歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2011-11-21

色紙短冊積石垣


一気に寒くなってきた。
強風、鉛色の空、雨が降ったりやんだり目まぐるしく変わる天気。北陸の冬だ。

雨にぬれた石の色が際立つ季節。
切ったままの石面は鮮やかな色合いをもつが、長い年月をかけて風化する。エイジング・・・・年相応の面構えは時の流れを感じさせて味わい深い。
発掘では、数百年の眠りから覚めた真新しい石の色が現れる。忘れ去られた往時の姿が甦りハッとさせられる。滝壺には能登半島各地から運ばれた景石が置かれていた。

金沢城跡玉泉院丸庭園の滝つぼ石垣。この石垣を江戸後期の穴太は「色紙短冊積」と名付けた。

ほぼ垂直に切り立った石壁の上部にV字形の石樋(黒色)が埋め込まれ、水が落ちる仕掛け。

色紙(しきし)は四角い石、短冊(たんざく)は長方形の石。赤と青は色紙(いろがみ)に通じる。

2011-11-19

豆穀類を調理する


最近、故あって雑穀類の調理を頻繁にやっている。今日はお客さん、学生とともにさまざまな豆穀類の調理実験をした。
ハトムギ、タカキビ、オオムギ(2種)、ダイズ(2種)、アズキ(2種)。

タカキビは脱粒しやすい。籾すりがしくにく粉食が一般的といわれるが、殻付きのまま炊いても食べられた。焦がすとパチバチはねてさながらミニポップコーン。在来種にちかい白アズキとドライフラワー用?という小さなダイズを調理した。このダイズが大方の予想を裏切り、めちゃめちゃおいしい。なんと後味がサツマイモの食味。癖になりそうだった。

市販のオオムギ、マルムギは焦がすと丸ごと炭化した。しかし、大型のハトムギやダイズは調理では丸ごと炭化することはない。遺跡から発掘される炭化種子は圧倒的にオオムギが多いそうだ。どうもこれはそれぞれの穀類の大きさや固有の調理方法と関係があるらしい。ハトムギの炭化穀粒がほとんど出土しない理由がわかってきた。

豆穀類の炊飯では、それぞれ固有の粒状コゲ痕跡ができると踏んでいた目論見はそう単純ではないことが分かった。同じ穀物でも吸水度の違いでコゲのつき方が違うのだ。逆にコゲパターンや炭化穀粒から調理方法がある程度推定できるかもしれない。奥が深い・・・・が、面白い!

2011-11-18

雪の六十里越え


もうひょっとしたら根雪かも知れないと管理事務所のおじさんに言われてあわてて現場に走った。10月に測量調査した西川町六十里越街道の石畳。補足調査に行ってきた。

弓張平の公園は冬季閉鎖に入り、街道の小川にかかる木橋がはずされていた。しかたなく川に降りて道を先に進んだ。かつての旅人は初冬の街道をどう歩いたのだろうか。シーンと静まり返った古道に、雪をはねるススキの音だけがひびく。獣の足跡が点々と並び、真新しい糞が落ちていた。

実測を終え、忘れ物の5寸釘1本と垂球1個、どんぐり少々を拾って帰ってきた。

2011-11-05

高畠まちあるき−石切り場編−


秋晴れの下、第6回高畠まちあるきが開催されました。本日はいよいよ石切り場に突入です。

石の会からは伊沢会長以下、遠藤さん、古川さん、引地さん、井田さん。そして細工石の丁場で富樫さんが合流。午前中は瓜割山丁場で最後の伝統的石切職人−後藤初雄さんから丁場割やその歴史、石キズ(バクハ、ス、クサレ、カナダマ)、石材運搬の方法などを学びました。いまみる最終形態ではなく、職人たちでにぎわっていた時代の石切り場の風景をできるかぎり復元したいという思いで、後藤さんの言葉に耳を傾けました。
ここの石は赤(黄)と青があり、赤はまちなかでもよく目にすることができる。高畠駅舎がその代表。
今日は山麓から山頂めがけて石引道と山道を登り、別の丁場や巨岩に彫られた磨崖碑なども見学した。

続いて、味噌根丁場。谷筋の石引道を上ると大きな丁場が現れる。随分早くに閉じられたようで、内部で木が大きくなっていた。石質は白色系で、瓜割に比べ風化しやすいようだ。上部には羽山から尾根伝いに遊歩道が整備されていた。歴史公園からも道があると見学しやすいので、今後活用を検討してほしい場所だ。気温が上昇したうえ、急な斜面を立て続けに上り下りしたせいで、みな大汗をかいた。石の会の年輩の方々には負けていられない。

次に羽山丁場。個人のお宅の裏山にお邪魔して見学する。石材は白色系で味噌根に似る。機械掘りに使用した切断機がもの悲しく放置されていた。

今日の最後は細越の細工石丁場。ここも個人のお宅の裏庭。灯籠の火袋など、精巧な加工が必要な製品に用いる石材である。実際に石材を見ると、粒子が細かい。反面、風化には最も弱い。神社には大量の石造物が集積されており、一つの岩塊の上面を階段のステップと鳥居の甕腹を削り出して利用したものが興味を引いた。拝殿の棟には桐と卍、菊の紋の入った切石・鬼石がのせられていた。

 初夏から始まった高畠まちあるきはこれで6回を数えた。もう秋も深まり、今年度はあと1回で終わりとなる。街並み編、石造物編、石切り場編と当面は3本立で続けていきたい。先は長いが、活動の中でたくさんの人の交流が生まれ、そこで何かが始まればいい。







2011-11-03

野焼き場


今日、チュートリで土器の野焼きをした。春以来久しぶりだった。

焼いたのは1年生が作ったものが中心。2・3年生は指導しながら、ハトムギの炊飯実験、お米の蒸らし実験をした。4年生・院生は懸案だった縄文の複式炉を作った。

近頃、野焼きの回数が減ったせいか、みなが火から遠ざかっている。調理の火はだいぶコツをつかんできた。もっともっと火と友達になろう。

昨年から実験している弥生炊飯のオキ火上蒸らし。今日の炊飯で、細長い弥生土器にはこの蒸らし方がよく合っていることがわかった。



2011-10-31

甕棺


 大型の土器・陶器に遺体を埋葬する習俗は東アジア各地に存在する。一般に「甕棺」と呼ばれている。日本でも土葬地域で戦後まで残っていたし、火葬の国タイでは骨を土器に入れて埋める例が現在も続く地域があるように、甕棺、土器棺は時代や地域を越えて用いられてきた。
 
 先週、韓国で三国時代の大型甕棺(4〜6世紀)の製作・焼成技術に関する国際セミナーが開かれ、日本の甕棺と実験研究について発表してきた。 日本では、人一人がまるごと入る大きさのものは、弥生時代、北部九州の甕棺や、古墳時代の埴輪円筒棺がある。
 しかし、韓国のものは規模が大きい、大型品は高さ2mぐらいある。東新大学でみたものは口径約90?、高さ約230?、重量600kg以上。一人で担いで運べるものではない。5世紀末ごろの大型品は厚さ3cm程もある。

 日本の弥生甕棺は大きくてもせいぜい高さ1m、50〜60kgあまり、野焼きで焼く。韓半島のものはさすがにこれだけ大きいので、窯で焼く。
 羅州市の五良洞窯跡群は大型甕棺を焼いた窯跡である。ゆるい傾斜面に半地下式の大型窯がたくさん並んでいた。現在、国立羅州文化財研究所が継続的に発掘調査を行っている。

 同研究所では地域の個性的な甕棺文化を研究するためのプロジェクトが進行中だ。甕棺専用工房や実験窯が作られ、継続的に実験が行われている。その充実した施設はうらやましい限りだ。
 ちょうどセミナーに合わせて窯づめが公開された。どうやって運搬したのであろうか。現在、五良洞窯跡群の目の前で道路建設の事前調査で発掘をやっている現場があった。見学はできなかったが、車の轍が何本もでているそうだ。荷車にのせて運んだらしい。

 韓国はあいかわらず開発、開発・・・・。道路工事は多いし、「革新都市」という名の大規模都市開発が各地で行われている。緊急調査体制整備のために各地で調査法人が整備され、現在は100あまりあるという。羅州の革新都市開発ではたくさんの土器窯跡・工房集落が調査されていた。国際セミナーの翌日にその成果発表会が行われていたが、その会場は若い調査員の姿でいっぱいだった。日本でもかつてそんな時代があった。
 







2011-10-29

石の町二題


昨日、お気に入りの場所を二つ見つけた。

ひとつは宅地が素朴な低い石塁に囲まれた村。黄色く染まった銀杏が点々と続く村の中に、小道に沿って延々と続く石垣ロード。規模は済州島ほどではないが、山麓の植生や地形に溶け込んでいる。全南潭面郡にある지실마을。思わず車を止めて写真を撮らせてもらった。
この先の谷筋を登っていくと、せせらぎの音が聞こえる바람소리(風の音)というおしゃれなお店があった。店を出るころにはもうほとんど葉の落ちた百日紅がライトアップされていた。

もう一つは石臼の飛び石。巨大な石臼が並べられ、その先は階段になって小道につながっている。
全南羅州市にある「天然染色文化館」の敷地。伏岩里古墳群見学の帰りに飛び込んだ。羅州には藍染の人間国宝が2人いるため、染色が盛んなんだという。古墳群のまわりには藍が植えられ、いま田が赤く染まっている。日本から種を持ち込んで栽培を始めたのが起源だと学芸員さんが説明してくれた。



2011-10-28

高畠まちあるき☆広報活動

さむいあさ かんせついたい にじゅうにさい
最近めっきり寒くなりましたね。こんにちは、北野ゼミ4年しまです。

去る10月22日・23日、高畠町総合交流プラザで開かれた「高畠交流プラザまつり」に参加してきました。
高畠石の会・高畠町教育委員会・東北芸術工科大学の3者が共同で運営・活動をおこなう「高畠まちあるき」プロジェクトの今年度の活動報告と広報が目的です。

今回は、この1年私たちがどのような活動をしてきたかを皆さんに見ていただきたいと思い、大判プリンターを活用して掲示物を作りました。
もう、目一杯のやつ。

地区の文化祭という位置づけの催しのため、子どもからお年寄りまでいろんな方に見ていただくことを想定して大きな字と適当な余白、分かりやすい言葉を使うように気をつけました。
また、この活動は町の方のお宅にお伺いして聞き取り調査や作図をさせていただくため、ご協力いただいたあとの報告は欠かせません。
今回の機会は協力していただいた皆さんに対しての感謝の気持ちも込めました。

前日の金曜日、まちあるきの枢軸ともいえる文化財保存修復センターのPD長田さんと一緒に掲示物を搬入。
22日は翌日私が手伝うことになっていた

2011-10-23

石の町シンポジウム


 10月22日・23日、千葉県富津市金谷で第3回「石の町シンポジウム」が開かれた。ここ金谷から切り出された「房州石」と呼ばれる凝灰岩は、江戸後期から船で江戸・関東一円運ばれ、各地の建築や基礎、敷石などに使用された。その石切り場の遺構群は、山体の景色を変えるほど大規模なもので、「鋸山」と呼ばれるように古くから名所となっていた。
 いま、石切りは途絶え、往時の面影はないが、「鋸山」は一部観光開発され、首都圏から日帰りできる景勝地として、ハイカーや山ガールで賑わっている。
 この町に熱い思いを抱く人たちが集まっているらしいことは仲間からうすうす聞いていた。だから、いつか訪ねてみたい場所だった。
 今回ようやくその機会を得て参加が実現した。おりしも高畠町での活動を始めたばかりで、これを手土産に参加し、私がひいきの石の町「たかはた」をアピールしてきた。
朝、特急が大雨で運休というハプニングに見舞われ、ひやひやしたが、町おこしのボランティアでこの町に引っ越してきたという美大卒の青年が車を飛ばして君津まで迎えに来てくれた。
 着くなり、常緑樹が繁る山並みを背景に棕櫚の木、金谷石の石塀がつらなる独特の景観が目に飛び込んできた。金谷石は「尺三」(実際は長さ80?サイズ)で切り出されているため、石材が細かい。一二八(1尺2寸×8寸)の1間が基本の高畠石をみなれているせいだろうか。風化が激しく、どこも目地にモルタルが詰められている。高畠の一二八を平積みしただけの石塀を紹介すると一様に驚きの声が聞こえた。しかし、その日の夜と早朝にまちなかを歩いてみると、ここでも裏庭や隣との境にはひっそりと数段平積みしただけのものや集積(ストック)が見られた。そして雨どいの水を貯めていた見慣れない石製品を見つけた。

 講演とシンポジウムの間に、恒例となっているらしい地元高校生による合唱とブラスバンドの演奏が行われた。会場をまきこんだパフォーマンで高校生たちに暖かい気持ちにさせてもらった。

 二日目は現地ツアー。大雨の余韻が残る山麓部の山の中に分け入って、泥岩を採集した石切り場の跡を見学した。その昔、切石を山から下ろす仕事は女性たちが担った。ねこ車のブレーキ痕で磨り減ったこの石敷き道を車力道というが、そこはいま山ガール(老若)たちの登山道となっている。時代の移り変わりをしみじみと感じる。

 山頂ちかくの石切り場からクラシックの音色が聞こえてくる。今日は毎年行われている鋸山コンサートの日だった。登山道をのぼってきた人たちは、突然大きな石切り場跡があらわれ、そこでクラシックコンサートと書道家によるパフォーマンスが行われていれば驚くだろう。切石に丸太を渡しただけの観客席でしばし腰をおろしていく。索道の起点や鍛冶小屋の遺構、10年数年前までは現役だったろう機械類が無造作に置かれ、時の流れを感じさせる舞台だった。

 ここには土地の歴史を掘り起こしながら、その遺産をしっかりと受け継いで、町の行く末を自分たちで考えて作っていこうという人たちがいる。全国に石の町はあまたある。しかし、金谷でみたようにそれらは当時の自然や社会、さらに現在に至る環境の違いが反映されてみな違う顔を見せる。高畠は高畠らしい、全国どこにもない「石の町」であることを確信した。それを顕在化させるのがこれからの仕事になるだろう。









2011-10-16

紅葉真っ盛りの六十里越街道


 土、日曜日、考古学ゼミ3〜4年生9名と六十里越街道の測量調査に行って来た。1泊2日の短期決戦だ。

 土曜日朝8:30大学を出発。金曜日に続いて月山路を走る。朝から雨がざあざあ降ってきて・・・・9:40西川町弓張平公園に到着。雨の中での調査は慣れたもの。ブルーシートとトラロープを持って準備OK。

 早速4班に分かれて調査開始。弓張茶屋平板チームと石畳Aチーム、石畳Bチーム、石畳平板チーム。午後から雨が上がり、紅葉真っ盛りの落ち葉を掻き分けながら実測は進む。夏に石室の実測でいやほど石を描いた後では、簡単なもの、といわんばかりに実測のスピードは上がる。予想外の進捗。

 江戸時代の絵図にも描かれた弓張茶屋跡。溝で区画された平坦面があり、地表に礎石らしき石材が数個露出している。土中にピンポールを刺しながらその位置を探っていくと、180?間隔で綺麗に並んでいる。桁行(6尺)7間、梁間(8尺)2間に1間の庇がつく礎石建物だ。道路を挟んだ向かい側には石積みがあり、ここにも平坦面がある。茶屋中心部の遺構の残りはよいが、周辺が未調査のまま公園造成で失われてしまったのは惜しい。

 コテージが建ち並ぶ公園の一角から、沢に下りていくと角材4本を渡しただけの木橋がある。ここを渡ると湯殿山碑があり、坂を登っていくと大きく道が右にカーブする。石畳Aチームの実測場所。自然石のみを敷き並べる。両側に大きめの石を置いて縁を決め、内部を中小の位置で埋める。目地には粘土が張られ、石が動かないようになっている。
 さらに300m坂を登ると、Bチームの実測場所につく。ここは、割り面を表に向けた大型の敷き石を並べる。石垣石のように矢穴列があり、ノミ加工している。
 このように石畳は場所によって施工方法が異なっている。時期差なのか、割普請によるものなのか興味深い。
 
 夕方、あたりが暗くなって調査終了。月山湖から大井沢を抜けて大江町へ入る。峠のトンネルを越えるとそこは柳川温泉。暗闇でなかなかスリルのある道だった。

 学生たちにとっては、夕食準備も慣れたもの。図面チェックをしているとご飯ですよ!の声。久しぶりに腹いっぱい食った。夏の調査でみんな胃袋が大きくなっているのがよくわかる。いったい何合炊いたの?町教委から地ビールの差し入れ、ありがとうございました。

 朝食も、夕食に負けずおとらずよく食べた。高畠でもらった元気米。オリンピック選手らが食べた「集中力が高まる」お米である。戸塚山のときも不思議と効いた気がする。
 
 日曜日は天気がよく紅葉がひときわ綺麗だった。予定した調査が終わり、夕方5時、一本締めて現場を後にする。

 宿といい、現場といいカメムシが大量発生していた。今年も雪は多そうだ。 

 ひと夏過ぎて、学生たちは確実に変わった。
 自分の役割を理解し、人のこと、チームのことを考えて動くようになった。
 現場は人を育てる。充実した二日間、疲れはあるがすがすがしい。

 もうひとつ変わったこと。カメラ目線の笑顔(*^。^*)








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