歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2009-12-29

牛とバッファローと人と−環境と自立

村には6年前に電気が来て、いまでは121戸の2/3の家に電気が引かれている。夜は6時には暗くなり、電気をつけた家がぽつぽつみえるが、みんな寝るのは早い。
夕方4時半ごろから各家では夕食の準備がはじまる。庭先で五徳(三本足の鍋台)に薪をくべて米を蒸す光景が一斉にみられる。朝のもち米を暖めなおして食べることも多い。イサーンからラオスにかけてはもち米を蒸して、少ないおかずと一緒に食べるのが伝統的な食事。イサーンでは、夕食に炊いたうるち米を食べるのが普及しているが、ラオスではもち米食の伝統が根強い。

水は飲み水を池から汲むほか、打ち込み式の手押しポンプを設置してシャワーや洗濯、菜園用の水を得ている家が半数近くある。となり村では2kmも歩いてこの村の別の池まで飲み水を汲みに来る。雨季は天水も利用するらしい。

家は二間×三間程度の広さで高床式のワンルーム。雨季の台所にもなるテラスがつく。壁は竹を千鳥格子に編んだものや木の葉を竹で編みこんだもので涼しい。米倉は竹小舞の泥壁だ。床下は土器作りやティップ・カオ作りなど様々な作業スペースとなる。

どこの家にもトイレは無い。どこでするの?その辺の家の無いところ・・・穴を掘って。でもあんまり深く掘らないで・・・。村の中は牛や水牛、豚の糞だらけなので別に気にはならない。

驚いたのは牛や水牛たちが、朝ひとりで(2〜5頭程度が列をなして道を歩いてくる)田んぼへ出かけ、草をたべ、夕方自主的に戻ってくることだ(時おり子供が水牛を曳いていることはある)。イサーンでは男たちが綱を引いて田んぼに連れて行って、いないときは杭に綱を結んでいるのをみていたのでびっくり。ここでは牛たちも自立?している。村の道を普通に歩く豚や鶏たちをみるにつけ、動物達も人も自然だ。同じ生態系の一員として暮らしている・・・。ただそれだけだ。

女の子は15歳〜18歳ぐらいで結婚し、子供を産み始める。Sさんの娘は12歳でタイのムクダハーンに働きに行っている。姉のTさんの12歳の娘Rはもう一人前に仕事をして、兄弟いとこ連中のおねえさんとして堂々としている。土器を作って焼くだけでなく、山刀を自在に使って竹細工もする。近所に住む彼女のいとこの少年は両親と姉二人がビエンチャンに出稼ぎにいっており、一人で村に残っている。そんな暮らしぶりは経済的には決して豊かとはいえない。しかし、幼少期から保護的な環境下で育てられ、物質的に満ち足りた暮らしを享受する日本の若者にはない強さが感じられる。自由であれといわれる不自由、自己主張と同調圧力がともに求められる人間関係、選択肢があるようでない就職・結婚、便利になりすぎた情報通信、そんな社会環境は自立した人間を育むのにはむかないのだろうか。

 

 

2009-12-28

再会

村の人たちとの再会。
昨年の懐かしい写真を前に人だかり。今日一日はあいさつ回りで郡役所へ行ったり、村の中をあるいたり。情報収集である。
ゆったりした村の空気に慣れていく。
午後3時をすぎると、あちこちで野焼きがはじまる。そして4時に学校が終わると女の子たちはバケツを持って水汲み場に集まってくる。彼女たちも村の中を歩くのは基本的には素足だ(学校へ行くときはサンダル履き)。みんな足の指がしっかり開いて力強い。靴になれた自分の足がはずかしい。

2009-12-27

ポットテンプル−土器でできたお寺

マハサラカムからラオスに向かう日、ちょっと早出して、ロイエット郊外の土器づくり村バン・トゥ・タイに寄る。土器作りは廃れ、いま村は型成形のコンロ作りにシフトしている。伝統的なポターはもう3人しかいない。

ここにはワット・ノンサワンという土器でできたお寺がある。通称ポット・テンプル。
村にあるただのお寺ではない。観光に来る人もいる。イサーンの人にとっては知る人ぞ知るである。土器づくり村の昔の生活風景(農耕・調理・土器の行商など)を塑像で展示しているだけでなく、寺の裏が地獄めぐりのテーマパークになっている。これほどリアルな地獄絵をみせられたら子供は泣いてしまう。釜ゆでや腹を裂かれた人間のグロテスクな裸像が林立する。

ここは仏教の国タイである。

ムクダハンからメコン川のラオス・日本第2友好橋を渡りサワンナケートへ。あいかわらずラオスの入国審査はフレンドリーでゆるい。

ゲストハウスのある町につく。正月はあちこちで結婚式がある。飛び込み大歓迎。朝まで大音響の音楽とひとり漫才のような語り。朝までみんなで騒ぐのだ。

 

 

 

2009-12-26

夜明け前


今日は朝5:00に村に着いた。そう朝駆けデーなのだ。まだ暗いのに台所は電気がついて朝ごはんのもち米を蒸している。そしてポター達はもう土器を作っている。早い人は4時からつくっている。

着くなりあわてて記録道具をかばんから取り出し、メモしたり写真を撮ったりするが、とにかく暗くてよく見えない。必死に観察しているといつの間にか外が白みはじめていた。今日一日お邪魔した家と隣の家から子どもたちが三々五々眠い目をこすりながら起きてくる。今日は土曜日、やがてどこからともなく子どもたちが集まってくる。賑やかこのうえない。孫守りしながらのポターも悪さをする暴れん坊のせいで何度も仕事を中断させられる。朝方、おとうさんは土器を山積みにしたリヤカーをバイクで引いて40km先の町まで売りに行った。お昼過ぎに帰ってくるというのに帰りがやけに遅い・・・・。

この村の土器つくりは叩き成形を駆使して作るので何回かの乾燥段階をはさむ。このときが休憩のチャンスなのだが、ポターが休んでいる時こそ、叩き板や当て具、成形途中の土器の形の実測など、息つくひまもない。これほど集中して人とモノを観察し、猛スピードにで実測することはそうない。我ながらびっくりしてしまう。

先発隊は40軒の1週間分の調理記録を作成した。何をどれだけ食べたのか。米蒸しの米と水分量の割合はどれほどか。こんな細かい調査によくつきあってくれるものだ。村の人たちの協力と支えがなければ考えられない。
昨日Rさんが亡くなった。祭壇に線香をあげにいくと、その前で村の女たちはにぎやかにトランプをしている。楽しそうだ。喪主にあたる娘だけは悲しそうなのに。そして葬式(火葬)ではロケット花火が飛び交いにぎやかに故人を送るのである。

明日からはラオスにはいる。



2009-12-25

土器作り村を歩く−乾季のバン・モー

これからしばらくタイとラオスの土器作り村の様子をお伝えします。

9月に学生達と訪問した雨季のバンモーを紹介しました。
今は乾季、一番涼しい12月です。とはいえ昼間は34度、湿度40%ぐらい。結構暑いですが、汗ばむ気候は大好きなので苦になりません。

稲刈りがおわり、ポターたちは一斉に土器つくりに精を出しています。あちこちの庭先からポンポンという叩きの音が聞こえてきます。これがバンモーの「村の音」といえます。

懐かしいおばちゃんにあいさつをしながら歩いていると、またきたねと笑顔でかえしてくれる。あの大学生たちは元気にしてるかい?と。

田んぼではあさから蟹取りに忙しい女性たち。たにしもいる。面白いようにたくさんとれる。百発百中。昨年見たウボンの田んぼとはずいぶん違う。ここでも犬はふつうにいる。退屈そうに蟹取りをみたり、放牧している牛をおいかけたり、いい感じだ。

夜床屋にいってきた。顔中剃ってくれて、マッサージ付で50B。至福の時間を過ごした。

明日は朝駆けの日。4時起きで5時からのポターたちの1日密着する。そしてあさっては6時、ラオスに向けて出発する。

 

 

2009-12-19

宇陀松山城と重要伝建


昔から県境をはしる電車(汽車)に揺られるのが好きだった。そんな環境に育ち、県境をまたいで行き来する生活をしていたせいだろうか。乗っては降り、降りては乗る、高校生やお婆さんたちの他愛のない世間話に耳を傾ける。訛りを聞きながら、人の行き交いに歴史を重ねてみる。

今回は尾張、伊勢、伊賀、大和の入り口まで行ったり来たり。今日は伊勢の津から伊賀神戸、名張をへて奈良県榛原に移動した。すぐそこはもう桜井だ。伊勢は寒いがよく晴れていた。が、伊賀に入ると雲がかかりだし、室生あたりから雪が舞い、榛原・宇陀は雪だった。

目指すは宇陀松山城。文禄〜慶長前期に豊臣系の大名が整備した城で、元和元年には破却されている。近年の発掘で城の全貌が明らかとなった。息を切らして山頂まで登ると寒風もなんのその、360度のパノラマが開けていた。石垣は短期のものがパックされており(天守郭と門付近で違いはある)、城割り(破城)の痕跡が生々しい。

松山の城下町はいま伝建地区に指定されている。城廃絶後は伊勢へ抜ける街道の在郷町として発展した。台格子・虫籠窓、屋根には煙出しのある町家がならぶ。漆喰塗りの白壁に混じって黒壁の家も少なくない。変に観光化されておらず、生活感のある町並みである。



2009-12-19

伊勢は津でもつ


「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」伊勢音頭の一節。最近では聞くこともあまりないかもしれない。
津は、薩摩の坊津、筑前の博多津ともに「日本三津」とよばれ、明にも知れた港町だった。ここに近世に織田氏、富田氏が城を作り、慶長13年から藤堂高虎が入った。伊勢を拝領した高虎は津城を平時の居城とし、伊賀上野は有事の城として整備したという。

津城は二つの河川の河口近くに作られた連郭式の平城。現在は内堀に囲まれた本丸(と西の丸)のみが城のたたずまいを残す。築城の名手−藤堂の慶長期の石垣は独特だ。とにかく角石が長く、規格性がつよい。隅角部は直線的で勾配がゆるい。伊賀上野城で見た特徴はここでも健在。ただし、慶長16年ごろから築城といわれるように、伊賀上野よりも新しい要素(築石・角石の面仕上げなど)が目立ち、慶長15年の尾張名古屋城に近い技術をもつ。

天守台と本丸南辺には慶長前期の石垣がのこる。藤堂以前の富田氏時代のものとみられる。古式の石垣は藤堂期に修理された可能性があり、東側は寛文期に大規模に修理された。

2009-12-18

伊賀上野城と忍者


うわさに聞こえた忍者の里。

着くなり入ったどんぶり飯屋で「忍者うどん」が出迎えてくれた。町中のいたるところに忍者がいる。ここは伊賀忍者の里、上野市である。

伊賀上野城は豊臣系の筒井氏のあと、慶長13年に藤堂高虎が四国から伊勢・伊賀に入って、大規模な改修を行った。このとき上野城の名を世に知らしめたあの「高石垣」が築かれたのである。高さ約30m。柵もない石垣天端に立つと身震いがする。

昭和10年に完成した現在の復興天守は史実にもとづいたものではないが、同時期に鉄筋コンクリートで建造された大阪城天守閣と違い木造にこだわって建てられた。現在、市指定の有形文化財(建造物)である。





2009-12-06

高畠石シンポ


県立うきたむ風土記の丘考古資料館で「高畠石の歴史と未来」というシンポジウムを開催しました。

このシンポは高畠町の歴史や景観の特色を、自然資源である「高畠石」と人との、1万年の関わりのなかからとらえ直そうというのが主旨です。地域の歴史的・文化的個性を見直し、まちづくりに生かそうという試みが全国で始まっています。文化庁が主導している新しい取り組みでは、貴重な文化財を断片的に指定・保存していくのではなく、それらが集積した場所や、その景観もふくめ、総体としてとらえ直し、脈絡をつけて保存活用していこうとしています。
高畠の文化財群を「高畠石」(これを基盤とする丘陵も含め)を軸にとらえ直すと通時的な「脈絡」でとらえることができ、それらが個性としていまの日常風景にあらわれていることが分かります。歴史文化のかおりに満ち、誇りあるまちに文化財をどういかすのか。シンポジウムに参加していただいた熱心な地域の方たちとこれからも考えていきたいと思います。

冒頭の写真は文化財保存修復研究センター岡本篤志研究員の発表の様子です。三次元レーザー計測による石切場の鳥瞰映像を、「赤青めがね」でみているところです。

2009-12-03

あおそ糸を績む


今日の考古学基礎演習(1年生)では、大江町からあおそ復活夢見隊の村上弘子さんと木村勝子さんをお招きして、復活した伝統の青苧糸作りを体験しました。授業で「あおそ(からむし)」「あかそ」「かなむぐら」などの植物から、古代の糸作りに挑戦しているグループが菊地和博先生に相談に行ったのがきっかけで、今日の企画が実現しました。

菊地先生によるアオソ栽培や上布(高級麻織物)に関するミニ講義のあと、大江町でのアオソ復活の活動を紹介したビデオをみました(とても若作りの「菊地先生に良く似た人」が解説している某テレビ局取材の番組)。

そして、いよいよ苧績みの体験です。苧引き(茎皮から繊維をとる)して乾燥した繊維の束から細く取り分けた糸を丁寧に繋ぎ、紡錘車で撚りをかけていきます。手取り、足取りの指導で糸作りの苦労を実感した様子でした。

今日は、美術科工芸コース(テキスタイル)の学生20人が辻・山崎両先生とともに参加しました。アートを志す学生にとっても、自然素材や伝統のワザを学ぶことは、ものづくりの本質として欠かせないことだそうです。研究テーマやプロセス、表現手法は異なりますが、伝統を見つめる学生たちの眼差しには共通したものを感じてました。

飛鳥時代の窯跡から出土した古代の瓦には布目の圧痕が一面についています。工芸の学生たちは細かい織り目に驚いていました。古代の布そのものが出土することはほとんどありませんが、このような遺物を通して古代の紡織技術を知ることができます。



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