こんにちは。北野ゼミ4年しまです。
雪の中の高畠まちあるきが終わり、パソコンと向き合う日々を過ごしています。
実は来週の月曜日から卒業論文の提出期間なんですよね。
で、ここから本題。私たち考古学研究室の学生は文化財保存修復研究センターという本館の隣にある建物に生息しています。
入り口は行って正面の通称「演習室」にはいつも誰かしらが何かしらしています。
いまは少々立て込んでいて、土器チュートリアルの1,2年生と3年生のゼミ旅行の話し合いと、4年生と院生の論文執筆と夏の発掘の遺物整理・・・。
ね、立て込んでるでしょ?
きょうはなかなか人口密度が高いですね。
さて、では現実世界に戻りますか。
本格的な冬がやってきます。みなさんご自愛くださいませ。
久しぶりにオカマの仲間たちの集まりに参加した。
カマはもちろんお窯である。
同志社大学で窯研(窯跡研究会)のシンポジウム「古代窯業における窯・工人・生産組織」が開催された。震災で1年ちかく延期になっていた。
本業である古代窯業史研究から長らく遠ざかっているので、リハビリのつもりで参加させてもらった。
生産組織論は近年急速に進んできた埴輪や、伝統的な蓄積のある瓦に比べると、須恵器は低調であると言わざるを得ない。そんな危機感を感じつつ、いくつか刺激の多い議論にも触れ、抑えてきた関心事がむずむずと湧きあがってきた。
草創期の窯研を担ってきた世代の人たちが退職で第2の人生を歩み始め、会場には若い世代の研究者が・・・・ちらほら。ちょっとさみしい気分だった。他大学の先生たちにうかがっても、須恵器や瓦を卒論でやる学生は絶滅危惧種だそうだ。いろいろ考えさせられつつ、帰路を急いだ。
早朝に降った雪であたりはうっすら雪化粧。空気はひんやりとし、足元は冷たかったが、時折日が差す比較的穏やかな日となった。
今回は、10月のまちあるきが高畠石利用の本丸にさしかかり、各班とも未完となったため、その延長戦として実施した。1年生4名のほか美術科2年生など、6名の学生が初参加した。ベテランの3・4年生も加え、大学からは11名、石の会、教委から4名、あわせて15名が参加した。
今回訪ねたのはかつて大地主だった旧家があるエリアである。それぞれ山をもち、多くの石工がそこで働いた。石工の多くは農地解放後、農業の傍ら石切り作業にも従事し、地域の近代化に貢献するとともに、自立していった。石切り、酪農、養蚕、果樹・・・。聞き取りで見えてくるのは高畠の近代産業の歴史そのものだった。
そんな生々しい日本の近代化の歴史を住民の声から、民家の建築(母屋・蔵・牛舎など)や石製品から、大切にしまってあるアルバムの古写真から、地域の人々とともに辿る時間は、机上のどんな勉強にも代えがたい。
6月から歩き始めたこのプロジェクトは地元の方々の全面的な協力のおかげで7回を数えた。6月、初夏の日差しを浴び、7月、8月炎天下の中をもくもくと歩いた。月1回のペースを守り、気が付くと雪の季節となっていた。地域の人々の協力を得ながら、亀の歩みではあるが、立ち止まらずゆっくり前へ進んでいきたい。
考古学応用演習(2年生)の授業で、美術史・文化財保存修復学科の藤原先生、院生の高橋君による土器修復のレクチャーがありました。
今年の夏に掘った長畑遺跡と戸塚山古墳群の出土品整理にお招きし、ゼミ生たちと一緒に話を聞きました。
文化財保存修復研究センターでは学科は違っても相互に乗り入れて研究や授業を行っています。
出土品整理の現場で行う土器の復元は、実測・写真撮影作業の前処理として比較的簡易に行うことが多いので、日ごろから展示・活用を考えている文化財修復の立場の意見は参考になります。
いま立体修復ではたくさんの縄文土器を復元しています。石膏系、樹脂系、粘土系、さまざまな補填材が現場で使われていますが、それらの長短所を理解して、使い分けることが大事です。
最近ではセメダインはバリッと割ってはがせばいいんだ!というと学生から叱られます。丁寧にアセトンを塗って土器断面を傷めないようにはがしています。もろい土器にはパラロイド溶液をしみこませたり、断面に塗って接合します。
院生です。院生のくせにしゃしゃり出て今日は書きます。
今日は福田ゼミ+αで大江町に地形測量に行ってきました。以前にとった地形図に不備があったそうな。あらー。
そいうわけで、寒空の下大江町長畑遺跡に何か月ぶりに行ってまいりました。
幸い、今日はあまり寒くもなく、曇天のもと作業も快調、滞りなく調査は終了することができました。
あ、でも川べりの標高をとるのはちょっと大変でしたね。川に入った何名かは乙でした。
で、その帰り道に月布川というところによって、ちょいと石拾いをしてきたわけです。
今年の夏に調査をした縄文晩期長畑遺跡っていうのも、この月布川沿いの遺跡なのです。
月布川は、石器製作に適している良質の珪質頁岩が採取できることで有名らしいです。へェ。
冬の川って寒いですよね。冷たいですよね。
でも石ってものは水中に転がってるわけで、川に入らないと拾えないんですよね。
そんな冬の川に挑んだ勇者が2名いたんです。
うち一人は裸足になって川に足をつけた時点で挫折してました。彼の名誉のために断っておきますが、水は刺すように冷たく、とても耐えられたもんじゃないです。しょうがないのです。
しかし、彼女はやりました。長靴に穴があいたことにより、何かが吹っ切れたのか、浸水するのもいとわずに中州に向かって一直線。
その姿はまるで海を割って約束の地を目指すモーゼのような神々しさを放っているようでもあったりなかったりで。
見てて寒そうでした。
そんな彼女が試練に耐えて拾ってきた頁岩ですが、割ってみたらあまり良質ではなくポイされました。
切ないです。
でも頑張ったからって報われるとは限らないのが社会ってもんです。
しかし、これに懲りずにまた色々とがんばってください!
あと、4年生も卒論がんばれ。
んで、たまに休め。
早朝から山形盆地を北上した。
遺跡を踏査する人にとっては雪が降る直前の今が、チャンス。
県教委の人たち、懸案だった大石田町駒籠遺跡の踏査をした。現場についたころに小雨があられに変わり強風が吹き付けた。
最上川と野尻川の合流点にあるこの遺跡は、関係者の努力で古代の水駅「野後駅」比定地となった。国指定史跡を目指して調査が進められており、この葉っぱの落ちた時期に測量を行っている。
野尻川沿いの堀跡の一部は現在埋まっているが、湿地性の草が生えており、樹木等の植生によっても遺構を復元することができる。
遺跡は奈良時代末〜平安時代前期の駅家の段階と、中世の楯跡の段階がある。現存する大規模な土塁や堀は後者の時期のものとみられる。巧みに自然地形を利用して築かれた楯で土塁の残りも良い。今後の確認調査が楽しみである。
帰路、山形市の双月沼田古墳に登った。山歩きをしていて古墳を発見した時の驚きがよみがえった。葉っぱが落ちた墳丘は見事だ。やはりこの時期の踏査はいい。もっと歩きたい・・・・
白河市で歴史まちづくり講演会「小峰城の復興と歴史まちづくり」が開催された。
国の3次補正をうけて、いよいよ石垣の復旧が始まる。あわせて平成23年2月23日に認定を受けた「歴まち法(地域における歴史的風致の維持及び向上に関する法律)」による「白河市歴史的風致維持向上計画」のPRも兼ね、市の建設部局が企画した催しである。
後者は今後10年間国の補助を得ながら歴史と伝統を生かしたまちづくり事業が進んでいく。石垣の復旧工事も同時進行であり、城と城下町を核とした町づくり、震災復興は切っても切れない関係となる。当日は会場いっぱい200名余りの参加者があり、私は「小峰城石垣の歴史的価値と復興」と題して話させてもらった。
神戸の時もそうだったが、地域の復興に土地の歴史や記念物は欠かせない。土地の歴史の記憶をたどりながら現在を知り、ここにしかない新たな街を住民主導でつくっていく。城は町を見下ろす高台にあって、過去と未来を照らす灯台のようなものだと思っている。
発表のあと、小峰城とゆかりの深い結城家(近世白河藩成立以前の領主、秀吉の奥羽仕置で改易)と阿部家(白河藩最後の大名、19世紀に多数の石垣修理を実施)の現当主の方とお会いしごあいさつした(阿部家は22代目)。市長らとの懇談会でも、いずれここで歴代藩主サミットをやろうということで盛り上がった。お二人とも町にとっては頼もしい応援団である。
歴史と伝統を生かした「まちづくり」は国(国交・農水・文化庁)の補助メニューで、現在全国で26の自治体が認定を受け、事業を進めている。白河は東北で弘前に次いで2番目だ。
一時、多くの町で白壁の歴史建造物風の商店が立ち並ぶ街並み整備がされたことがある。それは画一的で、「銀座」や「中央商店街」のようなネーミングと変わらない。
この「歴まち法」は町の歴史や文化遺産、現在の社会状況などがまちづくりの出発点になっており、整備手法を間違わなければ、その点で同じものは二つできない。
国交省の担当者も町の本気度をみて認定しているのだといっていた。計画づくりに手慣れたコンサルが作ったような事業計画ではなく、市民が汗をかき、リスクも共有するようなものでないとだめだそうだ。町の底力が試されているということだ。
ところで白河が石の町だということはあまり知られていない。やはり地域の人にとってはありふれた風景が町の個性だと気づかない。ここには「白河石」というデイサイト質の溶結凝灰岩がある。現在も建設資材としてかなりつかわれているところが伝統的石材産地と違うところだ。石蔵や石碑、石仏も多い。自然石護岸の谷津田川の景観。7世紀には上円下方墳・横口式石槨という畿内王権と直結した古墳がある。地域の石材資源を使い続けた様々な石造物が街中にあふれている。これらをどのようなストーリーで紡いでいくのか。これからの研究課題である。
これまで白河は、福島県文化センター「まほろん」と、ラーメン食べにいくのが楽しみだった。
市の方々と関わるようになって、また好きな町が一つ増えた。しばらくは通わせてもらおう。
織田信長の足跡を訪ね、小牧山城と岐阜城の石垣調査を見学してきた。
本格的な近世城郭石垣は天正4年(1576)、信長の安土城を嚆矢とするという考え方が一般的だ。
信長は近江の安土に入る前に尾張・小牧山城(永禄6年1563)と美濃・岐阜城(永禄10年1567)で石垣を築いており、近年その調査が行われている。石垣技術の発展過程をうかがう上では格好の材料であり、城の縄張りとともに石垣の背面構造や石積み技術を観察した。どちらも山で産出するチャートという硬い石で節理に沿って割れた自然石を用いる。すでに穴太積みの特徴的な要素は備えており、早くから近江の石積み技能者集団を取り込んでいたことが窺えた。
今回は小牧市教育委員会、岐阜市教育委員会各位のお世話により、金沢城石垣比較研究プロジェクトの面々が全国から参陣した。牛歩のあゆみの2日間、興奮の連続だった。
案内いただいた皆様に感謝申し上げます。
お城の調査もよかったが、岐阜城の天守台で8年ぶりに卒業生に会えたことがうれしかった。違う学科の卒業生ではあるが、短い時間山形の思い出話に花が咲いた。これからも元気で。
千畳敷とロープウェイ乗り場。ルイスフロイスが訪ねた信長館は見事な庭園的空間でした。滝や池、露頭する岩盤、天下人と数寄の深い関係を示す場所でした。
今日も目まぐるしく変わる天気。あめ、あられ、はれ、くもり・・・・
そんななか、戦国期から近世初期の山城を歩いた。
能登の要衝−七尾城だ。能登畠山氏の居城で、上杉が落とし、豊臣政権期に前田が入ってやがて廃城となった。
中世山城で、かつては土の城との見方が主流だったが、近年の調査でおびただしい数の石垣が見つかった。
戦国期と近世初期の石積みが混在しており、石垣の多義性や発展過程を知る上でとても貴重な例といえる。急峻な斜面を登っては降り(滑り)、降りては登り、当時の土木工事の大きさを知る。普段は近世城郭を歩いているので中世山城のスケールの大きさに改めて驚く。何度歩いても新発見の連続で新鮮だ。
朝、金沢から七尾まで普通電車で1時間30分。何十年振り?車窓の懐かしい風景を見ながら、沿線で掘った遺跡の数々を思い起こしていた。
帰路は北陸線でトワイライトエクスプレスの車両故障、奥羽本線の普通列車の車両故障・・・・。二つ遅れが重なって家に帰ったら日付けがかわっていた。行きは金沢まで片道7時間、帰りは8時間30分の電車の旅だった。
この石垣と対面するのは4度目になる。震災で大きな被害を受けた白河の小峰城。近世以降、かつて誰も経験したことのない未曾有の石垣崩壊が眼前にある。市ではこれから長い復旧事業にとりくむため、その準備を進めている。
どんな被害があったのか。なぜ、崩れたのか、崩れなかったのか。現状把握と原因の究明からスタートする。
今回の「文化財の修復」は我々に様々な問題を問いかける。スピード感も大切だが、関係者とともに粘り強く議論を続けたい。
国の3次補正予算が通り、これから調査、工事が本格化する。人間は自然とどう向き合うのか。この姿をしっかり目に焼き付けておきたい。
白河の市街地を流れる谷津田川の流域には米を搗く水車が多数存在した。この河川は度重なる水害対策のため近年改修されたが、その際に発掘された遺構(石臼・水路)の一部が復元され、展示されていた。
河川改修では河床を掘り下げ、流量を確保しつつ、護岸には風景になじむ割り石が積まれている。流れの中に置かれた飛び石や堰も白河石だ。味気ないコンクリの三方張りよりははるかにいい。復元された水車小屋はふと町の歴史を思い起こさせる。
白河藩墓所。
藩祖丹羽長重廟や松平結城家などの墓所がある。震災で灯篭や墓石が多数倒壊し、修理が進められている。白河石で作られた石造物はどれもすばらしい。ここは山形同様、譜代や親藩の大名が次から次と入れ替わり、共通する大名もいる。