6月29日に、毎月恒例となった高畠町での調査が行われた。今回の調査では前回の鳥居の補足調査だけでなく、建築の実測という新たな試みを行う。
前日の天気予報は雨と予想されており当日の天気が不安であったが、集合した時点では雨は止んでいた(雲行きは怪しかったが…)。このまま雨が降らないことを祈りつつ、現地へ向かう。
私たちの班の担当は、鳥居の補足調査である。自身も石を扱う仕事をしているH氏の手助けによって、聞き書きなどをどんどん進めた。私が興味深かったのは一つの鳥居(神社)に複数の名称があったケースである。
たとえば竹森にある稲荷神社である。この場所を地域の人は「お稲荷様」と呼んでいるのだが、土地の持ち主であるT家は「荒神様」と呼んでいるのである。一つの神社の呼び名が人によって異なるということはこれまでの調査でも何件か発生しており、北野先生の見解ではどの呼び方も間違いでないのでは、ということであった。人々が各地の神を一つの地に集める例はよくあるのだが、これもまたその例の一つかもしれないということである。こういった「複数の神が一箇所に集められている」場所では、信仰方法も一つの神が祀られている神社と変わるのかどうか、興味深いところである。
今回の調査で補うことができなかった部分は、次回以降に持ち越しである。完成を目指して頑張ろう!
また、今回石番小屋(嘉永5年製)という石造物に刻まれた人名の拓本を取り、読み解く作業を行った。
大学の授業や課外活動では、土器や瓦の拓本しか取ったことがなかったので、石造物の拓本取りはとても苦労した。作業中雨が降っていたため紙や用具を濡らさないように注意した。文字として読むことができない物や雨で濡れてしまい滲んでしまったものなど失敗作も多くできたが無事完成することができた。
大学に戻り、パソコンを用いて文字を読み解いていき、すべてを解読することができた。
今後また拓本取りの作業があれば、墨をただ押し当てて文字を写すのではなく、文字の凹凸を理解しそれに合わせ作業を行い、壁面の風化や損傷といったことを言い訳にせずに拓本を完成させたい。
今回計測を行った石造ポンプ小屋。
拓本を採った壁面
読みやすい文字には地元の人によって白色が入れられているが他にもたくさん文字がある
調査を行った大笹生の石番小屋(嘉永5年)
http://blogs.yahoo.co.jp/kazuo_furukawa19/10434581.html
山形県立博物館と歴史遺産学科の連携講座として前回の縄文土器作り講座に続き、今回は長井謙治先生が講師となって小学生に石器作りをレクチャーした。タイトルは「大昔の石器を作ろう」である。人類の進化と石器のあれこれについてお話があり、その後に石の割れについて説明があった。先週作った縄文土器も野焼きした。
土器作りを行った25名の小学生と保護者が前回に引き続き参加し石器づくりに挑戦した。まず直接打撃を行って果物の切れ味を体験した。それから先生に加え、考古学ゼミの学生5人も加わり、押圧剥離を用いた石鏃づくりに挑戦した。参加した学生のうち3人は、昨年、長井先生と共に韓国で石器製作を子どもたちに教えた経験があり、その時の経験を活かして子どもたちと接した。
最初は苦戦していた子どもたちであったが、後半はみんなコツを掴んでいたようだった。なかには、大学生顔負けの石鏃を作った子もいた。
小学生の積極さと器用さに驚かされた一日となった。
昨日の解体の終盤に左柱を引き上げると、台石の底にぽっかり穴が開いていた。はて?
今日は朝から沈下した左の台石を引き上げ、基礎を固め、柱を再設置して組立が始まった。江戸期の根固めには川砂利(円礫)が使われていた。
行き交う村の人々が興味深そうにのぞいていく。そして、神社や祭り、鳥居にまつわる話をかわるがわる聞かせてくれる。
あまりにも当たり前の風景だが、こうやって修理する現場をみることでそれぞれの思い出がよみがえる。
今日、右の柱を引き上げると台石の柱穴の底にも小さな穴が開いていた。単純に考えると水抜きなのだが、どうなんだろう?
夕方になってなんとか笠木・島木がのった。
ミニユンボ、カニクレーン、ユニック、チェーンブロック、レーザー付き水平器、・・・土木、建築、測量、石工・・・ひとりの職人が仕事の領域を無視したように手際よく作業をこなしていく。単能化していく現代の技術者をあざ笑うかのようにわずか2日間で解体修理をやってのける。
それだけではない。変形した構造物は組み直すと「くるい」が出やすい。これを石造物の場合、安直に削り直すなどの再加工すれば比較的簡単におさめることができる。
しかし、文化遺産に理解のある「伝統職人」はそんなことはしない。先人の作ったものを、当時の職人の思いとともに残し、伝えるというスピリッツが根付いているように思えた。
学生たちは何を感じただろうか・・・・もくもくと作業する職人が伝えたかったメッセージはなんだったんだろうか。
朝一に出かけ、高畠町にある石鳥居の解体修理作業の様子を記録した。石の会会長が一人で全作業を行う。見事というほかない。
経年変化と震災で変形した石鳥居を8月のお祭の前に直してくれと依頼があった。地元の方も見守るなか、手際良く一つ一つの部材がはずされていく。寛政6年製の石鳥居で210年前のものだ。70歳すぎのおじいさんは、子供の頃鳥居の笠木の上に登って遊んだ話を聞かせてくれた。
以前、会長の父親から機械以前の鳥居の建て方を教えてもらった。現代はカニクレーンやチェーンブロックなど便利なものがある。道具等は変わったが基本的な工程はほとんど変わらない。職人さんの細かな石扱いや細部の見極め・判断は伝統技術そのものだった。
さらに驚いたのは、会長曰く「俺、鳥居解体するのは初めてだ」と。
左の柱が沈下。右が内側に転ぶと同時に、奥に大きく傾いている。
解体前の鳥居
高畠町高安(こうやす)は6年間通った町だ。2002年~2007年まで夏になると毎年1カ月をここで過ごした。高安窯跡の発掘調査。ここで何人もの学生が育っていった。
今度は鳥居の調査でやってきた。鳥居を探していると「あら先生!」Sさんに声をかけられる。赤鬼で学生たちの昼食を作ってくれていたおかあさんだ。懐かしい人たちに会ってしばし昔話。
秋葉神社の鳥居を測っていると、今度はKさんが声をかけてくれた。
Kさん家は窯跡の下にあるお宅で、毎日ここをを歩いて現場に通った。そこには、ロッキーという名の大きなサモエド犬がいて、みんなを和ませてくれた。ちょうど2007年の夏、最後の発掘が終わると同時に13年の命を終えた。
二つの鳥居を測り終えて帰ろうとするとKさんが冷たいお茶とさくらんぼを用意して待っていてくれた。3人の学生たちとお宅に上がらせてもらって昔話に花を咲かせた。
ロッキーの散歩係だったひいじいさんは83歳になった。ちょっと耳は遠くなったが元気だ。週二日デイサービスに通っている。奥さんが毎年やっていた現地説明会の資料を全部持っていてみせてくれた。最後の年はロッキーが表紙を飾っていた。
M先生のこと、犬の宮猫の宮の卒論で通ったS子のこと、いつも通ってくるサルやカモシカ、たぬきのこと。もう犬は飼わないんですかというと、後ろから元気な孫がふたり走ってきた。こっちのほうが忙しいんだと。
故郷に帰ってきたような心地よい時間を過ごさせてもらった。
今日のまちあるき、予想に反して天気に恵まれた。本当に不思議である。なんでこうも晴れるのか?
今回は鳥居の補足調査2班と建造物調査2班に分かれた。建造物では高畠石製の消防ポンプ小屋、石御堂、石番小屋の3か所を実測した。
遠路、宇都宮市役所から職員の方が来られ調査に同行した。大谷石の調査研究をされている方である。
次回は7月27日(日)暑くなりそうな予感。
県立博物館のプライム企画、小学生対象の縄文土器作り講座が開催された。
県博と歴史遺産学科の連携講座で、2週にわたって土器作りと野焼き、石器作りを行う。
山形市内から集まった小学校1年生~6年生まで多彩な顔触れ、保護者も含め25名が土器作りに挑戦した。小学校の子どもたちの集中力は2時間が限界と思い込んでいたが、予想に反して午前中、一切休憩もせずに真剣に作業に取り組んでいた。
予定外だったが、保護者にも全員作っていただいた。それが功を奏したのか。父母の真剣な姿が子供にも伝わったのかもしれない。
先日の中学生もそうだったが、吸熱効果を利用した土器による水貯蔵の話は、小学生もすぐにわかってくれた。「打ち水」の効果を家庭科で習ったそうな。煮炊きに使った土器は水もれしない・・・実験すると疑い深い子供はススの着いた土器の方をわざわざ近くまで寄ってみていた。小学生はのりがいい。こんな子供たちばっかりだと授業楽しいだろうなと・・・・
最後、時間が余って人形なども作ってもらった。子供の発想、造形力には驚かされる。
日本最古の石鳥居
元木の石鳥居の保存が急務になっている。成沢八幡のほうも同じ状況にある。
1,000年を越え、老年期に差し掛かったこの凝灰岩鳥居をどう延命するのか?
鳥居は建造物指定だ。建造物は解体修理しながら保存していくのが古来からの考え方である。解体して部材を強化し、組み立てればそれでよい、ということになるがはたして、それがベストなのだろうか。どんな価値を継承するのか?意見は分かれる。そして議論は続く。
文化財には無形、有形、小さなものから大きなものまでさまざまある。
お城の石垣は大きい方だろう。
有形文化財や史跡にとって一部を解体して修理する外科手術は最後の手段だ。そして、延命のためには、いつかはその時を迎えなければならない。人間に例えられるゆえんである。人と違うのは「尊厳死」はないことになっている。
石垣の場合は大学の文化財保存修復研究センターのなかでやっているような修理と違って、野外で行い使う道具も大きく大雑把な印象がある。しかし、やってることは変わらない。文化財が持つ本来的な価値を失うことがないようオリジナルの材料や技術を吟味し、修理技術を継承することも含め関係者が力を合わせる。修理の理念から材料や工法の検討、細かい議論のプロセスを残しながら作業が進められる。だから時間がかかる。
2011年3月11日からもう3年余りが過ぎた。小峰城本丸南面石垣、その姿がよみがえりつつある。
鷹の目(西)の復旧
気になる石鳥居があって高畠町の三条目を再訪した。相森山の参道に立つ熊野神社の鳥居だ。山頂に立つ一つの社殿を両裾にある二つの集落が祀る。いまでは春と秋にそれぞれ分担してお祭を行う。両集落からのぼる参道の尾根道には対峙するように2基の石鳥居がたつ。ともに宝暦年間の銘がある。
調査し終わって山を下りると、近くの小屋から物音がしたのであいさつがてら訪ねてみた。会社を退職後、故郷の村に帰ってきた旦那さんがひとりで大工仕事をしていた。子供の頃、鳥居をくぐって山頂で遊んだ話等を聞かせてもらった・・・・
挨拶して別れた後、学生がこの石鳥居をひとりでスケッチしていた。小一時間、ほかの鳥居を調査して戻ってくると、旦那さんがおもむろに一枚の絵を持って現れた。学生の後ろ姿を見ながら、気にかけてくれていたようだ。
この絵は埼玉に住む自分の妹が、6年前に帰省した際、姪っ子の夏休みの宿題に一緒に家の前で写生したものだという。いまはもう伐採されてしまったスギの木も描かれている。さくらんぼの木やラフランス畑は今も健在である。
私たちが気にいったこの風景を、同じように故郷の原風景として愛着を持った一つの家族の物語に触れたような気がした。
小屋の中の物音に気づかなければ出会うことのなかった絵画。
まちを歩いていると、こんな偶然にときどき出会う。
引き寄せられるように出会ってしまう。
そんな思いをして育っていた学生も少なくない。
感度のいいアンテナをあげていれば、情報は向こうからやってくる。
佐藤チュートリアル「石碑と古道研究会」では滝山地区の石碑調査を行ってきましたが、いまはこれをまとめるべく、東北文化研究センターから出してもらえることになったブックレットの作成にいそしんでいます。
先週13日には山形市前田地区の南原公民館にて、自分たちの研究を進めてきたなかでの疑問点などを、滝山地区の歴史に詳しい滝山郷土史研究会と前田地区の方々から聞き取り調査・研究会を行いました。
事前にこちらから質問事項をお送りし、当日はこれについてひとつひとつ、郷土史研究会の新関会長・月田副会長はじめ地域の方々5名から懇切丁寧にご回答を頂戴しました。
内容は、「瀧山塔」だけではない湯殿山や蔵王山の石碑についてどう考えるか、それぞれの石碑はいつ頃から現在地に立つようになったのか、土坂の観音堂にある畜魂碑はどのようないわれがあるか、瀧山の水神信仰や水利に関するさまざまな問題などなど、時間が経つのも忘れる程、興味深いお話しを伺うことができました。
この成果を是非ブックレット作成に生かしていきたいと思います。
滝山郷土史研究会および前田地区のみなさま、お忙しいなか私たちのために時間を割いていただき、またいろいろご教示いただき、ありがとうございました。