まだ、電車の揺れが体に残ってふわふわしてる。
木曜日深夜、7時間列車に揺られて金沢に着き、仕事を終えて金曜日夕方に帰路についた。運休が続出する中、運転を再開した電車に乗ったはいいものの、おりからの強風で、電車は徐行、停止をくりかえす。最終の山形新幹線に乗れればいいや、と思っていたのがやがて、最終の東北新幹線に間に合えば仙台までは行けるし・・・。そのうち、これは今日中に帰れないないぞ、となり、ついには越後湯沢で最終の上越新幹線にやっと乗れるという事態。大宮駅前のサウナで夜を明かすことになった。天気が相手では仕方ない。秋田から金沢に帰る時、酒田で増水した最上川を越えられずに、秋田へ戻り、盛岡、大宮、越後湯沢を経由して一日がかりでかえったこともあった。
急ぐ旅でなければゆっくり帰るのだが、今日は朝9時から午後まで楽しみにしていた授業がある。車窓の日の出に眠い目をこすりながらまた東北新幹線に揺られた(山形新幹線は始発から止まっていたというからラッキーだった)。
授業のテーマは地域で働くということ、地域に貢献できる人材とは、NPO法人とは。2年生対象の授業である。
市民活動支援、地域貢献の現場で働く先輩二人を招き、学生の質問を交えながらそれらの意味を考えてみた。3年生になるといやおうなく就活の嵐に巻き込まれる。波に揺られていれば、運よく就職できるかもしれない。しかし、働くことの意味を考えないまま、現場に出てしまい、受け入れられない現実に直面して退職してしまう例も耳にする。それも前向きに考えれば決して不幸とは言えないかもしれない。でも大学時代は自己の働き方、生き方を考えるための知識と経験を身につける時である。学科での日々の学びの方法を思い起こし、社会で働くイメージ、自分なりの職業観を持つようにしてほしい。
NPO法人で働く先輩たちの働き方、意識、後輩たちへのエールにみんなは何を感じてくれたのだろうか。
午後から埋文センターの大場氏が1年生の有志のために石器教室を開いてくれた。授業が終わってからこちらに合流した。前向きに学ぼうとする姿はみていて美しい。講師はもっと嬉々としている。そんな関係がいい。
電車のトラブルはないほうがいい。でもこんなときこその体験は意外と楽しい。JRの風対策や乗り継ぎ列車の手配、急病人が出た時(トンネル内で非常ボタンが押されたが、もちろん止まらない。飛行機と同じように医師や看護士を探すアナウンス)の対応などがわかる。トラブルに巻き込まれた時の乗客の反応も人それぞれでおもしろい。普段あまりみない歓楽街のサウナにつどうおやじやおねえさんの生態を興味深く観察していた。
こんにちは、むらっちゃんです。
11月25日から27日まで、ススコゲ調査で北海道へと飛んで行きました。メンバーは北野先生、福田先生、神先輩、獅子座の女、自分の5人という比較的少人数でした。自分は初飛行機だったのですが、獅子座の女に「飛行中に顔が次第に土気色になるのが面白かった。」と言われました。
今回は北海道大学敷地内から出土した、サクシュコトニ川遺跡の土器のススコゲを調査させて頂きました。サクシュコトニ川遺跡の土器は『擦文式』で、アイヌ文化とはまた違った文化だったそうです。
25日の夜に山形を出発したので、北海道・札幌に着いたのは深夜近くでした。翌朝、さすが北海道、山形とは寒さが違うぜと思いつつ北海道大学へと向かいました。
ホテルから北海道大学までは徒歩1〜2分で、今回は移動が楽だなぁと思っていたのですが、そうは問屋が卸さない。北海道大学の広さをなめていました。か〜な〜り広い。獅子座の女曰く、「ディ○ニーランドが入るんじゃないか?」だそうです。なんせ一学部に建物一つですから、大学全体が街のようでした。
サクシュコトニ川遺跡のカマドは、土器が一つ掛けと考えられているそうなので火前が分かりやすいかと思っていたのですが、そうは問屋(以下略)。全体的に二次被熱が多く、土器を観察する経験の浅い自分には、なかなかに分かりにくいものでした。
次第に混乱してきて、「君は赤化しているのか。」と真剣に土器に語りかける始末…。
カマド掛けに使用された土器は、口縁部が短く模様が無いのに対し、直置きは口縁部が長く模様が付いているという作り分けがされていました。
その日の夜、神先輩、獅子座の女、自分の学生組は北海道の海鮮を求め、福田先生の情報を元にあるお店に向かったのですが、思いのほかお値段が高かったので断念。札幌の町をしばし彷徨い、結局札幌ラーメンを食べました。
最終日、引き続き作業を続けました。
今回で自分が参加させて頂いた調査は四回目なのですが、慣れてきたせいか、逆に土器から読み取った色々な情報を、上手く整理することが出来ませんでした。次回までに、もっと頭の回転を早くしたいです。
今回、北海道に行くにあたって、海鮮に胸膨らませていましたが、何故かラーメンばかりを食べていました。でも美味しかったです。
山形県教委が調査を進めている最上川沿いの古代水駅の候補地を歩いた。
忙しく野菜の水洗いをしているお爺さんに話を聞いた。この用水が最上と庄内の境だよ。こっちが戸沢村。でもこの道路は旧松山町の予算で作ったんだ。今年の山は熊がたくさん降りてくるよ。。。 そして船着き場に案内してくれた。かつて舟が行き来していた時代、曳舟をするため河原は持って管理されていたらしい。帆船から船外機へ、水難事故のこと、仕事を辞める経緯、自らのライフヒストリーに重ねて舟運の歴史を語ってくれた。
夏に調査した戸塚山古墳群の現地説明会と講演会が行われた。
現地見学会には90名余りの人が参加し、寒空の下1時間30分、調査成果に聞き入った。今回のイベントは地元上郷地区公民館、小中学校が主体となり、米沢市教委と協力して地域の歴史遺産を自らが学び、顕彰しようと企画したものである。
午後からは地元中学校の体育館を会場に記念講演会が行われた。広い体育館で、暖房がなかなか効かない。シンポジウムの時、壇上で寒くて震えたのは初めてだった。
懇親会のとき、記念講演の講師は、笑いをとれなかったことがもっと寒かった!と嘆いていた。
講演を聞く聴衆の姿勢にも地域差がある。以前、関西で講演した時、ちょっとしたジョークにお客さんが大爆笑してくれる。意外な反応に、こっちはもっと笑ってもらおうと策を練る。すべってもそれがまた笑いになる。そんな関係で講演が盛り上がるとしゃべったほうも達成感が味わえる。大阪は寄席の伝統からか、日常会話にも笑いのやりとりが不可欠とされる。
当の講演、実は大変面白くみんな心の中で大笑いしていたのだが。それを表に出して表現するのは失礼と感じる土地柄なのだ、と周囲からなぐさめれていた。よけい痛い・・・
ちなみに講師は生粋の大阪人。
体育館の壁には上杉謙信と鷹山の額が掲げられている。米沢市の小中学校はすべてそうなのだと。郷土の偉人をまつるのは先史時代から変わらぬ人の営みだ。現生を生きる首長や我々にとってそれは極めて政治的宗教的な行為なのだ。
周囲の話では昔は鷹山だけだったらしい。謙信が加わったのは新しいそうだ。上杉家の始祖と観念された「謙信」が祀られる。これは今日の講演のテーマ「古墳群形成における始祖墓と擬制的同祖同族関係」にぴったりの事象だった。あまり書くときな臭くなるのでこの辺で。
野焼き場に小屋が建ちました。
今年の夏の現場は小屋なしだったため技術の伝承があやぶまれましたが、確実に2年生に伝わりました。
これで天候に左右されず調理実験が行えます。もう冬がすぐそこまで来てます。
久しぶりに穏やかな秋の日。野焼き場では、1年生が考古学の授業の企画で活動しています。一生懸命「穴掘り」するグループ、はしごに登って蔓を採取するグループ。その時、卒業後7年間音信不通だった元ゼミ生がふらりと訪ねてきた。手に差し入れをぶらさげて。
立ち話で、足早に7年間を振り返った。就職、転職・・・、北海道、八戸を経て、今は東京で立派に仕事をしている。大学時代とは違って、自分自身についてしっかり話ができる青年に成長していた。仕事に余裕があるときには遺跡や博物館をみたりしてるらしい。
そして、2年生の時、考古学の授業で焼いた縄文土器を今でももっているという。大学時代を思い出し、成長の過程を振り返るアイテムとなっているようだ。なんとなくうれしく、日が陰り冷えはじめた体が温かくなるのを感じた。
上杉氏の春日山城に続いて能登畠山氏の居城、七尾城に行ってきました。春日山と直江津の府中、七尾城と七尾の府中、守護大名の都市計画の共通性がうかがわれます。
強い雨と、時折あられが降る北陸特有の初冬の天気のなか、山城の急斜面を手をつきながら登ったり降りたり。サバイバルな城歩きでした。
春日山城も七尾城も戦国期の城で「土の城」です。織豊系城郭は「石の城」=石垣、瓦、礎石建物がメルクマールです。防御機能の発達により、虎口(廓の入り口)の形態も変わっていきます。
山の「土の城」の宿命として、雨による斜面の崩落があります。両城とも大小の土砂崩れが頻発し、復旧工事が行われていました。南九州のシラスの山城は深刻ですが、ここ七尾城も例外ではありません。毎年、大雨のたびに史跡の各所で崩壊が起こります。400年あまり地域の人の手で伝えられてきた史跡を保全していくことは簡単ではありません。
七尾城は越後の上杉氏の攻略によって落城します。その後、織田勢の前田利家が入りますが、利家はわずか数年で七尾府中の小丸山城に移り、その後七尾城は廃城へと向かいます。
ところで七尾城は春日山城と違い、石垣が多数あります。主要な廓の斜面には段状の石垣があり、巨石を積んだ虎口もあるのです。また、特徴的なのは急斜面の各所に、小さな小段の石垣がたくさんみられることです。これら石垣群のなかではたして畠山家の時代にさかのぼるものがあるのか。問題です。
興味深いのは、小さな階段状の石垣が、谷の「みず道」となるところに重点的に整備されているのです。大雨の中、急斜面を歩いたことでそのことに気づいたのです。かなり危険な踏査でしたが収穫がありました。「防災の石垣」新たな視点です。
なじら〜。、ともぞうとむらっちゃんです。
「なじら」は新潟弁で「こんにちは」的な意味らしいです。
今回は上越の埋蔵文化財センターにお邪魔して、山畑遺跡と津倉田遺跡の土器を調査してきました。
メンバーは、北野先生・4年生のアンジー先輩・2年生の獅子座の女・ともぞう・ゆっちゃん・むらっちゃんでした。
5日は18時半に山形を出発して、途中でアンジー先輩と合流し、先輩からお借りした「新潟弁講座」のCDを聞きながら爆笑しているうちに、上越に着きました。
6日から本格的に作業を開始しましたが、予想以上に土器が多く、自分達2年生は圧倒されてしまいました。圧倒されようとされなかろうと、作業は始めなければ終わりませぬ(汗)。早速津倉田遺跡の土器から取り掛かりました。
夕飯は高田の通りで食べようとしたのですが、如何せん、メンバーにツッコミがいない!!いつものツッコミ係あべちゃんは、今回参加しておりませぬので、ボケばかりのメンバーでは夕飯が決まらず、うろうろした挙句、ガストに落ち着きました。ツッコミ大事!
7日は津倉田遺跡の土器が終わり次第、山畑遺跡に移りました。山畑遺跡は兄弟土器(似ている土器)が数点あり、「きょ、兄弟(笑)」てなりました。
上越を去る前に、春日山城に皆で登りました。獅子座の女・ゆっちゃん・むらっちゃんは歩いて本丸まで行ったのに、他の3人は車で…。むらっちゃん曰く、「裏切られた気がした」そうです。本丸からは平野が一望でき、海も見え、ともぞう曰く「本丸からの眺めは最高ー!!」だそうです。
山畑遺跡・津倉田遺跡の土器は直置きが少なく、カマドがけが多かったように思いました。比較的容量が少ないものも、カマドにかけられていたのが特徴ではないかと思います。
次回はツッコミが欲しいなー…。
このプロジェクトのテーマは「環境・生業・技術に関する歴史動態的研究」。ある時代・ある地域の文化の特色を、自然と人、人と社会の関わりから読み解いていこうという試みです。
「スス・コゲ調査」は、土鍋の作り分けと使用痕の分析から、古代の鍋の組成や調理法(火処や料理)を復元し、その時間的変遷や地域的分布の様相を明らかにしていく地道な研究です。
参加してくれた学生はもう2度、3度と各地に出かけています。昼間はひたすら土器とにらめっこして図面を描きます。もう一人前の考古学者なみに使用痕を読み取れる学生もいます。でも何か忘れていませんか?
土地の自然と文化を肌で感じるためにわざわざ現地に来てるのです。
事前にどれだけ土地(上越市)の情報を調べてきたでしょうか。山形に帰ってからみてきた遺跡や町の様子をもう一度確認してみましたか。
ボクシーの車窓から、どんな景観を切り取ってきましたか。何を発見しましたか。春日山城の本丸からあなたは何を読み取ったのでしょうか。
そして、地域の気候や地形、植生、生業、産業、名産品、町並み、建築、歴史・・・なんでもいいからそれらの関係性について自分の頭で考えてみましたか。
高田の雁木通りを歩いて何に気付いたのでしょうか。なぜ、高田の街に雁木通りがよく残ったのか。近世城下町の町屋に由来する発生論的な見方と豪雪地帯という気候的な要因からの見方を紹介しました。ほかの面からも説明可能なのかもしれません。
直江津の地になぜ上杉の守護所がおかれたのか。春日山城のてっぺんから一望した日本海、頚城平野、北陸道と上信越道の分岐、北陸本線と信越本線の分岐、土地の生産力や交通の要衝にあることを納得しましたか。
いずれにしても、フィールドに出るということは、本物に出会い、驚き、問題や答えを発見することです。それは喜びとなり、また新たな出会いを渇望するようになります。そして、知りたいと願う気持ちが、調べるモチベーションを高めるのです。
これからは、「環境・生業・技術」のキーワードを唱えながら、どこに行ってきたかではなく、そこで何を発見したのかを問いましょう。それが歴史遺産学科で学ぶ上で不可欠な点です。これからの調査に期待しています。
そして、土地のものを食べるのにもっと貪欲になりましょう!夜の調査はとっても大事なんです。
今日のチュートリは、土器作りの後、来週やる炊飯調理の実験について口から泡を飛ばしながら熱く議論しました。ぼんやりしていた実験の目的と方法がだいぶクリアになってきました。
自分たちで情報を集め、考え、企画する。そして実行してみる。さらに計画を検証し、フォローアップしていく。卒論、就活にも通じる作業です。
1年でだいぶ成長しました。来週の野焼き場が楽しみです。