今日からはいよいよ日中を通してC村での調査が始まりました。複数の班に分かれ、それぞれ別の家にお邪魔させてもらいながら、興味のある事を通訳を通してつたない英語(笑)で質問しながら過ごしていました。
私は「壷酒」班として、Sさんのお宅で伝統的な酒のつくり方を教えて頂きました。写真はうるち米を蒸している様子と、土器の中で完成したお酒です。お酒造りには様々な工程がありますが、奥さんは時折腰を休め、雑談を交えながら話してくれたので、ゆっくりとした時間の流れを感じながらの良い調査ができました。
その合間で私はSさんのお宅に集まっていた4、5人の子供たちに興味を持ちました。子供たちも、私たち外国人に興味があるようで、決して近寄っては来ないのですが、常に注目されていて、私も注目せざるを得ない、双方にらみ合い!(笑)という状態になりました。私はかつての留学経験で、言葉が通じない相手と手っ取り早く仲良くなる方法は「満面の笑顔」で接することだと感じていたので、普段動かさない表情筋を酷使しながら、まずは手を振ることから始めました。すると子供たちもニコッと笑い、手を振り返してくれました。
後でわかったことなのですが、この子供たちはSさんのお宅の子供ではないそうです(笑)この村では動物だけでなく子供たちもとっても自由なのでしょう。ほほえましいです。
それからお酒の調査がひと段落つくたびに笑って手を振って、笑って手を振ってと繰り返すと、あちらも私たちが怪しい人ではないとわかったのか、近づいても怖がられたり、嫌がられたりということがなくなり、むしろ照れているような、もじもじとした態度をとってくれるようになりました。私はそれが嬉しくて、(精霊信仰ということもあり、失礼になったり良くない行いに当たる可能性もあったので躊躇しましたが)頭をなでたり、肩を叩いたり、今度はスキンシップを多くとるようにしました。子供たちは構ってくる外国人が面白いのか、ケラケラ笑いながらこちらを指さしていました。
面白がられているなら好都合で、調査の合間に腹をくすぐったり、ハンモックを揺らしてみたり、追いかけるモーションをしてみたり。そうしているうちに子供たちとすっかり打ち解けられて、言葉はわからなくても「もっと遊ぼう」と目で言われているのがわかるくらい、仲良しになれました。
とにかくこの村の子供は目がキラキラしています。警戒心はありますが、人嫌いせず、あらゆることに興味津々!という感じで、見ていて眩しく思うほどでした。日本では中々こういう子供たちは見ないなぁと思いながら…
そろそろお昼を回り、みんなと合流して休憩しようという頃合いには、子供たちに袖を引かれ遊びに誘われるほどの仲になれました。その子供たちの中で一際私の目に映ったのは、写真手前のピンクの服を着た周りの子より少しだけ年上そうに見えるお姉ちゃんでした。
この子は見ている間ずっと本当の弟、妹ではないだろう子たちの面倒を見て、「それはしちゃいけないよ」というようなことを言い聞かせていたり、でも本当は一番外国人に興味を持っていそうだったり、お姉ちゃん役をしながら自分は一歩引いて冷静でいようとする健気な姿を見せてくれて、それがなんだか長女である自分と重なったりして、研修旅行から帰ってきて数日経った今でもあの子の顔を忘れられずにいます。
例え日本でなくても、お姉ちゃん役というのは世界共通なのかもしれないという発見や、C村の子供たちの笑顔に中てられたことで、最初はぎこちなかったであろう私の笑顔も最後には自然に笑顔になっていたので、この子たちはすごいパワーを秘めているなぁと体感しました。C村の子、とてもかわいいです。
最後に村の子供たちが描いた落書きで締めくくりたいと思います。男の人が横向きで描かれています。手の癖からおそらく右利きの子が描いたのだろうということはわかりますが、少年を描いているのか男性を描いているのかはわかりません。でも見るからに相当絵が上手いと思います。この絵は、日本の子供の絵と比べてどうでしょう。日本の子供が描く人の絵は大体正面を向いていると思います。この捉え方の違いは一体どこから生まれるのか、とても興味深いです。次また村へ赴く機会があれば、クレヨンと画用紙をもっていって、どういう色使い(色認識)をするのか見てみたいです。派手な色が好きそうだなぁ。
このように、調査初日だけでも村での体験は興味深いことばかりでした。私たちと人間性の違う所や似た所がどちらもある中で、子供というのはそれが表情や態度・行動によく表れるように思います。言葉が通じなくても遊んでみるだけでたくさんの発見があって、ベタですがとても楽しかったです。もちろん調査内容はしっかり記録していますので、ただ遊び呆けているだけというわけではありませんので安心してください。(笑)
余談ですが今回のラオスでの調査内容は展示発表するようです。私が調査したお酒のことや次の記事で出てくるアレソレも詳しくはそちらの展示に乞うご期待です。
では、次回の投稿もよろしくお願いします。
(BILLY)
今日はパクセーからスタートです。チャンパサック県の県都です。
町には植民地時代のコロニアル建築があちこちにあり、古きヨーロッパの雰囲気を漂わせています。
ニワトリの声で目が覚め、窓の外を見ると朝から青い空と暑い日差しが顔をのぞかせていました。7時半にロビーに集合し、朝食へ。
市街地にあるランカムホテル1階の食堂。食べたのは米粉の麺フォーとフランスパンのサンドイッチ。「カオ・チー・サイ・クワン」というラオス風バゲットサンドです。もっちり少し硬めのパンの間には、ツナやトマト、チキンなどがはさまれていて軽食にぴったりでした。
正直、注文時には「朝からラーメン?か……重いな……」と思っていたのですがそんなこともなく、あっさりとしたスープは焼肉屋で出るテールスープのような優しい味で、するすると胃に入っていくし、健康によさそうな感じでした。
同時にキャベツやインゲン、ハーブなどの野菜と、ジョッキに入った麦茶のような(?)お茶が出ました。生野菜は齧ったり麺にトッピングして食べるそうです。ますます身体によさそうですね。
このレストランで出てきたお茶ですが、不思議な甘さと香ばしさ、フレーバーなテイストは飲んだことのない味でした。アッタプーから戻ってきてから再び飲むことになるのですが、結局何のお茶か聞きそびれてしまったのを少し悔やんでいます(笑)。
ちなみにフランスの植民地だったラオスでは、日本でいうところのフランスパンが主流だそうで、町角の露店やマーケットでも頻繁に目にしました。
朝食を終えると、目的地のアッタプーまで3時間余り。車はボーラヴェン高原の道をひた走ります。沿道にはドリアンや巨大タケノコを売る露店。パクソーンでは地平線を見渡す限りのコーヒープランテーションやキャッサバ畑が広がり、ダオコーヒーの巨大工場もありました。
2時間ほど走ると道路横で陸稲を作っている畑があったため、車を下りて道端の家で話を聞きました。お聞きしたお宅では家族でとうもろこしの皮をむく作業の真っ最中。陸稲の土地の持ち主ではなく、実際に育てている方の話を聞くことはできませんでしたが、これまで走ってきた車道や大地の質感、雑木林の植生や畑の作物、雨季ならではの湿った空気、現地の人々のいきいきとした生活の一端を垣間見ることができました。日本ではなじみのない陸稲ですが、山を切り開いた赤土の土壌に、とうもろこしや芋(キャッサバ)と一緒に稲を植えていました。水と栄養が十分でない山の田んぼ(陸稲)に適した品種の稲を植えているそうです。
そうしてまた車に乗り込んで走っていくと、今度は路肩で籠いっぱいのトウモロコシを売っている女性の集団に出会いました。話を聞くと、この辺の村に住んでいるわけではなく、10㎞ほど歩いてきたT族という少数民族の人たちでした。彼女らがトウモロコシを入れていたカゴを気に入ったK先生、なんとカゴごとトウモロコシを大人買いしてしまいます。値段は200,000kip(日本円で約2,400円)。トウモロコシは午後からお邪魔するC村へのお土産となりました。
そして「本当に山を越える」ような道を進み、ようやく12:00にアッタプーの街へとたどり着きます。昼食は昨夜に引き続き(?)水上レストランです。川岸に下りていくのは、梯子のような歩きにくい階段でした。お店は増水すると流れていくのではと心配になるような作りでした。ここで国の情報文化観光省の出先である県の役人の方々に挨拶をし、一緒に食事をしました。
カオチャオ(うるち米)とラオス料理のラープ、レモングラス・ジンジャーの効いたスープ、手羽先揚げ、パン粉のフライドチキンのようなもの、生野菜と今回も目にしたことのない料理を楽しみました。
食事を終えるとホテルに荷物を預け、そのまま今回の旅の目的地、C村へご挨拶に向かうことに。車内で簡単な村の地図などを受け取ります。
ホテルを出るとほどなくベトナム戦争時代にできたという18号線(ホーチミンルート)に出るのですが、本当に経験したことのない穴ぼこだらけのオフロードでした。がたがたと揺れる衝撃で、座っているのに体が弾みます。突然飛び上がるので、ちょっとしたアトラクション気分です。私は最後列に乗っていたのですが揺れが激しく、行きと帰り、特に帰りは疲れがあったのか、妙な笑いが止まりませんでした。
横を悠々と追い抜いていくバイクの人々の不審げな顔が忘れられません。バイク社会になった理由の一端を見た気がしました(笑)。
さて、村に到着したのは3時前後だったでしょうか。いつの間にか細い道に入っており、すぐさま村長のお宅へお邪魔しました。アッタプーへ用事があって不在とのことで、談笑しながら待機。昨年も恒介先輩がお世話になったSさんに挨拶し、近づいてくる水牛たちのカウベルの音を聞きながら、にこにこ笑う子どもたちと我が物顔で庭を歩き回るニワトリたちを眺めていました。
Sさんいわく、4月の嵐でおうちや高床倉庫の屋根が吹っ飛び、昨年収穫した飯米がすべてダメになってしまったのだと。おとなりのSkさん家(壷酒調査)も屋根が飛んで修理されていました。家が開放的な作りのせいでしょう。その割にはみなさんあっけらかんとしています。自然のきまぐれともほどよく付き合っていくというスタンスに見えました。
帰宅した村長さんに訪問の趣旨を話し、体験やお聞きしたい内容を伝えると、各家に手配してくださることになりました。そして、道中ゲットしたとうもろこしやお土産をお渡ししました。
挨拶は終わりましたが、日暮れにはまだまだ時間があります。ということで、村を歩いてみることに。
村長の家があるbannok地区は2000年ごろから分村が始まった新しい集落。jedsan地区は2010年の大洪水で家を流失した人々に対して、政府援助で家が建てられた集落。そして一番奥にあるのが最も古いbankao地区。もともと山に住んでいたC村の人たちが政府から山を下りるよう指示されて最初に住んだ場所です。1978年のことです。
Bankaoへは道がぬかるんで車が通れないため、下りて歩くことに。ぬかるみはわずか20メートル。滑ったり足が埋もれたり両脇の有刺鉄線に服を引っ掛けたり、涼しい顔で歩く案内のSさんの逞しさを思い知らされます。
前方にはカランカラン、とカウベルを鳴らす水牛の群れ、道の端を歩いていくアヒルとひよひよ鳴くその雛たち、軒先で寝転がる放し飼いの犬、ニワトリに豚。たくさんの動物たちが繋がれず、入り乱れている様は本当に不思議な光景でした。どこの家の所有であるかもわからないのではないか、それでいいのか、といろいろ考えてしまいましたが、あの空間では些末な疑問だったように思います。
そしてあるお宅にお邪魔し、溜まり水で足を洗わせていただいていると、突然の土砂降りに見舞われました。雨季と聞いていた為、日本の梅雨を連想していたのですがそんなことはなく、ここでやっとの雨です。米を蒸している様子を拝見しているうちにやんでしまいました。
そして次に、水田に仕掛けられている漁具を見にいくことに。水田は集落の奥から山麓にかけて広がっています。途中までは水牛が田に入らないように竹柵がありましたが、それがなくなるとあぜ道は細くなり、所々水没していたり、ぬかるんでいたりとデンジャラスです。Sさんの背を追って、真似して道を飛び越えたり、諦めて泥の中を歩いたりします。おそらく着いていくのに必死だったのだと思います。道を見ていなかった私はぬかるみに足をとられて滑り、よく分からない声を上げてゆっくり尻餅をつき、転んでしまいました。この時のことは本当によく覚えています……。カメラやスマホ、電子機器がすべて無事だったのが救いですが、それはもう大笑いされてしまいました。
漁具は水田の段差を利用して畦越しの水が流れる場所に仕掛けるもので、竹で編まれています。カゴ状になっていて、一度入ると魚が出られないようになっています。日本では筌(うけ)や胴(どう)と呼ばれているものです。明日男子が一から作り方を習う予定です。
魚は住民の重要なタンパク源となっており、至る所に仕掛けられているのを目にしました。ほかにも畔に数10本刺す1mぐらいの釣竿があります。もちろんルンパ(養魚池)もあります。
隣のI村の水田では中央に2本竹の棒を立て、その先に棘のあるドゥーイ(ゴザを編む材料)というアロエのような草を付けていました。精霊を祀るのか、魔除けなのか、独特の儀礼です。C村でもドゥーイを使いますが、竹竿は立てません。隣り合う村でも儀礼のやり方がすこし違うというのは面白いと思いました。
今日は村の全体像を把握したので挨拶をして、再びガタガタ道を通って町に帰りました。夕食は日本でいうところの焼肉のような料理で、「スィンダール」=肉焼・肉グリルという意味だそうです。ジンギスカン鍋のように盛り上がった部分に肉や魚貝を乗せ、それを取りかこむようにできた円状のくぼみにスープ、野菜、春雨を流し込みます。〆にはママーというラーメンを投入して食べました。
お店には犬が4匹ほどいました。別に飼い犬ではなさそうです。客がテーブルの下に落とした食べこぼし(意図的に餌として食べ残しをあげる)をきれいにしてくれるスウィーパー・ドッグ(お掃除犬)です。ここでも動物と人間が共存共栄している姿を垣間見たような気がしました。でも、アッタプーには犬食のお店がありました。日本も含め、韓国、中国、アジアには犬食の伝統があるんですね。
そして食事中に突然の雷雨。雷が苦手な私はホテルに戻るまで真っ青でした。
この夜はよく分からないトカゲ(「トッケイ」と大声でなく)の鳴き声を聞きながら眠りにつきました。トガケ好きのBとSは大喜び。キキヤムという小さなヤモリを捕まえてかわいい、かわいいいと。謎です・・・・・・・・
この旅の本番、C村での本格的な調査は翌日からとなります。次回もよろしく。
(NATSUMI)
8月20日夜 いざ、出発・・・・
22:00 各自がそれぞれの場所から羽田空港国際線ターミナルに集合。
みなさん、旅慣れたリラックスしたスタイル。チェックイン後、24:20発のタイ航空便でバンコクに向かいました。
現地時刻の5:50(2時間の時差)、まだ暗いうちにバンコク・スワンナプーム国際空港に到着。
バンコクに到着したと安心したのも束の間、7:25発の国内線に乗り換えて、8:30にはもうタイ東北部の街、ウボンラチャタニーに着いていました。
ウボンへと向かう飛行機から眺めるタイ東北部(イサーン)の農村風景は区画整理がされていない、様々な形をした田んぼと、その中に点在する木々がまるでひしめき合う細胞のようで、興味深い景色でした。
今日の朝食は国際線の機内食と、国内線の軽食。
ウボンに到着すると、タイ人ドライバーのオーさん、アシスタントのミムさんと合流。ミムさんはチェンマイからバスで17時間かけてやって来たそうです。
市内のスーパーで飲料水などの生活用品と村へのお土産を調達し、いよいよここから車でラオスを目指します…
「去年連れてきたS君は初日にパラーの入ったソムタムを食べてお腹を壊した(雑菌だらけのパラーをそのまま口にすると多くの日本人は胃腸がひどいめにあうそうです(^^;))」という北野先生の思い出話を聞きながら僕と友人のT君は料理を完食。その日の夜にお腹を壊したりしないだろうかとちょっぴり不安になったのも、今ではいい思い出です。
昼食後、再び車でラオスを目指します、ラオスへは徒歩で国境を越えました。陸路で国境を超えるという初めての体験に緊張しながらも、みんな無事に国境を通過しました。とてもゆる~い雰囲気のラオス側イミグレーション。国境付近では様々な露店が立ち並び、野菜だけでなくタマムシやカエル、日本のものとは比べ物にならないほど大きなコオロギが売られていました。昆虫好きのSさんやBさんは巨大コオロギに大興奮…。
タマムシは食用だけでなく、仏教の放生(魚や鳥が一般的)の儀式にも使われ、逃がしてやることで徳が積まれるそうです。
国境を超えた後、車に揺られてしばらくすると「メコン川が見えてきたぞ」という北野先生の声ですっかり眠ってしまった我々も目を覚まし、目の前を流れるメコン川を眺めました。車窓から見えるメコン川の景色は実に雄大で、その緩やかな水の流れはまるでこの地に流れる悠久の時のように果てしなく続いていました。このパクセー橋は「ラオス―日本友好橋」といわれ、2000年に日本のODAによって作られたそうです。
メコン川を渡ると、本日の目的地であるラオス南部の街パクセーに到着しました。
ホテルでラオス政府の情報文化観光省・文化遺産局(日本の文化庁文化財部に相当)の職員と合流し、パクセーから1時間ほどのところにあるワット・プーを見学。ワット・プーはクメール王朝期に建立されたヒンドゥー寺院で、同じくクメール王朝が建立したアンコール・ワット同様、世界遺産に登録されています。急な階段をいくつも上ると本堂に到着、ヴィシュヌ神やデバターなど精緻な彫刻に感動し、当時の人々の高度な技術に感銘を受けました。ちなみに祠堂の裏山は石切り場になっており、日本と同じ矢穴による採石跡や加工途中の石材、彫刻をみることができました。
この日の動きを振り返ると、自分はなんて果てしない距離を1日の間に移動したのだろうかと思いました。今晩はここパクセーで一泊。夕食はメコン川の船上レストラン。ライトに照らされた釣舟をながめながらおいしいラオス料理、タイ料理をいただきました。
明日はいよいよC村のあるアッタプー県を目指します。今回の旅は、初めて見る景色や初めて聞く言葉、初めて口にする味など初めてづくしの旅でした。我々の旅はまだ始まったばかり、次回の投稿も楽しみにしていただければ幸いです。
(SOCHAN)
8月20日~28日に、ラオス・タイで実施した歴史遺産学科の国外研修(8泊9日)の様子を紹介します。
ラオスは東南アジアの大陸部、インドシナ半島の内陸部に存在する農業国です。国土の面積は日本の2/3ほど。70%が高原や山地です。国民の6割が篤く仏教を信仰するラオ族で、平地部で暮らし政治的、経済的優位にあります。一方、高原・丘陵地等に散在し、先住民ともいわれる多様な少数民族も暮らしています。自然信仰、アニミズムの伝統が顕著です。
このスタディ・ツアーは、精霊信仰が息づく少数民族の村を訪ね、自然と共生する持続的資源利用の暮らし、その知恵や技を学ぶことを目的に企画されました。住民の日常の手仕事を体験しながら、観察、実測、ヒアリングをして民族誌調査の手法も学びます。
この企画は歴史遺産学科がラオス政府(情報文化観光省・文化遺産局)に申請し、その許可を得て実施されました。参加者は学生5名、教員2名、副手1名、タイ人のアシスタント(通訳)2名、ラオス情報文化観光省の職員1名、の総勢11名。
今回訪ねたのはベトナム・カンボジア国境に近いラオス南部、アッタプー県にあるO族が暮らすC村です。O族は県南部の山麓に16の村に分かれて暮らしています。言語は巻き舌を多用するO語。近年は学校教育により若者はラオ語を話します。外国人旅行者の立ち入りが制限されているため、同省職員随行のもとでの調査が許可されました。関係者に深く感謝します。
C村はベトナム戦争時に作られたホーチミンルート(北ベトナム政権が南ベトナム民族解放戦線を支援するためにラオス国内に設けた補給路、現18号線)沿いにあります。県庁所在地であるアッタプー市街から毎日1時間余り、雨季の雨でぬかるんだ凸凹道を通いました。
村には約120世帯、500人が暮らしています。遠い先祖は山地を移動しながら暮らしていたとの伝承があり、インドシナ戦争時までは戦乱を避ける意味もあり、ボーラヴェン高原の急斜面に住んでいました。革命後の1978年ごろ、政府の少数民族政策により山から下ろされ、山麓に住み始めました。その後、2,000年代に人口が拡大し、18号線よりに分村するなど、現在では3地区に集落が分かれます。
主たる生業は水田稲作(雨季のみの単作)です。ラオスやタイ東北部(イサーン)は灌漑水路をもたない「天水田」が一般的ですが、ここでは村の背後にそびえるボーラヴェン高原の崖に幾筋もの滝が見えるように、雨季は山から豊富な雨水が流下し、畦越しの自然灌漑が可能となります。前者では天水田に適したもち米が主体ですが、O族はうるち米を作り、伝統品種を20近く持っています。肉、豆類をほとんど食べないため、タンパク質は魚類から摂ります。そのため水田漁業が盛んです。田んぼ一枚一枚に大きな養魚池ルンパ(下の航空写真)があり、雨季中に入り込んだ魚を養育し、水が枯れる乾季まで食べ続けます。
ラオ族の天水田では「産米林」と呼ばれるたくさんの樹木が林立するのに対し、ここで樹木はが少ないのは、水田漁業との関係が強いと思われます。水田というと広大な稲田が広がるイメージが強い日本人にとっては、むしろ前者の方が奇異に映ります。ボーラヴェン高原では陸稲の米作りも見ました。トウモロコシと混植する「山の田んぼ」はもっと不思議だったかもしれません。自然環境に応じたそれぞれの稲作の風景をみることができたのではないでしょうか。
ところで、18号線沿いには仏教を信仰し、もち米を食べるラオ族のP村があります。C村とは集落が接するばかりでなく、その境に両村の統合小学校ができ、現在では両民族の子供たちが仲良く学んでいます。習俗、習慣、文化伝統の異なる集団同士ですが、経済的交流も盛んです。
今は雨季。通っている間も毎日夕方から夜は雨でした。水田は7月に田植え(・直播き)が終わり、直播田の草取りやプランテーションへの出稼ぎも終わって骨休めの時期でした。とはいえ、村の中では屋敷や田んぼの竹塀(水牛除け)の修繕、魚とり籠などの竹細工、思い思いの仕事がなされていました。わずか4日足らずの滞在でしたが、学生たちは壷酒造り、敷物編み、筌づくり、米の麺づくり、昆虫の調理、薬草採集などを体験し、調査しました。英語の通訳を介し、ラオ語と発音できないO語に混乱しながらも必死に記録をとりました。住民たちとの数々の触れ合いは貴重な異文化体験になったのではないでしょうか。
村長さんはじめ、ずっと同行してくれたSさん、体験、観察に協力してくれたそれぞれの世帯の方々、村民のみなさま、ありがとうございました。
村上春樹は言います。ラオスの「風景には匂いがあり、音があり、肌触りがある。そこには特別な光があり、特別な風が吹いている。何かを口にする誰かの声が耳に残っている」。
いまでも、村の子供たちの笑顔とにぎやかな歓声、一緒に水遊びをした滝の音が耳に響きます。
ボーラヴェン高原の崖には幾筋もの滝が流れ落ちる。田の畔道を歩き、滝を目指す 。
タンパク質を魚に依存するO族独特のルンパ(養魚池) 一枚一枚の水田にみえる黒い丸がルンパ
村はずれの川はどこも子供の遊び場だ。笑顔がはじける
学生たちがうるち米を搗いて麺(フォー、ここではカプーンという)を作る
世界遺産ワットプー(チャンパサック県にあるアンコール王朝の寺院遺跡) ちょっと気取ってみました・・・
7/30(土)、31(日)に夏のオープンキャンパスを開催いたしました。
猛暑の中の開催となりましたが、例年よりも多くの方々にご来場いただくことができました。
ありがとうございました。
各ブースやイベントの様子をお伝えいたします。
◆学科説明会
歴史遺産学科の方針やカリキュラムについて、学科長が丁寧に説明いたします。
◆面談会場
教員との面談の様子。現役の学生たちも輪に加わり、自分の入試体験なども踏まえてアドバイスをしていました。
◆学生が語るフィールド体験
歴史遺産学科のフィールドワークについて、考古・歴史・民俗人類学分野の学生たちが、それぞれの視点でお話しました。
◆体験コーナー
恒例の石器作り体験。
今回は「縄文クッキー」が登場。
現代風にアレンジされた甘い縄文クッキーを食べた後、ドングリ100%の渋い縄文クッキーが配布されます。
こちらは味見の様子。
野外ブースのため、冷えた飲み物と冷たいおしぼりを用意しての開催となりました。
こちらも恒例のくずし字体験。
こちらは民俗・人類学分野の体験コーナー。
様々な文様を描きながら、その文様の意味について楽しみながら学んでもらいました。
スコールが降ってきたりと慌ただしい瞬間もありましたが、学生たちが傘で来場者を送迎する姿にほっこりする場面も。
中心になって活躍してくれた3年生の皆さん、おつかれさまでした!
駆けつけてくれた4年生もありがとう!1,2年生は来年もよろしくお願いします。
来年のオープンキャンパスに向けて、より学科の魅力をしっかりとお伝えできるように試行錯誤してまいります。
教員・学生一同、またのご来場をお待ちしております。
7月22日(金)歴産カフェもいよいよ最終回を迎えた。今日のお題は、高校生たちにもなじみのあるジブリ・アニメ「もののけ姫」。ふだんは「ああ、面白かった」とストーリーを楽しんで見ていただけだったと思いますが、この授業では画像や本を見ながら、作品にちりばめられた「民俗学的」意味、メッセージを読み解いていくというものでした。
今回は日本の東西の文化とその関係がどのように描かれているか?
初対面の生徒同士、慣れない話し合いをしながら意見をよくまとめて発表してくれました。東西の武器や刀の違いなど、結構、細かいところまで見ているなと感心する意見もありました。
高校生たちはアニメで西と対比して描かれる「東の土着の文化」に自分たちのルーツを重ねながら、同時にネガティブなイメージを抱いている印象がありました。しかし、「進歩」や「発展」という価値観の基準を問われたとき、何人かはすこしうろたえたように見えました。
ジブリ・アニメと歴史学、ジブリ・アニメと考古学、ジブリ・アニメと人類学。まだまだ続編が期待されます。
歴産カフェは、山形の、東北の歴史や文化を素材として、歴史遺産を学ぶ面白さを体験する場です。
驚きや発見は学びの原点。
目を輝かせてくれた高校生たちへ。ぜひ次回、また会いましょう!
東北芸術工科大学歴史遺産学科・山形県高等学校社会科教育研究会日本史部会村山支部の教員一同
7月15日
「ムカサリ」を知っている人?シーン…。 知らない人?…全員が挙手した。
やはり若者にとっては縁遠いことばだろう。
今回は県立博物館が所蔵する「ムカサリ絵馬」を実際に観察し、その絵がなにを描いているか考えるところから始まった。まず絵馬の取り扱い方の注意点を学び、実際に資料に触れて熟覧した。
昔の結婚式の絵であることはすぐわかったようだ。花嫁らしき女性が文金高島田で角隠しを被っている。さて、そこからがむずかしい…
ムカサリはやまがたの方言で結婚式のことを言う。ムカサリ絵馬は、未婚のまま亡くなった子供が挙げる結婚式の様子を絵馬にして神社に奉納したものを言う。この風習は山形県村山地方が盛んで東北地方に散見されるという。
亡き子への親の思いだけでなく、戦前の人間観、家族・社会観、霊観が顕著に表す風習で、実は現在も細々と続いていることを知った。ウェディングドレスの絵馬もあり、夫婦二人のみが描かれる。そこには結婚観や家族観など社会の変化が読み取れるという。若者にとって「結婚」や「死」という身近で普遍的なテーマだったせいかみな真剣に話を聞いていた。
そして、山形独特かのようにいわれるムカサリであるが実は、冥婚や霊婚といった形で、東アジアで2000年以上続いてきた習俗であること、ひろく世界を見渡すとアフリカにも存在することが説明された。民俗学や人類学のローカルとグローバルを行き来する面白みが伝わっただろうか。
スタッフや見学の学生たちが絵馬の開封や梱包を手伝わせてもらった。いい経験になったかな。
最後に、高校生たちも自主的に机の整理整頓、ごみの片づけを手伝ってくれるようになった。
あと1回で終わりと告げると「また、この続きやらないんですか?」とうれしいことを言ってくれる・・・。ありがとう