こんにちわ、あべちゃんです。我々4年生は最近は再来週に迫った口頭発表にむけて活動中であります。今回は、先週の土曜日に行われました、歴史遺産学科雪合戦大会の模様をお伝えします。
1月26日(土)10時にグランドに集合した、1年から4年、さらに先生方。各自装備を整えて、戦う準備万端であります。
雪合戦のルールは簡単。4つグループに分かれて、互いに雪だまを投げあい、あたった人は陣地の外に出るというもの。
1年生チーム、1・2年チーム、3年・先生チーム、4年生チームに分かれ、試合開始です!
目が合うと狙われるのは当たり前、後姿を見せてもだめ、狙っているのに気づかれると逃げられる…。
学生はもちろん先生方も非常に生き生きとして見える(!?)試合中。みんな何かたまっていたのかしら。
陣地内を移動しながら、相手に投げる、雪だまをよける…これが足元を取られて結構体力を使うんですよね。5セットの予定でしたが、3セット目で周りからは「つかれた~」「3セットで終わりでいいんね~?」との声。
ちょいちょい休憩しつつ、ちゃんと5セット行いました。さてさて結果は・・・?
4位 3年生・先生チーム、3位1・2年チームそしてなんと同率1位が1年生チームと4年生チーム!!!
急遽サドンデスで決勝戦が行われました。自らを犠牲にして雪だまをあて散っていく人やら、確実に相手の数を減らしていく人やら・・・。「サドンデスきつい!」の一言で、時間制限を設け、戦い抜きました。
最終的に優勝は1年生!!おめでとう!!!若さの勝利だ!!!!やったね!!!
その後は突然の雪上相撲大会や、タックルされて雪に沈む会、雪に埋められる人、チームオールド(3・4年生と先生)VSチームヤング(1・2年生と先生)に分かれての試合などなど、時間ギリギリまでがっつり雪にまみれました。1年生の男子は必ず1回は雪に投げ込まれて全身雪まみれになっていました。
各学年が集まって、交流するのは秋の芋煮会以来でしょうか?学年を越えての交流はなかなかすることができないので、とてもよい機会だったと思います。久々に運動できてなんだかすっきりしました。
企画と連絡、当日も8時過ぎから学校に来て会場設営をしてくれた1年生のみんな!
どうもありがとうございました!来年からはもっともっと人が集まると楽しいですね!
翌日筋肉痛で立ち上がるのもトイレに行くのも大変だったのは私だけではないはず…。
以上、考古学演習室よりあべちゃんがお送りしました。写真提供は謝ゼミの某bawdies君です。thanx!
1月7日 最終日
朝、市場でお土産の果物を買ってD村のUさんに会いに行った。2008年に初めてお世話になって以来、毎年訪ねている。その姿は小屋の木陰にあった。いつもと違う場所で土器を作っている。近所のJさんも作っている。二人はこの村の稼ぎ頭。今年も健在だ。ほっとする。
Uさん、突然の訪問に満面の笑みで迎えてくれた。よく来たね!今年は一昨日から作り始めたばかりよ。稲刈りが遅かったから。蓋の文様がこれまでと違う。どうしたの?と聞くと、自分で考えたのよ、と。あれだけ保守的だったUさんが・・・。ちょっと刺激してしまったか?
旦那さんは留守だったが、いつになく元気なおばあちゃんがいた。事故にあってから手の自由が利かなくなって元気がなかった。裏の仕事場に、口をビニールで縛ったハイが3つ並んでいた。聞くとおばあちゃんが漬けた竹の子らしい。今回はおばあちゃんから漬物や水甕オーンについてたくさん話を聞くことができた。
Uさんには二人の子どもがいる。お正月、帰省してた息子はもうバンコクに帰った。娘も今年、町の専門学校を終えて、バンコクに働きに出る(実はもう行ってる)。これからは3人だけの暮らしになる。Uさんたちに、また来ます!と言って村をあとにする。
午後ちょっと早めに、ウボンラチャタニーの空港に着く。今年こそ平穏に帰国したい。そう思ったからだ。いつも使うLCCはいつのまにかドンムアン空港発着になったので、今年はタイ航空を予約した。
カウンターに行くと、「DELAY」の表示。定刻17:45が20:30、大幅な遅れだ。これは遅れでというより明らかに機材のやりくり。帰国は23時の深夜便なのでまあ余裕で間に合うわと思って待った。預け荷物の重量オーバー(10kg)も何も言わないし、例によって片手にぶら下げたモーナム、頼み込んだら何とか持ち込みを許してくれた。100B分のクーポン券をもらったので食事をしながらくつろぐことができた。
ところが、なかなか飛行機がバンコクから来ない。私と同じようにバンコク・スワンナプーム乗り継ぎの欧米人が騒ぎ出した。スタッフがてんやわんやの騒ぎ。こちらも乗り継ぎがあることを申し出ておいたら、荷物を優先的に出してやるから心配するなと。
出発時刻になってようやく飛行機が到着。それからあわただしく機材整備をしたのだろう。乗客が乗り終わるやいなや、あっという間に離陸した。モーナムは結局、棚には入らず、1時間膝の上に抱えたまま(エアアジアなら入ったのだが)。
離陸したのが21:20。スワンナプームが混雑していたら結構やばい時間。正直ちょっとひやひやした。ちょうど1時間で到着。預け荷物はすぐに出てきた。カートに乗せて、3階のカウンターへ。オーバーサイズバッケージから大型荷物を二つ入れて、出国審査場に並ぶ。あわててお土産を買い、搭乗口にいったらもう搭乗がはじまっていた。全く無駄な時間はなかった。というわけで、なんとかトラブルもなく帰国できることになった。ほっとして心地よく機上で眠りについた。
今年も村の人たちの暮らしや技術からたくさんのことを学んだ。そのたびに脳がピリピリ音を立てて反応する。自然に笑顔になる。そんな快感をもとめてまた通うのである。
Cさん(57歳)の家で、旦那さんが野焼きの最中だった。モーケン100個を焼いている。そばには昨日焼いたモーエンナムが40個。カンタラロームのお店からの注文だそうだ。
イサーンでは土器を設置する際、地面から浮かせるために焼き台を用いる例が多い。多くは粘土を焼いた円柱・角柱の焼き台を用いるが、ここでは高さ10cmの壷形土器を専用に作り、倒立して用いる。今日はバナナの木を高さ10cmに輪切りにしたものを使っている。バナナは水分が多いので燃えることはない。以前、北タイで野焼き用覆い屋の柱にバナナの木の皮を巻き付けていた。火が直接あたっても柱が燃えることはなかった。
旦那さんは昔は野焼きする人が多くて、バナナの木が足りなかったが、今は少なくなったので使えるんだ、と説明してくれた。わかったような、わからないような・・・・
PS村は160軒ぐらいあり、土器を作るのは現在3世帯しかない。
たまたま通りかかった爺さん(72歳)曰く。この村の土器作りはダーンクウィアンからK村を経てここに来たんだよ。確かに言われたとおりである。
Cさん夫妻から粘土採掘~成形~販売についてヒアリング。土器作り道具を計測させてもらう。
卸値は水甕モーエンナムは50B、湯釜モーサオロー35B、鍋モーケン20B、小型鍋モーケンノイ(モーフン)15B。モーエンナムはK村よりちょっと高い。
イサーンではここ100年、このようにコラート周辺から農民が2次的、3次的に移住を繰り返すことで土器作り技術が拡散した。レファートさんたちが立てた仮説だ。それ以前の古いタイ・ラオ族の技術は一部地域に痕跡的にしか見ることができない。示唆に富んだ話だ。
1月6日
朝、市場で朝食。もち米おにぎりカオチーを買う。ラオスではナンプラーを塗って卵につけて焼くが、イサーンでは塩味が多いらしい。
K村
ラシー・サライという町に来た。コラート郊外にある焼き物町ダーン・クウィアンから技術が伝わって、土器作りが始まったとされるK村を訪ねるためである。陶器村から技術が伝わった土器というところが引っ掛かっていた。
田園地帯を走るとホンデンという紫小玉ねぎを満載しトラックが行きかう。トムヤムクンなどタイ料理のスープには欠かせない食材だ。シーサケット県はホンデンの一大産地で、畑には水撒きや収穫に忙しく働く人たちの姿があった。村の入り口のお宅で、娘と二人でホンデンの出荷作業をしているPさん(39歳)から話を聞く。K村は3つの集落合わせて約300世帯があり、うち10世帯で土器作りをしている。
Pさんは9人兄弟、4姉妹の末娘。娘たちはお母さんに習って全員ポターだった。11月~6月に土器作りをするが、ホンデン作りもほぼ同じ時期。80日~90日で収穫できるわ。いまやってるのは10月に植えたの。ホンデン作りが始まったのは10~15年前。現在では乾季の貴重な現金収入源となっている。
向かいの家では長女のKさん(56歳)がお母さんのSさん(81歳)と一緒に作業をしていた。Kさんによれば、5年前からホンデン作りがとても忙しくなり、それで土器作りをやめてしまった世帯が増えたという。3姉妹はここで土器作りをしているが、3女は結婚して他の村にいったので土器は作っていない。
Sさんは11歳の時(70年前)に3家族でここに来た。第2次大戦のあとのようだ。「ダーンクウィアンじゃないよ」「アンプー・ノンスーンのバン・ポッポウという村だよ」「2家族は帰ってしまったけどね」「母親はポターだったよ」「いきなり、ここに来たんじゃないよ。途中、ウトンポンピサイという町に住んだんだよ」「汽車に乗ってきたよ」「田んぼを探しにきたんだよ」「旦那は早くに死んじゃった(Mさんが15歳の時)」
3世帯に囲まれた空き地に野焼きをした跡がある。昨日焼いたモーナムをポットショップの主人がピックアップで取りに来ていた。お店の人と一生懸命積んでいたのは、次女のMさん(49歳)。水甕モーエンナム(モーナム)83個、1個40Bで売る。こんなにたくさん積めないのではと思っていたら、ポットショップのおやじはさすがに慣れたもの。土器の間に藁を挟みながら上手に全部積んでしまった。Mさんは週1ペースで野焼きし、1回30~40個焼くそうだ。旦那さんが薪集めや野焼きを手伝う。昔は俺がクエン(牛車)で3日ほどかけて売りに行ったんだよ。今は電話注文で、車で取りに来てくれるから楽だよ。
Pさんの成形道具を計測し、叩き板や当て具の使い分けを教えてもらう。ここではチュア:粘土が2:1と前者が多い。耳を疑い、混合する際のバケツの分量を確認したが確かにチュアが多い。土器の断面もチュアだらけである。K村の土器作りは紛れもないコラート起源の技術であり、典型的なイサーンタイプだ。なのに,コラート近郊にある有名な陶器村ダーンクウィアンを引き合いに出してルーツと伝承するところが面白い。ただし、当のおばあちゃんは一言もダーンクウィアンと言っていないはず。
ポットショップのおやじ曰く、シーサケット県にはもう一つ土器作り村がある。カンタラロームのポンサイという村だ。K村から技術が伝わったって話だよ。昨シーズンは作ってたけど、今年はどうかな?
いかねばなるまい・・・・・
1月5日
ラオスを出国する。ボーダーでちょっとしたトラブル。同行のタイ人のパスポートが消えた。ラオス側の窓口は通過した。しかし、タイ側に入ろうとしたときにパスポートはなかった。ラオス側で返してもらっていない…橋を引き返して聞くが知らないよ・・・どう考えてもミステリー。結局見つからなかった。闇ルートで売買されるといううわさも・・・
不審な段ボールを満載した車が止められた。これまで何度も行き来したが、はじめてX線検査を命じられる。明らかに疑いのまなざし。「中はポットだ!」信じてもらえない。みんな一緒にモニター画面を覗く。「次はスーツケースを持ってこい!」「・・・・・・・」テレビ画面には映ったのは、ここにも満載のポット・・・・。あきらかに不満そうな、あきれた顔の検査官。
ナコンパノム空港で帰りのチケットを取り、大切な荷物を日本に送るため郵便局に走る。半ドンの土曜日閉店間際になんとか飛び込む。再び空港に戻り、二人を降ろして一路ウボンラチャタニーを目指す。5時間かけて到着。ウボン在住のC先生と再会し、夕食を共にする。昨年のアッタプー調査や床屋の話で盛り上がる。LOTUSで下着やお土産を買いこみ、定宿でくつろぐ。
明日からはシーサケット県で最後の調査だ。
1月4日
今日も朝から2時間半ほど走った。村に近づくが車窓からみえる水甕モーナムはみな見覚えのあるNB産。土器作りが廃れて相当の時間がたっていることを予感させた。メコンの支流セーボン川に沿って二つの村はあった。PP村とKPS村。土器作りをやめて30年はたつという。KPS村はPP村から分かれてできた。戦争の後(1975年)、村は40軒だったよ。いまは103軒。20年前に川からポンプアップするようになって二期作をするようになった。案内してくれた親切なおじいさんが語ってくれた。村の中を貫流する水路は満々と水を湛え、たらい船に乗って遊ぶ子供たちの歓声が響く。どこの家にもNB産のモーナムが二つ、三つ並ぶ。
かつてのポターは3人存命だという。Tさん(86歳)を訪ねた。粘土採掘、成形、焼成、販売、懐かしそうに昔の話をしてくれた。自分が作ったモーナムを宝物のように30年使い続けている。どこを探しても古い地元産モーナムはカケラ一つ落ちていない。すでに道具を持っている人もいない。お願いして、中の水を出し実測と写真を撮らせてもらう。
将来の考古学者は在来の土器型式がすでに断絶したと時期とみなすだろう。これが壊れて捨てられて時、それは「混じり」と判断されるのだろうか。
この土器は村で土器作りという生業があったこと物語る生き証人である。おばあさんとともに長くここにあってほしいと願う。
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土器の野焼き(NT村)
午後から野焼きを見る約束していたNT村に向かう。いつもと違う国道13号から入る。集落が森を開拓し、田を広げていった様子がよくわかる。いまは炭焼きシーズン。皆忙しそうに窯づめ・窯出しをしている。
15:30村に着いた。待ってましたとばかりに、ポターや近所の女の子たちが、手に手に土器を持って田んぼに集まった。久しぶりの野焼きに女たちはお祭り騒ぎのようだ。年長の女性が仕切り、一番若いBさん(38歳)が手際よくさばく。樹皮と稲藁で焼くこの地域通有のやり方である。家路につく水牛たちが遠巻きにみている。
元村長が粘土採掘場を案内してくれる。田んぼのなかを30分歩いて、ホワイ(池)のほとりに着いた。国有地の干上がった池から掘る。地表から1m、現場仕立ての木の鋤で掘り、その下にある粘りの強い黒色土を採取する。
村へ帰る途中、時々田から煙が上がる理由を聞いた。ねずみを捕ってるんだよ。長い稲株を焼いて隠れたネズミをあぶりだす。針金ワナや竹筒ワナで取るのは見たことあるが、こんなやり方もあるんだと・・・・。
地平線に日が落ちると、空が紫からピンク、茜色に染まる。野焼き場所に戻ったころあたりは急に暗くなってきた。女たちが被さった藁を取って焼き上がった土器の出来栄えをみる。我々の帰りを待っている間、プレゼントした口紅を塗り合っておおいに盛り上がったそうだ。
1月3日
早起きしてNT村に車をとばす。年暮れ、陽が落ちてからようやく探し当て、再訪を約束した村だ。6~8年前にやめたというが、元村長の仕切りで、往年のポターたちが土器作りを見せてくれるという。もちろんタダとは言わないが。
8時半すぎに村に着くともう準備ができていた。経験者7名中(20名とも)、5名が集まった。4名は50歳以上であるが、Bさんは38歳、妊娠4カ月。まだ若い。土練り→台上成形→手持ち叩きと、全工程を、4器種すべてで再現してくれた。いつも作ってるような手際の良さ、久しぶりで楽しそうだ。時折、互いに品評し合う。よく聞くと、前日練習で10個ほど作ったそうだ。また、2年前にも注文があって、儀礼に使うモーナムを30個作ったらしい。土器作りをやめたといっても終わり方は様々である。
NT村は南3kmのNL村から分かれた。当初5軒から始まったという。Lさん(52歳)の親が移住1世なのでまだ新しい。6~7年前に電気が来た。15年前に町のほうへ出る道路ができた。それまでは行商に来た人の物を買っていたが、この道によって、買い物に出るようになったり、働きに出る人がでてきた。ベトナム商人が売りに来た金属鍋(ベトナム人が持ち込んだ鍋という意味で「モー・ベット」といい、「ツケ」で買えたという。)が広まり、土器が売れなくなった。売りに行くと値引きさせられる。価格競争に負けたんだよと。
竹かごに土器を入れ、ハープ(天秤棒)に下げて、4~5人で周辺の村に売りに行ったそうだ。売れるまで帰って来れないんだよ。だんだん売れなくなってきたのと、年取って疲れるので止めたさ。田では土器に代わって割れにくいプラスチック製の水入れを使うしね・・・・。昔からやってた機織りも4~5年前に止めたよ。これも他の村でもよく聞く話だ。
明日は午後4時頃から野焼きを見せてもらうことになった。急きょ、サワンナケートに移動する。
帰りにまたまたタンブン、みんなさわやかな笑顔だ。明日はサイブリーで二つの村を探してからここに戻る。
1月2日
年末年始、風が吹く寒い日が続いたがようやく穏やかな朝を迎えた。はじめての休日。
朝食後のカフェ・ボラン(古式コーヒー)。ふと、となりをみると床屋。小さな爺さんが一人でやっている。カフェのおばさん曰く。耳が遠いけど大丈夫だよ。バリカン1丁で刈り上げ、生え際をカミソリで剃る。水で湿らせるだけなのでちょっと痛い。手は小刻みに震えるが、カミソリをあてるとぴたりと止まる。年を聞いてびっくり。103歳という。5,000kip(50円)。若い女の子がやってくれたアッタプーの店の半値だった。
LAK35からタケークに向けて国道13号を2時間半ほど走る。イミグレーションで正月をタイで過ごした2人をピックアップ。町に戻って市場の調査。郵送荷物(土器)のパッキング。夜はメコン河畔、綺麗なレディーボーイがいるオープンテラスの店で食事。停電になるとタイ側の明かりがひときわ目立つ。星空を見上げつつ、たまには暗闇もいい。
1月1日
日常となんら変わることのない朝だった。違うのは昨夜遅くまで花火の音がうるさかったことと、LAK35にいることぐらい。
そういえば、車のタイヤがパンクしていた。昨日の悪路で釘を拾ったようだ。近くのパンク修理屋に預けて、市場に朝飯を食べに出た。素足の足の裏がチクチクする。小石が入ったと思って払いながら歩くがなぜか傷みが残る。ご飯を食べて、カフェ・ボランを飲みに行く時、石を踏んだとたんウッとなった。コーヒーを飲みながら足の裏を見ると血だらけになっていた。そう、ゴム草履の裏が車と同じことになっていた。血を絞り出し絆創膏を貼って、靴下をはくことにした。
今日も二つの村の予備調査。ケンコーまで行って、またダートを走り1時間余りでNa・Tuey村に着く。しかし、探していたのはNa・Thai村。似てるけど違った。正月早々幸先悪い。仕方なく、周辺でモーナムの産地調査をしてから引き返す。
●ラオ・ラーオ
当初、今日は半日休むつもりだったが、せっかくここまで来たので、3年前にブッドン村でお世話になった人たちに会ってから帰ることにした。途中、ラオラーオ(焼酎)作りを見学。3年前はタイ産の陶器ハイラオに貯蔵して運搬・販売していたが、最近は重いのでポリ容器になったよ。ここでも焼き物が駆逐されている。さらに大型水甕オーン、これがいま急速にセメント製に変わっている。在地産陶器はとうに廃れ、タイ・ラブリー県の製品(600THB=約1,700円)がラオスにも流通しているが、今ではより安価なセメント製オーン(120THB)が普及する。ここの主人はセメント粉を買ってきて自分で作る。製品と同じ値段で4個もできる。発酵したお米を蒸留するカマドの横でバナナチップを揚げていた。子どもたちが袋詰めする。一袋1,000kip(10円)。揚げたてはおいしい。
いざ出発!車に戻るとまたまたタイヤにネジ釘が刺さっている。あちゃっ・・・・。周りには何もないのでこのまま走るしかない。
●BD村
12:00をまわったころブッドン村についた。ポンポン、ポンポン、あちこちから土器を叩く音が聞こえる。
お土産を持ってTさんとSさん姉妹の家を訪ねた。あれ?誰?
見慣れない女の子が二人、赤ちゃんを抱いている。3年前ここにいたのは12歳のLと9歳のO姉妹だった。二人ともお母さんを助け、一生懸命土器を作っていた。Lは来年からビエンチャンに出稼ぎにいくと聞いていたので、いないことは分かっていたが、妹のOは・・・
聞くと、昨年やはりビエンチャンに出稼ぎに行ったとのこと。この村では12歳になると多くの子が出稼ぎにいく。
赤ちゃんを抱いていたのはSさん(31歳)の娘と友達?。Sさんの娘は15歳。3年前はタイに出稼ぎに行っていていなかった。妊娠したが彼氏と別れて村に帰ってきたという。お母さんと同じような年で母親になった。土器作るの?って聞くと、「いや」と。Sさんが籾摺り仕事を終えて家に帰ってきた。見慣れない若い男の人も一緒だ。聞くと旦那さん。彼も3年前は出稼ぎに出ていていなかった。おじいちゃんは?2年前に亡くなったわ。おばあちゃんは?森に行ってるよ。1歳だった末の息子は?お兄ちゃんと田んぼで遊んでる・・・。流動的な家族の姿にしみじみするところもあったが、ふと気づくと、子供が多かった頃の日本、私たちの親の世代とさほど変わらないのかもしれないとも思った。
Sさん、今年は田んぼの仕事が延びて、まだ土器を作り始めたばかり。これから忙しくなるわ、と。
●NS村
村の出口で、もう一つ探していたNS村の場所が分かった。
またまたダートを進み、14:00過ぎに着く。おばあちゃんが作ってる人いるよ、と案内してくれる。ここもアクティブな村だった。
田んぼ仕事がおわったばかりで、土器作りを始めた人はまだ2~3人。3月ぐらいには10名あまりになるよ。最年長は47歳、最年少は35歳。比較的若い。Lさん(38歳)の土器作りを観察する。5回行う手持ち叩きの2、3回目をやっていた。遊びに来ていた友達たちがサービス精神旺盛で、土練りから台上成形まですべての工程を見せてくれた。村長さんも丁寧に村の歴史など話してくれた。とてもフレンドリーな村である。2時間ほどの滞在だったが、予備調査を越える中身の濃い訪問となった。
17:00すぎ、朝立ち寄ったパンク修理屋に行く。社長にっこり。30,000kip(300円)。よくあるせいか意外と安い。ラオスのガソリンは10,000kip/ℓ
夜はLAK35で別のゲストハウスに泊まる。庭には周辺から集められたタマリンドの山。農家の人が袋詰めしてここへ持ってくる。オーナーは仲買いをしているようだ。
12月30日
朝から強風で涼しい。昨日外に干した洗濯物が飛んで行った。
今日は二人がタイに帰るのでフレンドシップブリッジⅢからナコンパノムへ出た。空港とバスターミナルに二人を送ってから南下し、今度はムクダハンからフレンドシップブリッジⅡを渡ってサワンナケートに入った。
車は出入国で相当お金がとられる。挙句の果てに、サワンナケートではいわれもない罪でポリスにつかまる。600THBをなんとか400THB(なぜかタイバーツ)にまけてもらったが、もちろん領収書などない。あの警官たちは今晩何をたべるのだろうか。ラオスでは罰金とパンクはあきらめないといけない。
中途半端な時間だったので、夕方街中のポットショップの調査に出かけた。閉店していたが、外から覗いていると店主家族が中に入れと門をあけてくれた。モーナムやハイ、クロックは見覚えのあるもの。モーナムは一昨年調査したブッドン村、ハイはノンボック村の産だ。
なぜこんなにたくさん土器を置いてあるの?
おばちゃん曰く、よく売れるからだよ!
水道や冷蔵庫、プラ容器の普及で水甕はもう売れない、だから土器作り村が廃れる・・・単純にそう思っていたのでちょっと???
特に今年はよく売れたよ!それはね・・・・・
タイのイサーンからラオスでは「クンバンマイ」という新築儀礼に土器が不可欠なのである。新居の部屋の中に土器を置いて、水と米を入れて祀るのである。その後、いろんな村で聞いたところ、少ないところで1個、多いところでは5個使う。結婚式の祝儀入れにも使うさ。わざわざ土器が写った写真を持ってきて見せてくれた。もちろん葬儀にも使う。
このように土器は実用的機能とは別に、宗教的意味が付与されて、人生の節目節目で使われ続けているのである。日本でも素焼きの「かわらけ」がいまでも結婚式や厄払いに使われるのと似ている。