1月4日(日)
今日はミャンマーの独立記念日。早朝からうるさいと思ったら宿の前の陸上競技場でイベントをやっている。道路では高校生のマラソン大会。昼間は暑いので早朝にやるらしい。
こちらのお札の数え方は独特だ。1000K札を数十枚数えるのに縦に束ねて数えていく。1枚を折り曲げて2枚に見せるトリックに引っ掛からないようにするためらしい。
モンユアを北に上がるが、情報のあった村が見つからない。反転してチンドゥイン川を渡り、一路南下する。ふたたび延々続く高原地帯。パカンジーという町周辺に二つの村があるという情報。途中、広大な銅鉱山。開発のスケールが想像を絶する規模。中国資本が開発している。羊や山羊の放牧が目立つようになる。牛飼いは男性だが、山羊と羊は女性と決まっている。
そして、ミャンマー人御愛用の「タナカ」の植林地帯に入った。突然ドライバーとアシスタントが目を輝かす。ヒアリングのたびにどこで買えるか聞いているようだ。
11:00にJ村に着く。ここは岩盤の上に村があり、板状節理の砂岩を屋敷の石積みに利用している。切り石を基礎に使う民家もあり、近くに石切り場があるようだ。100軒ぐらいの村。稲作との兼業で、いま土器作りは始まったばかり。土器鍋は現役だ。炊飯からおかず調理など活躍している。多様な器種を作っている。
この村ではタナカの木の栽培が盛ん。1本が10,000チャット(約1,000円)。ドライバーたちは2本買って鋸で一生懸命カットしていた。こんなに大量に持って帰って商売でもするのだろうか。上機嫌だった。タナカは小口を専用の円面硯のような砥石で水とともに擦って塗る。どこの家にも鏡とこの硯がセットで置いてある。この家ではヤシの実で焼酎を作っていた。工房にはヤシの実を煮込む甘いにおいが充満。幼い弟を抱く女の子が竹の子のような食べ物をくれた。丸ごと焼いて皮を剥いて食べる。ジャガイモのようにほくほくしておいしい。
幹線から枝道に入り、網の目のような道を縫って進むとT村が現れた。この村も兼業の村で土器作りは始まったばかり。Cさん(17歳)の成形をみせてもらう。野焼き場に行く道のわきにはカウダン(牛糞)が並ぶ。先のJ村と同じく野焼きの規模は3~4mと大きくはない。帰り道、村はずれの道路脇で若い恋人たちが愛を確かめ合っていた。私たちの車に気付かないほど。なぜか、ほのぼのとするいい光景だった。昼食はタミンジョー、卵焼きが乗っていた。
最後にパカンジーのT村。日が傾いてきた時間にも関わらずあちこちから叩きの音が聞こえてくる。100軒のうち80軒が作っているという。成形を見たあと、道路の向こうにある野焼き場に行く。ちょうどセットし終わったばかりの野焼きがあった。緩斜面に掘りこみを持つタイプで、日本の古代の野焼き遺構を彷彿とさせる。発掘してみたくなった。ここの野焼きは藁の上に薄く泥を塗り、灰で被覆する。主燃料はカウダンとパームヤシ(葉や実)、土器は130個。アシスタントのTB君、美人ポターとずいぶん話し込んでいる。取材熱心と思っていたら、電話番号とアドレスをゲットしていた。同室のドライバーからは、彼は朝から電話で口説いていたと冷やかされていた。
内陸に位置する土器作り村は兼業で、鍋を含む多様な器種を作り、野焼きの規模もさほど大きくない。オックスカートで運搬。村には電気は来ていないが、小さなソーラーパネルがあってバッテリーに蓄電している。
夜、エーヤワディ川の長い橋を渡りヤンウーの町に入る。橋を渡ると急に観光バスが増えてきた。世界的観光地-バガンが近づいてきたからだろう。
1月3日(土)
早朝に王宮跡や町中を散歩。
ザガインヒルの仏塔群をながめながらインワの橋を渡って一路西へ。橋のたもとは両岸ともザガイン産の土器が山のように積まれている。となりには延々スイカや瓜。エーヤワディーを越えてモンユア方面を目指す。途中、土器作り村を探索しながら進む。
お昼前、ミャングの町をすぎてしばらく行くと目的のN村に着く。ミャンマーの幹線道路沿いには数100m間隔でズィーオー(水甕)ステーションがある。小さな祠の中に水甕が1~3個置いてあり、牛車や歩行者ののどを潤す。町では街路樹に直接据え付ける。
お昼にしょうゆ味のミャンマー風焼きそばを食べる。皿には3人前はあろうかと思われるメガ盛り。タミンジョー(チャーハン)にしても、美味しいがとにかく盛りが大きい。そしてみんな沢山食べる。タイは盛りが少ないのとは対照的だ。
N村では100軒ぐらいが作っている。お寺の野焼き場に行って設置作業を見学する。ここも規模が大きい。粘土は使わず、大量の灰を被せる。家から自前のオックスカートで運び、家族総出で積んでいる所、トラックで運び、親戚の女性たちが大勢集まって積んでいる所、いろいろあるようだ。積んだ土器の上を平気で歩く。お前も乗ってみろといわれるが、さすがに怖くてやめた。隙間なく横に積んでるので胴部に乗っても力が下に分散し割れないのだ。点火までみてから村に戻って成形を観察する。庭や道路にはたくさんの土器が干してある。生垣風に土器を積み並べている家もあった。
今日の宿泊はモンユアの町。中央ロータリーにアウンサン将軍騎馬像があり、市に人があふれるにぎやかな街だった。市場で買ったモンキーアップル(タイではプッサー)がおいしい。夜グーグルアースを見たら衛星から野焼きのサークルがくっきりと写っていた。
1月2日(金)
マンダレーの旧市街は方格地割の整然とした街区なのに、交差点に信号がない。しかし、皆はここを車やバイク、輪タク、人が阿吽の呼吸で行き交う。この感覚…信号に慣れ切って間合いをとることができなくなった日本人には難しい・・・
昨日聞いたS村、K村。河川沿いなので船で行くのが良いと思われたが、訳あって車で行くことになった。不毛なサバンナのような大地が続く。作物はトウガラシと、時々赤い花茶が植わっている。凸凹道を2時間走り、ようやくS村に着く。ところがここは焼き物作ってないよ、と。がせネタだった。ここまでも薄々感じていたが、タイのイサーンと違ってミャンマーでは村人は他の村の情報をあまり知らない。もともと広域に移動する民ではないし、自由な移動が妨げられる歴史的な過去もあったようだ。
11:30河畔の村に着き、舟をチャーターしK村を目指す。1時間30分ほど川を遡りようやく船着き場に着いた。途中、底からの浸水が激しく、あわててペットボトルを二つに割って水を汲みだす。ボートを降りて10分ほど歩いて村に入った。
この村は150軒の家すべてで土器を作る。あちこちからポンポン、ポンポン。土器作り村のサウンドスケープ。野焼きの準備中の家があるというので見に行く。800個の土器を積んだ大きな山に度肝を抜かれる。土器作り村ではどこの家にも牛がいるのでカウダン(牛糞+もみ殻)を補助燃料に使う。藁の上部は泥の覆いで、傍らで練った土を皿に盛り、女たちが頭の上に乗せて運ぶ。タイ・ラオスとあまりの違いに驚く。みなさん快く取材を受け入れてくれ、最後は料理でもてなしてくれた。お茶の葉入りの豆料理はおいしかった。
帰りは心地よい風に吹かれ川を下る。そこから月明かりに照らされた大地を車に揺られ、ウェレットという町を経由してマンダレーに戻る。途中土器作り村の存在を確認。宿に着いたのは夜8:40。今日も夕食はタイ出身のママがやってる「シャンママ」でシャン料理。
1月1日(木)
7:00に昨夜のカフェでモヒンガー(魚ベースのライスヌードル)を食べる。油たっぷりのカレーアラカルトに比べると胃にやさしい。
エーヤワディー河畔にあるニュエニャインの町で土器作り村についてヒアリング。路上にHAPPY NEW YEARの文字。そうか、今日は正月だったか・・・・。ここにはチャウミャウンとカヤビンスーという窯の村がある。大甕の窯詰め風景を見学する。
それから橋を渡り、北部カチン州に向かうべく北上し、モゴックを目指す。お昼前、だいぶ来たところでバイクが追いかけてきて止められる。ポリスイミグレーションまで戻れと。警察の建物の壁に、外国人はパーミッションがなければこの先はいけないと、書いている。モゴックは高品質なルビーとサファイヤ鉱山がありその経営をめぐって少数民族と政府軍が紛争中なのだ。事前に聞いてはいたが・・・。紛争地をう回路すると2日、3日余計にかかるので北上をあきらめる。
カヤビンスーに戻り大甕作りを見学。アジアでは韓国に残るが、甕器(オンギ)はもう文化財として保存される技術になった。ミャンマーでは作るのも使うのも現役で生きている。河畔にずらりと並べられた甕は大型船で運搬されていく。エーヤワディー川を下ったところにK村という土器作り村とS村という窯の村があるという情報を得る。この日はマンダレーまで戻り出直すことに。シャン料理の店で夕食。タイ料理に似て安心して食べられる。オイリーな料理はちょっときつい。
12月31日(水)
バンコク・ドンムアン空港からミャンマー中部のマンダレーに飛ぶ。飛行機は直前にマレーシアで落ちたエアアジア・・・
マンダレー空港でミャンマー人のドライバー・アシスタントと合流。日本人2名、タイ人アシスタントとあわせ5人の旅。アシスタントのTB君は20歳、まだあどけなさが残る青年。ドライバーのTS君は27歳、運転技術はプロ並み。たまにきれるとぶっ飛ばす。車が入らないような道でもテクニックで行く。
空港から無数の仏塔が立ち並ぶザガインヒルを見ながらエーヤワディー川の旧インワ鉄橋を渡る。第2次大戦中イギリス軍が作り、日本軍の侵攻前に爆破した橋だ。終戦10年後に復旧された。真ん中に鉄道が走る。ザガインは土器の産地。沿道にズィオー(ミャンマーでは水甕をこう呼ぶ)を積み上げたポットショップが並ぶ。ゆっくり見たい衝動を抑えて先に進む。
ミャンマーの旧宗主国はイギリス。よって車は右側通行。距離はマイルを使う。田舎の幹線は1車線分だけ舗装してあり、対向車は直前で路肩に除けてすれ違う。スリルがある。バイクやチャリや牛や人など追い越しながらなのでクラクションが絶えない。道路には所々遮断機のおりた関所(料金所Toll Plaza)があって重さに応じてお金を払う。道普請があると臨時に徴収する関所もある。かつてはラオスにもあったがもうみない。これほど多いとは、驚きだ。村ごとにお寺のタンブンを求める「ニッコリ強盗」は穏やかだ。車を無理やり止めることはないし、スルーしても追いかけてこない。
初ミャンマーは見るものすべて新しい。刺激に満ちていた。これまでみてきた東南アジア大陸部と全然違う風景に目が泳ぐ。パヤー(仏塔)、ミンレー(馬車タクシー)、2頭立て牛車、顔にタナカ(日焼け止め)を塗り、頭上運搬する女性、ピンクの袈裟の尼さん、村総出の人海戦術で行う道普請の様子、大型車(トラック・バス)が日本製中古車。最初に驚いた光景だ。植物ではどこにもあるパームヤシ。田んぼの畦にも植える。パーム油やバイオ燃料になる。そして一面のひまわり畑とピーナッツの畑。ビルマ料理に欠かせないピーナッツオイル用だ。
夕方シュエボーの町に着いた。2014年ミャンマー初の世界遺産に登録された「ピュー遺跡群(古代都市)」のひとつ「ハリン」が近くにある。大みそかのせいか、宿は込んでいた。やっと適当なゲストハウスを見つけて荷物を入れる。壁にはトッケイ(キキッと鳴くヤモリ)が元気に這いまわる。タイやラオスの田舎の宿にはたいていいるが、大柄なやつは夜中でも泣いてうるさいことがある。
夕食は油たっぷりのビルマ料理。韓国の韓定食のように座るとテーブルにのりきらないほどの料理の皿が並ぶ。あとで気がついたがミャンマー人は食べる量が半端でない。そしてお店では少年少女が働く。夕食の店は女の子ばかり、カフェは少年ばかり。
震えながら水シャワーを浴び、疲れをとるため早めに寝ようとしたが、それどころではなかった。今日は大みそか。宿の前のカフェや道で若者が一晩中大騒ぎ。カウントダウン、音楽とともに踊りまくり、そして爆竹。ドライバーを始めみなほとんど寝られなかった。おかげで新年の燃えるような朝焼けが見られた。ミャンマー初日は強烈な印象を残したまま過ぎていった。
12月29日(月)
今日も7時30分出発。ウボン近郊、ムーン川のほとりにあるC村へ。村全体がタオ(七輪)生産にシフトし、生きているポターはもう数人になった。Kばあちゃん(76歳)の母はコラートから来た。詳しい歴史はお寺でもよくわからないので、ワリンチャムラップのテーサバン(役所)に行く。担当の職員が書類を探し親切にコピーしてくれた。160年前にコラートから来た3家族が創始者で、別の地点を経由してここへ来たと書いてある。
ウボンラチャタニー空港から夕方の便でバンコクに飛ぶ。空港に行くと外にソファーがあるし、何やらロビーが狭い。不思議に思って聞くと1ヶ月あまり前に空港ロビーで深夜漏電原因の火災があり、復旧のめどが立っていないそうだ。夜バンコクに着き、友人と合流。トンローの宿に入り屋台で夕食。
現代のイサーンは定住社会。単発的な移住はあるものの、数世帯以上が纏まって村を出ることはなくなった。移住後200年たち、住民の故郷意識に変化がうまれてきたようだ。村には村民が共有できるヒストリーが必要だ。世代が更新されるたびに口伝で継承してきたものが記録として残され、明示するようになってきた。そんな感じがする。一方、より定住的なミャンマーでは村では文書館のようなものがあるという。持続的に村落共同体を営むということは共有の歴史をもつということなのだろう。
12月28日(日)
今日はシーサケット県の二つの村へ。
ラシーサライのK村はホンデン(紫小玉ねぎ)の産地。135年前、コラートG郡からムーン川を下ってやってきた。やはり、自分たちはタイ・ブンだという。この村ではお米はウルチよ。ラオとは伝統民謡や男性の衣装、祭日などに違いがある。
ここでも村長の家に村の歴史を記したポスターが掲げられていた。専業の村なのでかつてはすべての家で作っていたが、10年前から玉ねぎが特産(二毛作、輸出用)になり、ポターは14人に減った。Pさん(40)は若手のポターで今日もトムヤムセット50個を作る。これからウボンから先生と学生たちが見学に来るという。一昨年お世話になったSばあちゃん(83)は入院中。彼女は子供の時にコラートのN郡から移住してきたポターである。
続いてカンタラロームのP村。副村長が歴史をまとめた本(先々代の村長執筆)を持っていた。この村は二つの集団からなる。もとはラオス・ビエンチャンから来た9家族が村を創始した。そこへ先のK村からの土器作り集団(タイ・ブン)が来て融合した。副村長は父母ともK村の出身だという。OTOP産品でみんな作っていたが、いまはもう5~6人しかいない。この村からハーナーディで4つの村へ移住していった。最初は土器を作ったがもう作っていはいない。
面白いのはここでは小型の炊飯用鍋モーフンを大量に作っていた。不思議に思って聞いてみるとこれは「カドゥ」といってクメール(カンボジア人)の人が骨壷に使うそうだ。国境に近いカンタララックの店に卸すとカンボジア人が買いに来る。シーサケット県にはクメール系の人もたくさん住んでいる。地域色だ。
帰りはカンタララックからウボンまで汽車のひとり旅。各駅停車は無料だと聞いていたのでホームに行こうとすると、外国人は有料だよ、と。いくら? 7B(20円あまり)。1時間ほどイサーンの大地を眺めながら、昔懐かしい列車の“揺れ”に身を任せる。終点のウボンでは、年末の帰省で10時間以上長旅をしてきた人たちが家族との再会を喜んでいた。
12月27日(土)
今日は遅めの8時に出発。カオニャオ(もち米)にガイヤーンとソムタムを食べて腹ごしらえ。
DN村に隣接するDY村の副村長を訪ねる。元ポターだった85歳のおばあちゃんから昔の話を聞く。両村はひとつの集落のようにみえるが、ルーツをたどると、200年前にコラートからの移住者により始まった専業土器作り集団の村(50年前は22軒)と、在地のラオの農耕民の村と別々だった。現在、前者(DN村)は115軒、後者(DY村)は206軒に拡大した。行政的にも違う村として認識されている。このように二つの民族が隣接して集落を営み、融合あるいは入れ替わる例は先のロイエット県T村の例も同じである。
8年前までDY村でも土器を作っていた。13年前、DN村と同じように工房が作られグループ10名が土器を作っていた。しかし、リーダーが亡くなるとみんな止めてしまったそうだ。DY村はもともと土器作り村ではなかったが、DN村から習ったという。40歳ごろ100軒あってみんな作っていたよ。一大土器作り村だったようだ。
おばあちゃんの話で一つ腑に落ちたことがあった。イサーンでは昔からもち米を蒸して食べてきた。しかし、調理用鍋の組成には従来モーケンという汁物おかず用鍋のほかに炊飯用のモーフンという器種があった。なぜもち米なのに炊飯用があるの?と長い間疑問だった。もち米は炊飯しないと思い込んでいたのだ。もち米も炊く(湯取り法)んだよ。蒸らし方がちょっと違うけどね。世界の米品種やでんぷん(アミロース)組成は多様である。思い込みは怖い・・・・
午後からはウボン県のSY村とD村。副村長といつものポターの家を訪ねる。みんな昼下がりで昼寝をしているか、休日午後のキックボクシング中継に熱狂か。毎年必ず訪ねるD村のUさんちにいくと、珍しく作っていない。今年は雨が少なく収穫が遅かったのでまだ土器作りは始めていないよと。おとうさんはスカイラブですでに粘土を掘ってきて準備万端整っている。村はずれのゴムの木の植林畑を見に行く。植えた年から毎年定点観測している畑だ。収穫には5~6年かかるというのであと2年後か
それから、お寺を行って村の歴史を調べる。SY村は2380年(177年前)、D村は2414年に成立した。この二つの村の周辺5村ではかつてみな土器を作っていた。しかし、ここではコラートから来たという伝承がない。各世帯が広い農地を保有する兼業の村で、イサーンに通有の技術を持ちながら、土器作り道具に違いがある。ここにもラオ族とコラート族の技術の融合の匂いが。
夜はウボンラチャタニーの定宿に泊まる。帰ってきた・・・という安ど感。
12月26日(金)
今日は朝がけの日。まだほの暗い6:30に宿を出発。7:00前に村に着く。Uさん(62)が昨日のやり残しの叩きをやっていた。一日かけてモーエンナムという水甕の成形工程や道具をすべて記録した。道具の実測していると犬が足元に寄り添ってくる。気持ちよさそうに昼寝。タイの田舎の犬はこんな感じのが多い。犬との付き合い方、距離感が表れているような気がした。
3時頃から工房のまわりに人が集まってきた。今日は市の立つ日(7日市)だ。近隣の村から商品を持って人々が集まり市で売る。村中の人が出てきてお祭りのような騒ぎになる。土器作りを冷やかしに来てついでに買っていく人もいる。5時頃になると、年長で最も土器作りがうまいNさん(66)がノートを持ってショバ代の集金にまわる。小さな店で10B、大きな店だと20B。ムアイという竹で編んだ蒸し器の底敷き2枚を買った。夕方、ポターに案内してもらって粘土採掘場所を見に行った。