この日は炎天下で土鍋調理をし、いい汗をかいてから、静寂の本山慈恩寺に向かった。
慈恩寺は山寺立石寺とともに東北を代表する名刹である。
慈恩寺修験の総本山で、阿弥陀如来坐像(釈迦如来)をはじめとする院政期の仏像群は質量とも国内屈指の内容を誇る。
建造物や無形文化財(林家舞楽)にも国指定があるほか、文書など貴重な歴史資料が山積みである。言わずと知れた歴史遺産の宝庫である。
寒河江市は、これまで慈恩寺修験の実態解明と新たな価値付けにむけて地道に調査に取り組んできた。
近年史跡としての保存対策が遅れているとして、楯跡や行場(三業など)の調査も行い、その全体像が少しづつ明らかにされている。現在は本堂をはじめとした慈恩寺の主要な部分のみが県指定となっているのみである。
ところが近年の調査で、院坊群の広がり、背後の尾山(御山)の修行堂、四か所の楯跡(逃げ城)、宗教都市を支えた町屋・手工業集落など、想像を超える規模で遺跡が残っていることが判明しつつある。
さらに階段状をなす院坊集落の文化的景観や建築にも見るべきものがあり、道具類をはじめとした有形文化財や、坊の主人らによる修行習俗の継承など無形文化財もよく残っていることが地元研究者の調査で分かってきた。
言葉は悪いが、昔風にいうと「文化財の総合デパート」とはまさにここのことではないか。
今日はあまりに巨大な遺産を目の当たりにし、しばし茫然自失…。「慈恩寺修験の里」はおそらく世代を超えて新たな発見と価値付けがなされ、継承されていくであろう。それぞれの時代でその知恵が試され、文化遺産とともにある生き方が問われていくのではないか。
こんにちわ!はじめましての方ははじめまして、以前からご覧頂いている皆様はおひさしぶりです。
無事3年生になりました、あべちゃんです。諸事情によりここ半年ほど消えておりましたので…でも無事進級です!北野ゼミに入りました〜!諸事情については…いずれ話す時がくる…かも?
さてさて、今日は土器チュートリアルの新歓をしました!天気が心配されましたが、当日は憎らしいほどに晴天でおまけに気温は34度…!?もう夏ですねー。あつい!
今回は野焼きは行わず、調理実験のみを行いました。野焼きはもう少し涼しくなってからしましょうね…(笑)それまで沢山作りましょう!
参加したのはいつもの3年メンバーに、2年生のくっしー、1年生が3人!実はこの3人は美文の1年生なんですよー!歴産の1年生は今回は不参加でしたが、次は一緒に!体調不良のOちゃん大丈夫かな?
3年目なのだから火つけもお手の物?と思いきや…先生に「もっと考えてやれよ〜」と言われてしまいました…反省。火つけのできる女になりたい!!!みんなでなれるよう努力ですね。
炊飯技術もまだまだ…やはり基礎的な炊飯の練習をもっとしなくては…!!!今年の後半は実験に身を捧げることにしましょうかね!!!ですが、一連の流れは昔よりずっと手早くできるようになりました!3年目の力ですね!私はほとんど役立たずでしたが(苦笑)
そういえば今日はなぜか木登りが大流行。みんな野生児です。いや、妖精さんもいたなあ…。あと、カメラっ子もいたなあ…。
今月末のオープンキャンパスでも調理を行う予定ですので、これを見て気になった方はぜひ野焼き場に足を運んでみてください^^楽しいチュートリメンバーがお迎えしますよ!木登りも実演しますよ!…木登りは関係ないですね。
オープンキャンパス以外でも調理実験をしています。もしいぶ臭いにおいがしたら確実に私達です(笑)他学科の方もぜひ野焼き場に足を運んでみてください^^
野焼き、めちゃめちゃ楽しいです。
19日の日曜日、芸工大・高畠町教育委員会・高畠石の会による第1回高畠まちあるき−町並み編−が行われた。9時のスタート時にはくもり空だったたものの、歩き始めて、記録を取っているうちに気が付くと真夏のような青空とうだるような暑さとなった。
このまちあるきは、二井宿街道の町並みを1軒1軒訪ねながら、高畠石(地元で産出する凝灰岩)を使用している遺構や石造物を探し、記録していく作業だ。住民の協力と対話が欠かせない。19日は24名が参加、4班に分かれてそれぞれ16時過ぎまで記録を取った。学科からは1〜4年の7名が参加した。
リーダー、聞き取り係、地図作成係、測量係、カメラ係。あまりの石の多さにみんなてんてこまいの1日となった。
最後に全体で検討会と成果発表会をし、楽しい懇親会へとなだれこんだ。おまけとして夜の石切り場ツアーもした・・・
予想外の成果に、日焼けで火照った体と興奮はなかなか冷めやらなかった。
わたしが高畠町に通いだして、今年でちょうど10年になる。周囲の里山には何箇所も石切り場があり、建築基礎や石塀、敷地境界、側溝、囲炉裏、井戸など、あらゆる場所にふんだんにこの石が使われてきた。生活の風景の中に、高畠石とともにあった地域の人々の歴史の営みが重層的に顔をのぞかせている。そんな町が好きなのである。
他の土地ではみることのできない、この「高畠らしい」町並みがいつどのようにして形成され、現在に至るまでどのように変容してきたのかを調べてみたいと思った。そこには、身近な自然資源とうまく付き合っていく暮らしの知恵や限りある資源を持続的に使い続ける精神と技術、自然と共生し地域のつながりを支えてきた信仰などが垣間見える。
車でこれまで素通りしていた町並みも、ゆっくり歩き、すれ違った人と話しをしながらいくと、全く違った風景が浮かび上がってくる。そんな経験はないわけではなかったが、数年前からここを歩くたびにその想いを強くするようになった。
そんな思いを共にする地元の人たちが自然と集まり、昨年度末に「高畠石の会」が準備され、今年春正式に発足した。そして、今回住民の皆さんの協力を得て、いよいよ「運動」がスタートした。おりしもこの5月から文化財保存修復研究センターに強力なスタッフが加わり、調査が加速することになった。
自分たちの住む土地の「記憶」と「らしさ」を自らの手で調べていく。石をみるまなざしには、いろいろな「目」があると面白い。地元の人、よそ者。若者、青壮年、お年寄りが入り混じって。
この活動の背景には「自然と人との関わり」がテーマにある。現場での出会いと交流のなかから、それぞれが自分たちの住む土地の未来や生き方のヒントをみつけてくれればと思う。
イベントとしてのまちあるきは、このあと7月10日−石造物編−、8月6日−町並み編−と続きます。
佐渡の相川は石垣の宝庫だ。慶長期のゴールドラッシュで相川には金山集落ができた。近世の中で町は徐々に海岸部に中心を移すと、初期の上相川の町は廃墟となった。当時の繁栄を思わせる町並みの跡がいまもひっそりと山あいに残っている。鉱石を砕く「叩き石」やこれを挽く「磨臼」が各所に散乱する。近代の人々はこのような臼を拾い、石垣に利用してきた。石臼が組み込まれた石垣は今の町並みに栄えた時代の記憶を明瞭にとどめている。
瀬戸のような窯業地を歩くと、サヤ鉢など窯道具で積まれた塀垣をみかける。慶州でも陶磁器や瓦片の混じった土塀がある。
大事にしたい風景だ。
佐渡に来た。佐渡も甲子園で盛り上がっている。佐渡高校が21世紀枠で春の甲子園に出る。波佐見に続いて、変な縁を感じる。
佐渡相川の海岸部には金山の鉱石を挽く石臼の石切り場がある。かねてから見たいと思っていた現場だった。
上臼は吹上海岸の流紋岩を、下臼は片辺鹿野浦海岸の花崗岩塊を含む角礫岩を切りだした。それぞれの石切り場が現在でも風化侵食に耐えて残っている。いずれも波が打ち付ける磯の岩盤だ。
慶長〜元和期には節理をみながら矢穴で切り、近世後期ごろからはノミで溝を掘って矢ではぎ取る技法に変わったようだ。
鉱石を砕く叩き石には玄武岩質の真っ黒の石が使われている。円礫で沢や海岸で拾って来たものか。
春日崎では凝灰岩の溝切り丁場も残っている。
島にある多様な岩石を調べつくし、道具に応じて使い分けたのだろう。
鉱山には石にまつわる知恵と技術が結晶している。
眼鏡橋といえば、長崎の中島川が有名だ。寛永年間創建でその後何度も流され、そのたびにかけ替えられた。昭和57年の長崎洪水の後の改修でも景観を守るために、周辺は石積み護岸とし、洪水時の流量を確保するために、川幅はそのままに,
両岸の地下に暗渠でバイパス水路が作られた。
ボランティアで案内をしているおじさんによれば「愛」の石は6個あるらしい。観光客に1石ずつ丁寧に案内していた。
長崎はいま竜馬人気で例年以上の観光客でにぎわっている。
トルコライスと百円アイスが人気。大道芸人・数学者のピーター・フランクルが道端で自著を売っていた。
歴史遺産学科・謝れい先生のチャイナドレスコレクションが長崎歴史文化博物館で展示されていた。この人はいったい何者なのか?いつか山形でもやってほしい。モダン、西洋、民族、イデオロギー、表象、ローカリズム、グローバリズム・・・・・、さまざまなカテゴリーが頭をよぎるが、理屈抜きに美の世界にいざなわれる。5年ほど前だったか、学生たちと歩いた西安の夜を思い出した。朝起きたら髪の毛が真っ黒だった夜を。
3年ぶりに波佐見にきた。
この春は波佐見高校が甲子園にでるので町中で盛り上がっている。
なつかしい人と1匹に会った。仲間が増えて存在感を増していた。
そして、大好きな棚田と石垣をみて、焼き物のまちを車で回った。
以前、大雨で崩れた石垣は綺麗に復旧されていた。
でもいかにも現代風でちょっと味気ない。
ちかごろはどこでも自然石を積む石工がいない。
奥の集落では屋敷の境に昔ながらのしっかりした石垣がたくさん残っている。
甲府城鉄門の復元整備が始まった。
現存する礎石は保護しつつ利用する。復元建物は史実に基づき在来工法で作るが、地盤強度は十分か?現代の建築基準法や消防法の規制も受ける。史跡の整備はいつもこのような伝統と現代のせめぎあいの中にある。ぶれない基準をもとめて模索が続く。
門脇の石垣は抜け落ちた間詰め石を打ち込み補強する。
5:20、まだ夜が明けないうちにホテルを出る。13・14日が村まつりだというので、とても名残惜しい。残留組に託す。
バスターミナルに着くと、運転手と3人のスタッフが準備中。スタッフの一人の女性はバスの中で化粧に忙しい。終わるとバスのフロントと地面に線香を立てて道中の安全を祈る。パクセー、サバンナケートを経由して、これからビエンチャンまで、いったい何時間かかるんだろう。
6:15バスが出発。ところがずっと人が歩く速度で徐行。外を見るとスタッフが外を歩いている。沿道の家から荷物を預かり、その都度バスに積み込む。バスは荷物運送、宅急便の役割も兼ねている。もちろんお客さんも随時乗り込んでくる。
7:00やっと走り出す。人家があるとクラクションを鳴らしてバスが来たことを告げる。人がでてくるとそのたび止まって客を拾う。パクソーンに着くまでバス停は3か所あったが、基本的にどこでも乗り降り自由。とても便利なバスなのだ。
7:30 最初のバス停、朝食売りにくる。もち米と水牛のジャーキーを買う。
8:10 2番目のバス停、出発まで35分も休憩、なぜ?
9:50 3番目のバス停は市場の前、売り子の女性や子供がバスの中でねばる。大賑わいで出発まで20分。
そして、今度は突然、人家のない道端にとまったと思ったらトイレ休憩。みんな草むらにちらばっていった。
パクソーンに近づくと広大なプランテーションが見えてくる。沿道の家はどこも庭にコーヒー豆を干している。
バスはその間、陽気な音楽をかけ、ひたはしる。アッタプーからパクセーまで信号はひとつもない。
車窓の風景や乗り降りする客をみてれば決して退屈な旅ではない。ただし、急ぐ旅でなければだ・・・・
11:45パクセーの町に入ってきたが、ここでまた徐行運転が始まった。人・荷物を積んでは降ろし、降ろしては積む。
実はこれほどバスの時間がかかるとは思っていなかった。いよいよ出国時間に間に合うか不安になりあせりだした。
12時過ぎにバスを降り、トゥクトゥクで国境行きのバスが拾えるところまで行く。それからミニバンに乗り換えて、1時まえにやっと国境につく。かえりのイミグレーションはすいていた。僅か10分で通過。
ここからはまた車の旅。ウボンで徳ちゃんとオーさんをおろし、ひとりコンケーンに向かう。7時前に空港についた。去年は国境のムクダハーンからバンコクまで10時間走ったが、今回も都合13時間ほど車に揺られたことになる。
離陸して感じたのは飛行機の離陸角度が日本とは全然違うことだ。障害物がないためか機首がぜんぜん上がらない。気がつくといつの間にか水平飛行。
バンコクのスワンナプーム空港は正月明けで相変わらず混んでいる。預け荷物を減らすため着込んだらやけに暑い。手にはむき出しのモーサオロー、背中にはS村でもらったモーエンナム(村長の奥さんが頭の上にのせてた土器)。いつもながら、カウンターや手荷物検査の係の人は笑ってくれた・・・・