村人たちが集まり、お別れの会を開いてくれた。
村長が別れの呪文(祝詞?)を唱える。厳粛な感じ。
一通り終わると、健康と再会の願いを込めてみんながミサンガをまいてくれる。すさまじい勢いであっという間に手首が包帯のようになった。
それから壷酒を酌み(吸い)交わす。水が危ないなどとは言ってられない。アルコール消毒してるからいいんだと誰かが気休めを言う。どぶろくは薄めにのばしてくれていたので助かった。濃いところは自分たちで飲む作戦か・・・この時ばかりは男たちが顔を出す。
女たちも我々がおみやげに持ち込んだビアラオを一緒に飲んだ。村中の老若男女があつまる。今度会う日まで、お互い達者でいましょう。
村では20種類あまりのお米が栽培されている。うるちだけでもさまざまな形、硬さ、食味がある。遺伝子の多様性を保持したリスク分散の戦略を目の当たりにした。
日本でも前近代には地域で多様な品種を栽培していたことが知られる。「種子札」という種籾管理を示す木簡はそれが古代までさかのぼることを明らかにした。消えた品種はどれほどあったのか。生産性と食味を過剰に追求したしっぺ返しはこれからくるだろう。
昨夜も雨が降った。雨季でもないのに毎日スコールが。異常気象か。
今日はC村。朝9:30に着く。雨が降ったせいか湿気が多く土器を作る人少ない。
急にセミ取りが盛んになった。鍋でいためて食べるのだ。こどもたちに、道具の作り方と捕り方を教えてもらう。蝉の生態と木の枝ぶりにあった合理的な捕り方だ。鳥もちでセミをとる方法は日本でもかつてあったらしいが、私が子供のころは手づかみかタモ網だった。
イヌビワ?の実の薄皮をむいてネバネバを竹竿の先につける。これを蝉の下からすーっと伸ばし、風に揺れているようにしてくっ付ける。木の梢にとまっているのはさすがにとれないだろ、と思ってみていたらススっと木に登って、見事に捕った。木の上からこちらを見下ろして「あたりまえだろ」って顔をしている。おぬしなかなかやるなぁ・・・・
13:40 朝から田んぼに行っていた水牛が帰ってくる。最近、帰って来る度、寝場所を我々が占領しているので不満そうな顔をしている。ここでも水牛は自立している。自分たちで田に行って、腹いっぱい食べて自分たちで帰ってくる。
野焼きをみせてもらう。Mさんが仕切っていた。大きな穴の中に土器と木の皮を置き、稲わらかぶせる。呪文を唱えながら米等をばらまく。野焼きの儀礼だ。温度計をセットして温度変化を測らせてもらう。
突然日本人二人を乗せた車が村に来た。衛生調査だという。なんと一人はメンバーの知り合いだった。去年初めて訪れたとき、我々が村に来た2番目の外国人だといっていた。世界は狭い。この地域の住民には特有の肝臓の病気があるらしい。飲料水に問題がありそうだと。
15:40プーカオ山から雷鳴がとどろく。今日は夕立がきそうだ。帰路。暗闇の中を強烈な雷、稲光の連続。土砂降り雨。
7;20にホテルを出る。今日はC村と同じO族のS村。
8:00セーコン川の渡しに着いた。丸木船に乗って対岸に渡る。
ここもモン・クメール系族に広がる「Cタイプ」伸ばし技法の土器作り。C村と違うのは底部を押し出してから叩くことだ。粘土を積みたすことはない。
この村は事情があって今日のみ。なんとしても野焼きを見たいとのことでその開始を待った。風が吹いていてこのままじゃ焼けないという。
夕方5時、陽が山の端に沈もうとする時ふと周りの山をみるとあちこちの斜面に火が灯る。山焼きの季節らしい。日が沈むにつれてその明るさが増す。生命再生の火がここでは息づいている。森を焼くと大変と思うが、立木を残し、下草をうまく焼くのだ。
ぎりぎりまで待っていたら、夜6;00あたりが暗くなったころ、いまからやるという。延焼を防ぐため、周りの刈り残しの株をいっせいに引きぬく。まだ風があり一気に火が回った。
電気のない村は夜7:00、あたりは真っ暗だ。ここには道はない。田んぼの中や歩いた畔が道となる。とても我々では船着き場まで40分の道のりを帰れない。村人に先導されて真っ暗の田を歩き、山の中を歩いて船着き場を目指した。幻想的な空間と時間だった。
いまでも耳に残る。暗闇の中、1列にあるく我々の周りから聞こえてくるのは、コロン♪コロン♪と軽やかな音を立てるカウベルの音だけ。我々には見えないが、水牛たちが田のあちこちにいるのだ。
足もとの悪い森を抜けるとようやく船着き場に着いた。もちろん船はいない。夜の船は危険なので夕方6:00までと聞いていた。今日はここで夜を明かすのかと不安になる。しかし、スタッフがあらかじめ船頭さんの携帯電話の番号を聞いておいてくれたのだ。しばらくして懐中電灯を光らせた船がこちらにやってきた。ほっとした。が、真っ暗の船はやはりちょっとこわかった。
朝スコールが降った。
早起きして6時半に床屋に行った。若い女性がハサミとバリカンで手際よく髪を切ってくれた。10,000kip(約100円)さっぱりした。
土器作りはおばあちゃんのベテラン世代、現役のシニア世代、12〜13歳のジュニア世代、5〜6歳ノービス世代、4世代が集う。子供たちは遊びの中で土に親しんでいる。おばあちゃんは現役世代を指導し、ジュニア世代は親世代の手伝いをしたり見よう見まねで作っている。母親が子供に技術を伝習するといった閉鎖的な姿はみられない。
宿では毎晩キキアムというとかげが部屋の壁を走り回る。キィキィと鳥のように泣いてうるさい・・・
朝5時30分。ドアをノックする音で目が覚めた。目覚ましをかけたが、2時間の時差があるのを忘れていた。日本時間のままだった。服だけ着てすぐに出発。あたりは真っ暗。
アッタプーまでの4時間、信号は一つもない。朝6時ごろ、道路はパクソーンのコーヒープランテーションで働く人たちの行列、さらに7時ごろになると通学する子供たちの大行列。延々続く。村には一つずつ小学校があるので通学時間は短い。だが、山間部では学校が近くにないのか、何時間もかけて歩いているようだった。
アッタプーで先発隊と合流。今回はラオス・タイ人4名と日本人4名の混成部隊だ。例年20代の女性アシスタントが3〜4名いるのだが、今回はゼロ。逆に60歳以上が3名、50歳以上が3名と高齢者部隊となった。
11時、C村につく。O語を話す少数民族の村。1年ぶりの懐かしい顔がみえてほっとする。この村は3〜4月の1か月しか土器を作らない。今日がその初日なのだ。
大きなマンゴーの木の下で、女たちは土器作り用の粘土を搗いていた。はじめて目にする技法だった。カーリングのストーンみたいな粘土塊を原形とし、中から粘土を掘り取って、縁に積み上げいく。
やたらと成形段階が多い。不必要と思えるような動作を何度も繰り返す。最後は濡れ布でペチペチと土器を叩く・・・・まるでおまじないのようだ。
先発隊の調べによると、この村では40名ほどポターがいるらしいが、年間製作個数20個未満の人がほとんどだという。
水甕モーエンナム、種もみ貯蔵容器、ハイ(どぶろく)を作る壷、炊飯用土鍋(蓋付き、儀礼用)などをつくっている。
現在は自家消費のみで村外に販売はしていない。このような、なかば年中行事のお祭りのように行われている土器作り。このような環境でどんな技術的特徴をうかがうことができるのか。
3月の初め、みぞれ混じりの雨が降るなか、大きなスーツケースを抱えてバス停にたたずんでいた。待てど暮らせどバスが来ない。
もう20分も過ぎているのに・・・・・思い切って隣にいた女子高生に聞くと、とっくの昔に時刻は過ぎていた。そう私の時計が遅れていたのだ。止まっていればわかるのだが、私の時計は時々止まってはまた動く。たちが悪い。すぅーっと冷や汗が流れた・・・・。乗り損ねたのは空港へ向かう最終のバスだった。
今回はシンポジウムの発表があったので、その足で旅立つことにした。とある地方空港から羽田へ向かう最終の飛行機、これを逃すわけにはいけない。選択肢はなかった。タクシーを飛ばしてなんとか間に合わせたが、えらい出費だった。くやしい。
ここのところ旅ではトラブル続き。今回も幸先の良いスタートとなった。ともあれ、羽田発の深夜便はバンコクに向けて飛び立った。
スワンナプーム空港に降り立って、ムッとする暑さを感じるとスイッチが切り替わる。気温氷点下の世界からあっという間に30℃の世界に行けるのが不思議だ。深夜便は2列シートの通路側、右手の自由が利くB列席がいい。旅慣れた友人から教えてもらった。となりのA席に一人旅の若い女性が座った。横がおやじでごめんねと思いつつ、飛行機を降りてイミグレーションに並んでいたらたまたま隣に来たので、話しかけた。都内のS大学の2年生で社会学専攻だという。2回目の海外旅行で、初めての一人旅だそうだ。アユタヤとチェンマイを10日ほど旅すると。なんと大胆なと思って聞くと、高校時代にカナダに留学経験があり、その時に知り合ったタイ人の友達を訪ね歩くそうだ。英語には自信があるようだ。荷物を待つ間、たいしたアドバイスもできないが、少しタイの事情を話した。荷物をピックアップして、空港鉄道に歩いて行く後ろ姿がまぶしかった。Good Luck。
ここからラオス航空に乗り換え。待ち時間に一仕事できた。客が少ないと思ったら案の定、駐機場まではミニバンでいく。巨大なスワンナプーム国際空港の一番端まで連れて行かれた。サワンナケート経由、パクセー行き。トランジットのサワンナケートでは1時間ほど待たされた。めまいがするほど暑かった。もうすぐ1年で一番暑い時期を迎える。ここで客を乗せた飛行機は40分あまりでパクセーの空港に着陸した。
先発隊のいるアッタプーから4時間かけてOsanが迎えにきてくれた。西日が傾く市場の前のオープンテラスで夕食をとりながらくつろぐ。やっぱり飯がうまい!ビア・ラオ・ダーク!これが1本100円で飲める幸せ。しばし至福の時に酔っていると、背後の市場からもうもうとした黒煙が上がる。やがて消防車のサイレンが鳴り響く。そう火事だった。世の中いろんなことが起こる。
整備された遺跡を訪ねて、不満に思うのは当時の空気(匂い)が感じられないことだ。復元住居に入って、毎日火が入っていればまだしも、人気(ひとけ)が感じられない乾いた空気や湿気でカビ臭いのには白けてしまう。かといって遺跡公園ではごみ臭い、糞尿臭い空気を復元することは難しい。
下仁田町荒船風穴は、過去の「空気」を保存している珍しい遺跡だ。
群馬県には日本の世界遺産暫定リストに登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」がある。ここ国史跡「荒船風穴」はその構成資産の一つである。遺跡は群馬県藤岡・吉井から長野県佐久に抜ける国道254号線沿いの山間にある。
明治後期〜大正期、日本は生糸の輸出で世界市場を席巻し、近代化を成し遂げた。ここは、岩の隙間から吹き出す冷気を利用して蚕種(蚕の卵)を貯蔵し、孵化をコントロールする施設だった。冷蔵保存することで、当時年1回だった養蚕を夏と秋にも可能にし、生産量を飛躍的に増大させた。
風穴は3基あり、貯蔵能力は国内最大規模。全国2府31県から委託を受けて蚕種を保存していたという。
1号風穴は明治38年施工、2号は明治41年、3号は大正年間に作られた。
岩塊のすき間から自然の冷気が噴き出す場所に長方形に石積みし、これを地下室として上部に上屋が建てられていた。
一昨年、1号風穴の石積みが崩壊し、いま修復工事が行われている。
今日は春の陽気、外気温17度。石積みの中に下りると冷気が漂う。石の隙間に置いた温度計は2℃。当時年間を通して2〜3度前後にコントロールされていたそうだ。今も石室内には降った雪が残り、岩のすき間からは冷風が吹いて氷柱が立っている。
崩れた石積みの修理においても、補強を優先してこの冷気の吹き出しを変えてしまってはいけない。この冷気を保つためには周辺の地形や植生・水環境を丸ごと保存していかなければならない。
世界遺産暫定リストに登録されてから多くの人が訪れるようになった。アクセス道路はいまは乗用車がすれ違えない細い道しかない。冬場はもちろん閉鎖。クマ・シカ・カモシカ・イノシシ・・野生動物はなんでもござれ。観光と遺跡の保存整備、これからが正念場を迎える。
2月の4〜9日にかけて、我々、考古学ゼミ三年生は九州へのゼミ旅行へ行きました。その時の様子はゼミ生が分担してブログに掲載することになっており、今回の記事は二日目の午前。担当は二人目の村田です。
昨夜はもつ鍋を食べるために街へ出撃しましたが、この人数がいきなり全員入れる店は皆無で、腹をすかした状態で延々と歩くはめになり、くたくたになってホテルに帰りつきました。
しかし、一晩ぐっすりと眠れば完全回復。また、騒がしい道中が始まるのでした。若いってすごいですね。
二日目最初の見学場所は志賀島。博多湾と玄界灘の間あたりにある島で、かの有名な「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土した場所です。出土した場所は、現在では金印公園なる場所に整備されていました。
公園に到着して間もなく、我々はバンッ!という、ものすごい音を聞きます。何事かと混乱する生徒たち。その様子を面白そうに眺めながら、「獅子脅しだ」と教授が言いました。
我々の脳内に浮かんだのは、竹でできた、水を動力にしてカコーンカコーンと音を出すあれ。こんな大きな音がするなんて、一体どれだけ巨大なんだ!
そんな我々の脳内をスキャンしたのか、教授は「馬鹿だな、爆竹音を使った獅子脅しだ」と一言。(馬鹿は言ってなかった気もするが…)
あ、なるほど。爆竹か。竹はあってたんだがなあ…
なお、例の金印は偽物だという説もあるそうです。教授いわく、本当に偽だったら一大事だから鑑定をしないんだとか。
志賀島をあとにした我々は、元寇防塁跡に向かいます。元寇防塁は総延長20?くらいありましたから、遺跡も複数存在します。我々が行ったのは、多分今津の長浜海岸にある防塁です。
多分というのは、覚えてないからです。そもそも、防塁は当日急に行くことになった場所ですから、事前調査もしてないのです。決して私は悪くない!
まあ、地図で地形や街並み、近辺の施設をしつこく参照したので間違いないと思います。
松林を歩いてゆくとフェンスに囲まれた場所が出現。その中が防塁です。写真の上部に比較対象となる人間が映っているので大きさは想像できるかと思います。
これを乗り越えるのは大変でしょう。当時の絵巻物なんかを見ると、低く見えますが、あれは防塁の上にいる人物を誇張して大きく描いているのです。
ここで、我々考古学ゼミの人間には馴染み深い物体が出現。写真右下に映っている、地面に突き刺さった棒。
これはピンポールといい、発掘や調査で使う便利アイテムのひとつです。ブルーシートを留めたり、大まかな長さを測ったり、地面の下に石がないか確かめたり、その活躍はまさしく三面六臂。赤と白の縞々というおしゃれなカラーも相まって、発掘道具のスーパースターともいうべき存在。
そのピンポールと遠く離れた九州で出会えたことは感激以外の何物でもない。友との再会はやはり感慨深いものである。
教授いわく、このピンポールは、ただ突っ立っているわけではなく、「ここに注目して!」という目印だとのこと。ピンポールのあたりを境に使われている石の種類が変わっているのだとか。さあ、みなさん。目を凝らしてよーく、見てみてください。
防塁の見学後、松林ということで私は松ぼっくりに松の葉を差し込んでヤマアラシを作って遊んでいたのですが、愉快に騒ぐ声を聞きそちらを向く。すると「喰らえ! てつはう!」などと叫んで松ぼっくりを投げ合っている皆の姿が。
平和(?)な笑い声が松林にこだまするのでした。
←元寇防塁跡見学の図(笑)
二日目午後へ To be continued!
朝から高畠町にあるうきたむ風土記の丘考古資料館に行ってきた。
資料館の軒先に下がる「つらら」をみていて、なにこれ?
つららが伸びて地面に到達し、太い氷柱になっている。割ろうと思っても割れないそうだ。