2013-03-24

再びタケーク NB村で窯の実測

3月8日

サワンナケートを離れ、北上してタケークに向かう。国道13号線、信号はひとつもない。

途中トレーラーが荷崩れをおこして横転していた。どうみても過積載だろ。

 

 

 

お正月に通ったNB村。市場で昼食をとり、Tさんを訪ねる。「おう、また来たか・・・」窯を実測したい旨を告げる。自分の窯は今日は窯焚きしているので無理だ。他の人の窯を案内してもらう。ここでは600世帯中100世帯がクロック(搗き鉢)を作っている。

現在、アクティブな窯は30基あるという。ここは主力製品を若者でも作りやすいクロックに絞ったことで、大量生産が可能になり市場で生き残った。

 

最初に訪ねたところは窯詰め中で実測できなかった。次いで、お正月に訪ねたKさんの窯へ。あいにく留守。お正月にはここで窯焚きと窯づめを見学したので、ここを実測場所に決める。Tさんに携帯で連絡を取ってもらったらOKがでた。便利な世の中になったものだ。

 

 

 すぐに、平板1/100と手測り1/20の実測図をとる。

そうこうしているうちにKさん家族がヒュンダイ(2tトラック)に薪を満載して帰ってきた。1台50,000kipだ。意外と安い(500,000kipの間違いではないか?)。ここは深い燃焼部を掘り、太薪を大量に使う窯焚きが特徴。アリ塚の窖窯で土被りが厚く、蓄熱性重視の窯だきをしている。先のNLCと違って焼成部の床面には砂を敷く。製品の安定と床面に溶着しないようにするためだ。クロックはしっかり焼き締まる。ルアンパバン県のバンチャンとは大きな違いである。

 興味深そうに測量をみて、しばらく昼寝したらまた出かけて行った。村のお葬式だそうだ。

 

2013-03-22

Hotay Pidokと不発弾と300年前の土器

3月7日

 建設中の自宅

今日も朝からNLC。Tさん家で掘り棒を借り、窯跡の現場に行く。午前中の発掘は連れにまかせ、私はTさんから成形道具や窯詰めのこと、ライフヒストリーなど、ヒアリングを続ける。

 

Tさんは目下自宅の建設中。柱組み(建ち前)の後は、自力で家を作る。いま壁のブロック積みと窓枠作りの最中(写真1)。現在の家は約30年前に建てたもので手狭になった。道路に面して小さなショップを営んでいるが、そのオープンな空間に液晶テレビが鎮座する。やや違和感あり。埃かぶりっぱなしで大丈夫なんだろうか。

 

 Tさんのショップ

 

Tさんは8歳で見習い仕事を始めた。戦争後、再開し、長くHさん(20年ほど前、80歳で亡くなる)という土器作りの「神様」の補助をやっていた。Hさんはこの村のリーダーで、製作者はみんな彼から習って、最盛期には10世帯以上が土器を作っていたという。事実かどうか検証はできないが、NLC村の技術の系譜をHさんとその父親にたどる構図ができていた。

 

 

 

先日デモをやってくれた2つの回転台はHさんが作り、使っていたものだった。彼らにとって回転台は「たからモノ」だという。「家があるのはこれのおかげなんだよ。これがあれば土器を作って売れるんだから・・・・」回転台は実用的な「財」というだけでなく、精神の拠り所にもなっている。初日のN村の元職人さんも同じようなことを言っていた。

 

TさんはHさんの補助をしながら、「いつも怒られてばっかりだったよ」と、神様と一緒に仕事をした昔を懐かしがった。Hさんが亡くなった20年前、ようやく自立して、奥さんの補助で土器を作るようになったのである。

いつも怖い顔をしているTさんがニヤリと口元を開いた瞬間があった。道具の名前を順に尋ね、回転台を受ける「軸」の呼び名を答えたときだった。「Khoiって言うんだぜ」男性器を示す隠語だ。

滑りを良くするためにラードを塗るがこの日は石鹸で代用した。

 

 

それからBさんのお宅へ器種調査に行った。Bさんは竹を割いてムアイ(米蒸し用の竹製容器)を作っていた。ひと通り聞いて最後に「ナムタオ」がでてきた。見たいと言うがないという。この村にはそこかしこにひょうたんが転がっている。各家庭で田で水を飲むときの水筒として使っている。ナムタオとはヒョウタンをモデルとした水筒兼水差し容器である。

Dさん、お寺にあるから見せてやる、ついて来いという。この村に「Hotay Pidok」という名刹がある。ヤシの葉に書き刻んだ500 年前の仏典4,000巻を収蔵する。

 

これまで何度もお寺の前を通っていて、入り口にある「靴を忘れないで!」という英語の看板が意味不明??不思議だった。訪ねてみてわかったのは、ここは境内に入るのも土足厳禁、門の前で靴下も脱がなくてはならないのだ。足の裏がチクチクしながら土の上を歩いた。高僧のプライベートルームを訪ね、何度も跪伏拝礼、訳をを話して古いナムタオを見せてもらった。見てびっくり!何度土器ではないか。名僧曰く、寺に伝わった300~400年前のもの。かつてはこの村で女性の土器作りがあったという。

 

帰りがけにBさんがポツリ。この池にアメリカ軍が落とした200ポンド爆弾(不発弾)が2個沈んでいると。村人の記憶の中にベトナム戦争(ラオス内戦)はまだまだ風化しない。寺を出ようとして、はっと気がついた。そういえば靴を脱いだんだった。慣れると素足で歩くのは確かに気持ちいい。看板の意味が少しは分かったかも。

お寺を出ると高いビンロウの木に実(女性たちが噛むキンマの材料)がたわわについていた(写真)。

 

 

 

お昼から窯跡に戻り、酷暑のなか、昼飯抜きで窯跡の実測と写真撮影をする。10年間で燃焼部がどのように埋まっていったか、埋没過程がよくわかる。

 

燃焼部土層断面

 

その後、お世話になった人にあいさつし、タイから移住したCさん、Hさん一家がいるP村を再訪する。

 

2013-03-17

アリ塚をあまくみたらいかんぜよ

3月6日

朝からNLCの窯の測量をはじめる。早速、平板の基準点に釘を打とうとしたら、地表面が硬くて刺さらない。いわんやピンポールをや。釘はなんとか石を探してきて打った。

アリ塚(Anthill、ラオスではディン・ポーン、タイではジョン・プロッ)に窖窯を作る理由を、正直、平地で盛り上がった丘を利用する程度にしか思っていなかった。「土が硬いから」とも聞いていたが、これほど硬いとは思っていなかった。恐るべしアリの唾液よ

 

 

 タイ東北部(イサーン)からラオスにかけて田んぼに樹木(産米林などと呼ばれる)が点在するのが特徴的な農村景観だ。木の根元にはたいていアリ塚が形成されている。木々の葉が田に落ちて有機肥料になるし、ここで動植物の生態系ができ、食料採集の場にもなる。炭焼きの原木、土器焼きの燃料にもなるし、農作業の休憩場所になったりと多目的に使われる。

森を開墾して田にするのに、このアリ塚を撤去する苦労は並大抵ではなかっただろう。産米林の形成にはこのような労働コストもあったのではないか。そう感じずにはいられなかった。

 

 

平板で地形測量し、午後からTさんに鍬と鋤をかりて燃焼部を掘った。こちらの「剣スコ」は柄が長くて、金属部が軽くてペラペラ。踏み込めない。これはあくまで、土や砂をすくって遠くへ飛ばす道具だ。平鍬は固い土を砕く道具であって掘る道具ではない。明らかに選択を間違った。代わる代わる掘ったが、わたしは1時間持たずにへばってしまった。

その晩に町で移植ごてがわりの道具を買い、翌日は、郷に入っては郷に従え、「スィヤム」という掘り棒を借りることにした。

 

疲労困ぱいの体を癒してくれるのは行き帰り通るモンキー・フォレストの子ザルたち。スイ・レイクの景色。水の豊富な地域で2期作の稲田が青々と広がっている。途中、2009年のお正月に通ったBT村を通る。車窓から、村長のタオ(七輪)工房と近所のおばちゃんの土器作りの健在ぶりをみて安心する。

 

夜、サワンナケートの町でCHAI・DEEという小さなCaféに立ち寄った。サワンナケートは大きな町の割に外国人が少ない。そんな街にあって欧米人に人気の店。JICAの関係者らしい日本人もいた。あとから頼りなさそうな細身の日本人の若者が一人でやってきた。明らかにバックパッカーではない。尋ねてみると、日系企業で働いており、もう1年になるという。彼は現地採用で、村の20歳ぐらいの女性100名ほどと一緒に働いている。ラオス女性は美人が多いので、たいへんでしょというと、社内恋愛は禁止だと。浮ついたところはない。活字に飢えて本を読むためにここまで自転車で30分かけて通っているとのこと。

海外でこうやって一人で働いている若者に興味を覚えた。日本に嫌気がさしてきたわけでもなく、国際貢献という気負いもない。自然体で自身を見つめ、人との出会いを大切に生きている。翌日も待ち合わせてたくさんの話をした。若さに羨ましさを感じつつ、勇気をもらう出会いに満足し、夜は疲れでぐっすり・・・・。

2013-03-16

10年ぶりに甦ったNLCの土器作り

3月5日 ワンプラ(仏日)

ようやく熱い太陽が戻ってきた。今日はお正月に訪ねたNLC村。焼き締め陶器の村だったが、10年前に土器作りは途絶えてしまった。当時の製作者はもう2人しかいない。お願いして10年ぶりに土器を作ってもらった。 

製作者はBさん(63歳)とTさん(60歳)。Bさんは奥さんが、Tさんは兄の娘が回転台を回す。夫婦協業が基本のようだが、Tさんは長く師匠のHさんの補助をしており、それだけではなかったようだ。

 

事前に採掘し、用意した粘土で、エンナム、ハイパデック、ハイパソムの3点を作った。10年のブランク。その間1度も土に触っていないという。戸惑う場面もあったが、一連の成形プロセスを記録させてもらった。土が柔らかくて、エンナムは乾燥中に潰れてしまった。Tさんは強面の職人で、決して表情を変えない。どこからみても眼光鋭いパテト・ラオの戦士だ。さすがにこの時はプライドが傷ついたのか、粘土の乾燥状態を悔しがっていた。血が騒いだようだ。後から聞いた話だが、Tさん、来年土器作りを復活したいと言ってたらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

お昼、村の食堂でフォーをたべていると、おばちゃんが店の前のブッドン産モーナムからおいしそうに水を飲んでいた。店の中には冷蔵庫もあり、ボトルの水も買っている。20ℓ=45,000kip(500円)だ。「どうして良く冷えた冷蔵庫の水を飲まないの?」「タマサートだからよ」タマサートとは自然と共にあろうとする生き方でラオス人の規範意識にもなっている。お客さんにはボトルで買った水を出すが、自分たちは井戸水を土器に入れて飲んでいる。ビンに漬けたパラー(小魚に塩や糠などを加えて発酵させた魚醤、半年ほど漬ける)。うまそうだが、日本人はやめたほうがいい、とタイ人に言われる。それは4年前、実証済み。2日間吐き気が止まらなかった。なんでそん時言ってくれなかったの・・・・オーさん!

 

 

 

 

 

 

 

 

午後からTさんの案内で15~20年前の窯跡、粘土採掘場を歩いた。窯場は村から2km離れており、この付近に20箇所の窯跡がある。窯は共同で使い、1~2年、長くて3年で作り変える。覆い屋がないアリ塚の窯は雨季に水が入るのと、天井が落ちやすいのだそうだ。順次築窯で2基併存することもある。直立煙道の地下式窖窯である。ブッシュをかきわけ、5基の窯跡を見て回った。2基並列が2か所、すべて天井は落ちていたが煙道は残っていた。

土器作りは乾季の副業(ラオス暦1~5月)であり、その間、窯場近くに立てられた工房住居トゥーで夫婦が生活する。最盛期は10世帯ぐらいがここで土器を作っていた。歩くと森の中に工房跡があり、朽ちた回転台やエンナムの破片が散らばっている。

う~ん。これ窯業遺跡じゃないの・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

実は別の場所に、天井が残った窯跡が1つだけあるという。10年前、廃業直前まで使っていた窯だ。職人3人が10日かけて掘った。まだ記憶に新しい。

森を開発して作った田んぼの中に大きなマンゴーの木があり、その根元に開口した窯が1つあった。焚口と煙道から土砂が流れ込み燃焼部や床面はすべて埋まっていたが、天井は表面が剥落し、ヒビが入りつつもなんとか残っており、原形を窺うことができた。

この窯跡をみて黙ってはいられない。むずむずと血が騒ぐ。明日の作業は決まった。

 

 

 

 

 

 

 

 帰りがけにTさんがマンゴーの小枝から小さな実のついた房をとってくれた。青臭いがしっかりマンゴーの味がする。額に滲む汗をふきながら、齧ってみるとさっぱりした味わいだった。

2013-03-16

引き寄せられるように出会った家族

なんとなく気になる村があった。ソンコーン郡のスィブンヘンという村。東南アジアの土器作り村を踏破して作成されたレファート・リストで所在地がどうも誤記されているようなのだ。ちょっと時間があったので探してみようということになった。

国道13号線を南下、聞いては走り、走っては聞く。そして確かに村に着いたのだが誰に聞いても土器は作っていないという。がっかりしつつ、最後に市場で尋ねてみると、近くに昔作っていた人が一人いるという。車を降りて、教えられた方向へ田んぼのあぜ道を歩く。 

 

15:30ようやくお宅に着いた。そこにいたのはBさん(60歳)と夫Cさん(75歳)夫婦。そして娘夫婦と孫。残念ながら土器作りは3年前に止めていた。ここはP村。

話を聞いているうちに、実は自分たちはタイ人だという。50年前にここに来たという。

えっ、そうか移住してきたのか…。ここまではお正月のラオス日記で紹介したようにタイのイサーンでよくある話だ。土器作り技術の拡散の背景に良田を求めて移住を繰り返すイサーンの歴史があったことをアメリカ人のレファート・コート夫妻が明らかにしている。

庭先にある水甕モーナムを見て、何かおかしい・・・。ラオス南部に一般的なモーナムではないのだ。そして、合点がいった。これはやっぱりイサーンの形だ!それは自分たちがタイ出身だという話とほぼ同時だった。

さらに、自分たちはウボンラチャタニー県出身だという。「タカン・プーポンから来た」。ひょっとして・・・D村では?「いや、隣のSY村だよ」「あたしの兄弟はまだ村にいるよ」

D村は2008年から私が毎年通っている村で、この村もSY村から分かれた。D村のポターたちは今でもSY村の田から粘土を掘っている。

なんで突然訪ねてきた見知らぬ日本人が、自分たちの故郷のことをこんなに良く知ってるんだ!そんな雰囲気で目を白黒させながら、なつかしい故郷の話に花が咲いた。

 

Bさん家族は他の10家族とともにタイのSY村から歩いてここに来た。ベトナム戦争にアメリカが介入する前の話である。8haを2000$で買い、何年もかかって森を開墾した。タイに帰った人もいたが、やがて70軒(すべてSY村出身世帯)になり、みな土器を作っていた。

隣のN婆さん(78歳)もポターだったよ。もう目が見えないし、耳もよく聞こえないけど。一緒に作ってたんだよ。訪ねると夫のHさん(68歳)が移住の頃の話を聞かせてくれた。叩き板や当て具など土器作り道具は、ラオス南部と違いタイ・D村と共通点がある。しかし、他との交流を持たずガラパゴス化したことで、呼び名がラオス風に変わるとともに、技術や器形の一部にD村との違いがあらわになった。実に興味深い。

 

細い糸を辿りながら出会った家族。この二つの家族の私的な歩みのなかに土器作り技術拡散の大きな歴史ドラマが詰まっている。

 

写真1:Cさんと孫

写真2:市場で働くBさんと娘

写真3:Bさんで使用中エンナム

写真4:Bさん宅の庭先で移住の頃の話を聞く

写真5:同上、無台・蓋なし。タイでは「モー・ウ・ナム」と呼ぶ。知ってるけどラオス式で呼ぶんだそうだ。

写真6:Nさん家のモー・ティン。高台付き。タイではモーイオイといい、蓋付だ。

写真7:連結炉穴。竹の子を茹でている。縄文時代の遺跡からも検出されている。

 

2013-03-16

ラオス日記2013.3-焼き締め陶器の村をたずねて-

2日夜に羽田を発ち、バンコクを経由してラオスに着いた。現地は暑季に入り、いい感じの暑さが体を包む。はずだったが、ベトナムのほうからストームが来ているらしく涼しかった。3日の晩に町で髪を切った。さっぱりした。こちらでは毎日7:00に朝食、7:30から仕事というペース。日本にいる時より朝は早いが、このペースが現地の空気、リズムにあって心地よい。

 

 

4日、お正月にたどり着けなかったN村に来た。ここは男性が作る焼き締め陶器の村である。2000年、最後の製作者Pさん(81歳)が引退して、村の土器作りは途絶えた。Pさん宅を訪ね、弟子Kさん(56歳)と二人から話を聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 成形は2人一組。粘土紐を作り回転台を回す人、台上で粘土紐を積み、水挽きする人。このタイプの土器作りでは夫婦協業と男性2人の場合があるが、この村は後者だ。Kさんは弟が補助をした。 

 

伝統的な焼き締め陶器の村がどんな製品を作り、どう使い分けていたのか。それを教えてもらうのが今回の目的の一つだ。

次から次へと製品を持ってきてくれた。いちばん興味深かったのは甕の使い方。「飲む水」用の甕、「使う水」用の甕が器形の違い、蓋の有無で使い分けられている。もちろん酒造り(サトゥ)にも使う。  

 

持ちよった陶器のなかに一つ見慣れないものがあった。ポムPuomという小型品。これは、ティップ・カオ(蒸し米を入れる竹製容器)にアリが入らないように木にぶら下げる時の補助具だ。上部のへこみに水を張っておく。これはハイ・パデックHai-pradaekという発酵食品作り用の壷の口を応用したもの。ほかにもPさんは奥さんのためにオリジナルの製品を作っていた。機織りの時に座るタン・サオロー椅子である。これはクロック搗き鉢の応用である。このように製作者は、販売用の主力製品のほかにも自分たちの生活の身のまわりで役に立つ製品をその技術を応用しながら作っていた。 

 

庭に軸を切り取った回転台が置いてあった。尋ねると「これは大切なものだから、とってあるのさ。」なぜ?「子どもたちにこの村が土器作り村だったことを伝えるためだよ。」回転台は彼らにとってのシンボルなのだ。父親から受け継いだ土器作り、土器作り村に育ったセルフ・アイデンティティ。伝統の中に生きる暮らし、ゆったりと時間の流れを感じる話をたくさんしてくれた。

 

 

口が広い甕エンナムEn・Namは1980年にKさんが作ったものだ。肩部に施文用の櫛で「RS,1980」「No.64」。さらに「DISCO LEVIS.NAS」と刻む。「これどんな意味?」「(ニヤッ)意味なんかないさ・・・・」。このおやじ、なかなかやるなぁと無言の会話。

 

 

  

それから二人に窯跡を案内してもらう。みなアリ塚に作る地下式窖窯。12基ぐらいあるよ。自分たちで1週間かけて掘る。3~4年使い、順次掘っていく。現場で窯構造や窯詰め、窯焚きについて話を聞く。いつまでも聞いていたいほど話は尽きない。

Kさん「今度来るときは俺んちに来いよ!」「はい、その時までお互い達者で・・・・」

 

 

 

 

2013-02-04

姫路城

姫路駅から城郭研究センターまで20分ほど。急ぎ足で歩いたら汗がとまらなかった。穏やかな日曜日。姫路は世界遺産見学の観光客でにぎわっていた。

 

伊丹からのバスに乗り合わせたのは、山形から姫路城を見に来た社員旅行の団体。偶然と言えば偶然。私を入れてオール山形。しつこく話しかける方にも問題はあるが、やたら気さくな運転手で道中、観光案内。高速走行中の運転手が客とこんなに話をするのって、ほんとは…と思いつつ。

 

姫路城は平成21~26年度まで、大天守の修理工事(漆喰壁や瓦)を行っている。この覆い屋だけで12億というから驚きだ。姫路市では修理工事を見学できるよう配慮するとともに、各方面で情報公開を行っている。大修理は50年に一度。平時の連立式天守も壮観だが、素屋根に覆われた姿と修理工事は一生に1度しか見られない。

 

 

全国城跡等石垣整備調査研究会、文化財石垣保存技術協議会(国選定保存技術保持団体)評議員会と2週連続で姫路に来たが、とんぼ帰りで結局お城は見学できず。今度はゆっくり修理工事を見学してみたい。

2013-02-03

お台場とレインボーブリッジ

幕末、黒船の来航以後、各地で戦争に備えて砲台場(略して「台場」)が作られた。江戸の町をまもるために作られたのが、東京湾、品川沖の台場である。フジテレビのある「お台場」に国史跡に指定された「第3台場(写真中央やや左)」と「第6台場(写真左:レインボ-ブリッジの手前)」の二つの台場が現存する。

当初11基が計画され、実際には5基が完成したが、開国によって不要となった。史跡以外の3基は戦後、船舶航路の妨げとして撤去(第2台場)されたり、埠頭整備の埋めたて地(第1・第5台場)となって見ることができない。

1997(H9)年に第1台場の一部が発掘され、海中に石垣を築く当時の最先端の土木技術を知ることができるようになった。

今回調査しているのは第5台場跡である。昭和37年に品川埠頭の用地となり上部を撤去し埋め戻された。嘉永7(1854)年1月~12月、幕府が発注した民間JVによる請負工事でわずか1年で築かれた。近世初期の天下普請だったら、これくらいは数カ月で作ってしまうから、1年を早いとみるか遅いとみるかは微妙だが、資材確保の準備期間もなく、海中に石垣台を築く工事だったことを考えると急ぎ働きだったことは疑いない。

石垣石は江戸初期と同じで、伊豆半島の安山岩がメインである。しかし、江戸城の石垣と比べると、材を選ばず結構いろんなものを持ってきている。刻印の付いた江戸初期の残石、海に転落し波浪浸食された石、大きな玉石、海岸から手当たり次第取ってきたという感じだ。突貫工事だった様子がうかがえる。ほかにも裏込め用の石材や、波浪による地盤浸食を防ぐために石垣の前面に大量の捨石を沈めている。そして、圧巻は多数の木杭を打ち込んだ基礎工事や木枠工法である。石垣の裏込め(裏栗石層)には粒度調整の豆砂利が充てんされていた。

近世に発達した水濠の石垣や川除(護岸)、港湾工事などにより蓄積された伝統技術のノウハウがベースになったものとみられるが、詳細はわからない。今後の調査と研究に期待したい。

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