1月7日(火)
SY村から西に1.7kmほどいったところにB村がある。ここにも一人ポターがいた。Kさん(62歳)はSY村出身で早くにお母さんを亡くしている。17年前に現在地に引っ越した。小学校の頃はクラスに10人いると6~7人は土器を作れたよ。土器作りを覚えたSY村でその技を披露してくれた。
作り方は基本的にはD村と同じだが、蓋の摘みを捻り出して作ったり、高台付けを手持ちで行うなどいくつか違いがある。SY村はこの地区では最も成立が古く、土器作りもここから周辺に拡散したと伝えられる。その系統関係を辿る意味でもこの技術は注目された。
Kさんが乾燥を挟んで手持ち叩きをやっていると、Tさん(80歳)が我慢しきれずに出てきてきれいに仕上げた。やっぱり熟練の動作には無駄がない。年を重ねたとはいえ手技を究めた姿がそこにはあった。
田んぼの木からとるキーカン、キーシーという樹脂をみせてくれた。ヒビの修復や接着剤として多用途に供する。ここではルアンパバンでみたように土器表面に塗ることはない。
夜ウボン空港からバンコクに飛び、深夜便で仙台に帰った。タイ航空仙台便なんとありがたいことか。午後からの授業に余裕で間にあった。
毎年空港であるトラブルは今年はなかった。しいて言えば、行きの羽田でタイの友人におみやげにするはずのレトルトカレー10袋が取り上げられたこと(レトルトパックは機内持ち込み禁止)。チェックインカウンターが閉まる時刻をあらかじめ聞いておき、それまで一心不乱に年賀状を書き、ギリギリの時刻に飛び込んだ。重量オーバーをおそれ、あわててレトルトパックを手荷物に入れてしまった。預け荷物の重量が厳しくなったと聞いて背中に入れたのだ。預け荷物に入れ直せばと言われたが、ボーディングタイムが過ぎており戻る時間は残されていなかった。
帰りは、おみやげの土器が満載でウボン空港国内線で5kgオーバー300B請求された。しかし、いつもの笑顔作戦でここはスルー。バンコクでは一切文句を言われなかった。重量オーバーだけは毎回よくわからない。
1月6日(月)
SY村で村長、副村長から村の歴史やOTOPの話をうかがう。SY村が属するタンボン(村の上の行政区画)セーペットは土器がOTOPの産品に指定されている。一方で土器作りが盛んなD村が属するタンボン・ナピンは、ノンサムランという村で今もやっている塩作り(写真左下の丸木槽で濃縮塩水を得る)が指定されている。SY村では2003年に32人のポターたちにそれぞれ100Bが配られたのみで何の取り組みもなく効果を上げなかった。この村に電気が来たのは1970年、水道は2003年とまだ新しい。水道の水は洗い水で、飲み水は今も天水を貯めて使っている。土器に使ういい粘土がなくなったねぇという話をしていたら、村長曰く、「昔はよく土を食べたよ・・・・」と。土食の文化は世界中にあるらしいがここでは焼いて食べていたらしい。
午後、Sさんの娘がおやつの時間にカボチャを蒸してくれた。竹竿で落としたココナッツの内皮を削り、ザラメをかけて食べる。ほくほくしておいしい。
それから4人のポターの家を1軒ずつ回って聞き取りと土器の実測を行う。結局作っているのはもう2人しかいないことが分かった。
SY村の隣のM村にも一人ポターがいることが分かり訪ねてみる。Cさん(65歳)は小学生の孫と二人暮らし。ちょうど今日から始めたばかりで、混和材チュアを作っていた。今年が最後、来年はもう作らないよ・・・去年、デンマークとドイツから先生と学生が来て土器作りを披露したそうだ。土器や道具の実測をさせてもらう。
CさんはP村の出身。かつてP村でもたくさん土器を作っていたよというので、訪ねてみる。SY村から北に3km。まだ若い50代後半のポターPさん、Cさんから話を聞くことができた。二人とも2~3年前に止めて今はだれも作っていないという。しかし、家にはまだたくさんの土器が積みあげられていた。
SY村をはじめ周辺で土器を作っている(いた)6つの村はいずれも親族関係等でつながりがあり、同一系譜の土器作りであることがわかった。そして、なぜかいずれの村もSN村の1箇所のみから粘土を採掘していた。
夜はウボンに戻って元教育長のC先生らと食事。
1月5日(日)
朝7:00、お気に入りのエアアジアでウボンラチャタニーに飛ぶ。キャビンアテンダントの制服がカジュアルなジーンズにかわっていた。
チェンマイからウボンまで一晩で約800㎞移動した。
9時前に空港で合流した1名と郊外のD村に行く。D村は2008年に集中調査した村でその後毎年通っている。当時40名余りいたポターは10数名に減ったがまだ活発に作る人がいる。まず、一番お世話になっているUさん家。長く具合の悪かったばあちゃん(78歳)がずいぶん元気になって土器作りを手伝っている。Uさん、去年までパァ・コム(丸口縁)しか作らなかったのに今年はパァ・ベン(平口縁)ばかり作っている。聞くと苦笑い…ええええっ!
以前鉄砲で鳥を撃ってたおやじ、今年は家の前の田にカスミ網を仕掛けていた。
今年来た目的は、ハー・ナー・ディー(イサーンではハー・ティーディン・ディー)したポターの故郷をたどること。ハーナーディは良田探しとも訳されるように東北タイの農村の人々が良い土地(田)を探して、集団で移住を繰り返す習俗である。戦争が終わる前までは活発に行われていたという。彼らにとって「定住」は仮の姿なのだ。人口拡大社会、末娘が家を継ぎ「男は鍬を、女は米を持って旅をする」
昨年、ラオスのサワンナケート南部で訪ねたP村のポター(3名いた最後のポターも数年前に引退)たちが50年ほど前、タイから移住してきた人だとわかった。そして彼女たちの故郷が私が通っているD村の隣村だと聞いて驚いた。
P村の土器はサワンナケート周辺の器形や技術とは違っていて、タイのD村のモノに近かった。しかし、50年前にはD村にはない器形が取り入れられている。その疑問を解明したくて彼女たちの故地を訪ねた。
Bさん(60歳)、Nさん(78歳)の写真を持ってSN村を訪ね歩くと、ほどなくNさんの親族が見つかった。60歳以上の人はまだ当時のことを記憶していた。先に行っていた親族を頼って10軒ぐらいが50年前にラオスに旅立ったと。いろいろ話を聞いて分かってきたのは、ハーナーディは決して行きっぱなしではないということ。行きつ戻りつする。いまでも農作業が忙しい時はラオスから親族の田の手伝いに来る人がいるそうだ。こちらの思い込みが思考の幅を狭くしていた。
それからSY村で土器作りの取材をする。おばあちゃんたちの代はみんな土器を作っていたが、今ポターは5人ほどになった。「昔は土器を叩く音で昼寝ができないほどだったよ!」
静かに話を聞いていた小柄のTさん(80歳)はポターのカリスマ的存在。最近は体調が悪く寝込むことが多い。しかし、今でも注文に応じでカボチャ型のモー・ボクーを年10個は作る。集まってきたおばあちゃんたちから土器作りの歴史と技術をうかがう。むかしの振り売りの苦労や物々交換でゲットした品々の話で盛り上がる。多かったのは鶏や野菜、綿・・・・。Sさん(69歳)はガボームという蒸し米をさらす重厚な木製鉢を自慢そうに見せてくれた。水壷エンナム2個と換えたそうだ。ちょうど60年前の品である。エンナムは30年ほど前まで1個1Bというから、これはお買い得だろう。
帰りにD村で世話になっているSさんの家に立ち寄る。3人娘の長女が赤ちゃんを抱いていた。あれ結婚したのと聞くと、バンコクに行ってる次女の子どもだという。夫婦で出稼ぎに行き、子供を故郷に置いていくという働き方は珍しくない。高齢のポターが孫守りのために土器作りを休止するパターンである。
1月4日(土)
今日は午前中旧市街の寺巡り。昼前から旧市街を出て東へ、サンカンペーンを目指す。ここには土器作り村があって以前に一度訪ねたことがある。工芸品の町でセラドン焼やシルク工房などがあって観光地になっている。その一角にあるボーサンは日傘作りが有名。工房では即興で何にでもペイントしてくれるサービスがある。マイPCにリラワディーと蝶の絵を描いてもらった。100B(300円)。
昼食を食べてから一旦チェンマイに戻り、今度は旧市街を出て南に向かう。1日に立ち寄ったハンケオという土器作り村。以前集中的に調査に来た村である。あれはちょうど2004年12月26日、タイ南部を津波が襲ったスマトラ島沖地震(マグニチュード9.1、死者22万人余)の時だった。朝、内陸部のチェンマイでも結構揺れた。
2007年以来久しぶりに来た。大きく変わったのは大通りに面してOTOP(一村一品プロジェクト)のモニュメントができ、一つの工房で7人がグループで作るようになっていたこと。かつては世帯ごとに家で作っていた。そして、6人が回転台を使っている。この村の伝統的な作り方は人間が土器の周りを回りながら作るのが特徴だった。2007年には40人のポターのうちOTOPのリーダーら2人が使うのみ(日本に来たリーダーがそこで知り合った他の村の女性から教えてもらう)だったが今では半分が使っているという。また、リーダーのDさん(52歳)は車で15分ほどにあるムアングンという窯焼きの村で土器の表面を飾る絵付けを習い、村でも広めようとしている。常設の店舗兼展示場を置き、売れそうな非伝統器種の種類も増えていた。行政の補助を得ながら女性たちは自分たちの生業を新たな産業として発展させようとしている。
工房の壁に貼ってある大きなポスターをみて思わず「えっ!」と声が出た。おかあさんたちが民族衣装をきて外国人に土器作りの指導している。ひやかしたら笑っていたがまんざらでもないようだった。それにしても肩組んで踊っている男の子たちは意味がわからない。エコツーリズム、クラフトツーリズム、「観光」の波がついにここまで来たのか・・・・・
夜、空港の近くで開かれているサタデーナイトマーケットを歩く。わずか1週間の滞在で名残惜しく空港へ向かう。中国人の若者が多い。10年前はたくさんいた日本人大学生はどこへいったのだろう?
8時の便でバンコクに飛ぶ。上空から夜空に浮かぶコムロイが見えた。正月すぎても観光客が飛ばしているようだ。
夜遅くバンコクに着く。深夜でも車が多く大都会だ。
テレビでは夜通しステープ元副首相の演説が流れていた。
モンジャムのエコ・アグリカルチャー・ツーリズム
1月3日(金)
きょうは旧市街を出て北を目指す。途中、友人のおばあちゃんの具合が悪くて午前中を病院で過ごす。
お昼にメーサー渓谷のエレファントキャンプに行きゾウさんと遊ぶ。童心にかえる一時。
エレファントキャンプから近い、モンジャムのモン族の村へ行く。
ここも50年ほど前にロイヤルプロジェクトでつくられた計画村。ケシ栽培の撲滅、少数民族の文化の保存・経済支援が目的である。見渡す限りの山が野菜畑やフルーツの畑。ブドウ園・イチゴ園にコテージを併設したレストランで昼食を食べる。村を抜けると丘の上にキャンプ場があり花畑の周りには、夕日や星空を見にたくさんのタイ人が来ていた。モンの人たちは農作業中も民族衣装を着る。民族アイデンティティのためか、観光のためか。子供たちも民族衣装を着て嬉しそうにカメラに収まる。観光客への対価としてのサービスなのか。ドイプイのモンの村のそうだったが、タイ人たちは彼女たちにカメラを向ける人はほとんどいない。かたや欧米人や自分も含め日本人の多くはあたかも「人間動物園」のように好奇の眼差しでみる。「エコツーリズム」「エスニックツアー」の現場で感じたこの違和感はなんだろう・・・・。
近くにはエコ・アグリカルチャーの村として2005年にオープンしたカレン族(首長族)のトン・ルアン村もある。
1月2日(木)
旧市街を出て西の方を目指す。九十九折れの坂をのぼるとチェンマイ一(いち)の観光地-ドイ・ステープ(1,676m)がある。チェンマイ大出身の友人によれば、毎年新入生が学部(20もある)ごとに先輩たちと仮装?してドイステープまでパレード(行軍)をするそうだ。炎天下にこの坂を登るのはかなりきついだろう。以前イサーンの地方都市で高校生の体育祭パレードを見たけど、テーマを決めて衣装や化粧に工夫を凝らした本格的なものだった。
車を降りて300段余りの階段を上ると山の上にワット・プラタートという黄金に輝く寺院がある。参道には観光客の目を引くかわいいモン衣装の子供たちが・・・・。考えさせられる。傍らでは地元の中学生たちがモンの子どもたちの就学のための募金活動をしている。
参道には「野良犬」がたむろしている。それ自体は珍しいことではないが、なにかが変だ、と思ってよく見ると、野良犬がみんな太っている。街中の食堂をうろつく犬は決まって痩せているのに。ほどなく理由が分かった。かれらは野良ではなく餌をもらっているのだ。街中のお寺にも同じような野良犬が居ついており、観光客の募金でドックフードをもらっているのだ。これも仏の慈悲の心なのだろうか。
近くにある王室の離宮プーピン宮殿にいく。桜並木の花がちらほら咲き始めている。ここ10年あまり王様は来たことがないというがさすがに管理が行き届いている。驚きは庭園の花々。日本で咲く四季の花々が同時に咲いているではないか。大輪のひまわりの横で葉ボタン。ツツジやバラや・・・。私の好きなクリスマスツリーがいっぱい。それにしてもタイ人は花が好きである。
それからドイプイにある観光化されたモン族の村を訪ねる。ロッデン(ソンテウ=相乗りタクシー)が駐車場に入れないほどたくさんの外国人が訪れている。
もともと山岳部に点在していた人々を周辺開発に乗じて1か所に集住させた村である。王室・国家プロジェクトと聞いた。現在200戸ぐらいあるという。モンの建築の特徴を踏襲しているが、現代風の家もある。麻薬になるケシ栽培をやめさせ、畑を開発して野菜や花作りに雇用している。村の中の道・路地を埋め尽くすように店が立ち並び、民族衣装を着たモンの人たちが観光客の目を楽しませている。売っているのはモンの民芸品もあるが、チェンマイの街中と同じものが多く並ぶ。若い子たちはタイ語を話し、バイクで町に買い物に出ていく。集住、都市近郊農業、観光化によって彼らの生活はどう変化したのだろうか。
山を下りてチェンマイ大の近くのおしゃれなカフェでくつろぐ。夕食前にタイ・マッサージ(90分180B=約540円)をして帰る。学生らしき若者も来るリーズナブルな店だった。
Soap Art in
Night bazaar
1月1日(水)
宿をチェックアウトし、またチャリに乗って郊外のお寺に向かう。KUTAO寺とCHED・YOD寺。ともにチェンマイの古刹である。タイのお寺の正月行事を見ておきたかった。県外からも大型バスで団体参拝がたくさんきていた。
CHED・YOD(1455年建立)は古い塔や祠堂が生きていて趣がある。参拝者の頭上からぶら下がっている紐が何か不思議に思っていたら、頭に巻いてお参りし、終わるとこれを持って帰る。ミサンガにするのだろうか。何やら人だかりがするので行ってみると料理や飲み物が無料で振舞われていた。ひそかにお代わりをして昼ごはんにさせてもらった。
夕方、タイの友達と再会。車で懐かしい土器作り村に連れて行ってもらう。7年ぶりの訪問。お世話になったポターの家に行くと、かつておばあちゃんの家があったところに近代的な家が新築され、周囲のたたずまいも大きく様変わり。二人のおばあちゃんがもう亡くなったと。時の流れを感じる。後日再訪の約束をして町に戻る。
あいかわらずの猫たち
年越しのターペー門(チェンマイの東門)広場のカウントダウンイベント
12月31日(火)
ピン川のほとりにたたずんで読書していると、5~6匹のナマズの入った袋を持った人が続々と現れた。道端で売っている親父から袋単位で買って川に放してやるのだ。若いカップル、夫婦、家族連れ。魚を川に、鳥を大空に放つ。仏教の善行の一つだ。日本にも古くから放生の習慣は伝わっている(放生会)。
川岸にナマズを放つと彼らは底の浅い泥に身を寄せしばらくその場所を離れない。客が帰っていくとナマズを売っていた親父が網を持ってやってきて、これをまた捕まえようとする。なぜか滑稽に見えてしばらく見つめていた。
ふと思い出した。今日は大みそかだ。
夕食を食べてふと夜空を見上げると、大きな明かりがポツリ、ポツリ飛んでいく。そうか、これがあの「コムローイ」かぁ。きれいだ・・・・。
コムローイはチェンマイのロイクラトン祭り(陰暦12月の満月の夜)の風物詩で日本からも毎年ツアー客が押し寄せる。年越しの大みそかは旧市街ターペー門広場で上げられる。かねがね一度は見てみたいと思っていた。
カウントダウンのあるターペー門のイベント広場はロックコンサートで歩けないほどの人だかり。広場は人種のるつぼで様々な言語が飛び交う。「FREE HAGS」のボードを掲げてハグする女の子たち。沿道は歩行者天国で延々続く屋台。即席マッサージもある。こちらも人、人、人・・・。
その傍らで、天の仏に感謝の気持ちを捧げ、日々の生活が安寧であるように厄払いの意を込めて、コムローイを飛ばす。家族が、恋人同士がそれぞれ願いを込める。着火してから空気が暖まるまで待つ時間が格別だ。そして高く舞い上がれと手を離す。ふわりと揺れながら夜空に吸い込まれていくコムローイを見つめる。その表情がまたいい。
20B、40B誰でも何個でも買って飛ばすことができる。街中でやるので街路樹や電線に引っかかって燃えているのもある。花火を付けて飛ばす輩もいる。予想通り火事になったこともあるそうだ。
カウントダウンに向けてその数は徐々に増していく。一体何万、何十万のコムローイが飛ぶのか。そして大輪の花火がバンバンあがりついにその時を迎える。その迫力と美しさは筆舌に尽くしがたい。ロイクラトン祭りのコムローイ一斉上げは、夜空を埋め尽くす規模でこの比ではないという。恐るべしチェンマイ。
火が消えるとコムローイは落ちてくる。翌朝の街中がどうなっているか。想像通りの光景だった。
GHのそばのお寺。この時期寒いのか寺に住む猫や犬は服を着せられている。脇侍の様に寝転がる子猫
12月30日(月)
ようやく暖かくなってきた。朝からチャリに乗ってハイウェイ沿いにあるチェンマイ国立博物館へ。半開きの門に年末年始31日・1日は閉館と書いてある。安心して入っていくが、なぜか休館中。屋外展示の移設した窯跡を見学して帰った。後で調べたら月・火が平常休館日だった。
帰りに親子がやっている小さな床屋に入った。迷わず爺さんの椅子に座る。髪を切るハサミ、顔を剃るカミソリさばきにこの道一筋の職人技を感じた。さっぱりして午後は気分よく自転車で市内の寺巡り。GHの隣の寺に住みつく猫と戯れながら読書して過ごす。この夜はじめて寝袋を脱いで寝た。
チェンマイのサンデーマーケット
12月29日 濃霧の中チェンコーンを出発。午後チェンマイに着く。ランナータイ王国時代の堀に囲まれたチェンマイ旧市街の路地には数えきれないぐらいのゲストハウスやサービスアパートメントがある。15箇所ほど探してなんとか空き部屋が見つかった。しばらく気ままな一人生活を楽しむこととする。
たまには「観光」もいいか、と気楽に構える。結果的にラオスに続いて少数民族の文化継承と共存について考える機会になった。
チェンマイの日曜日といえばサンデーマーケット。国内だけでなく世界中から年末を利用して観光客が押し寄せている。ラオスの田舎とチェンマイの雑踏のギャップは大きいが、共通するのはどちらも安らぐ空間であること。
ライトアップされた寺巡りをし、露天の店を歩く。食いもの屋台が日本と違って品が豊富。マンゴーライスとカノムチン、その他もろもろを食べる。