今日はパクセーからスタートです。チャンパサック県の県都です。
町には植民地時代のコロニアル建築があちこちにあり、古きヨーロッパの雰囲気を漂わせています。
ニワトリの声で目が覚め、窓の外を見ると朝から青い空と暑い日差しが顔をのぞかせていました。7時半にロビーに集合し、朝食へ。
市街地にあるランカムホテル1階の食堂。食べたのは米粉の麺フォーとフランスパンのサンドイッチ。「カオ・チー・サイ・クワン」というラオス風バゲットサンドです。もっちり少し硬めのパンの間には、ツナやトマト、チキンなどがはさまれていて軽食にぴったりでした。
正直、注文時には「朝からラーメン?か……重いな……」と思っていたのですがそんなこともなく、あっさりとしたスープは焼肉屋で出るテールスープのような優しい味で、するすると胃に入っていくし、健康によさそうな感じでした。
同時にキャベツやインゲン、ハーブなどの野菜と、ジョッキに入った麦茶のような(?)お茶が出ました。生野菜は齧ったり麺にトッピングして食べるそうです。ますます身体によさそうですね。
このレストランで出てきたお茶ですが、不思議な甘さと香ばしさ、フレーバーなテイストは飲んだことのない味でした。アッタプーから戻ってきてから再び飲むことになるのですが、結局何のお茶か聞きそびれてしまったのを少し悔やんでいます(笑)。
ちなみにフランスの植民地だったラオスでは、日本でいうところのフランスパンが主流だそうで、町角の露店やマーケットでも頻繁に目にしました。
朝食を終えると、目的地のアッタプーまで3時間余り。車はボーラヴェン高原の道をひた走ります。沿道にはドリアンや巨大タケノコを売る露店。パクソーンでは地平線を見渡す限りのコーヒープランテーションやキャッサバ畑が広がり、ダオコーヒーの巨大工場もありました。
2時間ほど走ると道路横で陸稲を作っている畑があったため、車を下りて道端の家で話を聞きました。お聞きしたお宅では家族でとうもろこしの皮をむく作業の真っ最中。陸稲の土地の持ち主ではなく、実際に育てている方の話を聞くことはできませんでしたが、これまで走ってきた車道や大地の質感、雑木林の植生や畑の作物、雨季ならではの湿った空気、現地の人々のいきいきとした生活の一端を垣間見ることができました。日本ではなじみのない陸稲ですが、山を切り開いた赤土の土壌に、とうもろこしや芋(キャッサバ)と一緒に稲を植えていました。水と栄養が十分でない山の田んぼ(陸稲)に適した品種の稲を植えているそうです。
そうしてまた車に乗り込んで走っていくと、今度は路肩で籠いっぱいのトウモロコシを売っている女性の集団に出会いました。話を聞くと、この辺の村に住んでいるわけではなく、10㎞ほど歩いてきたT族という少数民族の人たちでした。彼女らがトウモロコシを入れていたカゴを気に入ったK先生、なんとカゴごとトウモロコシを大人買いしてしまいます。値段は200,000kip(日本円で約2,400円)。トウモロコシは午後からお邪魔するC村へのお土産となりました。
そして「本当に山を越える」ような道を進み、ようやく12:00にアッタプーの街へとたどり着きます。昼食は昨夜に引き続き(?)水上レストランです。川岸に下りていくのは、梯子のような歩きにくい階段でした。お店は増水すると流れていくのではと心配になるような作りでした。ここで国の情報文化観光省の出先である県の役人の方々に挨拶をし、一緒に食事をしました。
カオチャオ(うるち米)とラオス料理のラープ、レモングラス・ジンジャーの効いたスープ、手羽先揚げ、パン粉のフライドチキンのようなもの、生野菜と今回も目にしたことのない料理を楽しみました。
食事を終えるとホテルに荷物を預け、そのまま今回の旅の目的地、C村へご挨拶に向かうことに。車内で簡単な村の地図などを受け取ります。
ホテルを出るとほどなくベトナム戦争時代にできたという18号線(ホーチミンルート)に出るのですが、本当に経験したことのない穴ぼこだらけのオフロードでした。がたがたと揺れる衝撃で、座っているのに体が弾みます。突然飛び上がるので、ちょっとしたアトラクション気分です。私は最後列に乗っていたのですが揺れが激しく、行きと帰り、特に帰りは疲れがあったのか、妙な笑いが止まりませんでした。
横を悠々と追い抜いていくバイクの人々の不審げな顔が忘れられません。バイク社会になった理由の一端を見た気がしました(笑)。
さて、村に到着したのは3時前後だったでしょうか。いつの間にか細い道に入っており、すぐさま村長のお宅へお邪魔しました。アッタプーへ用事があって不在とのことで、談笑しながら待機。昨年も恒介先輩がお世話になったSさんに挨拶し、近づいてくる水牛たちのカウベルの音を聞きながら、にこにこ笑う子どもたちと我が物顔で庭を歩き回るニワトリたちを眺めていました。
Sさんいわく、4月の嵐でおうちや高床倉庫の屋根が吹っ飛び、昨年収穫した飯米がすべてダメになってしまったのだと。おとなりのSkさん家(壷酒調査)も屋根が飛んで修理されていました。家が開放的な作りのせいでしょう。その割にはみなさんあっけらかんとしています。自然のきまぐれともほどよく付き合っていくというスタンスに見えました。
帰宅した村長さんに訪問の趣旨を話し、体験やお聞きしたい内容を伝えると、各家に手配してくださることになりました。そして、道中ゲットしたとうもろこしやお土産をお渡ししました。
挨拶は終わりましたが、日暮れにはまだまだ時間があります。ということで、村を歩いてみることに。
村長の家があるbannok地区は2000年ごろから分村が始まった新しい集落。jedsan地区は2010年の大洪水で家を流失した人々に対して、政府援助で家が建てられた集落。そして一番奥にあるのが最も古いbankao地区。もともと山に住んでいたC村の人たちが政府から山を下りるよう指示されて最初に住んだ場所です。1978年のことです。
Bankaoへは道がぬかるんで車が通れないため、下りて歩くことに。ぬかるみはわずか20メートル。滑ったり足が埋もれたり両脇の有刺鉄線に服を引っ掛けたり、涼しい顔で歩く案内のSさんの逞しさを思い知らされます。
前方にはカランカラン、とカウベルを鳴らす水牛の群れ、道の端を歩いていくアヒルとひよひよ鳴くその雛たち、軒先で寝転がる放し飼いの犬、ニワトリに豚。たくさんの動物たちが繋がれず、入り乱れている様は本当に不思議な光景でした。どこの家の所有であるかもわからないのではないか、それでいいのか、といろいろ考えてしまいましたが、あの空間では些末な疑問だったように思います。
そしてあるお宅にお邪魔し、溜まり水で足を洗わせていただいていると、突然の土砂降りに見舞われました。雨季と聞いていた為、日本の梅雨を連想していたのですがそんなことはなく、ここでやっとの雨です。米を蒸している様子を拝見しているうちにやんでしまいました。
そして次に、水田に仕掛けられている漁具を見にいくことに。水田は集落の奥から山麓にかけて広がっています。途中までは水牛が田に入らないように竹柵がありましたが、それがなくなるとあぜ道は細くなり、所々水没していたり、ぬかるんでいたりとデンジャラスです。Sさんの背を追って、真似して道を飛び越えたり、諦めて泥の中を歩いたりします。おそらく着いていくのに必死だったのだと思います。道を見ていなかった私はぬかるみに足をとられて滑り、よく分からない声を上げてゆっくり尻餅をつき、転んでしまいました。この時のことは本当によく覚えています……。カメラやスマホ、電子機器がすべて無事だったのが救いですが、それはもう大笑いされてしまいました。
漁具は水田の段差を利用して畦越しの水が流れる場所に仕掛けるもので、竹で編まれています。カゴ状になっていて、一度入ると魚が出られないようになっています。日本では筌(うけ)や胴(どう)と呼ばれているものです。明日男子が一から作り方を習う予定です。
魚は住民の重要なタンパク源となっており、至る所に仕掛けられているのを目にしました。ほかにも畔に数10本刺す1mぐらいの釣竿があります。もちろんルンパ(養魚池)もあります。
隣のI村の水田では中央に2本竹の棒を立て、その先に棘のあるドゥーイ(ゴザを編む材料)というアロエのような草を付けていました。精霊を祀るのか、魔除けなのか、独特の儀礼です。C村でもドゥーイを使いますが、竹竿は立てません。隣り合う村でも儀礼のやり方がすこし違うというのは面白いと思いました。
今日は村の全体像を把握したので挨拶をして、再びガタガタ道を通って町に帰りました。夕食は日本でいうところの焼肉のような料理で、「スィンダール」=肉焼・肉グリルという意味だそうです。ジンギスカン鍋のように盛り上がった部分に肉や魚貝を乗せ、それを取りかこむようにできた円状のくぼみにスープ、野菜、春雨を流し込みます。〆にはママーというラーメンを投入して食べました。
お店には犬が4匹ほどいました。別に飼い犬ではなさそうです。客がテーブルの下に落とした食べこぼし(意図的に餌として食べ残しをあげる)をきれいにしてくれるスウィーパー・ドッグ(お掃除犬)です。ここでも動物と人間が共存共栄している姿を垣間見たような気がしました。でも、アッタプーには犬食のお店がありました。日本も含め、韓国、中国、アジアには犬食の伝統があるんですね。
そして食事中に突然の雷雨。雷が苦手な私はホテルに戻るまで真っ青でした。
この夜はよく分からないトカゲ(「トッケイ」と大声でなく)の鳴き声を聞きながら眠りにつきました。トガケ好きのBとSは大喜び。キキヤムという小さなヤモリを捕まえてかわいい、かわいいいと。謎です・・・・・・・・
この旅の本番、C村での本格的な調査は翌日からとなります。次回もよろしく。
(NATSUMI)
8月20日夜 いざ、出発・・・・
22:00 各自がそれぞれの場所から羽田空港国際線ターミナルに集合。
みなさん、旅慣れたリラックスしたスタイル。チェックイン後、24:20発のタイ航空便でバンコクに向かいました。
現地時刻の5:50(2時間の時差)、まだ暗いうちにバンコク・スワンナプーム国際空港に到着。
バンコクに到着したと安心したのも束の間、7:25発の国内線に乗り換えて、8:30にはもうタイ東北部の街、ウボンラチャタニーに着いていました。
ウボンへと向かう飛行機から眺めるタイ東北部(イサーン)の農村風景は区画整理がされていない、様々な形をした田んぼと、その中に点在する木々がまるでひしめき合う細胞のようで、興味深い景色でした。
今日の朝食は国際線の機内食と、国内線の軽食。
ウボンに到着すると、タイ人ドライバーのオーさん、アシスタントのミムさんと合流。ミムさんはチェンマイからバスで17時間かけてやって来たそうです。
市内のスーパーで飲料水などの生活用品と村へのお土産を調達し、いよいよここから車でラオスを目指します…
「去年連れてきたS君は初日にパラーの入ったソムタムを食べてお腹を壊した(雑菌だらけのパラーをそのまま口にすると多くの日本人は胃腸がひどいめにあうそうです(^^;))」という北野先生の思い出話を聞きながら僕と友人のT君は料理を完食。その日の夜にお腹を壊したりしないだろうかとちょっぴり不安になったのも、今ではいい思い出です。
昼食後、再び車でラオスを目指します、ラオスへは徒歩で国境を越えました。陸路で国境を超えるという初めての体験に緊張しながらも、みんな無事に国境を通過しました。とてもゆる~い雰囲気のラオス側イミグレーション。国境付近では様々な露店が立ち並び、野菜だけでなくタマムシやカエル、日本のものとは比べ物にならないほど大きなコオロギが売られていました。昆虫好きのSさんやBさんは巨大コオロギに大興奮…。
タマムシは食用だけでなく、仏教の放生(魚や鳥が一般的)の儀式にも使われ、逃がしてやることで徳が積まれるそうです。
国境を超えた後、車に揺られてしばらくすると「メコン川が見えてきたぞ」という北野先生の声ですっかり眠ってしまった我々も目を覚まし、目の前を流れるメコン川を眺めました。車窓から見えるメコン川の景色は実に雄大で、その緩やかな水の流れはまるでこの地に流れる悠久の時のように果てしなく続いていました。このパクセー橋は「ラオス―日本友好橋」といわれ、2000年に日本のODAによって作られたそうです。
メコン川を渡ると、本日の目的地であるラオス南部の街パクセーに到着しました。
ホテルでラオス政府の情報文化観光省・文化遺産局(日本の文化庁文化財部に相当)の職員と合流し、パクセーから1時間ほどのところにあるワット・プーを見学。ワット・プーはクメール王朝期に建立されたヒンドゥー寺院で、同じくクメール王朝が建立したアンコール・ワット同様、世界遺産に登録されています。急な階段をいくつも上ると本堂に到着、ヴィシュヌ神やデバターなど精緻な彫刻に感動し、当時の人々の高度な技術に感銘を受けました。ちなみに祠堂の裏山は石切り場になっており、日本と同じ矢穴による採石跡や加工途中の石材、彫刻をみることができました。
この日の動きを振り返ると、自分はなんて果てしない距離を1日の間に移動したのだろうかと思いました。今晩はここパクセーで一泊。夕食はメコン川の船上レストラン。ライトに照らされた釣舟をながめながらおいしいラオス料理、タイ料理をいただきました。
明日はいよいよC村のあるアッタプー県を目指します。今回の旅は、初めて見る景色や初めて聞く言葉、初めて口にする味など初めてづくしの旅でした。我々の旅はまだ始まったばかり、次回の投稿も楽しみにしていただければ幸いです。
(SOCHAN)
8月20日~28日に、ラオス・タイで実施した歴史遺産学科の国外研修(8泊9日)の様子を紹介します。
ラオスは東南アジアの大陸部、インドシナ半島の内陸部に存在する農業国です。国土の面積は日本の2/3ほど。70%が高原や山地です。国民の6割が篤く仏教を信仰するラオ族で、平地部で暮らし政治的、経済的優位にあります。一方、高原・丘陵地等に散在し、先住民ともいわれる多様な少数民族も暮らしています。自然信仰、アニミズムの伝統が顕著です。
このスタディ・ツアーは、精霊信仰が息づく少数民族の村を訪ね、自然と共生する持続的資源利用の暮らし、その知恵や技を学ぶことを目的に企画されました。住民の日常の手仕事を体験しながら、観察、実測、ヒアリングをして民族誌調査の手法も学びます。
この企画は歴史遺産学科がラオス政府(情報文化観光省・文化遺産局)に申請し、その許可を得て実施されました。参加者は学生5名、教員2名、副手1名、タイ人のアシスタント(通訳)2名、ラオス情報文化観光省の職員1名、の総勢11名。
今回訪ねたのはベトナム・カンボジア国境に近いラオス南部、アッタプー県にあるO族が暮らすC村です。O族は県南部の山麓に16の村に分かれて暮らしています。言語は巻き舌を多用するO語。近年は学校教育により若者はラオ語を話します。外国人旅行者の立ち入りが制限されているため、同省職員随行のもとでの調査が許可されました。関係者に深く感謝します。
C村はベトナム戦争時に作られたホーチミンルート(北ベトナム政権が南ベトナム民族解放戦線を支援するためにラオス国内に設けた補給路、現18号線)沿いにあります。県庁所在地であるアッタプー市街から毎日1時間余り、雨季の雨でぬかるんだ凸凹道を通いました。
村には約120世帯、500人が暮らしています。遠い先祖は山地を移動しながら暮らしていたとの伝承があり、インドシナ戦争時までは戦乱を避ける意味もあり、ボーラヴェン高原の急斜面に住んでいました。革命後の1978年ごろ、政府の少数民族政策により山から下ろされ、山麓に住み始めました。その後、2,000年代に人口が拡大し、18号線よりに分村するなど、現在では3地区に集落が分かれます。
主たる生業は水田稲作(雨季のみの単作)です。ラオスやタイ東北部(イサーン)は灌漑水路をもたない「天水田」が一般的ですが、ここでは村の背後にそびえるボーラヴェン高原の崖に幾筋もの滝が見えるように、雨季は山から豊富な雨水が流下し、畦越しの自然灌漑が可能となります。前者では天水田に適したもち米が主体ですが、O族はうるち米を作り、伝統品種を20近く持っています。肉、豆類をほとんど食べないため、タンパク質は魚類から摂ります。そのため水田漁業が盛んです。田んぼ一枚一枚に大きな養魚池ルンパ(下の航空写真)があり、雨季中に入り込んだ魚を養育し、水が枯れる乾季まで食べ続けます。
ラオ族の天水田では「産米林」と呼ばれるたくさんの樹木が林立するのに対し、ここで樹木はが少ないのは、水田漁業との関係が強いと思われます。水田というと広大な稲田が広がるイメージが強い日本人にとっては、むしろ前者の方が奇異に映ります。ボーラヴェン高原では陸稲の米作りも見ました。トウモロコシと混植する「山の田んぼ」はもっと不思議だったかもしれません。自然環境に応じたそれぞれの稲作の風景をみることができたのではないでしょうか。
ところで、18号線沿いには仏教を信仰し、もち米を食べるラオ族のP村があります。C村とは集落が接するばかりでなく、その境に両村の統合小学校ができ、現在では両民族の子供たちが仲良く学んでいます。習俗、習慣、文化伝統の異なる集団同士ですが、経済的交流も盛んです。
今は雨季。通っている間も毎日夕方から夜は雨でした。水田は7月に田植え(・直播き)が終わり、直播田の草取りやプランテーションへの出稼ぎも終わって骨休めの時期でした。とはいえ、村の中では屋敷や田んぼの竹塀(水牛除け)の修繕、魚とり籠などの竹細工、思い思いの仕事がなされていました。わずか4日足らずの滞在でしたが、学生たちは壷酒造り、敷物編み、筌づくり、米の麺づくり、昆虫の調理、薬草採集などを体験し、調査しました。英語の通訳を介し、ラオ語と発音できないO語に混乱しながらも必死に記録をとりました。住民たちとの数々の触れ合いは貴重な異文化体験になったのではないでしょうか。
村長さんはじめ、ずっと同行してくれたSさん、体験、観察に協力してくれたそれぞれの世帯の方々、村民のみなさま、ありがとうございました。
村上春樹は言います。ラオスの「風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている」。
いまでも、村の子供たちの笑顔とにぎやかな歓声、一緒に水遊びをした滝の音が耳に響きます。
ボーラヴェン高原の崖には幾筋もの滝が流れ落ちる。田の畔道を歩き、滝を目指す 。
タンパク質を魚に依存するO族独特のルンパ(養魚池) 一枚一枚の水田にみえる黒い丸がルンパ
村はずれの川はどこも子供の遊び場だ。笑顔がはじける
学生たちがうるち米を搗いて麺(フォー、ここではカプーンという)を作る
世界遺産ワットプー(チャンパサック県にあるアンコール王朝の寺院遺跡) ちょっと気取ってみました・・・
今日は、近年植物考古学の研究で目覚ましい成果をあげている佐々木由香先生を講師にお迎えし、圧痕レプリカ法の授業を行いました。
レクチャー、採取・観察法の実習、現生標本との対比を行った後で、山形市内出土の弥生時代中期の土器から実際にたくさんのレプリカを採取しました。
きれいな稲籾、織物、指紋、施文具等さまざまな圧痕からレプリカを採りました。
普段の授業では見せない学生の嬉々とした表情に戸惑う一方で、長く土器を見続けてきた自負が脆くも崩れる一日でもありました。「観察は見たいものしか見ない」「経験したものしか見えない」
私たちは、滋賀県の子供たち(石田三成CM)が言うように自分の中にある「東軍メガネ」を疑うことと、新しい世界をみるもう一つのメガネを獲得していかないといけません。それもやがては東軍メガネになるからです。
今日はそんなことも教えていただきました。頭をガ-ンと叩かれる、目から鱗が落ちる、どれもしっくりとは来ませんが、こんな日はドキドキしてうれしくなります。
「圧痕めがね」をかけてくれる学生が一人でも増えることを願っています。
歴史遺産学科2年の守屋です。
5月22日(日)、南陽市社会教育課、角田朋行さんのご案内のもと、今現在緊急発掘調査中の岩屋堂遺跡(川樋地区にあります)の発掘現場を見学させていただきました。最初に現場の状況をご説明くださり、その後出土した遺物を見せていただきました。縄文時代晩期の土器がたくさん出土しており、感動しました。
発掘の際に出た残土から遺物を探す
午後からは、白竜湖の東側に位置する金沢山ノ神遺跡を訪れ、地表に転がっている遺物の採集をしました。携帯用の簡易GPSを使った、簡単な実習も行いました。
GPSを正確に読み取り、記録することは大変でしたが、やり遂げた際は他では味わうことのできない達成感がありました。
金沢山ノ神遺跡でGPSを使って遺物を採集
暑い日の中での作業となりましたが、発掘現場の見学や表採など貴重な体験をさせていただきました。
お忙しい中私たち説明してくださった角田さん、懇切丁寧にご指導くださった長井先生、本当にありがとございました。
歴史遺産学科3年の菊池です。
高畠町のうきたむ風土記の丘考古資料館で2月7日に行われた、2015年度山形の考古資料検討会に参加してきました。
今年県内で発掘調査が行われ、その中でも特に重要な発見が報告され、米沢市の舘山城跡や高畠町の押出遺跡などの発掘調査の報告が行われました。また歴史遺産学科を卒業した海藤さんによる、長井市の酒町遺跡の報告や、今年共に南陽市の岩部山を発掘した南陽市の角田さんによる清水上遺跡の報告も行われました。
卒業生の海藤さんの報告
南陽市の角田さんの報告
報告会の最後には長井先生を団長とする芸工大日向洞窟遺跡発掘調査団の発掘調査報告も行われ、とても充実した報告会となりました。
長井先生による日向洞窟遺跡発掘調査の報告
今回は芸工大の学生も参加し、日向洞窟遺跡の発掘調査で出土した脆弱な土器の保存修復についての報告も行いました。2014年度の発掘調査で出土した脆弱土器を、保存修復した美術史文化財保存修復学科4年の小田桐さんその経緯について報告しました。エタノールやバインダーを使った保存修復方法で、参加者の注目を引く素晴らしい報告となりました。
小田桐さん(4年)による報告の様子
脆弱土器の紹介スライド
検討会の中では地元の人の遺跡の保護に対する、強い意見も飛び交い地元の人が持つ土地や歴史に対する熱い思いに触れる事が出来ました。その思いに答えるためにも来年度からの日向洞窟遺跡発掘調査を、より良いものにしていくため日々つい尽力していかなければと思いました。また社会に出てもその土地が持つ歴史を守っていかなければと強く思いました。
北野ゼミ九州旅行6日目です。
この日はまず、肥前名護屋城に行ってきました。
朝鮮出兵の際に豊臣秀吉の命令で築城されたお城です。実際に行ってみると自分の知っている武将が陣を敷いていた場所など見えて勉強になります。専門家の案内で本城の石垣を一周見て回りました。と
その後は唐津に戻り、虹ノ松原を抜けたところにある石切り丁場跡を踏査。山の中に江戸期大坂城の築城にかかる献上石とみられる巨石が残されています。
写真では分かりづらいですが、実際の大きさは大の大人一人分より少し大きいくらいです。
そして、唐津市に来たということで唐津バーガーを食べました。
意外とボリュームがあってお腹いっぱいに。
この日も色々な場所をまわり、博多で格安のシェアホテルに泊まりました。
夜は天神に繰り出しもつ鍋。
次回九州旅行最終日、こう御期待ください。
9月21日に僕たち北野ゼミは、九州へのゼミ旅行に行ってきました。
朝8時半に集合し一同仙台空港に行き、福岡空港へのフライト。 5歳以来の飛行機でしたので手汗がありましたが乗ってみれば面白かったです。
空港についてレンタカーに乗り込み腹ごしらえに福岡にて、とんこつラーメンを食べ熊本城を目指しました。
今回は初めの3日間で熊本城の石垣の勾配を計測していくフィールドワークも兼ねていました。
熊本城の総合事務所で市役所の担当の方にご挨拶をし、明日からの本格的な調査に向けて城内を回りながら調査法を学びました。
その夜に熊本のアーケード街にて夜のご飯屋を探していると、、、びっくり熊本にてテレビ出演してきました。くまもと県民テレビ「テレビタミン」のラスト5秒のみの出演でしたが、すごい思い出になりました。
1日目はこれにて終了です。
これから続きます。