歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2011-12-30

水没した焼き物の町−コ・クレット

 1週間の仕事を終えて、今朝ルアンパバン(世界遺産の町)からバンコクに戻った。ラオスもタイも都会は休暇を過ごす欧米人でごった返している。この時期のバンコク・カオサン通りの熱気は狂気に近い。

 ラオス北部にあるルアンパバンでは朝晩冷え込み、日中でも長袖が欠かせなかった。しかし、バンコクは暑い。例年より蚊が多い。乾季はただでさえ乾燥しているのに、ラオス北部の村では砂ぼこりや窯焚きの煤・灰でのどが痛くなった。さらにここでは排気ガスがのどに張り付く・・・・

 あしたからのウボンの調査を控え、休養日だった今日は、チャオプラーヤ川の中州にある焼き物の村−コ・クレット(ノンタブリー県)へ行ってきた。ここは12年前にも大きな水害にあったが、今回の大洪水は村の主要産業である陶器作りに壊滅的な被害をもたらした。遺跡として保存されているかつてのレンガ窯は崩落して原形を失ったものや、ゴミ置き場になって荒れているものがあった。
 水が引いたのが1週間前というように、今ようやく復旧が始まった。デッキブラシでヘドロの掃除をしたり、水甕オーンを洗ったり、避難していた家財や商品の置き直しをしていた。工房の多くは設備を失い放置され、復旧はまだまだ先のようだった。ここにはボランティアも軍もいないが、住民には悲壮感はないようにみえる。船着き場では店もやっているし、村の食堂も営業を始めている。川岸で釣り糸を垂れる男、路地をバイクで走り回る若者。時折やってくる天災と適当に折り合いをつけながら、たくましく生きている姿が印象的だった。マイ・ベンライの精神か。

 帰りは渡しのボートで一緒になった女の子が、バンコクまで路線バスで一緒に帰ってくれるという。行きはタクシーで200バーツあまりかかったのに帰りはたったの8.5バーツ×3人。生徒や学生の帰宅時間にも重なり、車内は満員。街中は停留所で客を拾いつつ走っていたが、高速道路に入るとバンコクまで時速100kmで突っ走る。車内ではみんな普通に吊革につかまっている。窓からは熱風が吹き込む。恐るべし…
 

2011-12-29

攻め焚き

 今日は暑い一日になった。
 昨日に続き早出してLさん宅の窯焚きを見学した。

 あさから家族だけでなく、続々と兄弟、その奥さん、子供たちが集まってきた。
 あぶり焚きは窯口を半分トタンで閉め、長い薪を順に押し込んでいく。徹夜作業なのでたいへんだ。攻めへ移るタイミングは、煙道に手をかざし、温度をみる。
 
 
 ころ合いを見て攻めに入る。攻め焚きはトタンをとり、燃焼部に太めの長い薪を目いっぱい詰めこんで噴かす。煙道からは黒煙が立ち上る。やがてけむりが落ち酸化雰囲気になる。これを5〜6回繰り返す。最後の方は割り薪も加え一気に温度を上げる。煙道から太くて高い火柱が上がる。火前は輻射熱でたいへんな暑さとなる。兄弟らが交代で一人1〜2回ずつ焚いていく。その間、それぞれの娘たちは太い薪を斜路まで運ぶ。本当に子供たちがよく働く。

 その傍らでLさんの奥さんは昼食の準備。ふかしが一息ついたところでみんなで昼食となった。もちろん蒸し米にラープ。竹の子スープが美味しい。ラオ・ラーオをコップで回し飲みする。だいぶ加減してくれたが、口当たりがよく珍しくたくさん飲んだら足元がふらついた。

 閉塞はあっけない。まず生草を焚き口に詰め、すぐトタンをあてる。それまでゴォーツという火の引く音がしていたのに、一瞬で静寂がおとずれた。一瞬何が起こったのかと?
 そして、トタンが外れない程度に脇に粘土玉を張り付けていく。煙道は全く閉じない。これは2007年の時も全く同じだった(EUプロジェクトの窯では塩を入れていたが)。

 

 

2011-12-28

窯の中を実測する

 早朝からLさん家の穴窯の実測をした。

 窯の中は真っ暗。煙道からわずかに光が差し込む。天井は高いところで70?しかないので這いつくばって作業するしかない。
 マスクをし、懐中電灯を1個持って2人1時間30分ほどかかりなんとか測り終えた。でてくると衣服や鼻の中は真っ黒、マスクは気休めに過ぎなかった。測り終えるのを待つかのように窯詰めが始まった。Lさんの兄のSさん家族総出で作業にあたる。しばらく見ていたが、こちらのスタッフも全員加勢してバケツリレー方式で一気に製品を詰めた。
 窯の中は、Sさんと長女が積み上げ、弟の娘が手元として二人に製品を渡す。ほんとに子供たちも無駄のない動きで仕事を熟知しているようにみえる。

 この窯はハイが300個ほど入るもので3基の中では小型の部類だ。Iさんの窯は370個入るという。

 驚いたのは、連日窯を焚いているのに、床面に湿気があることだ。特に奥壁際の床面と側壁基部は明らかにぬれている。窯づめの際にはここにトタンを置いて製品を積んだ。
古代の須恵器でも、地下式窖窯の湿気対策が施されたり、焼き台が必要な理由がよくわかる。

 午後からは窯焚きが始まった。
 いまは注文によって赤焼きと黒焼き(還元雰囲気焼き締め)を焼き分けているそうだ。Sさんは赤焼きの場合は薪100本、タイヤ5〜6本。黒焼きの場合は薪200本、タイやは使わないという。今日明日の焼成は後者だ。

 私とTさん二人はLさんの宅地兼工房の敷地の平板測量をした。Lさんも興味深かそうに伝ってくれた。

2011-12-27

よく焼き締まってればいいってもんじゃないよ!

 午後は車でメコン川を渡り、Chane村に行った。

 2003年にはじめてきてから3度目、来るたびに製品の焼きがあまくなり、焼成後に器面に黒い塗料を塗って済ましている。職人たちのやむを得ない対応のように思え、コスト削減もここまできたのかと考えていた。

 市場にはラオスの食卓には欠かせない搗き鉢クロックが売られているが、非常によく焼きしまったビエンチャンから来たものと焼きのあまいChane村産のものが並べておいてある。どちらがよく売れるか一目瞭然と思いきや、片や20,000kip、片や5,000kip。焼きがあまく、黒く塗ったChane村の製品が安くよく売れるそうだ。

 この日、窯出しをしていたLさんに火前にあったクロックが良く焼き締まって還元色がでていたので、「いい焼きですね」って声かけたら、自嘲気味に「よく焼けると壊れないからダメだよ」「たくさん買ってもらうためには壊れやすくないと」。

 この言葉は村の現状を端的に物語ると同時に、その製品がよく売れる現象は、生産技術というのが消費者側の認知と深くかかわっていることを思い起こさせてくれる。
 
 Lさんの窯は、明日8時からお兄さんが窯詰めするが、その前だったら中に入って実測してもいいよと言うので、早朝からこちらのお宅にお邪魔することになった。

 

2011-12-27

樹液キーカンを塗る

p村Kさんの樹液塗りを見学した。
 焼き上がった土器を七輪の上におき、薪を焚く。熱くなったところでせんべいのような樹脂キーカンを棒の先につけて塗っていく。すぐ乾くので手につかない。植物性でいやなにおいもない。水漏れが無くなるのでお湯が速く沸く。外面の煤は洗うと落ちやすい。壊れにくい。水の貯蔵用には塗らないものを使う。もちろん、塗らないものより割高だ。キーカンは1枚5,000kip(50円)で市場に売っている。キーカンは接着剤として使用したり、古いシャツをこれを溶かしたお湯につけて洗濯糊?にしたりすることもあるそうだ。

 Kさんと別れて市場の価格調査に出かけた。ポーシー市場では、Lサイズのモーナムが80,000kip(800円、樹脂塗りなしは70,000kip)、旧ナーベンカム市場の前の店ではLLサイズのモーナムが120,000kip(塗りなしが100,000kip)。Mサイズが25、000〜30,000kip、Sサイズが20,000〜25,000kip。ナーベンカムのおばさんはここ1年土器は売れていないと。そのせいか破格の値段だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝ゴミ収集車が回ってきた。1週間に1回だけ来る。
出したのは籠1個分のみ。何とごみが少ないのか。
この家はレストランをやっているのにこの量なのだ。

車はゆっくり走りながらアシスタントが積み込み、ごみ箱は放り投げる〜

2011-12-26

ルアンパバンの伝統的土器作り

 朝から事前に約束しておいたP村のKさんを訪ねた。

 ここの土器は樹液を塗るものがある。フィリピンやベトナム南部に事例があるが、タイ・ラオスでは見たことが無い。いつ、どのタイミングでどんな方法でやるのか興味深い。今日は午後15:00から野焼きをするというのでこれが見れると思い楽しみにして来た。

 伝統器種はモーナム、モーケンの二つだけ。モーナムは4サイズほどあり、薬やハーブを煮出す鍋、タンブン容器として使われている。本来の水甕としての使用はもうない。モーケンは骨入れ容器、小型の取っ手付きは主にレストラン卓上用のスィンチュム(トムヤムセット)として使う。
 非伝統器種として、七輪の灰落としリンタオや植木鉢ガターン、モーナム形の貯金箱をつくっている。

 午前中は成形を観察した。
 基本的な方法は、タイ東北部と同様に、円筒原型から叩きによって成形する。ロクロはChane村と同じコマ型の一木造り。円筒原型から口縁部を水挽きする際に、回転台として利用するのみである。どうみても、窯村から新しく導入された道具としか思えない。

 叩き板マイ・プップは珍しく竹製だ。肉厚の竹を使い断面がかまぼこ状を呈する。丸い部分で頸部のくびれを上手く叩きだす。器面を平滑にする叩き板は木製。当て具は石。
 観察の合間に各種土器の寸法を測ったり、道具を実測して過ごした。

 昼食はこの家で食べた。表通りからは全く見えない裏庭がレストランでナムカーン川に面したいいロケーションである。大学生の男女が仲良くトランプで盛り上がっていた。

 午後からは早めに野焼きの準備が始まった。Kさんの息子が材料の竹を粗割りしたり、藁を集めたり準備する。我々が燃料の重さを測る際も献身的に協力してくれた。

 驚いたのは、リンタオやガターンは事前に七輪で予備焼きをすること。大型のモーナムも中にヤシの葉を入れて火をつける。割れを防ぐ措置である。お婆さんの時からやっているという。普通は雨季のみの措置と聞いて安心した。
 土器のセットが終わり、こちらの温度計も設置でき、予定より早く14:10点火した。
 主熱源は竹。稲わらによる覆い型野焼きで灰を被覆材として少量かける。点火後、操作はせずほっておく。竹は40kg、藁は24kg。野焼きででた灰は畑で使用する。
 17:00にみんなで焼けた土器を仕舞い、一日の仕事が終わった。

 ところで樹脂はいつ塗るの?明日だよ!
 普通は野焼き直後の熱い土器に塗ってコーティングするのではないのか・・・・。ともあれ、明日も来るしかないということになった。

 土器は娘さんが市場の販売店にもっていく。30個注文があって、2個割れたら28個もっていく。それでいいのだそうだ。
歩留まりを考えて余計につくるタイなどと需給の考え方が違うところが面白い。
 
 この家の前の道路は近年整備され、その先に観光客がよく訪れる織物の村がある。道端に土器を乾燥させていたり、焼成中の煙を見て興味深そうにのぞきこむ人が後を絶たない。そのせいか、かつて40枚もあった叩き板(土器作りを止めた村人からもらったもの)はもう数少なくなったわよ!と。日本語で話しかけてきた男の人はここの大学の韓国人教授だった。この大学は韓国の支援により運営されてらしい。

 夕飯をたべて宿に帰ると、W君がまたビールを飲んでいる。今日は女の子二人が一緒だ。ミーティングをしているとGさんが一人でこっちにやってきた。日本に興味があるらしい。彼女は中国国境に近いルアンナムターの出身。大学で経済を勉強している。もう一人のLさんはノンキャウ郊外の出身で経営を勉強していて伝統文化にも興味があるらしい。しばらく楽しく話をした。彼女たちはW君とともに飲みながら朝まで地べたで寝ていった。

 

2011-12-25

Chane村の窯焚き


chane村の3つの窯はフル稼働。

 Sさんの窯は朝から家族総出で窯出し、午後には別の家族の窯づめが始まる。
 Iさんの窯は朝まであぶり焚き、午前中に攻め焚きに入りお昼には閉塞した。現在、chane村の窯焚きは24時間で終わる。かつては2泊3日ほど焚いたというが、今では1泊2日。さらに驚いたのは古タイヤが燃料として使われていることだ。薪燃料の高騰が原因だ。攻めの時に5〜6本使う。油臭い黒煙が上がる。前回みた、「塩」は使われてはいない。
 Rさんの窯も朝9時には黒煙が上がっていた。攻め焚きが始まっている。

 今日はIさんの工房で成形方法を記録する。ここの成形は夫婦協業の手回し轆轤が特徴だ。直径53cmのコマ型で重さ42kg。マイ・ドゥの一木造りだ。ハイという壷やすり鉢の成形をみた。
 奥の2階建ての工房には蹴ロクロが2台置いてあった。聞くとスウェーデン人の夫婦が1年に一回ここに滞在して作陶していくそうだ。彼らが特注で職人に作らせたものらしい。

 昼食はIさんの自宅で食べることになった。生きたアヒル2羽と豚肉を買ってスープや串焼きなどを作った。アヒルの肉が少ないと思ったら、1匹は血抜きの前に逃げたそうだ!買ってきたSさんとさばいてくれたJさん、苦笑い(~_~;)
ここではお米は朝昼がカオニャオ(糯)、夜はカオチャオ(粳)だ。

 午後からはIさんの工房敷地をTさんと二人で平板測量した。Tさんが苦労して日本から平板やスタッフを持ってきたので活用せねば。

 夜、ナイトマーケットで水牛の角で作った櫛を買うのにおばちゃんに値切り交渉してると、隣で去年アッタプーでお世話になった情報文化省のT氏が買い物をしている。なんという偶然。1年ぶりの再会を喜び抱擁。同伴のベトナム人女性の具合が悪いらしく来年3月の再会を誓って別れる。







2011-12-25

ルアンパバンの托鉢行列


 朝6時前にルアンパバン名物の托鉢行列を見に出かけた。
まだ辺りは真っ暗。
 ホテルを出ようとすると、入り口の扉の前でバイトのW君が寝ていた。毎晩冷たいタイルの上で蚊よけの蚊帳をかけて寝ている。門番なのだ。扉の鍵を開けて出ようとするとあわてて起きてきた。W君はルアンパバン唯一の国立大学に通う学生で、夕方4時から朝6時まで14時間勤務。月6万円を稼ぐ。結構ハードなバイトではあるが、毎日フロントに座ってひたすらパソコンでゲームをしている。時折、かかってくる電話や、空き部屋が無いか訪ねてくるお客の対応をする。夜はビール(ビア・ラオは一本80〜100円、安くてうまい!)を飲みながらテレビを見て過ごしている。学費は年間15万円程度らしいので、バイトで十分賄える。しかし、正月明けにはくびと言われたそうだ。大学の研修か何かでしばらく休まなくてはならないのが原因らしい。

 表通りには暗いうちから観光客がたくさん集まり、行列が来るのを今か今かと待っていた。離れたホテルからは団体の車がつぎつぎ押し寄せる。あたりが白みだしてしばらく、6時30分ごろからようやく修行僧の行列が姿を現した。観光客が托鉢を体験できるようにティプカオに入ったもち米や供物が売られている。僧たちは寺ごとに行列をつくり、在家信者の女性たちからひとりひとりもち米等をもらい黙々と歩く。

 裏通りは比較的静かだ。その時、違和感のある風景に出くわした。托鉢する僧たちがもらったお米を、今度は大きな籠や袋を持った子供たちに少しずつ分け与えている。さまざま境遇のものたちが共存していくシステムのようだ。






2011-12-24

調査地を下見する


 朝5時、寺の鐘が鳴り、窓の外から賑やかな声が聞こえ目が覚めた。
 ゲストハウスの前の狭い通りで毎日朝市が開かれている。ここの朝市は文字通り陽が昇る前の暗いうちから始まり、野菜や果物、茸、魚、鳥、ネズミ、衣類、生活雑貨・・・あらゆるものが並んでいる。
 この日は調査予定の村をざっと一回りした。
 まずP村。ここは土器の村である。2003年、2007年、市場でここの土器を買って帰った(3.11地震で棚から落ちて割れてしまった)が、作っているところを見るのは初めてだった。
 村に行ってみると、ポターはもうKさん(53)1人しかいないという。ルアンパバンの土器作りは絶滅寸前だ。
 Kさんは通年で製作しているが、家は2年前からオープンテラスのレストラン?をはじめた。土器作りは今日は仏日でお休み、明日は娘の誕生日でお休み、あさっては仕事をするよというので再訪を約束する。ちょうど今掘っているという粘土掘り場に案内してもらう。砂は家の裏のナムカーン川の中州からとる。
 工房をみてびっくり!バーンチャンの窯村とおなじ「手回しロクロ」があるではないか。亡くなったおばあちゃんの代から使っているのでいつまで遡るのかは分からないという。土器を見る限りロクロで水挽きしている形跡はない。果たしてどう使うのだろうか・・・・

 ルアンパバンの町に戻り、昼食を食べてからボートでメコンを下る。懐かしのチャン村に着いた。昔の『地球の歩き方』にはこの村が紹介されていたのに、最近の版には載っていない。ボートを降りて階段を上ると村の入り口だ。ここで門番の爺さんがお金を徴収している。2003年、2007年とも入村料5,000kip(50円)だったのに、いまは10,000kip(100円)に値上がりしていた。カンボジアのシェムリアップのように観光門前町はどこも物価が高騰している。
 村の中を1周する。懐かしい顔に出会う。みんな覚えていてくれたのがうれしい。
 この村の5年の変化の早さに驚く。窯はいまは3基しか稼働していない。5年前は5基稼働し、6基目を掘っていた。ここは日本古代のような地下式窖窯が特徴だが、平地に掘っているので、雨季の大雨で焚口が埋まってしまうのが原因だ。2基は壁が崩れて放棄したままになっている。
 3基の窯の窯焚きの予定を聞き、測量・実測の計画を立てる。困ったことに窯の中がまるまる一日あく日が無いのだ。窯が少ないせいで、焼く人が順番待ちの状態。出しては詰め、詰めては焼き・・・・

 今日の最後は、ラオ・ラーオ(焼酎)作りの村バーンサンハイ。焼酎造りを見学でき、試飲できる。この村は数100年前までは大規模な焼き物村だった。アメリカ人Mr.ドーンが1987年に1年間滞在して調べた結果、約100基の窯跡が確認されたという(村の爺さん談)。いまは焼酎と織物販売の村として観光地となっている。お店の傍らにはそれらに交じって灰原から掘ってきた焼き締め陶器ハイや窯道具も並べられている。
 観光客が買っていくお土産物に興味を示さず、土器ばかり見ている変な日本人に、村人は怪訝そうな顔をしながら、あわてて自宅から壷をもって集まってきた。

 昨晩の寒さに耐えきれず、ナイトマーケットでラオ語の書かれたパーカーと愛用の「Laos」Tシャツの色違い3枚を買った。パーカーは村の人たちにうけた。









2011-12-23

世界遺産の街−ラオス・ルアンパバン


年末・年始恒例のラオス、タイの旅行記。

 早朝、バンコクスワンナプーム空港からラオス航空に乗り換えて、12時過ぎにルアンパバン空港に降り立った。2003年10月、2007年の3月以来、3回目の訪問になる。
 今回は、窯村1か所、野焼きの村1か所を調査する。メンバーはリーダーのTさん(岡山理科大)、Nさん(〃)、Oさん(いつものアシスタント兼ドライバー)。来るはずのラオス情報文化省Tさんは・・・・どこ?

 先発隊のTさん、Oさんはベトナム国境に近いサムヌアの山岳地帯の窯村を調査して帰ったばかり。1日12時間以上休みなしで運転し、片道3日かけてたどり着いたという。寒いのに宿のシャワーはお湯が出ず、食べ物にも苦労したという。来年の調査の下見だったらしく、かなり覚悟が必要だとわかった。トホホ・・・・
 二人が疲れていたこともあり、この日はメコン河畔のカフェテラスで夕日を見ながら、あす以降の打ち合わせをした。調査でこんなゆったり過ごすのははじめて。夢のような時間だった。

 宿は郵便局に近い(これが重要)中心部のゲストハウス。スキンヘッドのおじさんがオーナー。たっぷりお湯のでる快適なシャワーを浴び、熟睡した。


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