夜から朝方珍しく雨が降った。この日はアジア規模で寒かったらしい。先のブログで書いた水没事件があった日である。
朝方には雨が上がり村に向かう。気温が30℃ないのか、ずいぶん涼しい。今日は土器作りやってるだろうかと不安に思いながら、まずブットーンにいった。ここでしばし田植えを見学する。親戚一同総出の作業だ(雇用もあるのかもしれない)。列になって植えていくが、「枠」のような基準線は何もない。苗の挿し方が日本と違って面白い。
村に戻って歩くとやはり今日はほとんど作っていない。朝から作り始めた人も今日は乾かないから、叩きは明日やるよ。こんな調子なので、道具の実測を集中的にやることにした。Tさんちではディン・ドゥ作りを見せてもらった。粘土塊からパァーという山刀一本で叩き・ナデ・磨きをして作る。こちらはお母さんも娘も一家総出でディン・ドゥ作り大会となった。一人暮らしの甥も来た。かれは歌がうまく、いつも一人お寺の境内で美声を響かせる。人呼んでシンガー。
1月は村にある二つの池で、年1回の魚捕り大会がある。村長が日をきめ、朝から家族みんなで池にはいる。ただし、二人で両端をもつ刺し網は1軒に1個、投網は3軒で1個と決まっていて、各自は丸いタモ網でとる。乱獲を防いで資源保護することも考えられている。
イサーンからラオスでは乾季の田んぼで穴の中にいる蟹を取る。女性や子供の仕事である。しかしこの辺では田んぼをあるいても誰も取っていないし、掘った形跡もない。塩が強く蟹がいないのかと思って聞いてみたら、カニは取るよ、と。町で売るそうだ。でも穴は掘らないね。えっ!どうやって?「夜取るんだよ」頭にライトをつけて、歩いている蟹を手でつかまえるそうだ。「だって昼間は暑いし、掘るのは疲れるよ」蟹取りはここでは男の仕事。雨季のカエル捕りは女の仕事だ。もちろん手づかみ。田のねずみや森の小動物、鳥などはパチンコでとる。これは男の子。取ったネズミを直火で焼いていた。猟銃は所持できない。コオロギは掘り棒で掘ってとる。所変われば取り方も違う。
今朝、急きょ数名が車でタイに戻った。一人は病院、一人は通訳、一人は滞在期間延長のため、一人は望郷??。
日本人はノービザでラオスに15日間滞在できる。これを延長するためにはビザを申請しなくても、一旦国境を越えて、すぐ戻ればいいので簡単だ。おまけに国境は日本が援助して作った橋のせいで、日本人の入国は無料である(ただし、土日はタイ側で休日手数料として10Bとられる。30円たらずだが、せこい!)。
というわけで、今日はラオス人ドライバーの車で4人で村に入った。ラオスは旧宗主国がフランス。車は左ハンドルで右側通行。タイは逆。タイはほとんどが日本(系)車だが、ラオスは韓国車が主流だ。車だけ見ていると東アジア。ドライバーは悪路になれており、いつも村まで1時間のドライブが、今日は50分でついた。
村に着くとRさんちで子供たちが集まって土器つくり遊び?をしている。楽しそうだ。時折こんな光景をみかける。チャイルドポターたちはいつも親のそばで土器作りを見、遊びのなかで自然と技を習得していく。10歳未満の少女たちが、私たちにはできない叩きを駆使した土器作りをいとも簡単にやり遂げるわけはこのへんにある。
土器作りは、副村長さんの奥さんTさんを終日観察をした。Tさんの二人の子供は風邪をひいてこめかみに熱さましを張っている。村ではちがごろ風邪をひいた子供をよく見かける。季節の変わり目か。
道具の実測をしながら、ふと横を見ると寝そべって携帯をいじる娘がいる。この村で最初に携帯を持ったのは村長さんだった。2004年からだという。その後、若者を中心に普及していまでは80台ある(村長が台数を知っているというのも不思議)。電気がひかれるとほぼ同時ということになる。テレビや冷蔵庫や車よりも、携帯電話の普及が早い。これが人の本質(コミニュケーションや情報の獲得)かと思ってしまう。携帯で生活が急変しなけれがいいのにと・・・独り言。
今日はほとんどのポターがOFF。村で結婚式があるからだ。暮れから数えただけでもう3件目になる。
そこで兄弟村のブットーンに行くことにした。歩くと30分の距離。だが車でも30分かかる。理解しにくいかもしれないが事実である。
1年ぶりの村長さんに挨拶をし、案内していただきながら村の中を歩く。村は今年、米の値段が上がったことで半分の家が乾季作(2期作)をはじめたという。周囲に水が豊富な環境を生かし、灌漑は池からのポンプアップだ。ちょうど田おこしと田植えの真っ最中。どこの家も農作業が忙しく、15人いるポターのうち、やっているのはPさん一人。ほかの2人は月末あたりからつくるよ、と。村が隣同士でこんなにも違うのか。この村は昨年紹介したように塩が特産品。また、村長さんやBさんたち3軒が分業システムを取り入れたタオと呼ばれるコンロ作りをやっている。出来高制で従業員を雇用。二つの産業が「ODOP(One district one product)」に指定されている。タイのOTOP(大分県の一村一品運動に端を発する地域特産品指定による産業振興策)に習ったものらしい。いずれにしても二つの村の社会環境の違いは大きい。それと土器作り技術との関係を考えるのが課題・・・・
お昼は村から4kmの距離にある粘土採掘場に行くことにした。Soui Lakeという大きな湖のそばにあり、1年に1回、水の無い2〜3月に掘る。各家はクボタ5〜10台分掘って1年分とする。コンロ用の粘土は村の近くから掘り、1年でクボタ100台分も使うそうだ。ちなみに型作りのコンロも籾殻で野焼きする。
お昼は粘土採掘場に近いLakesideレストランで食べることにした。絶景のなか、もち米とジャンボタニシを腹いっぱい食べる。盛りが半端でない。 午後は、村に戻り土器作りをみたり、ポターの夫たちから行商の話を聞く。
Bさんファクトリーで懐かしの再会。夕方、ブッドン村まで歩くといったら、田んぼの中をずっとついて村境まで案内してくれた。道がないので人の歩いた跡をたどる。
途中、水汲みの女の子達にあう。2kmの道のりを飲み水確保のために通うそうだ。
田んぼを最短距離でつっきると、村の人が言うとおり30分でついた。村が近づくと森の中にまっすくな道があらわれた。カントリーロード・・・・・ 塩づくりは田仕事が終ってから本格化する。土器の行商に行く時に塩も一緒に売り歩く。Fさんは車も持っているが、塩はさびるのでクボタでいくよ。仲間3人ぐらいで一緒に出かけるさ。各村の村長さんちに泊まるんだ。お礼はもちろん土器と塩だよ。
ラオスの夕日はいつも感動的だ。今日は早出の日、まだ暗いうちに宿を出、村に近づいた頃、ようやく陽がのぼった。乾季は地平線上に塵が舞っているせいか、太陽がひときわ赤く大きい。ラオスは朝日も絵になる。
朝8時ごろ、なじみのTさんたち3家族はクボタ2台に乗ってモンキー・フォレスト(野生ザルがいる自然公園)へいった。近くの池で魚や貝もとってくるそうだ。観光兼漁労活動である。
早出とくれば、終日ポターに密着デーなのである。7時からKさん、Nさん、Pさん3姉妹の土器作りを観察する。彼女たちは6人姉妹で、ほかの3人は同じ村の中ではあるがちょっと離れたところに住んでいる。みんなお母さんに土器作りを習った。
この村では近所に住む姉妹が一緒に土器を作ったり焼いたりする。3人が1台の回転台を使って時間差で順次に作っていく。ただし、粘土や叩き板・あて具、野焼きの燃料等、材料・道具は個人所有である。
今日作る器種は全員モーウナムで、NさんとKさんが6個、Pさんが7個である。Kさんいわく。3人で一番うまいのはPさんだと。そこでPさんを一日徹底追跡することにした。末の男の子(子供は5人)はまだ1歳。土器を作っているお母さんのお乳をせがみに来る。
同じ母から習った姉妹でも技法や形に差が出るのが面白い。叩き成形前の原型はそれぞれ微妙に違う。Pさんは叩き板・あて具をそれぞれ二つずつ使い分け、丁寧に成形するのに対し、Kさん、Nさんは一つでやりきり、時間も早い。
Kさんはいつも「べらんめぇ調」。回転台上の水挽き成形で、1個をクシャと潰してしまった。苦笑い・・・・。マッカイという果物を木から何個ももいで、日本に持ってけと袋いっぱいに詰めてくれる。どこにでもいそうな気のいいおせっかいおばさんだ。年を聞くと「知らないよ!忘れた。」とはぐらかす。子供は10人いるそうだ。
夕方、翌日の粘土を唐臼で搗いて一日の作業が終わった。
しばらくして、庭先では夕食の準備が始まった。
毎朝、村へ通う道。陶器の壷がたくさん並ぶ家にふと目が留まった。車を止めて中に入ってみるとそこは酒屋だった。
カマドにかかったドラム缶では50kgのモチ米が蒸されている。これでハイと呼ばれる壷3個分の酒ができる。時々スコップでもち米をかきまぜる。横には麹を入れた発酵中のポリバケツが並ぶ。醸造した酒は別のカマドで蒸留してアルコール度数を高める。度数は50度。ふたつの蒸留装置の管からは水タンクで冷やされた酒が流れ出し、パンヤの綿で漉して壷の中に詰められていく。壷1個は25リットル入りで140,000kip(約1,500円)。1週間寝かせてから売りに出す。醸造後の米はどうする?横の豚小屋を指さした。彼らが処理するようだ。豚は酔っぱらわないのだろうか、心配だ。
ラオ・ラーオ作りの村としてはルアンパバンのサーンハイが有名だが、装置はどこも同じようだ。ブットーンのポターPさんの隣の家でも同じ装置で酒を作っていた。昨年行ったサラワーンの土器作り村では簡単に使える蒸留用土器を作っており、これで買ってきた焼酎ラオ・ラーオをさらに蒸留して飲む。1年前の大晦日、結婚式に乱入し、村長さんや酔っ払ったBさんらと盛り上がったのもこの酒だった。T氏が「叩き板」を賭けてBさんと飲み競った。数日後、Bさんに再会するとお昼過ぎにもかかわらず寝ていた。昨日隣の家が結婚式だったそうだ。目に浮かぶ。
村に着くと、今日粘土を掘っている人がいるとの情報をえる。約10分ほど歩くと、Tさんのお姉さんにあたるHさんが夫とともに粘土を掘っていた。ここはポターでもあるNさんの田。粘土はクボタ1台分で200,000kipという。朝8時から夕方までたっぷり1日かかる。直径1mほどの縦穴を背丈ほど掘る。上層80〜90?の粘土は使えないので除けておいて後で埋め戻す。
粘土掘りも家族総出である。二人の男の子と犬も一緒に来ている。周辺には去年掘ったところ、さらにその前掘ったところ、痕跡が残っている。これがたまに発掘されるまさに粘土採掘坑群の遺跡だ。袋状に掘る人もいる。
午後、ケンコ(チャンポン郡の中心地で、市場がある。クボタで村から1時間弱)から土器のトレーダーがTさん、Sさんの土器を買いにきた。夫が売りに行く人も多いが、定期的にこうやって仲買が取りに来る場合もある。村で売る場合にはモーウナム1個5,000kip(約55円)、市場では10,000kipと倍になる。クボタ1台で100個のモーナム、モーケンを積んでいく。彼らは行商もし、13号線沿いを南下して3日ほどかけて売り歩くという。村の夫達が売り歩く場合も同じだ。馴染みの村の村長さん宅やお寺に泊まりながら土器を売り歩く。調査中、10kmの道を歩いて土器を買いにきたおばさんがいた。二人はモーナム2個を天秤棒にぶら下げて帰っていった。このような場合、普通は物々交換である。おばさんはバナナと土器を交換していた。
夕食は宿から車で45分、サワンナケートに出た。メコン川の船上レストランで対岸のムクダハーンの明かりを見ながらタイ料理を味わった。タイ人たちはしきりに帰りたい!と叫ぶ。気持ちは分からないでもない。
ここはラオスである。
今日も朝一番にいつものTさん、Sさん姉妹の家に行く。昨日待ってたのにこなかったので土器焼いてしまったよ!と。
日曜日で学校は休み。いつもお姉ちゃんの脇で恥ずかしそうにしている9歳のOは、朝から土器をつくっている。「あたしもちゃんとできるのよ」誇らしげだ。
土器作りにはいくつかの道具がいる。この村では水挽き出来るくらいの性能の回転台(ペン・スィアン・モー、「板・回す・土器」という意味)を使う。叩き成形に使う叩き板(マイ・ペン)も重要である。これらはたいがいポターの夫が作る。家の下に蓄えてある建築廃材を利用する。家の柱はマイ・デンやマイ・ドゥという硬い木。梁や桁にはマイ・ヤンというちょっと軽めの木も使う。叩き板の樹種は硬いものが好まれ、だいたいはこれら4種程度である。子供用のは小さく軽め。体力に合わせて作る。
村の周りにはさまざまな樹木が生育している。驚くのは身近な建築材や食用果実がつく樹木だけでなく、ポターたちが多くの木の名前を知っていることだ。各地の土器作り村でポターやその夫たちに木の名前を聞いているが、この村の人たちが一番よく知っている。さすが森の民「ブッドン」。
内面のあて具(ディン・ドゥ)はポター自らが作る。あるポターがアシスタントに語ったところによると「30歳未満の娘はディン・ドゥを作っちゃいけないよ」「作るとお尻にささるよ」このディン・ドゥ伝説はポターたちの禁忌として注目された。翌日、Tさんに聞いてみたがそんな話しは知らないと、一蹴。娘のRもOも自分で作るよ。おばさんたちのしもネタだったのか。真相は闇の中。
今日もパクセーでの休日のはず。
ちょうど1年前の1月2日、パクセー郊外で、橋が壊れていて車が通れず訪問を断念した土器作り村があった。歩いて3kmだったがラオス出国時刻が迫っておりサワンナケートに引き返したのだった。
みんな知っている。私たちに休日はないことを。
メコン川を渡り西に向かう。車で40分ほど走ると昨年、壊れて渡れなかった橋がみえた。今年もそのままだったが、乾季は川底を通る迂回路があった。3kmでこぼこ道を走ると村の入り口についた。ところが今度は大きな川があらわれ、橋がない。水があって車は通れない。結局、車を捨てて歩いて村に入った。
Pさんとお姉さんのMさんが土器を作る1軒の家を訪ねた。キーマを噛みながらおばさんが土器を作っている。どこかでみたような光景と思ったら、昨年タイのウボンラチャター二―で調査した村と全く同じ技法の土器作りだった。叩き板のバラエティや名前が同じで、マイ・ラッという剣形木製品のような道具が特徴的だ。二つの村は現在はラオスとタイにわかれるが、わずか70kmたらずの距離だった。ルーツを同じくすることが推察された。
パクセーではオープンテラスのカフェでコーヒーを飲んだり、おいしいフランスパンを食べたり、久し振りに町のにおい嗅いだ。
名残惜しく、13号線を北上。5時間余りで宿のあるLAK35(サムシップハー)に着く。車にはPさんからもらったモー・ウ・ナムやモーケンがいっぱい。
このころからアシスタントの女性たちの合言葉は
「ノーモア・ポット!」
「もう土器はやめて!」
おそろいのリポビタンVのTシャツを着て記念写真。
アシスタントからの新年のプレゼント。
今日はラオス南部のパクセーという町に来ています。
コロニアルな建物とたくさんの欧米人が行き交う不思議なまちです。
夕べ、タイ人のアシスタントたちがプレゼントとしてくれたVサインの「リポビタンD」Tシャツを着ています。
27日にタイ東部ムクダハンからメコン川をわたりラオス国サワンナケート県・チャンポン郡の土器作り村に入りました。村の皆さんの全面的な協力でようやく地図作りや戸籍調査が終わり、ぼちぼち土器作り技術の観察や生業の聞き取りを始めたところです。こちらは1月1日よりも4月のソンクラーン(水掛け祭り)を年がわりの時期として大々的に祝うので、村の生活は普段と何ら変わりません。でも私たちはいちおう正月休みということで南部に旅行することにしました。車に揺られること5時間、チャンパサック県の世界遺産「ワット・プー」に到着。アンコール時代を主とする遺跡です。カンボジアやタイの遺跡に比べると整備は進んでいません。その分周囲の景観に溶け込み落ち着いた雰囲気があります。
行きは陸路。パクセーから40kmの距離。ガイドブックには2時間とある。世界遺産と思って甘く見たのが間違い。実際に走ってみてわかった。
帰りはメコンの渡しでパクセーに戻る。小船を3艘を連ねた台船に車を乗せる。一歩間違うとドブン!。ゆったり、月と対岸の明かりをながめメコン川を渡る。
バン・ブッドンは昨年のお正月にはじめて訪ねた村。ブッは「池」、ドンは「森」という意味らしく、村は森に囲まれた低丘陵上にあり、周囲には乾季でも水の枯れない池やクリークが点在しています。10歳未満の女の子がたくさん土器を作っているという世界的にも稀有な村です。つくなり、8歳の女の子が私が作ったのよと1つの土器をプレゼントしてくれました。村の人たちの顔を少しずつ覚え始めましたが、なにせ121戸800人あまりの人口。村の小学校には90人あまりが通っています。昨日、お邪魔した家では12歳の子は学校にいかずお母さんの土器作りを手伝っています。というより、もう一人前のポターです。妹と弟は小学校に通っています。帰宅するとすぐに村の池へ水汲みに何往復もします。世代を問わずみんながそれぞれの役割を果たし、うし、水牛、ぶた、やぎ、にわとり、あひる、いぬ、たくさんの動物たちと暮らしています。
今回は日本人4名とタイ人4名で調査に入りました。サワナケートから45分、LAK35という町のゲストハウスにとまり、村まで片道1時間のデコボコ道を通っています。新年は同室の九州大の院生と静かに一言「サバイディー・ピーマイ!」
調査はこれからが本番です。
今日は12月31日。世は「大みそか」である。
朝、市場の屋台のおばさんはお寺へのタンブン(徳を積むための寄進)の品々を準備していた。
町では若者がカウントダウンしたり、新年を祝って大騒ぎするらしい(確かに昨年の正月サワンナケートの町はうるさかった)が、村では特に変わった様子はない。
本日から本格的に土器作りの観察をする。
前日の夕方、唐臼(コック・モン)で乾燥した粘土を搗く。さらに笊でふるって、粘土粉末とチュア(籾殻と泥を混ぜて焼いた混和材)を2:1の割合で混ぜる。これに水をくわえて円柱状に練る。モーウナムだと1個約7kg、モーケンだと2kg、練りながら手の感覚で一定の大きさお粘土を取り分けていく。職人的なさばきだ。
粘土の塊を回転台の上に乗せ、水挽き成形と当て具による底押さえにより、口縁部が完成し、胴部は叩き成形前の原型ができる。この時点で底の厚さは5センチ余りある。ポター達はこの作業が一番難しいという。その後乾燥させ、口縁部が乾くと、胴部の叩き成形に入る。叩きは第1次〜3次まであり、それぞれの間に乾燥段階をはさみながら次の作業に進む。1〜3次の各段階で叩き板や当て具を使い分ける。
朝から始めて、1人1日8個ぐらいだとちょうど夕方に出来上がる。土器の野焼きは2日間ほど乾かし、ちょっと涼しくなる午後3〜4時ごろから行う。
この日観察させてもらったSさんには1歳の男の子がいる。いつもおかあさんのまわりを走り回って遊んでいるが、時折寂しくなると甘えに来たり、母乳をねだる。かまってくれないと乾燥中の土器をへこましたり、あばれて注意を引こうとする。そのたびに仕事は止まるのだが、母さんはばたばたせず、ころ合いを見計らって授乳する。周りにいるいとこのRやOたちに時折叱られている。彼女たちは年下のいとこの面倒をよく見る。乾燥中の土器をへこませるのは彼だけではない。人恋しくて土器の横で寝ている犬や、うろうろしている鶏も時々悪さをする。でもそんなことは大したことではないようだ。直せばいいだけだ。
お昼にTさん、Sさん姉妹の姉Hさんが遊びに来た。Hさんはまだ今シーズンの土器作りは始めていない。二人と同じ敷地に住む姉妹のお母さんがパパイヤをとってきてくれてソムタムを作ってくれた。オレンジパパイヤはそのままフルーツとして食べてもおいしかった。
昼食はみんなでここでごちそうになることにした。ソムタムはトウガラシを少なくしてくれたのでとても美味しい。もち米を自家製パラー(プラー)に浸けながらたくさん食べた。さすがにあとでお腹が痛くなった
きょうは朝から地図のチェック・修正をしながら、各家の柱にチョークで番付をした。人の家に勝手に番地をつけて(タイでは番地があったが、このあたりではもともと番地というものはない)表札がわりに番号を書くのである。ずいぶん無茶な話のようだが、みんな気にしない。3日間ひたすら村の中を歩いたおかげで、生活の様子がみえてきた。村の人たちにも私たちの存在を知ってもらえる。
この村のモー・ウナム(イサーンからラオスで水甕のことをこういう。一般的にはモー・ナム)はよく水が漏れる。どこの家の土器も水がポトポト垂れている。水甕はこうやって外に滲みた水分が気化することで熱を奪い、水温を低く保つ。しかし、これだけ漏れれば相当減るのではないか。水場が近いし毎日汲みに行くので気にしないようだ。水漏れしやすいのは土器の胎土や作り、焼成と関係する。
庭先の調理場で、底部に穴をあけたモーウナムを時折みかける。なんだろう、と思って聞いたら、蒸したお米を入れる竹編容器(ティップ・カオ)を燻(いぶ)す時の覆いのようだ。中に藁をいれ、火をつけて、ティップカオを燻すのだ。こうやって虫よけと耐久性の向上をはかる。
夜、宿で洗たく。コイン式の全自動洗濯機がある。何と良心的と思ったが、これはタイ製だ。コインはタイの10バーツコインを3枚いれる。ラオスにはコインはなく全て紙幣。近くのお店で7,500kipをタイの30bathに替えてもらう。
ゲストハウスはいちおうお湯(チョロチョロと)が出る。部屋掃除・シーツ替えは一切無し。カナチョロやアリや蚊は普通にいるが悪くはない。毎日朝5時半頃から街頭マイクで語る村長の大声をのぞけば、平穏である。ゲストハウス前にある食堂はベトナム人のオーナー(おばさん)が経営していて、夕食には時々、一品をサービスしてくれる。オーナーの娘たちと内股気味のレディー・ボーイが夕食を作って出してくれる。
快適かなとおもっていたら、アクシデントもあった。もともとお湯はあまり出ないが、ある日、全く水が出なくなった。久しぶりに9人も泊まったせいか、タンクの水がなくなったそうだ。それから数日後、シャンプーをしていて頭がアワだらけのときにまた水が止まった。しょうがなく、タオルで拭いてそのまま寝た。珍しく雨が降った日の朝には、起きるとなにやら部屋がくさい。トイレにいくとシャワー室が排水管から水が逆流して水没している。全部屋である。水を垂れ流ししている外の排水溝が詰まったのか、従業員が朝から排水溝の泥上げを始めた。一向に水はひかない。
結局、仲間のタイ人2人が溜め枡の蓋をあけ、溜まったヘドロを除去して何とか流れるようになった。オーナーにとっては未曾有の出来事だったらしい。
そうこうしているうちに洗濯機も壊れた。以後は手洗いの毎日となった。
なんだかんだ言っても1軒しかない貴重なゲストハウス(それでも村から車で1時間)。マイ・ベンライ、ケンチャナヨ!