入学式が終わり、新学期が始まった。
そして今日、考古学研究室にも遅い春が来た。ようやく新3年生のゼミ決めが行われ、院生・4年生と顔合わせをした。北野ゼミ、福田ゼミあわせて9名の新人が仲間入り。さらに留学生1名を加えて新たな年がスタートした。
学科にも2名のフレッシュな先生が加わり、始まりの予感・・・
今日は福田先生と横浜に来ています。
首都高から即席東京観光。今話題のスカイツリー、国技館、レインボーブリッジ、東京タワー。わずか5分ぐらいでみられるんだ・・・。隅田川の桜も満開近し。お上りさんでした。
誰にでもお気に入りの場所があるはずだ。
ここは金沢21世紀美術館「タレルの部屋」
自然の光と空気と色の変化をたっぷり楽しめる部屋。
ぼーっとしていても居心地がよいのだが、春先はゆっくりと動く陽だまりに身を置き本を読むのがいい。時折、目を壁に向け、部屋に入ってくる見学者をウォッチングする。
開館以来、2か月に1度ぐらいペースで来ている。2時間ぐらいいたこともあれば、1分いないこともある。時間があるとつい足が向いてしまうお気に入りの場所だ。
壁と腰掛けは「戸室石」という地元の安山岩。金沢城の石垣石材だ。やわらかな赤戸室の質感が、白い壁や青い空といい調和をみせる。
岩手県の県庁所在地−盛岡。その中心に位置するのが盛岡城。秀吉の奥州仕置の後、慶長3年に南部氏が築城した本格的な織豊系城郭です。
城は北上川と中津川、雫石川が合流する自然の要害にあり、豊富な花崗岩を利用した総石垣づくり。元和3〜5年の大規模な拡張整備でほぼ現在の縄張りが完成しました。このときの石切丁場は城の中にあり、石垣石に利用された花崗岩の巨石がいまでも城のそこかしこに顔を見せます。
このような城のなかに石切丁場があるのは、甲府城、和歌山城などに例があります。
盛岡城にはそのことと関連する興味深い特徴があります。それは「双子石」の多さです。双子石は前に甲府城のところで紹介したように、もともとひとつの石を矢で2分割し、その割面をそれぞれ表にして積んだものです(正面を向かない場合もある)。盛岡城では元和の拡張のときに、本丸四隅の隅角部などで、角石にこの双子石がふんだんに使われているのです。巨石が豊富にあったからこそでしょう。これはその場で石を割り、積んでいる証拠とみられます(二つは連続して積まれている)。石切丁場が城から離れている普通の城ではそんな例はありません。
盛岡城を見学する方は双子石探しをしてみてはどうでしょうか。半日歩いて20個ぐらい見つけました。
江戸中期の石垣修理の際には、さすがに城の中から採掘せず、郊外の日陰山というところから、冬にそりで運びました。果樹園の中に矢穴石が点在しています。雪の岩手山がとってもきれいでした。
紀州和歌山といえば徳川御三家のひとつ。
和歌山城は市中心部の独立丘に連立式の天守がそびえる。城のシンボルとなった天守は昭和33年に鉄筋コンクリート造で復元されたものである。当時の工事の様子をビデオでみることができるが、工事用足場の組み立てや門柱などをソリで引く様はもはや伝統技術・・・・と、唸ってしまう。
石垣がすばらしい!
豊臣秀長の城代として城の骨格を作ったのは桑山氏であった。文禄期ごろに本丸や天守郭の石垣群が作られた。丘陵部の石垣は結晶片岩(緑泥片岩)とよばれる緑色の片岩が用いられ、独特の景色である。少なくとも2段階はありそうだ。
次いで、関が原(慶長5年)のあと、加増されて甲府城からはいったのが浅野幸長だ。二ノ丸や大手門、岡口門など平地部で主要な郭や城門を整備した。元和5年には改易された福島正則に代わり、またまた加増され広島城に移った。約20年間、浅野は城の整備を大々的に行った。城内に石切り場がある片岩に代えて、友が島等から和泉砂岩の転石を本格的に利用するようになった。3段階ぐらいの変遷が読み取れる。
そして、いよいよ徳川の時代になる。家康の子、初代徳川頼宣が和歌山に入って紀州徳川家が成立する。このとき、最近整備された御橋廊下が架かる石垣が二ノ丸を拡張して作られた。大手門周辺もこの頃再整備された。
そして、明暦の大火後の復興、18世紀台の花崗斑岩(熊野石)を使う石垣など、これも少なくとも3期ぐらいはある。徳川の石垣ゆえ、公儀穴太たちが関与したのであろうか。
国の名勝に指定されている西の丸庭園。自然地形をうまく生かして作った桑山時代の石垣群を借景とし、結晶片岩の岩盤を池の中島や岩山にみたてる、人工と自然の調和を表現した見事な庭園である。
お城に隣接する「岡山」という緑泥片岩の岩山を歩くと、片岩の層理・節理を利用しならが石を切ったあとがいくつも見えてくる。
和歌山城の石垣をみたのは今回がはじめて。予想以上にマニアを楽しませてくれる。石垣を見る楽しみは人それぞれあろうが、私にとってはベスト3に入る感動の出会いだった。
本屋に入って参考図書を探したが、郷土コーナーは「たま駅長」が席巻していた。
卒展を見てまわった。
歴史遺産学科のポスター展示も年々よくなってきている。卒論に真摯に取り組んだ学生のポスターからはその熱意と成果が伝わってくるし、達成感がにじみ出ている。
卒展の楽しみの一つに、知り合いになった他学科の学生の作品を見ることがある(転学科した学生も)。芸術やデザインする彼ら、彼女らが、考古学や歴史と対話したことが作品にどうあらわれているのか。人、自然、社会、世界、相互の関係など、現代・未来について真剣に考え、表現している彼らの作品。ぜひ歴史遺産の学生も根底に共通したテーマがあることを感じてほしい。
卒展全体からみると歴史遺産は地味な感がぬぐえない。美術やグラフィックはさすがに、モノ(作品)が大きな力で語りかけてくるし、プロダクトはプレゼンで迫ってくる。論文系だからといってないで、芸工大らしい外にアピールする歴史遺産をめざそう。卒業してからもその力は社会で即役に立つ。
見学中、歴史遺産学科の4年生には何人かあったが、3年生以下にはあまり出会えなかった。もし、まだ見ていなかったらぜひ見学してほしい。
帰りに、芸工大のそばでやっている長瀬渉×柴田美和のバレンタイン企画「ちょこっと展示」を見に行った。
陶芸家・長瀬渉は10年前に彼が大学院の時に授業で知りあってからの付き合いになる。お互いの研究・作品にいい刺激をやりとりしている。
展示している工房ネロリは、古くなった農具小屋をアトリエとギャラリーに改装したもの。薪ストーブの上では長瀬作の亀の土鍋がシュウ、シュウ湯気を吹いている。
そして、なによりも懐かしいムーアが迎えてくれた。彼女ともども長瀬君と笹原さんにはゼミの学生たちが2年続けて長崎でお世話になった。ムーアは4年前、まだ小さかった頃、彼のアパートにとまった時、私の腕枕で朝まで寝たのだった。たしか前のブログで書いたと記憶している。呼子の港で壱岐に行く私を見送ってくれた。展示品の片隅には時折ムーアがいた。DMの写真にもなっている。4年ですっかり成長し、モデルとして稼いでいるそうな。あいかわらず訪ねてくるお客さんの人気者で、今回はバレンタイン・クッキーにもしてもらった。
せっかく、芸工大に来たのだから他学科の学生や先生と交わってみるといい。得るものは少なくないはずだ。
今日から2月にはいりました。
月日が流れるのは本当にはやいですね…。
大学では今日から集中講義がはじまりました!
さて、最近土器チュートリアルではろくろを使用した活動を行っています。
ろくろを使いながら形を作っていくのは至難の業。
なかなか自分の思い通りにはなりません。
ろくろ初心者の我々1年生は先生に指導していただきながら、なんとか作り上げています。
大きいもの、小さいもの、分厚いものなど、出来上がったものはどれも個性的!!それぞれ性格が表れます。
心のゆがみは作品のゆがみ?なのか、心に迷いがあると作品にあらわれていくようです。
製作途中のものがゆがんでいくと、脇から「今日何かあった?」「どうしたの?」と声(ひやかし?)がかかります。
今日も約2名程、心に悩みを抱えた人が…いたかも?
今日は同時進行で、以前ろくろで製作しその後素焼きしたものに釉薬をぬる作業を行いました。
何種類かある中から自分のイメージに合った色を、素焼きした湯飲みや小鉢に塗っていきます。
みんな焼いた時の色を考えながら熱心に悩んで決めていました。
直観で選んで素早く塗っていく人もいれば、何分も何分もかけて仕上げていく人も。
描かれた絵も、桜の花が咲いているものや、渦巻き模様、パンダの顔(笑)
ここでも1年生の個性が発揮されたようでした。
自分が考えもしなかった方法で釉薬を塗っている人もいるので、作る過程を観察しているのも楽しくて仕方ありません。
今日の作品たちがどうなるかと思うと、完成が待ちきれないです!
製作のあと、ろくろや釉薬を片付け終わって一息ついていたら…
考古ゼミ4年生のK藤先輩とY見先輩からケーキの差し入れをいただきました!!
年末にやった演習室の大掃除のお礼にとのことでした。
不●家の箱を開けて中を見ると騒ぎ出す1年生7人(笑)
すぐさまデジカメや携帯で写真を撮りはじめます。
ケーキを切る時もどうやったら一番楽に切れるかと討論が始まります…(笑)
その場にいた全員で分けたので最終的に一口ショートケーキになってしまいましたが、美味しく頂きました!
先輩方、どうもありがとうございました!!!
とても幸せなひと時でした。
2月頭からこんなに幸せでよいのでしょうか…
Rちゃん、掃除頑張ってよかったね!!!
以上、あべちゃんこと1年阿部がお送りいたしました。
会場は山梨県甲府市。
テーマは昨年(愛媛県松山市)が「解体調査・解体工事の諸問題」、今年はこれに続く「修理工事の諸問題」です。行政担当者と石垣技能者、文化財コンサルなど関係者が一緒に議論をしました。
遺構と伝統技術の保存・継承、および安全性を考慮した石垣修理工事とはいかにあるべきか。
文化財保存、土木工学や土木施工それぞれの立場から模索が続きます。
ラオスを去る日が来た。朝8:45、調査を続ける仲間に別れを告げ、ポット満載の車で国境に向かう。ラオス国境には去年はなかった豪華な免税店ができていた。売ってるものはほとんど外国製品。マイルドセブン1カートン13?は安いには安いが。出入国手続きを済ませ、ムクダハーンに入る。コラートから迎えにきてくれたオーさんの妹の車に乗り換える。
ムクダハーンの市場でラオス土産を買い込む。メコンの堤防に立ってもう一度ラオスを眺める。また来たい。
お昼前に出発。そして、コンケーン空港にむかう。はずだったが、諸般の事情から飛行機を捨てて、バンコクまで車で走ることにする。ムクダハーンから10時間ぐらい?だろうか。
午後3:30に2号線に入る。夕方6:00コラートまで来るが何度か渋滞にあう。この先、サラブリ方面でタクシン派の集会があってますます混むという情報が入る。迂回してチョンブリのほうからバンコクを目指す。予想外に時間がかかり、空港に着いたのは夜10:15。車を飛ばして間にあわせてくれたオーさんの妹さんに感謝。朝4時にコラートを出て、ムクダハーンまで迎えに来てくれ、そのままバンコクまで走るという離れ業だった。
スワンナプームの空港は正月明けの休日の夜で大混雑。カウンターでの勝負は2勝1敗。11時40分発の飛行機にぎりぎり間に合う。
いつものことだが、次回からはもうすこし余裕を持とうと思う。翌朝成田についてスーツケースや預け荷物の蓋をあけた。
オー・マイ・ポット!みな長旅の疲れも見せず元気な顔をみせてくれた。
年末からのタイ・ラオスの旅シリーズはこれにて終わります。
兄弟村での技法や器形の違いとその要因を探るため、ブットーンのPさんのモーウナム作りを観察した。
Pさんの第2次、第3次叩きのディン・ドゥは、重量は1,139gと巨大。重くないと膨らまないよ、と。Pさんはスィン・チュムという新しい器種を作っている。これはレストランで使うしゃぶしゃぶ用の調理なべである。2年前から作り始めたという。サワンナケートの店に売るそうだ。蓋付で10,000kip。
北タイで作られているトムヤム・セットとおなじような性質の土器だ。ちかごろ、日本のタイ料理店でもトムヤムクンを注文すると、トムヤムセットに入って出てきて温かいまま食べられる。
北タイでも都市近郊の村ほど、非伝統的器種を生産する傾向がある。両村の生産器種の違いはポター達の社会環境も関係している。
この日は作り始めが遅く、7個のモーウナムと2個のモーケンを作り終えたのは夕方5:30ごろだった。
今日は先日作ったスィン・チュムを22個焼く予定だった。しばらくすると日没で暗くなる。学校から帰ってきた子供たちにお母さんが簡単な指示。子供たちは近くの田んぼに、焼成する土器やわらや燃料の竹をリヤカーで運ぶ。段取りをする。Pさんは土器作りが終わると田んぼにいってすぐ野焼きの準備。素早い連携であっという間にセットして点火となった。何と無駄のない動きか。野焼きの記録に追われながらも、あっけにとられてしまった。
夕方、ひとりで夕日を眺め、2週間を振り返る。田で草を食べる水牛、水を汲む子供たち・・・・ここでは見慣れたそんな風景のなかに自分の生活を重ねてみる。考えさせられることは少なくない。平穏な生活の中に割り込んできた異邦人を温かく迎えてくれた村の人たちに感謝しつつお礼を言って別れる。協力してくれた土器作り民族誌をしっかっり書くことがせめてものお礼だ。
さて、学生たちに何を伝えられるのだろうか。
夜、アシスタントの一人の誕生日(サプライズ)と私たちのさよならパーティが開かれた。ゲストハウス裏の人造池に張り出したデッキを貸し切り、風船等で飾り付け、ローソクをいっぱい立て、ムードのある音楽を流す。夜空は満天の星。最後は足首に風船をつけ、全員が走り回って風船を割りあうというゲーム。童心に帰って汗をかいた。顔にケーキのクリームが塗られたまま、夜11時頃から荷物のパッキングを始める。部屋にある土器の山をどうやって日本に持ち帰るか。深夜まで格闘が続いた。タイやラオスの別の村ではモーナムは普通4kg程度であるが、ここでは肉厚に作るため5〜6kgと重い。モーケンもかなり重い。預け荷物と機内持込み荷物をどう仕分けるか。空港カウンターのおねえさんとの攻防戦に備え、入念な作戦(オーバーウェイト対策)を立てる。