6日18:30、ウボン空港を発ち、ドンムアン空港へ。スワンナプーム空港へ移動し、23:50タイ航空で成田に向かった。
ウボン空港で出発を待っていると夕方6時、いきなりテレビ画面が切り替わり国歌が流れた。全員直立不動で国王を讃えるのだ。タイの風物詩として噂には聞いていたが、はじめてその場面に立ち会った。
帰りのスーツケースの中身は中小型土器が満載。衣類は土器の中につめた。さらに中型土器2個をバックパックに入れ背中に。大型土器は手荷物にしようと持ち込んだが、かさが大きいのと重量オーバーで機内持ち込みNGダメ!割れ物のシールをこれでもかとたくさん張ってもらい、祈るような気持ちで預けた。真新しい叩き板2枚をバックパックにはさんで手荷物検査場に入ると、デンジャラス!とこれも預けさせられる始末。梱包した大きな荷物がなんだと聞かれて、モー・(ウ)ナム(水壺)だというと、「おまえなんでそんなもん持っているんだ」と笑ってくれた。しかし、バンコクの空港のお姉さんは「モーナムって何?」って。すでに都会の若い人には分からないらしい・・・。
預けた大きな土器は祈りが通じたのか、成田まで持ちこたえてくれた。東京で土器の中からトレーナーを出し、それを着て山形に凱旋した。
わたしの2週間にわたるタイ・ラオスの旅が終わった。自分の撮った写真を見返してみた。土器作りの技術や村の生活を教えてもらいながら、いちばん目と心を動かされたのは人と動物、人と植物との緊密な関係だったか・・・・。(人と人との関係も。老人と子供、介護、家族のこと)ノスタルジックな思いがあったことは否定しないが、やっぱり都市生活者が失ってしまったものは大きい。
来年度、学生たちともう一度訪ねてみたいと思った。
プロジェクトリーダーのK先生、スタッフ、現地で協力してくれた村長さんはじめポターのみなさん、ほんとうにありがとうございました。まだ調査を続けている皆さん、もう1週間頑張ってください。
叩き板を作る男性は村に3人いる。
一般的なマイティ(溝付きはマイティ・ライ)は20B、肩部の文様を彫りこんだコライは30B。ほかにマイ・ラップという棒状の内面叩き具がある。新旧二人の職人にマイティ・ライを作ってもらった。
サマンさんは大工。電動工具を駆使して短時間で作る。オンさんは25歳から作っており、この道50年のベテラン。どのポターがどの文様のコライを使っているか知っている。鋸と鉈を器用に操るハンドメイド。多くのポターはオンさんの板を使っている。
サマンさんの奥さんはプアックさん。15年前、レファーツ・コート夫妻、楢崎彰一さんが調査した報告に写真入りで紹介されポターだ。彼女の作るファー(蓋)をみてびっくり!蓋の天井部は土器でもっとも目立つ場所。ここにポターが文様を描き、これをみると誰の土器かわかるという。お母さんから引き継いでいる人がいるかと思えば、自分で2〜3のバリエーションを持っている人もいる。ところがプアックさんは一つとして同じものがない。毎回考えながら描くのだという。自由度の高い社会ではこんなことが起きる。未来の考古学者は混乱するだろうか。
今日は食文化調査の日。ブンソンさん家で食事会となった。
だんなさんが庭を走っているトリを一羽つぶしてくれた。さばき方が手際いい。鶏肉をつかったラープ、ソムタム、貝料理、魚料理などをみんなで作った。
ラープもソムタムもイサーンの代表的な料理で、これを手に握ったもち米と一緒に食べる。味付けはチリ、塩、ナンプラー、小魚を漬けたプラー、炒ったもち米粉。そして、いまやタイ料理には欠かせない「味の素」。そんなに入れなくてもというぐらい入れる。日本人は皆、なぜ?と首をかしげる。
昼食が終わると、家の人がみんなの手首に白とピンクの木綿糸のミサンガを巻いてくれた。今年一年健康でいられますように、また会えますように、との願いを込めて。
朝5:20ホテルを出発。今日もポターの一日に密着だ。
村に着き、早速Uさん家にお邪魔する。お母さんは踏み臼でチュアの粉砕をしていた。今日はモーヌンを12個作るという。
お父さんは牛に糠汁を飲ませて田んぼに連れて行くところ。
Uさんは粘土円柱後の台上たたきを3個同時に行う。効率的だ。この村ではみな口縁部を作り出すとき、トン・ケ(ゲェ)の木の葉を重ねて使う。3〜6枚まで、人それぞれである。台上成形が終わると1時間ほど乾燥させ、底部閉塞・胴部成形叩きの工程に移る。
家の前ではおとうさんがおもむろに木の梢めがけて銃を打った。銃身がやたら長い鳥打ち用の銃らしい。今は鳥が少ないので、田んぼでねずみを打ったり、池で魚をうったりもするそうだ。丁寧に手入れをしていた(写真)。
土器作りの作業は順調に進み、午後に。記録していると周りに村の男たちが三々五々集まってきた。おばあちゃんもいる。あっという間に40人ほどになり、何かと思ったら、国民的スポーツ・ムエタイ(キックボクシング)のテレビ観戦だ。ただの観戦ではない、50B、100Bのお金をかけている。持ち回りで当番となった家が会場を提供する。今日は8試合。土日は牛を田んぼにほっぽらかして、みながテレビの前で熱くなる日だ。お札を手に握りしめて、絶叫するおばあちゃんの声がすごい。ポターの身体動作を撮影したビデオには、その熱狂ぶりがBGMとして入っている。3時30分、中継が終わると男たちは何事もなかったようにさっさと家路についた。ちなみにここのだんなは負けたそうな・・・・。
今日も濃い一日だった。
今日は午前中OFF。
午後、久しぶりに村に戻った。帰省していた子供たちも多くはバンコクに帰ったようだ。
今日はポターの傍らで、じっくりと土器つくり道具(叩き板・当て具)の実測をして過ごした。
朝、ホテルでラオスから持ち帰った土器の整理をした・・・・・・う〜ん。
ラオス南部のパクセーを8時30分過ぎに出、車で13号線を北上。サワンナケート県に戻り、沿線で情報を集めながら土器作り村を探しました。
出国までのタイムリミットが迫るなか、14:50、森の中に忽然と現われたバン・ブッドン(31日に行ったブットーンと発音が似ている)。韓国映画「トン・マッコルへようこそ」を彷彿とさせるような不思議な村。ここではこれまで見たことがないような若いポターがいて、土器作りが活気を帯びているように見えるのです。
わずか一時間足らずの訪問でしたが、みんな温かく迎えてくれました。近いうちに必ずここへ戻ってくるような気がしています。
再び国境を越え、タイのムクダハーンに入る。ピックアップの荷台でたくさんのお土産(土器)に囲まれながら帰路に。吹き付ける風に凍えながら約2時間、なんとかホテルにたどりつきました。ラオスでの6時間余りの悪路のドライブとあわせ、かなりきつい旅でした・・・・。
サバイディー ピーマイ! 新年は静かにあけた。
さすがにホテル前のカラオケ屋は昨夜は若者が遅くまで騒いでいた。
今日は南下してサラワーン県に向かう。
国道を2時間ほど走り、脇道に入り凸凹道を走ることさらに2時間。
ブンカム・ヤイという村についた。ここでも土器つくりシーズンが始まったばかりで作っている人はまだ少ない。この村は豚が多く、みななんともいえず愛らしい。サーさんとティンさんの二人の土器つくりを観察した。
ここの村は特徴的な「倒立技法」で底部を作る。叩き板や茸状当て具を使わない、チュアを使わない、竹製輪状削り具がある、などの点でラオ族分布圏の粘土円柱からの叩き成形技術圏とは大きく異なる。ベトナムチャム族の土器作りと共通点が多い。民族分布と土器つくり技術圏の対応が認められる面白い事例といえる。
珍しいのはモー・トゥというお酒の蒸留用土器。サウン、ナムタオといったタイなど見られない器種が存在する。穴に竹を差し込み、屋外炉で温め、水分を飛ばして濃度をあげる。50度ぐらいというが、かなりキツイ。黄色いのは足痛に利く薬が入っているという。
5時過ぎに村を出て、さらに南下、3時間走りパクセーに入る。正月の観光シーズンのせいか、宿はどこも込んでいた。パクセーは世界遺産「チャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群」の拠点都市なのだ。ほこりだらけのレトロな宿で一夜を過ごした。
バン・ブットーン
午後3時を回ってようやく探し当てた村。集落に入るが人が少ない。中心部に行くとようやく人だかりが。それにしても賑やかで、ただ事でないことはすぐわかった。柵に囲まれた敷地の中は盛大なお祭りが。男たちは牛を腑わけしている最中。酒がふるまわれて、ごちそうが並んでいる。村の若者の結婚式だった。3日間にわたって行われ、今日は初日、まだ婿さんはこの場にはいない。
突然の異邦人に気を悪くされるのではと心配しつつ、村長さんに理由を話すと、大事な場を離れ、取材に協力してくれた。4人がそれぞれ村の歴史や生業暦、土器作り技術を分担して聞いた。
村は82軒、男312名、女235名と村長は即座に答えた。ブットーンは塩が特産品ということで塩田に行こうと誘ってくれた。塩田は村はずれの田んぼの中にあり、30軒ぐらいが1月〜4月にかけて掘っている。農閑期労働の土器作りと塩作りはシーズンが重なる。塩作りの工程や方法は興味深かった。竹かごに入った塩5kgが15,000kip(約150円)。
今日は結婚式でもあり土器作りをしている人はほとんどいない。土器作りの道具や器種を確認し、本調査に備えることとした。幸い、野焼き、コンロ作りをみることができた。
塩田から帰ってくると、飲めや歌えの大宴会。自前で蒸留した強烈なラオ・ラーオをコップで交換しながら、地元の料理を味わった。日が落ち辺りが暗くなって、名残惜しく村の人たちと別れた。
温かい気候のせいか、大みそか独特のそわそわした気分を全く感じない。
朝7時、トラックの荷台に乗ってホテルを出発、国境の町ムクダハーンを目指す。陸路での国境越えは始めてでわくわくする。途中、スピード違反で捕まる。大型バスも帰省ですし詰めの車もどんどんつかまえる。走っている車は一網打尽という感じ。その場で200B(約600円)払ってハイさよなら。運転者は点数が累積するわけでもないのでアンラッキーとしかいいようがない。
国境はそれなりに賑わっていた。最近日本の援助でできたフレンドシップ・ブリッジ2(1は首都ビエンチャンの南)でメコン川を渡る。橋の手前にあるタイ側のイミグレーション(出入国審査)を通過し、バスでラオスに入る。
ラオスは農業国で東南アジアでも一番貧しい国といわれる。その分ゆったりした伝統的な暮らしが今も息づいている。ラオスの空気や環境、時間の流れに安らぎを感じるのはそのせいだろう。イミグレの警備もゆるく審査官もにこにこしてやさしい。ラオスにきたなという実感がわく。
国境の町、サワンナケートに入り、ホテルを探す。コテージ風のシックなホテルを選び、土器作り村への車と運転手を探す。町はベトナム系の人が多く、建物や店は中国系がめだつ。
村の名前をたよりに、目的地を探す。周辺の景観はイサーンに近いが、地形に起伏があり水田区画は小さい。基本的には天水田の1期作だが、灌漑できるところでは今、苗代を作っており、早いところでは田植が行われていた。田の中にはたくさん木があり、畦は細い。畦に木を植えるウボンあたりとは違う。
道の悪さはラオスならでは。国道から一歩入ると凸凹の悪路、橋は鋼材を組み鉄板をはったもの。木の橋も少なくない。車は飛ばそうにも飛ばせない。それは悪路のせいもあるが、時々道端にいる牛・ヤギ、鶏や犬が横断するせいでもある。クラクションを鳴らしてもゆっくり、ゆっくりで、急ブレーキをかけても間に合わないと・・・・・グシャ・・・。牛は車がやられるのでさすがに気をつけてやり過ごす。