歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2010-09-30

帰ってきたよ!


こんにちは。

急に寒くなって「去年の冬って何着てたっけ?」状態のしまです。

考古学研究室では8月29日〜9月5日まで北海道研修旅行、9月8日〜9月23日まで飛島蕨山遺跡調査に行っていました。

人生で初めての飛行機、人生でいちばん長い合宿、人生で初めてチョコレートを欲してる自分…24時間考古学漬けの毎日…

現場でどんなことがあったかは追々書いていきたいと思います!
ゼミのみんなとは約3週間寝食を共にして、しばらくみんなの顔見なくてもいいかなぁ…なんて笑

長いようで短かった夏、帰ってきてもやることがたくさんあります。

M1のかいとう先輩は蕨山遺跡の図面をトレース。

3年もりやさんは北海道旅行のレポートを執筆中。

遺物整理や図面合わせなどなど…夏はまだ終わらない。

2010-09-28

仙台城


仙台城では市教委によって清水門前にあった造酒屋敷の発掘調査(第3次)が行われている。

「土砂降り」の中、調査指導委員会の先生方とともに見学させてもらった。
政宗がわざわざ大和から酒作りの名人を連れてきて、御用酒蔵を置いた場所である。清水門の名のとおり、ここからいい水が出たからだろうか。
それにしても城の中に酒蔵をおくとは、それも大手道にあたる登城路の脇だ。さぞ、酒の匂いがぷんぷんしたことだろう。政宗時代は庭園空間(東の丸)に隣接しており、ここから酒を調達して一献やりながら風流を楽しんだのかもしれない。政宗没後は二ノ丸に本拠が移るが、そのときには東の丸(三ノ丸)には米蔵が置かれたので、酒米の調達に便利だったろう。

発掘では昨年に続いて酒作り関係の建物跡や遺物がでており、現在年代や遺構の性格など詳細な検討が行われている。

2010-09-25

初期農耕集落の土鍋


肌寒の仙台から博多に飛んできました。
この週末は福岡市埋蔵文化財センターで弥生時代早期の土鍋のススコゲワークショップが開かれています。先週は日本列島最北の弥生稲作集落、今週は一転して九州の初期水田稲作集落の資料をみています。

同じお米を炊くにしても鍋の形が違えば、炊き方(それを復元するデータを取るのがワークショップの目的です)も違う。炊いているお米の種類は?精米度はどうなの?

「所変われば品変わる」
それぞれの土地に多様な適応形態、文化があるのは経験的にわかりますが、なぜそうなるのか。それを考える(解釈する)のが考古学の面白いところです。

しかし、どれだけ考古資料を眺めていてもそのことはわかりません。人を研究したり、人とモノとの関係を観察したり、実験をしたり・・・・。

人類学的モデルで演繹的に解釈するだけでは物足りない。常に資料と対話することが大切です。人の行動は一筋縄ではいきません。モデルで解釈できるわかりやすさよりも、それを外れたパターンに、より人間的な魅力や面白さを感じるのは私だけでないはずです。

土器とお話ししながら、いつも思うことです。

2010-09-21

山形城


山形市教育委員会が調査中の山形城二ノ丸巽櫓の石垣台を見せてもらった。現地説明会はすでに終って、最後の図面取りが行われていた。

これまで山形城で見つかっている石垣では年代が特定できる最も古い特徴を持っている。石垣様式からは慶長後期頃とするのが妥当なところか。面を矢割した石材はなく、寛永期以降主体となる安山岩の転石がほとんどない。節理で割れて平面的な面をもつものや凝灰岩など、後の石使いとは一線を画する。角部は段数がないものの算木積みの特徴が見られ、面には部分的なノミ調整が入る。

元和年間に改易された最上氏築造の石垣台の可能性が高い。

2010-09-18

田んぼアートの村−垂柳遺跡のススコゲワークショップ

弘前から弘南鉄道にのって田舎館村に来ました。
東北の弥生稲作を実証した垂柳遺跡ですすこげワークショップが開かれています。

垂柳遺跡は大規模な水田跡が検出され、近年の調査では溝から大量の土器が出土しました。これらのうち中型の鍋には炊飯コゲが明瞭です。弥生時代は現代のようにお米を炊き干して食べていました。ここの鍋は西日本の同時期と比べ胴部最大径の高さが高い器形で、強い火力で炊き上げています。
「はじめチョロチョロ、中パッパ、ジュウジュウ吹いたら火を引いて、赤子泣いても蓋取るな! そこへババさま飛んできて、藁しべひと束くべまして、それで蒸したら出来上がり!」
カマドの釜でおいしくごはんを炊く秘訣がうたわれています。弥生の米炊きはどんなプロセスだったのでしょう。すすこげから弥生の炊飯方法がみえつつあります。すでに西日本と東日本で炊き方が異なることが分かっています。そして、垂柳の台付小型土器と一部の中型鍋は汁物調理に使われていました。当時の食事も炊いたご飯と一汁一菜?だったのでしょうか。

2010-09-17

すすこげ3代


16・17日、3人の学生とともに栃木県埋蔵文化財センターへ古代の土鍋調査に行ってきました。2年ぶりです。
職員の方々とともに5〜8世紀の土鍋の使用痕を観察し、古代の調理に想いを馳せました。東北では珍しい中近世の内耳鍋や焙烙も見せていただきました。
17日は前日金沢から駆けつけてくれた卒業生の先輩も参加。卒論でお世話になった職員の方々があたたかく迎えてくれました。
ススコゲ研究3代目と4代目が次世代にバトンをつなぎます。

2010-09-14

孤島の縄文遺跡を掘る−飛島より


考古学ゼミでは福田先生を中心に、日本海・酒田沖にある飛島の「蕨山(わらびやま)遺跡」の発掘調査を行っています。縄文時代中期の遺跡で昨年に続く第2次調査。9月8日から3週間余りの予定で、いまは前半戦の終わりごろ。考古学野外実習の2年生が参加した4日間(11〜14日)の様子をお届けします。












2010-09-04

ところの森で出会ったゆかいな仲間たち


みんな昨夜の悪夢?から醒めただろうか。今日は快晴の空。東大が発掘している大島2遺跡を見学。その後、2000基以上の竪穴が地表に痕跡を残す史跡常呂遺跡へ。2年前と同じ木を見つけ、デジャブー

 大島2遺跡はオホーツク海を見下ろす段丘上にあって、方形の竪穴住居跡が等間隔に列状に並んでいる。北見市と東大によって史跡指定を目指した範囲確認調査が行われている。竪穴は現在でも深さ50cm以上の窪みとなっているので掘らなくてもその位置がわかる。擦文の竪穴住居は切りあわないのが特徴だ。先祖の家のあった場所をしっかり認識して暮らす。遺跡は擦文時代後期のものという。このうちの1基、中規模の竪穴が調査されており、多数の炭化材が検出されていた。燃えた柱や垂木、腰板の類である。
 北日本、東日本の竪穴建物は引っ越した後、廃屋に火を放つ例が多い。韓半島や大陸にも広がる習俗である。住まなくなって、どのタイミングで火をはなつのか。床面上から炭化材や焼土が見つかるので、「廃絶直後」と言いたいところだが、そう簡単ではない。考古学的に「床面直上」出土遺物の時間経過が捉えづらいのが一因である。かまど周りに置き去りにされた土器の被熱痕を観察する限り、しばらく雨水とともに泥が流れ込むような時間幅があってから火がつけられている例が多いように感じる。火を放つことには塵芥処理の用とともに、どんな宗教的意味が付与されたのだろうか。規則的にならぶ竪穴をみて想いをめぐらした。

 それにしても、北海道の陽射しはきつい。澄んだ空気の中を陽が肌を射すような感覚。北海道の夏の発掘は涼しくていいと思ったのはあさはかだった。それでもオホーツク海を眺めながらの発掘はうらやましい限り。

 昨夜のあの学生達が、無言で地べたを這いつくばり床面を精査をしている。ひとりひとりの顔をみながら、○○○○仮面を思い出していたのは私だけではなかったはずだ。
 帰りがけにみたビリー隊長の頬が心なしかこけていたのが気がかりだった。今度は飛島でおいしい魚を食べていってください。

2010-09-03

ところの森で出会ったかわいい子たち 附 ちょっと変な人たち


竪穴住居跡横でお食事中のトコロンとモーリー(*^_^*)

夜はバーベキューハウスで地元と東大+芸工大の交流会で大盛り上がり。ジンギスカン、チャンチャン焼き、北海シマエビなどなど



2010-09-02

考古ゼミ・ミステリーツアー2010


4年生sへ
お留守番御苦労さん。戸塚山の整理もよろしくお願いします。

考古ゼミはオホーツク文化をテーマにした研修旅行にでかけています。2日目からは北海道西海岸を北上し、利尻・礼文の遺跡・自然を見学してきました。

今朝、利尻島を発ち、稚内に再上陸。宗谷岬をまわり、目梨泊遺跡を見たのち、オホーツク海沿岸をひた走って、夜に常呂に入りました。みんな元気で順調に研修をこなしています。福田先生の青春を辿る旅。学生たちに、刺激的な人やモノ、自然との出会いが訪れています。

今晩の宿舎では実習中の東大生たちと楽しく交流しました。あしたは発掘中の擦文の焼失住居の現場を見せてもらいます。

4年生よ、おみやげはやっぱり食べ物ですか・・・・・






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