こんにちは。歴産4年のさちこです。
オープンキャンパスの前日、26日(土)に高畠町の屋代村塾にて、「うきたむ農楽校」が開かれました。これは、農業体験を通して若い人たちに食や農業に関心を持ってもらおう。さらには、地元の人たちとの交流を通して地域の在り方を一緒に考えていこう。というものです。
第一回目である今回は、代表者である富樫先生、地元の青年たち、学生など10人近くが集まりました。スケジュールは、開校式・田植え体験・湯沼温泉で入浴・交流会(食事会)。
メインは田植え体験。左の写真のように、参加者たちが一列に並んで、手作業で苗を植えていきます。慣れない作業に手間取りながらも、終始和気藹々とした雰囲気の中行われました。そして、この日は天気が良く、適度に風もあり、絶好の田植え日和でした。作業にも自然と力が入ります。しかし、若いからといって調子に乗ってはいけませんでした。翌日、足が筋肉痛に…。
昔は“1人で1日に1反(約300坪)田植えができれば一人前”といわれたそうです。今回の仕事量を見ると、1人あたり3分の1人前になれたかどうか…。田植え機械がない時代すべてが手作業だった、と頭では分かっていても実際に体験してみると昔の人のがいかに体を使って生活をしていたのか考えさせられます。
田植えの後は近くにある湯沼温泉へ行き、仕事の疲れをいやしました。そして、夜は交流会。赤米入りのおにぎりや、近所の方が持ち寄って下さった山菜料理などが振る舞われました。地元のお父さんやお母さんも加わり、今回の感想や今後の予定などを語らいました。
次回は6月23日(土)13:00から、サクランボ狩り体験をする予定です。随時受け入れを行っているそうなので、興味のある方は北野先生まで!
学生たちが手作りで一生懸命頑張ったオープンキャンパスだった。http://blog.tuad.ac.jp/oc/?cat=10
考古ゼミは少ない人数ながら3年生が奮闘。土器の接合や拓本体験(ラミネートしてお持ち帰り)をしました。土鍋調理はチュートリの先輩・後輩たちが応援。
夏は各方面がさらにバージョンアップしそうな予感・・・・期待しましょう。
青森県八戸市に行ってきた。
是川縄文館のボランティアグループの人たちと土器の野焼きワークショップを行うためである。昨年7月に開館した八戸埋蔵文化財センター是川縄文館は国史跡:是川中居遺跡を中心とした縄文遺跡群の中にある。遺跡は日本の世界遺産暫定リスト「北海道・北東北を中心とする縄文遺跡群」の構成資産でもある。
以前の縄文学習館時代も含め、何度も学生たちと訪ねた懐かしい場所でもある。ここは長い経験の中で、土器作り体験学習のノウハウがあり、運営や研修もしっかりしていると聞いていた。かねがね話しをうかがってみたいと思っていた矢先だった。活動に実験的要素を取り入れるということで、今回の野焼き実験となった。諸条件を変えた2か所の野焼きがセットされていた。
この日、降水確率30%。やや不安な天候ではあったが、着いたときにすでに記録の準備は整っていた。
さあ、点火!というころ、にわかに空からぽつぽつ。点火して火を大きくするやいなや、雨脚が強まり、ついには雷雨となった。長い間、野焼きをしているなかで「雨男」の異名をもらってはきたが、このタイミングでの雨は経験ない。みなさん、ずぶぬれになりながらも必死の作業でなんとか土器や土偶を救出した。
後片付けがすんだあと、縄文館に戻り、この日は野焼き実験の講義となった。
翌日はすっきり晴れ上がり、午後から縄文時代の土鍋調理の話をさせてもらった。熱心な方々が大勢いて楽しい時間を過ごすことができた。
今回、卒論を抱える4年生2名が同行した。一人は縄文館で是川の注口土器の観察、もう1人は博物館で玉の観察をした。それぞれが2日間黙々と資料と向き合い、記録をとった。おかげで土器や玉と会話するための言語を少し獲得したようだった。担当学芸員の方々が夜遅くまで付き合ってくれたそうな。ありがたいことである。
朝からぬけるような青空、お昼ごろにはぐんぐん気温が上がった。なぜかしら、まちあるきの日は暑い。
今年度の高畠町歩きプロジェクトがはじまった。通算で第8回目を数える。今日は17軒のお宅をたずねた。
本日のトピックは念願の石風呂に出会ったこと。街道筋の新築のお宅だったので調査はあっさり終わるかと思いきや、裏庭は高畠石の宝庫だった。なかでも石風呂とその受け皿、洗い場の3点セットが完存していた。品質の良い製品で、保存状態も完璧。39年前まで使われていた。家人も思い入れがあって大切に保管していた。
じいさんいわく。狭い風呂に子供と一緒に入った。背中を石にこすり付けられてなかなかいいもんだったよ・・・と。ばあさんいわく。薪は焚きにくいし、なかなかお湯は沸かないし、すぐ冷める。いいもんじゃなかったね。おやじ(49歳)いわく。10歳までは入ったよ。カマドのところ(銅板)に触れると熱くていい思い出ないね・・・と。三者三様の想いを語ってくれた。じいさんは、むかしの女は飯炊きに風呂焚きにたいへんだったんだなぁ、とばあさんをいたわる言葉も。ススで家のなかが真っ黒になったとも。
風呂の水が焚き口に漏れしないように銅板の目地を石綿で埋めていたが、それ以前は蚕のくず糸を使ったとのこと。養蚕が盛んだったころをしのばせる話しだった。
祖父さんはむかし石工だった。農閑期を中心に沢福等山や瓜割山で働いた。いまでも石工道具を大切に保管している。石風呂は先々代が沢福等山の石で作ったものだという。自分は角石(1間×1尺2寸×8寸、300kg)を一日1本を切った。当時は1本500円だったよ。自分は数えたことないけど1本切るのに1,500回ツルを振るんだぜ。言葉の端々に石工としての誇りが感じられた。
お隣の家も、元石工のお宅だった。印象的だったのは学生アパートのユニットバスよりも小さな石風呂に対して、ここでみたのは巨大な「ナツカワ」だ。これは庭におく手水鉢みないなもの。大人二人が横になれるぐらいの大きな(長270?)バスタブだった。石工の意気込みが感じられる製品である。
このお宅の畑には、道路に面して角石を積上げた石塀がある。見事な「一二八(1間×1尺2寸×8寸)」の空積み石塀である。断面は微妙に湾曲して安定感と美しさがある。
4月の高畠石シンポジウムで遠藤さんが、角石をみるとお金に見えると言っていた。私も最近そんな気がしてくる。学生が即座に数えた。35万円が道端に・・・・。
裏の小屋の脇には大きな蕗(ふき)が群生していた。北海道でよくみる巨大な「かさ」を持つ蕗だ。その向こうには「くきたち」の黄色い花畑が広がり、借景には新緑の山々と青空。絵になる風景だ。ちなみに、くきたちは干して保存食にもするし、種を収穫したあとで、土に鋤き込むと肥やしにもなるそうだ。自然にやさしい菜っぱである。
高畠町はそんな風景や思想がいまに息づいている。高畠石を資源として持続的に利用することは、別になんでもないことだったのだろう。
夕方、集合場所に戻ると、日焼けで火照った体と乾いた喉を潤す、冷水とアイスクリームが用意されていた。事務局長の奥さん、ほんとうにいつもありがとうございます。
一息入れたあと、全員で本日の成果報告と総括を行った。
今日は昨年まで学生リーダーだった伊藤さんが参加してくれた。仕事の休日を利用しての参加で、後輩の指導に当たってくれた。ありがとう。さらに同期の森谷君も自転車で駆けつけてくれた・・・・。しかし、夕方戻ってきたときにはなぜか悲惨な姿に・・・・・。一寸先は闇!
心地よい疲れをのせてボクシーは大学を目指した。西の空には真赤な夕日が浮かんでいた。明日はいよいよ日食だ。
年度が改まってフレッシュなメンバーがそろいました。
新しい参加者を募っています。
興味のある方は文化財保存修復研究センター北野・長田まで。
次回は6月17日(日曜日)です。
いい結婚式だった。
5日、仙台で卒業したゼミ生の結婚式があり、往年の仲間たちが全国から集まった。だんなが文化財サッカー部ということもあり、なんでお前がそっちに座ってんの…って感じで、卒業生が新郎・新婦側、両者入り乱れる披露宴だった。2期生あたりから10期生あたりまで、たくさんの卒業生がいて、なつかしい先生方にも会えた。あたたかいもてなしの心がいっぱいの披露宴。
印象に残る学生だった。
バイト掛け持ちで頑張ってた。苦しかったろうに、お金ないとは言わなかった。海外研修には韓国、中国、カンボジアと皆出席だった。卒論、修論では軽自動車をかっ飛ばして全国の須恵器を調査しまくった。10時間走りっぱなしで実家と大学を往復する学生だった。どこからそんなエネルギーがでてくるのかと思う。大学院時代、学部生のために汚れ役を演じてくれた。誰もがおそれる女王様だった。殺し文句は「ぐーで殴るよ。」ほんとうに殴られたのは先輩のK君一人しかいなかったらしいけど…。彼女を中心に研究室の黄金時代が作られたといっても過言ではない。研究室をまとめてくれた気配りの子だった。
大学時代にしか経験できないことをやり遂げて出て行った忘れ得ぬ学生の一人。言い訳をして踏みとどまっている学生をみるとつい彼女のことを思い出す。
いい人と巡りあえてほんとうによかった。二人でいい家庭を築いていってください。
また、学生たちを連れて遊びに行きます。
ありがとう。うるうるの結婚式でした・・・・・
春休みに、以前から行きたかった安東河回マウルに行って来た。
2010年、慶州の良洞マウルとともに、世界遺産に登録された民俗村である。良洞マウルは2004年3月に民俗のK先生と一緒に行った。チャンドクテー(庭先の味噌甕置き場、10〜20の大小の甕が置かれている)にある古いタンジがほしくて、おばちゃんに懇願したら、中のテンジャンを別の容器に移し替えて譲ってくれた。しばらくテンジャンの匂いが残っていたが、今も我が家の床の間に鎮座している。
ともに朝鮮時代の氏族村で当時の農村風景や習俗をよく残している。ここはあの韓流スター柳時元(リュウ・シウォン)の出身地としても知られ、観光客に分かるように真新しい表札がかかっていた。
村は大きく蛇行するナクトンガン(洛東江)に囲まれるようにあり、両班(貴族層)から庶民までが氏族村を形成する。韓国らしく教会もある。路地を歩くと朝鮮時代を思い起こさせる風情はあるが、修理した真新しい塀はなじむのにもうちょっと時間がかかりそうだ。そんな路地に立つ欧米風の街灯はちょっと興ざめする。なぜ?
世界遺産効果で世界各地から観光客が押し寄せている。
伝統的な生活をしている村がそのまま世界遺産になったという点では日本の五箇山・白川郷とよく似ている。一度その現状を見ておきたかった。
村に入る前にガイダンスもかねた仮面劇の劇場がある。満員立ち見の盛況だった。
見終わると村の中をぶらぶら歩き、1軒の旧家に飛び込んだ。縁側に腰をおろしハラボジから話を聞いた。
自分は村の小学校、安東の中学、高校を出て、テグの大学を出た。それからソウル支庁で公務員の仕事を務め、定年してから村に戻ってきたという。村は昔は300軒あったがいまは110軒に減った。空き家もずいぶん多い。この家は築250年。さほど古いほうではない。村の伝統的な秋祭りは保存会をつくってなんとかやっているが、昔と違って見せる内容に変わってきたという。
世界遺産になっていいことあった?と聞くと「なんもないさ」という。よくよく聞くと、年1回の藁屋根の葺き替えや建物の修理は全部国がやってくれるのが助かるわ。
一番困ったことは?
観光客が中に勝手に入ってきて、敷地にある農具やチャンドクテーの甕の蓋をあけることだという。中にはテンジャンやカンジャンの味見していく輩がいるそうな。このお宅の門をくぐって最初に気付いたのはチャンドクテーが無いことだった。そういうわけでお母さんの家に全部もっていったそうだ。
ドキッとした。そんなことをする奴はけしからん…と思いつつ、身に覚えがないわけではなかったから。でも私は主に声をかけて許可を得てからやっているから・・・・
同様の苦情は観光公害として五箇山などでもよく聞く話だ。気をつけよう。
村では多くの家が民泊(民宿)できる。大きな部屋で100,000ウォン(8,000円ほど)何人で泊まってもいい。安上がりだ。小さな部屋だと4,000円ほど。日本の大学生も時々泊まりにくるそうだ。若者と語らうのが楽しいのだともいってくれた。
西日が差し込む縁側で、もちこんだマクワウリをかじりながらハラボジと長々と話しこんでしまった。夜通し語りたくなるくらい心地よい時間だった。
村を出る最終のバスに乗り遅れると駐車場まで相当歩いていかないといけない。あわててバス停に向かった。
お正月、3月にまた来るよ!っていって別れたSさん、Uさんを訪ねてD村に行って来た。
ポター達は異口同音に今年はめちゃくちゃ忙しいという。ポターが減ってきたのに反比例して土器需要が増えたのだ。ここ2〜3年で40名から20名ほどに減った。
新たな土器需要の原因は、現金収入の手段として始める人が多いヤンパラ(パラゴムの木の栽培)だ。苗木を買って、水遣りをして5〜6年たつとゴムが採取できる。苗木の水やりに使われるのが村で作っているモーケンという小型なべ。周辺村落からも注文があるという。
D村のJさんは昨年9ライ(1ライは1,600?)に800本あまりを植えた。1本は65バーツだ。水遣り用のモーケンを300個買ったそうだ。
土器は器壁から水が徐々に染み出すので水遣りには最適なのである。
割のいい収入を得るために土器作りをやめて行うゴム栽培に、土器が多数必要になるというパラドックス・・・・
ウボン空港からバンコクスワンナプーム空港へ。そして深夜便で成田に帰ってきた。
乗り継ぎ時間が短かったのと、空港が込んでいたので「プレミアムレーン」と書かれたカードをもらって、近道させてもらった。世界各国の航空会社のパイロットやスッチーがずらりと並んでいた。こんな短時間に短距離で出国できるのなら、これからはギリギリにしよう・・・・と考えたが、これがいつものトラブルのパターンだと、思い直した。
東京からの帰路、山形新幹線からみた置賜盆地は真っ白だった。
BAN・PAAOは鋳造の村だ。いまでも伝統的な方法で寺院の仏具やお土産物の鈴などをつくっている。
カヨームの木からとったキスーという樹脂を上手に使う。
昔は男だけの仕事だったが、今では家内工業的に女性や子供も手伝っている。
本体と紋様はすべてキスーでできている。内型・外型は粘土。大きいものだと籾殻をまぜる。型ごと焼いてキスーを蒸発させ、銅(真鍮)を流し込むと製品ができる。
帰りは陸路で国境をこえる。ラオス側ワンタオからタイのチョンメックへ。道路舗装がいきなり良くなり、右側通行から左に変わる。タイに入ると「帰ってきたな」としみじみ思う。一気に安心感が漂う。
ウボンラチャタニーで泊まる。やっぱり今年は蚊が多い。洪水のせいだろう。C先生家族と夕食をいただく。奥さんは大学の数学の先生、高校生の長男はX-JAPANのファンだという。妹は食事中携帯をいじっている。どこの国も一緒だ。
翌日、友人と郊外ワリンチャムラップのCM村を訪ねる。1月に予備調査した土器作り村である。かつて土器をつくっていたお婆さんが3人(新たに1人見つかった)かろうじて残っている。うれしいことがあった。洪水で道具が流されてしまったよといってたおばあちゃん(85歳)があれから土器を2個作ってくれていた。
この日村のお寺の仏日。村の入り口で酔っ払いの男と女にからまれる。顔に泥を塗り、音楽をかけてノリノリ。村の中を通る車や人をみな止めて、祝儀をいただく(奪う)。
新たに見つかった高齢のおばあちゃんに土器作りの話を聞いていたら、件の酔っ払いが娘だと判明した!彼女は土器作りの経験があり、今度作るのを見せてあげるよと。しらふでも本当に覚えてるんだろうか?
村を一回りする。かつて作られていたモーナム(蓋付の新型)と無高台のモーウナムがまだあちこちの庭先に残っていた。
タイでは叩きの際の内面当て具を「ディン(土)ドゥ」が呼ぶのが一般的である。この村では「ヒン・ドゥ」と呼ぶ。以前、ウボンから1時間30分あまりのアンプ―・ケマランのS村で「ヒン・ドゥ」と呼んでいたのを思い出してノートを見た。この村では10年前に最後のポターが90歳で亡くなり土器作りは途絶えてしまった。
息子さんの話だと母親はワリンチャムラップの土器作り村から来たという。その時に記録した土器とCM村のものを比べたら形はそっくりだった。合点がいった。