アニョハセヨー!!!!!!!!
一昨年に続き、歴史遺産学科の塚野聡史(4年)と菊池駿貴(3年)が4月30日~5月6日までの間、韓国の漣川郡全谷里(チョンゴクリ)遺跡公園で行われた全谷旧石器祭りと国際集会に長井謙治先生と一緒に参加してきました。
一昨年と同様に世界各国からメンバーが招集され、今年は韓国も含め総勢6か国(日本、韓国、台湾、マレーシア、オーストリア、リトアニア)からの参加となり、祭りの期間中各国から招待された国際的なメンバーとして行動を共にしました。
初日は移動日ということで、アシアナ航空の飛行機を使い、成田国際空港をお昼過ぎに出発し、2時間半かけて仁川(インチョン)国際空港に到着しました。例年はその日のうちに全谷里に移動するのですが、今年の初日はソウル市内のホテルに滞在することとなりました。そのため、韓国の銀座(?)と言われる明洞(ミョンドン)へ行き、韓国の焼き肉を食べ、時間に余裕があったのでミョンドンを散策、夜の韓国を満喫しました。
国際集会の会場となった景福宮(キョンボックン)
韓国訪問二日目からが本番です。二日目は、午前中ソウル市内にある国立民俗学博物館と、国立古宮博物館に訪れました。国立民俗学博物館では、子どもたちにも分かりやすいような体験ブースを設けるなど、ポップな展示になっており、韓国の思想や歴史を一から体感する事も出来ました。国立古宮博物館では、韓国の今までの王朝についての展示がされており、遺物の展示など、日本でも見習うべきことが多くありました。その後は景福宮(キョンボックン)と光化門(クヮンファムン)を見学しました。
そして午後二時から、古宮博物館内にある講演ホールで第7回「遺跡保護と遺産教育に関わる国際集会:文化的に優れた博物館の構想戦略」が開催されました。ここでは、各国の石器づくりのメカニズムや、博物館の活用方法など、とても勉強になる発表が行われました。そして、長井謙治先生が2013・14年度の日向洞窟遺跡の発掘報告を、地域住民考古学(パブリック考古学)という立場で、調査中の現場の様子や地域の人々との交流の様子の写真を織り交ぜつつ、発掘と地域の人々との結びつきについて触れながら、発表しました。講演後は発表者全員が登壇してのパネルディスカッションが行われました。日向洞窟遺跡の調査成果に関しても質問が相次ぎ、福井洞窟との調査成果との比較などが争点となりました。また、この日の夜は私たちを招待してくださった漢陽大学の裴基同教授や全谷先史博物館の李漢龍館長らが、私たち各国から招待された国際的なメンバーのために仁寺洞(インサドン)で食事会を開いてくださいました。そしてこの日のうちにソウルから約1時間半車で北に向かった、祭りの会場となる全谷里遺跡公園へと移動しました。
景福宮(キョンボックン)にある国立民俗学博物館で館長から説明を受ける
招聘された国際的なメンバー
4月25日。高畠町に洞窟を探しに行きました。
高畠といえば2013年度から発掘調査が行われている日向洞窟でお馴染ですが、それだけでなくまだまだ未知の洞窟が沢山眠っているのです。今回はその洞窟を探しに行きます。
最初に向かったのは文化遺産でもあるびる沢湖周辺の洞窟。順調に歩き出す一向。しかし…
洞窟にたどり着く前に地表観察に追われます。
今回GPSの操作や測量の補助などなどで大活躍です。
歩くたびに遺物を発見する学生も。流石です。
結局洞窟までたどり着くのに地表面の観察に追われました。
一区切りついていざ洞窟へ。
初めて洞窟を見る学生もいて大興奮。やはり写真と生じゃ雰囲気から違いますね。
さて、本題はここから。洞窟から少し見上げると大きな岩穴が。
二つ目。
沢山積もった枯葉から昔の暮らしの痕跡がないかみんなで探します…。
手掛かりはありました。
まだまだ洞窟はあったのですが、お昼もすっかり過ぎて、お腹を空かしてへとへとになった学生もいたので古川さんの蕎麦を頂きに下山。
蕎麦の写真撮り忘れました…。とっても美味しかったです。
古川さんとの話に花を咲かせ、気が付くと1,2時間も経っていました。
午後からは日向洞窟へ。
とても神秘的な場所で心が熱くなりました。その感情を表すうまい言葉が出てきません。
それから洞窟前の山へ。
いつの間にか夕暮れに。
夕陽に照らされる高畠町はとても綺麗でした。
次回はどんな発見が待っているのでしょうか。楽しみです。
今日は岩手県立大学の菊地強一先生と長井ゼミで南陽市と高畠町の地形観察に出かけました。
まずは松沢周辺で遺物探し。目と体を慣らします。それから段丘面区分を行って、時沢扇状地の形成について調べました。
時沢部落を抜けて扇頂部に達したところで、崖錐斜面を発見。フィールドノートに柱状図を作成しました。
はじめての土層断面図の作成に学生は困惑の模様。でも、2回目は自分で書けるようになったようです。
酸素同位体ステージ3(?)の明黄褐色土層を記録する。その中にATはあるか??
土の中からは火山灰もサンプリングしました。
その後に日向洞窟周辺部に立ち寄り、河川解析による露頭を発見しました。そこでは、デジタルクリノメーターを使って、段丘区分に有用な堆積構造の確認を行いました。
雪解け直後で山々の稜線がくっきり見えるこの時期、地形観察に最適でした。晴天にも恵まれました。
緑が繁茂して、夏の発掘調査時にはわからなかった多くの知見を得ることが出来ました。
同行した考古学専攻生も一生懸命に学んだようです。
バイト休めて良かったですね!
卒業論文・口頭研究発表会にかかる各賞の受賞者が決定いたしました!
◆最優秀賞
亀山 絵莉香
「米代川流域、米沢盆地、信濃川流域における三脚石器の地域性と影響関係についての一考察」
◆優秀賞
大沼 文香
「在日南米日系人の来日背景と現状から見えてくること」
吉田 郁哉
「近世後期羽州村山郡における商人荷脇道駄送研究」
◆研究奨励賞(学科独自の賞)
藤井 渉
「環境を活かした温泉旅館の観光と信仰―山形県西川町志津温泉を事例として―」
太田 かおり
「社家における継承問題―山形県山形市大字漆山稲荷神社を事例に―」
◆学生が選ぶポスター賞(学科学生の投票で選出)
藤原 詩織
「『有珠郡移住開拓史要』の研究―亘理伊達家の移住開拓―」
卒展は2/15(日)まで開催しております。
409講義室に論文も展示しておりますので、気になった研究があればぜひ足をお運びください!
本日より卒展が始まりました!
歴史遺産学科では本館4階409講義室でパネルの展示を、本館1階ブースでは学科や分野の紹介展示を行っております。
1階のブースでは卒業論文の紹介文なども展示しております。
409の方に各々の論文が置いてありますので、紹介文で興味を惹かれる研究がありましたら、4階まで足を運んで頂けたらと思います。
ご来場の際、何か疑問質問等ありましたら、遠慮なく会場にいる学生にお尋ねください。
なお、明日2/11からは口頭研究発表会があります!
パンフレット等には10:00からと記載されていますが、9:00からの開催となりますのでご注意ください。
また、発表順ほか詳細は【こちらの記事】をご参照ください。
4年間の大学生活の中で最大のイベントです!4年生、頑張って参りましょう!
準備室からでした。
今年度の歴史遺産学科 卒業/修士論文口頭研究発表会の日程が決まりましたので、お知らせいたします。
◆とき 2月11日(水・祝)~12日(木) 両日9:00~
◆場所 本館4階 408講義室
◆発表者 学部生30名 院生1名
◆発表順 以下の通りになります。
2月11日(水・祝)
歴史遺産学科卒業論文 口頭研究発表会 1日目 午前の部 9:00~
<考古学専攻 長井ゼミ>
「河童形土偶研究の一考察 ―山形県周辺部に位置する大木式土器文化圏と比較して―」
「米代川流域、米沢盆地、信濃川流域における三脚石器の地域性と影響関係についての一考察」
「日向洞窟遺跡西地区の槍先形尖頭器を中心とした石器製作の検討 ―縄文時代草創期の剥片資料から―」
「縄文時代における釣針のチモト部について ―仙台湾周辺の地域性を探る―」
<考古学専攻 北野ゼミ>
「山形盆地における古墳時代前期土師器による炊飯方法について ―服部遺跡・藤治屋敷遺跡を対象に―」
「古墳時代前期~終末期におけるガラス玉の法量と製作技法の関係 ―東北地方南部を中心に―」
(休憩)
「鹿角部位と技法から見る釣針の作り分け ―いわき地方大畑貝塚の資料を対象として―」
「押出遺跡出土木柱からみる低湿地においての樹種の選択性」
<文献史学専攻 佐藤ゼミ>
「河川災害の変遷 ―山形市の瀧山川・馬見ヶ崎川・須川・立谷川を中心に―」
「米沢藩上杉家の正月行事」
「慈恩寺の行事と文書からみる三ヶ院の機能―真言天台両立の背景について―」
<文献史学専攻 竹原ゼミ>
「近世後期羽州村山郡における商人荷脇道駄送研究」
(昼食休憩)
午後の部 13:50~
「『有珠郡移住開拓史要』の研究 ―亘理伊達家の移住開拓―」
「明治期秋田県内における武術教育奨励」
「日本の模型・プラモデルの発展 ―玩具から日本の文化へ―」
<民俗・人類学専攻 謝ゼミ>
「山間部集落における屋号の一記録 ―山形県米沢市大字関地区大白布集落を事例として―」
「風刺画から見る日露戦争期の日本描写 ―『パンチ』のステレオタイプの変遷―」
(休憩)
「箸をめぐる思考 ―食卓における使われ方を事例に―」
「さくらんぼ栽培の光と影 ―山形県東根市を事例に―」
「神楽の現状と保存 ―宮城県亘理町の牛袋法印神楽を事例に―」
「北国が育んだ刺し子技法 ―津軽の大地からこぎん刺しを語る―」
「なぜ人肉を食べるのか? ―カニバリズムに関する一考察―」
=17:00 1日目 終了=
2月12日(木)
歴史遺産学科卒業論文 口頭研究発表会 2日目 午前の部 9:00~
<民俗・人類学専攻 謝ゼミ>
「環境を活かした温泉旅館の観光と信仰 ―山形県西川町志津温泉を事例として―」
<民俗・人類学専攻 田口ゼミ>
「生命に関わる民俗―小国町五味沢のウサギ狩りと小学校での動物飼育を通して―」
「旅マタギの痕跡と技術伝播の可能性 ―マタギ道としてみた御所山~甑岳ルートを事例に―」
「山形新幹線区間の駅と人の姿 ―奥羽本線(山形線)と新幹線開通前後を通して―」
(休憩)
「社家における継承問題 ―山形県山形市大字漆山稲荷神社の事例―」
「害獣という認識の発生プロセス」
「山形県東村山郡山辺町作谷沢地区における山林管理と継承」
「在日南米日系人の来日背景と現状から見えてくること」
芸術工学研究科芸術文化専攻 歴史文化研究領域 修士論文口頭研究発表会
2月12日(木)11:35 ~
(※卒業論文口頭研究発表会に引き続き、同会場にて行います。)
「現代社会の手仕事産業に生きる民俗知 ―山形県西置賜郡白鷹町の伝統的織物産業を事例として―」
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卒展期間中(2/10~2/16)は、本館4階409講義室および、
本館1階abeabe(本館学食側入り口の近くです)にてパネル(ポスター)の展示なども行っております。
409講義室の方には、卒業論文の現物も展示予定です。
学生による解説も行っておりますので、お越しの際には会場にいる学生にどうぞお声掛けください。
たくさんの方のご来場をお待ちしております!
準備室でした。
1月5日(続き)
7時過ぎにゲストハウスに戻り朝食を食べる。市場で材料を買い、資料のパッキング。町中はアスファルト仕様のゴムタイヤをはいたミンレー(馬車タクシー)が行きかう。お正月のせいか、頭に髪飾りを付けた馬が多い。ミャンマー男子が身につけるロンジー(スカート)を買ってはいてみた。調査中、草むらで用をすませる時(ミャンマーでは必ず「ごめんなさい」を言ってからするのだとTB君)、ロンジーの場合は座ってするのだが、その習慣がない日本人にはちょっと難しい。
今日はエーヤワディ左岸を北上する。午前中干上がった川を越えN村を目指すが、30分ほど行くと砂で車がスタック、あきらめて引き返す。ミンジャンの町から次のY村を目指す。わき道に入ると広大なプランテーション。トウモロコシと豆の混植、たばこ、とうがらし、わた、きび、圃場ごとにころころ変わる。ミャンマーの畑作は単一栽培を嫌い、混植や多種栽培を志向しているようにみえる。一直線のガタガタ道を車は時速10kmでのろのろ進む。途中で道を訪ねたバイクの夫婦がずっと車を先導してくれる。灌漑用水路沿いの道では前をオックスカートにふさがれ追い越せない。2kmの間、追い越す道幅がないのだ…
15:50ミンジャンから20kmの距離をちょうど2時間かかってようやく村に着く。エーヤワディの岸辺に船積みを待つ土器が並ぶ。大規模生産地の予感。敷地の周囲に土器を積み上げた「土器垣」が巡る。最初に見たのは2,850個入っている巨大な野焼きの山。直径はなんと10m。村の奥に入るともっと巨大な野焼きがセットされていた。180軒中80軒が専業で土器を作っている。ここでは原形作りに二人一組で回す轆轤を使う。
アウンサン・スーチー氏率いる国民民主連盟(National League for Democracy)のポスターが掲げられたお宅にお邪魔し成形を観察する。ンガーチョという小魚の唐揚げを御馳走になり、お土産をいただく。村はずれの船着き場のそばではゲストハウスの建設が進んでいた。この村にはエーヤワディー・クルーズの舟が着岸し、頻繁に外国人が訪れるそうだ。
村を出てしばらく行くと日没。薄明かりのなかミャンマーでは珍しい土葬の村が続く。不思議な光景だ。さらに月が明るくなり始めたころ、アシスタントが道路脇で野焼きの煙を発見。急きょ車を止めて取材する。ほんとうにミャンマーには土器作り村が多い。
それからが長かった。いけどもいけども町の明かりが見えない。漆黒の空に月と星だけが輝く。道案内を間違えたTB君に切れたドライバーが鬼のようにぶっ飛ばし、9時半すぎになんとかマンダレーに着いた。
1月5日(月)
せっかくヤンウーに来たのでちょっとだけでもバガンをみたい、そんな衝動に駆られた。アシスタント一人を道連れに朝5時にゲストハウスを出発。月明かりの中で、シュエサンドゥ・パヤーの急階段を這うように登る。暗闇に足がすくむ。すでに中国人の集団が三脚と一眼レフを構えて陣取っていた。月が沈むにつれて人が増えてきた。世界中から人が来ている。コンデジしかもっていない自分が情けなくなるくらいみんないいカメラを担いで来ている。
バガンはアンコール、ボロブドゥールと並び称される世界3大仏教遺跡の一つ。エーヤワディ河畔に築かれたビルマ族最初の統一王朝の都で、11~13世紀の仏塔や寺院が3000以上あるといわれている。現在も住民らの信仰を集めるこの地は仏塔の修理方法や観光開発の手法の問題から世界遺産登録に待ったがかかっている。