今日の鳩山の最高気温は37.4度だった。熊谷だけではない、ここもかなり暑いぞ!
埼玉県鳩山町は人口1万5千人余りの小さな町。しかし、ここには東日本最大規模の古代窯業遺跡があり、考古学者ならたいていは知っている。近畿の陶邑窯、東海の猿投窯、九州の牛頸窯。そして、関東はここ鳩山の南比企窯跡群である。
いま、町では国の史跡指定を目指し、国庫補助を得ながら窯跡の範囲確認調査を行っている。ここでは須恵器だけでなく武蔵国分寺等の瓦も大量に生産している。瓦専業の工房と、在地須恵器工房での生産と2本立てになっているところが興味深い。
大規模な須恵器窯業地は、政治社会的な人文的要因と地形・地質、植生などの自然的要因が重なるところに形成される。南比企窯跡群のある丘陵地は須恵器窯業地の典型的地形、教科書的な立地をなす。これからの調査でその全貌が明らかにされていくことが期待されている。
作業に当たられているみなさん。この暑さの中、本当にご苦労様です。この前、現場でいただいた朝もぎのキュウリ、みずみずしくてとってもおいしかったです。
第3回高畠まちあるき−町並み編−開催
9:00「ふるかわ」の駐車場に集合。まず、芸工大の長田さんが大きなパネルを使って第1回の成果と本日の予定を説明。午後から雷雨の予報が出るなか、雲行きを心配しながらのスタートとなった。歩いたのは前回やり残した安久津二区〜鳥居町の西側。開始とともに気温が上昇、今回も炎天下での作業となった。15:30終了とともにスコールがやってきた。古川邸で乾いたのどを潤しながら、調査のとりまとめと成果発表会を行い、17:30ごろに解散となった。
今回は町議選前日であったのと諸行事が重なり、地元勢は遠藤さん、古川さんのお2人。これに芸工大メンバーが加わり、14名が3班に分かれて調査に入った。学生は歴史遺産学科と建築環境デザイン学科の2年〜大学院生が参加した。
安久津二区、下有無川のほとりに小さな社地がある。鳥居や社殿がないので車だとつい通りすぎてしまうが、高畠石の石祠や石塔、旗竿石などが並んでおり以前から気になっていた。このたび、社地の隣に住む森さんから「お天王様の境内」という高畠町文化財保護会の会報のコピーをいただいた。これはかつて神社のお向かいに住んでおられた山口留雄さんが一つ一つの石祠、石塔の由来を丹念に調べあげて書いたものである。これによれば、お天王様(祭神は素戔嗚尊)は木造のお堂だったが、大正15年に現在の石のお堂に作りかえられたという。隣の石祠は火伏の神−秋葉山、その隣は湧水の豊富な安久津にふさわしい水神様。さらに庚申塔、酬恩碑、灯籠の由来等が書かれている。半分に折れた日月の石塔は有無橋上流の護岸工事の際に発見されたものを有志が持ち込んで建てたという。前回の青龍寺でも屋代川に流れてきた馬頭観音碑を大事に祀っていた。高畠の人々は無縁の石塔も大切に扱ってきたのである。これらは自然を畏れ敬い、感謝しつつ五穀豊穣、無病息災を願って生きてきた住民の想いを映し出している。お天王様に初なりのキュウリを供えてお参りする習慣は今も続いている(写真)。
Oさんはもと山石工。3年前に高齢のためやめた。この方のお宅はこれまで調査した中では最多の高畠石を記録した。特筆されるのは今では町内でも数少なくなったサイロが現存することだ。下部は切石を円筒形に組み、上部に方形の木造小屋をのせる。トウモロコシ飼料などをいれたそうだ。向かいには藁小屋に隣接して角石を方形に積んだ堆肥置き場がある。現在はぶどう栽培に係る堆肥場として利用されている。大正期に始まった酪農は、稲作と結びついて有機農業の里−高畠の顔となった。高畠石で造られたサイロと堆肥置き場は、近代の高畠の人々が自然を有効に利用しながら地域に根ざした生業を営んできたあかしであり、「高畠らしさ」を代表する遺産ではなかろうか。
そして「まちあるき通信」第1号でも紹介された「石臼置き」。今回も出会いました。Tさん宅では庭へつながる園路で2列に敷いた切石に混じり、ぽつんと一つ石臼が埋め込まれていた。「石臼置き」は姫路城や佐渡相川・米原市曲谷(石臼産地)、東本願寺別邸庭園など各地に例があり、近世には広く石積みの意匠として用いられるようになった。これらはそれぞれに象徴的な意味を付与されているそうだが、現代の高畠の人々はどんな想いで石臼を置いているのだろうか。そういえば、私の実家(石川県)でもまったく同じようにして使わなくなった石臼を家の角に置いている・・・・・はて?
次回のまちあるき−町並み編は、このまま二井宿街道を東にのぼり、10月8日(土)に実施します。
「夏祭り」
この言葉によせる思いは人それぞれ熱いものがある。
今年の東北の夏祭りは鎮魂と再生を誓う特別な祭りとして行われている。
そんな中、北陸地方のとある港町の夏祭りを訪ねた。400年間続く伝統行事。「盆に帰らずとも祭りに帰れ」という土地柄。“地域に根付いた祭り”に出会うと心があつくなる。
私の祭り体験は15歳〜24歳まで10年間、夏の村祭りの担い手として獅子舞と盆踊りの太鼓を叩いた。時には近隣の村の盆踊りの舞台にも出向いた。いまでも太鼓と笛の音を聞くと体の中から熱く沸き上がるものを感じ、ふわふわと足が踊る。
過疎化した村では伝習システムが崩壊し、いまは昔のような姿では祭りは行えない。しかし、ここでは違った。小さな子どもからお年寄りまで、それぞれの役割があって、参加意識が強い。祭りを通して世代間のコミュニケーションが活性化され、地域のコミュニティが生き生きしているようにみえる。いい祭りだなあと眩しかった。
3日間行われる祭りの初日。このテンションで3日間持つの?
午後から普段は大学でやっている美文の「立体美術技法演習」という授業を高畠町の瓜割山でやった。
いつも大学でノミをあてられている石材にとっては、今日はトラックに揺られての里帰りという格好になった。
ツルによる石切りは御年82の後藤初雄さんに手本を見せてもらいながら体験した。
腰をふらつかせながらも必死にツル先を溝に落とす学生たち。
次いでセットとノミで「ノミ切り」の作業をした。指導するのは引地道春さん。毎年学生が実習で使う石材のお世話もしていただいている。まちあるきイベントではもうおなじみの方で随分ファンがいる。
「学生のノミを打つ姿もさまになってきた」と藤原先生。
学生たちの黙々と作業する姿は眩しくうらやましくも思えた。
このワークショップは文化財保存修復研究センターが進めている「高畠まちあるき」プロジェクトの一環で、地域の資源(遺跡・伝統技術・歴史など)を再発見し、その活用を考える試みのひとつである。
あれから、もうだいぶ時間がたった。
昨年の暮れにチュートリをあげて大きな土器をたくさん作った。
6月25日公開、浅丘ルリ子主演の映画「デンデラ」の撮影に使う小道具だった。デンデラは山形では庄内映画村ロケ作ということで結構注目されている。草笛光子、倍賞美津子、山本陽子、山口果林ら、女優陣もそうそうたるメンバーだ。『楢山節考』の今村昌平の息子(天願大介)さんが撮っているのと、そのストーリーから「姥捨て山のその後」とも言われる。
http://www.youtube.com/watch?v=59JTgQxK1bk
ちなみに、デンデラのポスターはババアたちの「目力(めぢから)」ゆえ、書店での万引き防止ポスターに採用されている。
原作は佐藤友哉の同名小説で、当時学生たちとみんなで回し読みした。
今日、ようやく映画を見てきた。
スクリーンの大画面に土器が大写しになるたび、あれは誰の作だっけ?と思い出しながらみてしまった。
原作では鍋やお椀は土器ではないが、映画ではふんだんに使われている。学生たちの作る土器をみて当初映画のコンセプトに合うのか不安だったが、スクリーンに映るその姿はなかなかいい味を出していた。手前味噌かもしれないが、夜の村に松明が燃えるシーンは特によかった。あの受皿(火床)の土器はみな学生たちの作だ。
エンドロールに土器を作った学生10人の名前が誇らしく刻まれていた。お世話になった助監督さん、スタッフのみなさんありがとうございました。
庄内と村山を結び、湯殿山詣りの道として著名な六十里越街道を歩いた。
地元の方々の努力で石畳遺構が顕在化し、一部復元されるなどして歩きやすくなっている。山形に来てもう10年になるが歩いたのは今日がはじめてだった。
かつて信仰の人、物資を運ぶ人、参勤交代の大名・家臣団など、さまざまな階層の人々がそれぞれの思いを胸に行き交った日本海側と内陸を結ぶ大動脈だ。
石畳も地区によって一様ではない。岩石種や施工方法に違いがある。分担施工−割普請だったことをうかがわせる。
この最後の「舗石」は石塔の記年銘から文政年間に施工とみられている。大半は幅4尺で統一されているが、長さ3尺の安山岩の大型石材を横に並べているところもある。表面にはノミ加工がみられ、あたかも石垣石のようだ。
見どころは石畳だけでない。茶屋跡の礎石と石垣、追分に立つ石塔(新たに発見!)、巨石の供養塔がならぶその名も石塔坂、志津番所からの旅程を示す丁石、志津村の入り口に立つ常夜燈と石塔群、そして志津五色沼周辺の石塔群。
しかし、石仏は1体もない・・・・。岩石種の違い、自然的要因なのだろうか?宗教的理由なのか?
今日のゼミは寺子屋のごとく、古墳時代の復元住居の中で行った。
この天気、さすがに囲炉裏の火を囲んでというわけにはいかなかったが、時折吹きぬける風は涼を運んでくれた。
奥山さんありがとうございました。
暑い中、燻蒸作業ご苦労様でした。
囲炉裏端で、悩み多き若者の人生に寄り添ってくれるといううわさのお母さん(ばばさま)たちです。
こんどはゆっくり薪の燃やし方教えてください。
帰りがけに、芝刈りを終えたおじさんが、ねじり花を一株持たせてくれました。研究室に可憐な花を咲かせています。
石造文化財は長年の風雨にさらされ劣化する。表面が風化したり、破損してしまう運命にある。なかでも凝灰岩は老化が早い。
数ある石造物のなかでも石鳥居は土地の記憶を思い起こさせる象徴的な記念物である。
修理し続けて使い伝えること。それが遺産を継承することか。その理念は時代や土地によって普遍的なものとは言えないが、「本物」をできるだけ長く後世に遺したい。町のあちこちに土地の記憶をたどる場所やモノがある暮らしがいい。
今日は第2回目の高畠まちあるき。場所は青龍寺〜羽山。このお寺はもと修験道の坊院として栄え、神仏分離後は天台宗の寺院となった。高畠の聖地−羽山を東に拝み、その麓にある薬師堂を中心に数多くの石造物が集積する。
今日は芸工大から10名、地元からは午前中6名、午後3名の参加を得て、記録作業を行った。
高畠石の石造物は中世〜明治期におよび70点あまりを数えた。
凝灰岩は表面の風化が激しく文字や図像の読み取りが難しい。1点ずつ略図を描き、寸法を測り、読み取った文字を記入していく。読みにくい文字は懐中電灯で影を作りながら読んでいく。読めなかった文字が太陽光の角度が変わり一瞬にしてわかることもある。
お酒の神様「松尾大明神」の供養塔には当時の造酒屋の名がずらりと並ぶ。講の人々がこの前で神を祀り、新酒の出来を祈るとともに、酒の値段を談合したという。一つ一つ読んでいくと高畠石の会のメンバーからは○○酒屋の先祖だ!と廃業した家も含め、ほとんど人の現在地が判明していく。現代と土地の記憶、モノの記憶がつながっていく瞬間である。
この「大念仏」石塔はかつてこの地で念仏踊りが盛んだったことをうかがわせる。
主題「大念仏」の右には「屋代」、左には「北條」とある。
基礎は4段と豪華で、2段の下台(芝台)には人名がずらりと並ぶ。
「屋代」はこの高畠町の旧・屋代郷、「北條」は高畠町と接する南陽市南部の旧・北條郷を指す。
この地で念仏踊りが始まったのは、上杉鷹山の時代といわれる。当時この一帯が大旱魃に見舞われ、これを憂えた鷹山が「大念仏」と書いた幟を屋代郷と北条郷に下賜して雨乞いをさせたのが始まりとされる。
以来豊作祈願の神事として、置賜郡内各地で奉納されたらしいが、今ではほとんど行われていない。そのなかにあって、南陽市鍋田の「大念仏おどり」(大符神社の春の例祭、市指定無形文化財)は北條郷の念仏踊りを引くものとして貴重な存在である。
この青龍寺にある「大念仏」石塔は鷹山の事績を証明し、現在は途絶えてしまったが屋代の人々の五穀豊穣の祈りを今に伝える文化遺産といえる。