歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2012-02-05

考古学ゼミ 〜九州へ〜 二日目


こんにちは、初めまして。初ブログ投稿となります、福田ゼミ3年いわまつと申します。
北野・福田ゼミ合同ゼミ旅行の2日目、午後は板付遺跡弥生館の見学から。名前の通り、板付遺跡を紹介して弥生時代の事を学べる資料館。土器や石器を見たり、復元資料で火起こし体験をしたりしました。約一名が火起こしの会得に終始手こずっていたのはここだけのお話。


続いて向かったのは金隈遺跡展示館。金隈遺跡は、348基の甕棺墓と119基の土坑墓、2基の石棺墓が発掘された弥生時代の共同墓地遺跡。発掘された当時の様子そのままの展示を見てきました。弥生時代前期から後期までの甕棺が押し合いへし合いするように埋められた光景、それを眼に映した時のわたくしの心のうちは幾許の驚きを覚えたでしょう、ただただ圧巻の一言でございました。

最後は大野城址。ここで向かう途中に降り出したあいにくの雨。ぬかるむ地面に足を滑らせないよう、気を付けて百聞石垣を登る道を行く。
途中、下を見たのが間違いだった。登りながら「怖い!怖い!」という悲痛な声が飛び交う。高かった、そして怖かった。
降りる時、北野先生が道なき道(=崖)を軽い足取りで帰還。流石です。

こんな感じで2日目は終了。旅行は3日目へと続きます。

2012-02-04

考古学ゼミ 〜九州へ〜 1日目


こんにちはお久しぶりです。北野ゼミ3年のむらっちゃんです。
今月の4日〜9日、考古学ゼミはゼミ旅行として、九州へと旅立ちました。ちなみに、北野ゼミと福田ゼミの合同ゼミ旅行です。ゼミ旅行の内容は、ゼミ生が分担してブログに載せていきます。というわけで、1日目は私が担当です。

2月4日
朝5時30分、学校を出発。出発時、(現在もですが)山形は大雪。帰ってくる時の天候はどうなっているのか、かなり心配でした。
仙台空港→中部国際空港→福岡空港と飛行機を乗り継ぎ、福岡へ到着。空港近くのレンタカー屋さんで車に乗り、いざ観光へ!!

まずは4番目の国立博物館・九州国立博物館に行きました。実はこの博物館、芸工大の3期生であるOさんが勤められていて、Oさんのご厚意でバックヤードを案内して頂きました。作品の修復作業場や収蔵庫は、現在の高技術が凝縮されたもので、とても勉強になりました。Oさん、ありがとうございました。
ちなみに、この時期の特別展として『細川家の至宝』展が開催されていました。細川家といえば、芸工大の人間ならば知らない人はそういない(はず)です。偶然とはいえ、何かしらの縁を感じます。見学時間を2時間設けていたのですが、とても見足りず、残念でした。

次に向かったのは光明禅寺。一般的には苔寺の名で親しまれ、鎌倉時代に創建されたと伝えられています。また、九州唯一の枯山水の石庭がある寺でもあります。山形では、景色と言ったらほぼ白銀だったので、同じ冬とは思えない光景でした。心和みました。

最後に、太宰府天満宮へ。やはり有名なだけあって、凄い賑わいでした。とここで、思わぬ事態が発生。学業成就を普通なら願うべき場所で、誰一人として学業成就のお守りを買っていない!!呆れる先生達。苦笑するゼミ生達。後に一人、学業成就のお守りを購入しました。天満宮の前の通りは、土産物屋さんなどが並んでおり、ゼミ生達は『梅が枝餅』という郷土菓子の食べ比べを楽しみました。北野先生は、奇抜な外装のスタバでお茶をしてました。

その後、福岡のホテルに行き、もつ鍋を求めて夜の街へ!!
翌日へ続きます。


2012-01-29

澄んだ青空と乾いた空気


久しぶりに「芯から冷える」という言葉を思い出した。

最高気温氷点下のなか、一日石垣を歩いた。

冬場に下がった堀底の水はこの寒さで氷になった。岸辺からはしごで降りて、普段は近づけない石垣面の詳細観察を行った。石垣の観察は遠くから、近くから、その中間からとさまざまな距離からみることが大事。光の角度によって普段見えない加工痕がみえてくることがある。春夏秋冬、朝昼夕、長い付き合いが必要だ。そのうち、見る側の目も肥えてくる。わかった気にならないで常にモノに向き合う姿勢を大切にしたい。

 それにしても頭から足先まで冷えきった。最後は呂律がまわらなくなる・・・・・。やっぱり、汗が噴き出す南国がいい。

2012-01-23

四国の城と石切り場

先週末、四国の城と石切り場を歩いた。

 第9回全国城跡等石垣整備調査研究会が高松市で開かれた。前にも紹介した、文化財石垣保存技術協議会と共催である。今回は「石垣整備における記録と工法選択」がテーマで、現在文化庁が音頭を取って進めている「石垣整備のてびき」の主旨に則って議論が進められた。東日本大震災で被災した石垣の復旧もてびきの枠組みの中で進められていくが、個々の事例では難しい問題もみられ、これから合意形成をはかりながら進めていくことになる。

 近年は、石垣修理の現場で3Dレーザー計測や土木工学的な試験など、最新の技術が導入され普及し始めている。それはそれで結構なのだが、ともすると、客観化、記録のデジタル化という観点から、これまで経験的に積み上げられてきた人の技や知識の領域が省かれている現場を目にすることがある。

 石垣カルテや解体調査で膨大な図面や3次元データは残るものの、人がリアリティーのある体験や言語で語りつぐべきものが何も残らない、といった状況を危惧する。現代、身体化された技術(人の知と技の総体)の崩壊が叫ばれて久しい。「使えない客観的情報より、リアリティーのある主観的情報を大切に!」と叫ばざるを得ない。

 現地見学では天守台石垣の修復工事がおわり、一般公開となったばかりの高松城、そして、7世紀の古代山城(朝鮮式山城)−屋島城の石積み修復工事の現場を見学した。

 庵治の町は良質の花崗岩「庵治石」の産地として有名である。東の大谷、西の庵治、いま日本を代表する「石の町」として文化的景観の調査が行われているらしい。山体の姿を変えるほど大規模に掘削された石切り場を背景に、鋭い割面をもつ青肌の花崗岩とその製品が集積された町並みは、この地にしかない独特の景観である。この風景を殺風景な環境破壊の現場とみるか、文化的な景観として継承していこうと考えるかは、人の土地との関わり方や価値観によって大きく異なる。ここは早くから石の民具資料の収集、研究が行われ、石の民俗資料館もできている。石の町としてこれからも発展していくために住民たちがどんな選択をし、町づくり・景観形成をしていくのか注目していきたい。

 翌日は冷たい雨にぬれがら、さぬき市にある大串半島の凝灰岩丁場を踏査した。中世の石切り丁場を見学するのは初めて。平刃工具の痕跡が昨日削ったように見事に残っている。ここは近代のツルによる延べ石丁場と複合している。しかし両者は一部接点を持ちながら完全にはだぶらない。それはどうも工具の違いとそれによる掘削方法(工程)の違いが原因らしい。

 中央構造線上にある徳島城は結晶片岩の石垣が特徴的だ。たくさんの天下普請も手掛けた蜂須賀家の居城である。まちなかにあって市民が散策する都市公園となっている。山上には天正期や文禄・慶長前期とみられる古い石垣群がよく残っている。ここで注目されるのは、本丸の大きく孕んだ天正期石垣を「ふとんかご」とよばれる現代の土木工法で押さえている点である。金網の中に大量の石を入れた四角い構造物を積み上げて法面保護する工法である。担当者によれば応急措置という説明であった。
 石垣の崩落は人を巻き込む可能性がある。危険だからと言ってすべて解体して積み直せば、オリジナルはなくなってしまう。文化財としての石垣は消滅する。その点で見た目を問わなければ、最善の方法ともいえる。一方で、伝統的な石垣技術を再生し、継承するためには工事現場が必要である。このジレンマを調整しつつ、「石垣」(有形・無形の価値)を残していくためには、関係者だけでなく住民たちもまじえた粘り強い議論が必要になる。遺産をどう残し、どう消費(活用)するのか、それを考えるのが我々に課せられた責任であろう。

2012-01-04

目からうろこが落ち、そして腑に落ちた!

D村の最終日。

 今日は村の北半と郊外で土器をつくっている人を訪ねる。

 人の話はできるだけたくさん聞いた方がよい。常々感じることだ。記憶は定かでないし、悪気はなくても適当に答えるもので、つじつまの合わないことは少なくない。それを物証で押さえながらストーリーを紡いでいく。何度も何度も検証を繰り返す。それが民族調査の醍醐味だ。
 以下はマニアックな話なのであまり気に留めないでほしい。

 この村のポターたちは今から26、27年前、役所の肝いりでバスに乗って先進地視察に出かけた。その先はなんとあのマハサラカム・バンモーだったのだ。2年前学生たちと訪ねた村である。ここから200km離れている。
 あるポターはそこで高台と蓋のついた新型モーナムをみた。綺麗だったと、その時の気持ちを語ってくれた。D村ではそれまで丸底で蓋のないモーウナムしか作っていなかった(需要は減ったが今でも作っている)。以来この村では新型水甕モーイオイの生産が始まった。
 さらに何年か後に、男性の蹴ロクロ作りの職人Pさんがこの村で作陶を始めた。これも役所の援助だった。彼女たちはPさんから花瓶や植木鉢作りを習い、モーイオイのパァ・ギャッなどを教えてもらった。彼の作陶の痕跡は今もお寺の一角に残っていた。
 実はパァ・ギャッの口作りがパァ・ベン平縁だったのだ。これ以来、お客さんの嗜好も加味し、飾りが無くてもパァ・ベンとしたり、デザインに敏感なポターは凹線紋風の口作りを始めたりと、バラエティーが増えてきた。
 このように一見バラバラに見えていたD村の土器の口縁部も、その歴史と製作者の概念から2種に大別することができた。
 消費者の嗜好に敏感なポターがいる一方で、かたくなにパァ・タマダ、パッコムしか作らないポターもいる。当初は年齢により分かれるのではないかと目論んだが、そんな単純ではなかった。技法に対する先取性、お客の動向に敏感かどうか。蓋に描く紋様へのこだわりなどとは対応関係がありそうだ。

 たかだか、これだけのことなのだが、私にとっては「腑に落ちる」大きな収穫だった。

 今年も村の人たちからたくさんのお土産をもらって帰ろうとしている。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5年前にお世話(早朝から晩までの密着取材)になったNさん。若いころは韓国や台湾で働いた。以前いきなりハングルで挨拶されてびっくりした。今はゴムの収穫で毎日忙しい。土器は去年休んだけど今年は2月から作るよ!
ずいぶん痩せてしまったね、というとうれしそうにほほ笑んだ。
帰路20:30、ウボン空港からエアアジアに乗ってバンコクスワンナプーム空港へ。そのまま、23:55の深夜便で成田に帰るはずが、ブッキングを間違え1日早く着いた。仕方なく一晩空港で寝るはめに(10月は韓国で乗り遅れたが今度は1日早かった・・・・笑えない)。4月に来た時も空港で寝たので、いい場所はしっかり押さえた。お金があればバンコクに戻ったのだが、財布の中には100バーツ札1枚。風邪が悪化しだしたのとあわせ、ちょっと心細い夜だった。

2012-01-03

一人ひとりの声に耳を傾け、モノとワザを観察する。

 東南アジアの土器つくり村を歩いていると、それぞれの土地で、共通点や差異が見い出される。

 ウボン県のD村は水甕の口縁部端部に多様な形があるのが特徴だ。一見、バラバラにも見える。
 今回の調査の目的はなぜそうなのか?理由を探すためにやってきた。

 考古学者は土器の細かいつくりに注意する。とくに口縁部形態には異常なほど敏感だ。

 昨年来た時も、一人のポターの家に違ったつくりのがあったので聞くと、「そんなの去年と今年で違うわよ!」と平気で言うのだ。単純に職人の規範が緩い、自由度が高いなどと思っていた。

 多様な口縁部形態が生まれた理由を探すため一人ひとりから話を聞き、土器を1点1点実測して歩いた。

 初日の調査で、ポターの間にはパァ・タマダ(ノーマルな口作り)とパ・ギャッ(指で波状の飾り付けをした口縁部)、パッ・コム(丸縁)とパァ・ベン(平縁)という口作りに関する概念があることが分かった。

 Jさんが新型水甕モーイオイをつくっているのを見ていたら、12個のうち5個が丸縁で7個が平縁だった。葉っぱで口を水挽きする時の指の当て方が明らかに違うのだ。これまでは一人は一つの技法で成形すると勝手に思い込んでいたので、目からうろこが落ちるようだった。
 次々訪ね歩くと、やはり同じように両方の口作りをもつポターに出会った。これはいったいどういうことか。ある人は30年前から両方あるよ、私は3年前から平縁をつくったよ、などバラバラだ。私は丸縁しか作らないよ、いったいこれは?
 そして、旧型水甕モーウナム、鍋モーケン、湯釜モーヌンは、平縁がわずかで、丸縁が圧倒的に多い。
 これはきっと何かあるに違いない。わくわくしてきた。

 話は変わるが、朝一でYさん家にいくと見たこともないモーケン(消し炭入れに使用)に出会った。土器を注文し、取りに来たウボン・ワリンチャムラップ(1日に行ったC村のある地区)の人が持ってきたそうだ。よその村で作られた製品が持ち込まれる。我々は「搬入品」と称しており、遺跡でもよくあることだ・・・・

 

 

2012-01-02

岐路に立つ伝統的土器づくり

お正月の朝は車も人も少なく、商店は閉まっているところが多かった。みな帰省した子供や親せきとたのしい新年の酒盛りなのだろう。
2日になり、開いている店も増えたが、行きつけの飯屋はまだ休業中。

タイへ来ていつも不思議なのは、こちらの犬は左見て、右見て道路をちゃんと横断できることだ。もちろん人も交通量の多い道路を平気で横断する。中国ほどではないが、横断歩道や信号はほとんど必要ない。
信号機や交通ルールは「秩序」といえる。人はこれに従えば安全安心でいられるような気になる。歩行者信号を青で渡っていれば車は突っ込んでくるはずはないと思ってしまう。危機意識の欠如である。

ノーヘル二人乗りバイクが車の間をすり抜けるように走っている道路では車の運転もわき見はできず、細かいハンドルさばきがうまくなる。
車道には犬や牛や水牛もいる。気を抜けない。人もアクセルを緩めたかと思うと平気で飛び出してくる。あうんの呼吸で人と車が共存している。
ピックアップの荷台には人がすし詰めで乗っている。子供たちも何もつかまらないで楽しそうだ。先日の高速道路のバスと同様に急ブレーキを踏んだらみんな吹っ飛んでいく。

事故った時はダメージはあるが、どっちがいいのか考えてしまう。現代社会は秩序を選んで社会を作ってきた。これからもそうなるだろう。しかし、そのことで失うものがあることをしっかり自覚し、時には取り戻すことが必要だろう。

今日一日はなじみのD村で一人一人ポターを訪ね歩いた。
今は稲刈りを終えてひと月ほど。土器作りはまだ始めていない人が多い。もちろん、製作に熱心なポターはもう作っている。お正月も関係ない。
普段働き者の女性たちもこの時は、思い思いに集まりしゃべり、食べ、昼寝する。ごろごろして一日を過ごす。
ここでは4月のソンクラーンを大々的に祝うので、西洋暦の正月はそれほど重要ではない。バンコクに働きに出た子供たちが帰ってくる時期という感じなのだ。この日はUターン準備の若夫婦が何組かいた。
40代、50代のポターたちは10代後半にバンコクに働きに出、そこで結婚(婿取り)、出産して里へ帰る。そして土器づくりを再開するというのが典型的なパターンだった。
しかし、いまの子どもたちは結婚しても帰ってくる夫婦は少なくなった。逆に孫もりのために、婆さんがバンコクに行く時代になった。

村では土器つくりの傍らで現金収入を求めて新しい動きが加速する。2006年から始まったマンサンパラン(キャッサバ。タピオカでんぷんやバイオ燃料)、ヤンパラ(バラゴムの木)の栽培が田をつぶして行われている。村長も今年からヤンパラを始めたそうだ。毎日朝から晩まで仕事している。ゴムの木が生長するまで6-7年待つ。これらの作物は稼ぎはいいが、土地が荒れる弊害があるといわれている。
マンサンパランは芋のまま出すと3バーツ、スライスして出すと6.5バーツ。相場に変動がある。魅力的な金額である。

土器作りは販売価格が据え置きのまま、粘土や薪の材料費が高騰してきた(ここ5年で約1.5〜2倍)。そのためにここ数年でやめてしまったポター、継続するか、やめるか、岐路に立っている女性が少なくない。土器つくりの衰退は、貨幣経済の浸透が大きく、台所の電化やポターの高齢化だけが原因ではない。

2012-01-01

消える火、受け継がれる火


ウボン郊外に未知の土器づくり村があるとの情報でC村を訪ねた。

タイの大洪水はこの村も襲った。イサーンを流れる大河ムーン川が増水し周辺が水につかった。

ポターは10年ほど前までは3〜4人いたが、もう引退し誰も作っていないという。当時からのポターで生きているのはもう二人になった。75歳のG婆さんと85歳のC婆さんだ。

C婆さんは10月の水害で家の一階屋根まで水が来て、土器つくり道具はみな流されてしまったという。G婆さんちも1m50?ほど水につかった。小学校で避難生活をしていたそうだ。最後に作ったのは昨年の3〜4月。若いころは村で20人以上土器を作る人がいたらしい。なんとかヒアリングで土器つくりと野焼き技術の概要を知ることができた。彼女たちが作った土器は近所の人が持っているものが少数あるだけ。

またひとつ、長年伝えられてきた手わざが消えようとしている。自分たちにできるのはそれを記録し、伝えてきた人たちの声に耳を傾けること。

この村は現在、男性が参加するタオ(七輪)生産にシフトした。粘土がある地の利を生かし、もみ殻の覆いで焼くという野焼き技術を受け継ぎながら社会の変化に適応して自ら選択して変貌した。彼女たちの土器作りは消えても、その技術と知恵は確実に受け継がれている。


2012-01-01

世界遺産・カオプラヴィハーン


タイでは「カオプラヴィハーン」、カンボジアでは「プレアヴィヒア」と呼ばれている世界遺産がある。
アンコール時代の遺跡で「天空の寺院」として人気が高い。さならがアジアのマチュピチュといった感じだ。

1962年の国際司法裁判所の判決でカンボジア領とされ、2008年カンボジアの申請により世界遺産に登録された。
かつてはタイ側からも入れたが、これを機会に両軍がでて紛争となり、タイ側からは国定公園の入り口から先が入れなくなった。

周辺はタイとカンボジアが領有権を争う国境未確定地域にあり、毎年銃撃戦が起こる。2011年2月と4月には両国軍の戦闘で計28人の死者が出た。

この問題に対するユネスコの態度に疑義を抱いたタイは、国民感情もあり世界遺産条約脱退へと動いた(最終的には政権交代で撤回となったが)。
2011年7月、国際司法裁判所は両軍の撤退などを指示する判決を出し、両国政府は受け入れる方針で話し合っている。

朝のテレビニュースで新年をカオプラヴィハーンで迎える人々が映し出されていた。急きょ行ってみることにした。
行ってみると、かつて遮断されていた国定公園のゲートは通れるようになったが、遺跡の中にあるカンボジア側の小さなゲートが閉ざされたままで山の上まではいけない。タイ側からは残念ながら、長い階段を列をなして登っていくカンボジア人たちを望遠鏡でみるしかないのだ。

クメールはカンボジア人のアイデンティティ。しかし、タイ東北部イサーンにも南部3県を中心にクメール系の人がたくさん住んでいる。ラオ系の人々が主体のイサーンは、世界遺産アユタヤにつながるバンコク王朝に対して、地域内に点在するアンコール(クメール)遺跡を自らのアイデンティティとしている。その状況の中でこの状態はなんとも複雑だ。

カンボジア側が閉じているゲートの前には一歩でも近づきたいタイ人たちが集まる。そこへ向こうからカンボジア人のおじさんが近寄ってきた。煙草を売りつけている。ラークやマルボロがなんと1カートン160バーツ(400円ほど)という。怪しいと思ったらどうも箱だけで中みは偽物らしい。商魂たくましい。
道路脇や草むらには鉄条網が張り巡らされ、小銃を持った兵士がいたるところで警備している。紛争地のにおいがぷんぷんするが、観光客に交じった兵士に緊張感はないようにみえる。

岩陰にはたくさんのトーチカが設けられ、兵士が野営している。その間を縫って遺跡を見学する。寺院本体はみれないが、パーモイデンからのカンボジア平原、磨崖仏、サトゥ・コーなどを見ることができる。

ビジターセンターは模型があるのみでがらんとしている。アプサラ?の女性がやさしく並んで記念撮影してくれるのが救いだ。

遺跡は誰のものか。世界遺産という名の功罪を思わずにはいられない







2011-12-31

サワディー・ピーマイ

タイの東北部の西端ウボンラチャタニーという町に着いた。夜9時、お正月でお店を閉めているせいか、町はいつもより暗い感じがする。

二日間バンコクの喧噪の中にいた。こちらに来ると普段は静かな村の中にいるのに慣れているせいで、都会に出るとそのギャップの大きさにおどろく。しかし、人ごみと猥雑な都会の世界はそれはそれで心地よい。人の生きる力と退廃が充満しているからだろう。生々しい人間に出会えた気がする。混とんと静寂を行ったり来たりして心のバランスがとれるのがいい。

朝は宿の前から聞こえる唸り声で目が覚めた。昨夜から騒いでいたおじさんが死にそうな声で○○を吐いていた。連れ二人は早朝に帰国したので今日は気楽な一人旅。
混雑する人ごみには必ず物乞いがいる。インドほどではないが、日本にもあった風景だ。市場にあるような雑貨を地べたに並べひたすら買うのを待つ。1個5バーツの櫛を3個買ったら、おばさんは不思議そうな笑みで見送ってくれた。中学の制服を着た女の子が箱を前に置いて伝統楽器を引いている。たいそう稼いでいた。しばらく音楽に聞き入った。

街角の特設宝くじ売り場も人であふれている。年末ジャンボで新年の夢をみる。今年はタイ暦2555年。55番と12番が人気だそうだ。

バンコクは帰省ラッシュ。中国は列車、韓国は高速バス、日本は新幹線。タイもバンコク一極集中の国なので、この時期は人口移動現象が起こる。あらゆる交通手段をつかうが、ミニバンなどに乗り合わせて故郷に帰る人が多い。そのための集合場所がいくつもあり、車はお客がいっぱいになるのを待って出発する。お金のない人は、時間をかけて無料の列車で帰る。アピシットの時代から各駅停車は無料になったそうだ。

以前一緒にタイに来た学生たちは、最初に驚いたのはタクシーや観光バスのカラーリングだといった。この時期、タクシーの運転手も帰省でかなり減っているらしい。その一方で外国人観光客が押し寄せ、大忙しとなる。メータータクシーも吹っかけてくるので、何台かやり過ごさないとまともに走る車はなかなかつかまらない。粘りや交渉を楽しむ気持ちが大切だ。

ウボンまではエアアジア(客室乗務員も飛行機の離着陸もやたらテンポがいいのでひいきにしている)できたが、国内線のロビーはどこもおみやげを抱えた帰省客でいっぱいだった。到着ロビーでも再会を懐かしむ家族の笑顔があふれる。どこにもある風景だ。

 

 

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