12月25日(木)
午前中はヤソトン県のNN村。村長と元村長の親族(元小学校校長)を訪ね、村の歴史を取材。ここも約200年前コラート周辺から移住してきた専業ポターたちの村だった。その後、以前に通ったPさん宅を訪ねる。顔が見えないなあと思って仕事場を除くと、道路向かいの店から声が。家族で朝食中だった。かつておばあちゃんが住んでいた向かいの家を娘夫婦が買って雑貨屋を始めていた。しばし談笑。娘たちはタオ作りに忙しい。土器の販売が頭打ちになったが、10年前あまり前からタオ作りを導入し活性化している。
午後からはウボンラチャタニー県の北端、アムナーチャルン県に近いDN村を探す。昨年、別の村での取材中にパッタナコーンの役人に教えてもらった村である。村に着くと集会場に村の歴史と組織、OTOPの産品、住宅地図を記した大きな看板があった。
土器はDN村のOTOP商品。かつては各世帯が村の中で作っていた。OTOPに指定されたことで、ポターたちはグループを作り、行政の支援で村はずれに工房が建てられた。13年前のことである。当初のメンバーは12名いたが今は5名に減った。グループを離脱して作っている人を加えても8名ほど。伝統的な土器をしっかり作れる人は高齢者3名だけになった。あとはさほど熟練がいらないタオ(七輪)作りのメンバーである。タオ作る若い女性に「なぜ土器作らないの?」と聞くと、「土器は難しいから」と。
土器表面には細かい針葉樹の木目のような叩き目がつく。叩き板を見ると木目ではなく細い溝があった。不思議に思って聞くとこれで付けるのよと。それはココナッツの内皮を削る道具だった。前方後円墳のような形をしているケズリ具で円の周囲が鋸歯状になっている。ポターたちはあり合わせのものをうまく利用するのだ。
DN村は200年前コラートのC郡から来た人々によって始まった。自分たちはラオ(タイ・イサーン)ではなくタイ・ブン(タイ・コラート)だと主張している。村はラムセーボーの河畔に立地している。コラートの土器作り集団は、ムーン川やチー川を下り、河川沿いに粘土を探して拡散していったのである。
イサーンでは土器の需要の低下に伴いタオ作りにシフトしていく村がある。毎日使うドライバーの家では年間3台を消耗するという。鍋がアルミに代わっても水甕や儀礼用に使うモーヌン(モーサオロー)はまだ健在である。社会変化に適応しつつしたたかに作り続ける人たちがいる。
夜はムアンサムシップという小さな町。軍人さんの奥さんがやっている小さなリゾートタイプの宿に泊まる。まわりは田んぼで星がきれいだった。
12月24日(水)
タイでの調査はいつも朝が早い。7時に宿を出発、マハサラカム県モー村を訪ねる。沿道の田んぼにサトウキビやマンサンパランの畑が以前より増えた。イサーンではウドンターニー周辺がサトウキビの一大産地だ。近年はバイオ燃料の普及で生産地が拡大している。バイオ燃料車も普及しているという。
顔なじみにTさん(60歳)と副村長Sさんを訪ねた。150~200年前にコラートのN郡から7家族が移住して村が成立し、その後5つの郡からさらに移住者が増えたという。ここは土器作り専業の村なので農地はもたない。同じくコラートから各地に散った姉妹村へさらに移住する人もいた。最後の人は50年前コラートのW村に行ったKさん世帯だったよと。当時はみんなクィアン(牛車)でいったんだよ。
村の歴史を書いた文献を借りて町までコピーに行く。専門学校前のコピー屋さんで仕上がりを待っている間交差点を見ていたら、警官6人が年末の集中取り締まり。走ってくるバイクを一網打尽。免許と保険とヘルメット着用の検問。違反一件につき、その場で罰金200B没収。お金さえ払えばあとはノーヘルどころか3人乗りでも4人乗りでも、さあどうぞ、行ってらっしゃい…。ラオスもミャンマーもそんな感じだ。タイの都市部ではずいぶんヘルメットが普及した。
午後からはロイエット県のT村を訪ねた。ポターはもう一人だけとなった。しばらく話を聞いてタンボン長から村の歴史を記した文書を見せてもらう。村ができたのは2346年(タイ暦で今年は2557年)。もう200年以上前だ。やはりコラートのM郡から来た家族によって村ができた。民族もタイ・ラオではなく、タイ・ブン(タイ・コラート)だと伝承する。
帰りがけに村のお寺ワット・ノンサワン(通称:ポットテンプル-土器で出来たお寺)に寄った。タンブンの果物を持って高僧を訪ねると、清めをしてくれ、指輪やなにやらありがたい品々をいただく。あんたは2年後にたくさんタンブン(お布施)をしなさいよ!そうすれば幸せになれます、と。
この日はそのままバンファイ(ロケット祭り)で有名なヤソトンに行って泊まった。
バンファイは5月、農作業を前に天に雨の乞うお祭りだ。双眼鏡で追跡しながら落ちてくるまでの時間で賭けをする。2mぐらいの小さなロケットでも3分は落ちてこない。
新しい出会いと発見に心を躍らせ、今年もまた旅に出る。「知らない」ということは何と素晴らしいことか。人やモノと触れる濃密な時間は自身の視野を広げ、狭い価値観を相対化する。
恒例の年末年始の東南アジア調査。今年は前半がタイ東北部(イサーン)。後半がミャンマー中部。
出発の夜、突然山形新幹線が大雪で運休。急きょ仙台から東京に向かう。いつものごとく新幹線内で年賀状書き。一晩泊まって羽田の午前便でタイに入った。東京の朝は快晴。バンコクもいつものように暑い。空港で両替のレートを見て愕然とする。円安はグローバル企業を潤すが、小旅行者の懐を直撃する。
夕方、コンケーンに飛んでドライバーと合流、翌日からの調査の打ち合わせをした。
今回の目的は、これまで訪ねた土器作り村の成立時期やどこから移住してきたかを聞き、裏付け資料を探すことだった。タイ東北部の5県9か村を回った。
イサーンの農村は、もともとラオ族やモン・クメール系諸族が居住しており、約200年前に起こったタイとビエンチャン王国(ラオス)の戦争を契機に、ラオ族の南下に加え、イサーン南西部のコラート周辺(タイ・コラート族)から人々が北へ、西へ進出していった。
イサーンの農民は土地に縛られず、より豊かになるため良い土地を求めて次々と開拓移住していく。同じ稲作農耕民でありながら、定住的な近世・近代の日本農民のイメージとは異なる行動様式を持つ。50年前まではラオスとの間で気軽に国境を越えて移動した。大切なのは故郷の土地よりも、網の目のように張り巡らされた親族関係のネットワーク。祭日には遠隔地であっても頻繁に訪問し合う。ハーナーディー(ハーティディンディ)と呼ばれるこのような移住習慣は人口拡大社会と未開地の存在、近代的上昇志向などが背景にある。
驚くのは、村の人たちの情報量の豊かさだ。特に村々の地理情報や地勢、身内の動向。よく知っていて、小さな村の名前を尋ねてもたいがい即答してくれる。その理由が伝統的な生活様式にあることは、後で全く正反対のミャンマーを訪ねてはっきりと分かった。
今日、文翔館に高畠石を運び入れました。建物が国指定重要文化財ということもあり、厳重な監視の下、細心の注意を払い300kgの「一二八」を展示室まで運びました。万事、棟梁の段取り通り。さすがです。
展示は12月13日~23日まで。文化財保存修復研究センターが地域文化遺産の保存継承をテーマに5年間研究してきた成果を披露します。
70ページあまりの充実した図録も作成していますが、「展示」という手法でどれだけ理解していただけるか、さまざまな工夫を凝らしています。
会期中にはトークショー(13日)やシンポジウム(20日)も予定されていますので、ぜひ足をお運びください。詳しくは下記URL、YOUTUBEから
http://www.iccp.jp/?p=379
雪が積もる前にやっておかないといけないことがあって慌てて外に出た。
今日も飛び込みで訪ねたお宅でいろんな人に助けられてたくさんの収穫があった。
上和田字大石田では新たに見つかった鳥居のある稲荷山を案内していただいた。子供の頃、スキー(長靴に藁を巻いただけ)で山から滑り降り、鳥居をくぐって遊んだそうだ。山頂には巨岩があって、毎年10月19日明け方に集落の人々が登り、蒸し米と尾頭付きを乗せた(藁納豆のような)藁束を供えローソクをたてる。ふもとの山神にも同じようにお供えをする。藁納豆のようなお供えはいくつかの集落で聞いた。
日曜日に福岡で念願の筥崎宮の鳥居を見てきた。この日九州は大荒れ、土砂降りの雨だった。地下鉄駅で傘を借り、雨をモノともせず突進・・・・
が、バックパックの中身はたっぷり水を吸って本や書類はぶよぶよ。着替えは洗濯したようなありさまに。
肥前系鳥居の迫力はやはり実物でないとわからない。異国情緒たっぷりの鳥居だった。満足して熊本に向かった。
一ノ鳥居は砂岩製? 今話題の黒田長政建立の銘があり重要文化財に指定されている。二の鳥居は花崗岩製で大正期のもの、三の鳥居は昭和の鉄筋コンクリート製?ここまで来るともうアートの世界かと。
ゼミの学生と会津に行って蘆名氏の城跡を歩いた。案内役はかつての同僚だった。
北塩原村「柏木城跡」は天正12年ごろ対伊達のために作られた番城。保存状態が良いは史跡の常套句だがここはお世辞抜きに素晴らしい。城内から板状節理の発達した安山岩が産出する。手持ち可能な小型の石を巧みに積みあげ、土の城を石造りの城に化粧している。虎口や通路はことごとく石が積まれる。蘆名の城作りの特徴がコンパクトによくわかる。石積みは裏込めを持つ織豊城郭の石垣とは機能的に違いがあり質的な差は大きい。
会津美里町の「向羽黒城跡」は永禄4年に蘆名盛氏が築いたとされる本城である。4つの大きな郭群をがあり、山麓部には家臣団の城下を推定させる地割を伴う。スケールの大きな堀や土塁、道が複雑に連なる。ここでも地山に流紋岩の大きな岩塊が包埋されている。巨岩の露出場所に虎口や竪堀を配置するなど、縄張りにおいて現地の石をうまく利用している。主要郭の通路や土塁の裾には柏木城跡でみられたような石が並んでいる。石の姿は全然違うが節理面を表に向け平面性が顕著である。
戦国大名によって城作りに特徴があるはずだと研究者は考える。それも大事だが、縄張り技術者、石積み技術者たちが持つ「ひきだしの中身」ということを考える。現地の地形や石材の産状に合わせてどう設計し施工するか。環境や資源に適応しつつ自らの表現を模索する技術者。そんなことを想いながら歩いた。
山形市と高畠、それほど遠い距離ではないので通いでの発掘調査ももちろん出来るのだが、地域と一体となった調査を目指して屋代村塾に合宿しながらの調査をしている。今年の調査のお礼と来年へのご挨拶をと思い収穫祭に参加した。
高畠駅からの景色も屋代村塾から望む景色もすっかり見慣れた風景となった。昨年の日向洞窟遺跡調査で初めて高畠を訪れてから約2年。回数的にはそれほど訪れてはいないと思うが、どこか見慣れた、どこか安心する景色だ。
そんな思いを抱きながら屋代村塾へ。昨年も先輩が参加した、屋代村塾の収穫祭へ。屋代村塾に着くと、既に恒例の餅つきが始まっており、見かけたことがある人もちらほら。屋代村塾の管理をされている冨樫さんにご挨拶をし早速餅つきを。
今年屋代村塾で調査中に開いていただいた、中帳場でも餅つきは経験していたのだがなかなか難しい。餅つきが終わった後は、中に入りついた餅や地域の人が作って持ち寄った料理を頂いた。
<挨拶をする学部2年の菊池くん>
収穫祭には、農楽校に参加した小学生や早稲田大学の学生も参加しており賑やかな前回の中帳場とは違った雰囲気の美味しい料理と美味しいお酒に囲まれ交流会となった。特にお雑煮が美味しくひとりで完食してしまった。
話は全く変わるが、屋代村塾では手酌はご法度だそうだ。手酌とは、自分で自分のコップにお酒を注ぐことだ。みんなでお酒を飲んでいてもつい一人暮らしの癖で手酌をしてしまう。今回も、手酌をしてしまったのだが、そうするとすかさず誰かがお酒を注いでくれた。これがなぜか妙に嬉しいのである。どんな寂しい生活を送っているんだと言われてしまいそうだが、なにか言葉にできない嬉しさがあった。みんなでついた餅と地域の人が持ち寄った料理を食べ、年代も住んでいる場所も考え方も違う人間がお酒を呑みながらひとつ屋根の下で語り合う。文字にするとなんのことないかもしれないが、私にとってはとても面白く貴重な時間だった。
来年はもっと多くの後輩と先輩を誘ってまたこの屋代村塾を訪れたいと思う。
高畠まちあるきプロジェクト」では高畠町にある堂舎・小祠等を約200箇所訪ね歩き、約150箇所にあった鳥居を詳細に観察・記録した。いま学生たちがその成果をまとめている。
比較的短期間で調査できたのはなんといっても住宅地図のおかげだった。ゼンリンさまさまである。たいがいの神社には鳥居マークがついている。それを目印に現場に行き、周辺の民家でそれ以外のモノがないか聞いて回るのが基本的な調査方法だった。
150箇所の鳥居を整理していて気付いた。
「古峯(ふるみね)神社」が結構あることだ。言わずと知れた火伏せの神様「古峯ケ原」である。栃木県鹿沼市に総元締めの「古峯神社」がある。この神社の運営母体である「講」は全国に2万あるともいわれ、高畠でもほとんどの集落に講中があった。いまでも「代参(講中の代表が栃木の古峯神社に参拝し、御祈祷の御札を受けて、村の講員に御札を授与する)」するところがある。
代表がいただいてきた御札は各集落に建てられた古峯ケ原の石柱(奉納用の穴がある)に収める。この石柱はもちろん高畠石でできていて正面に大きく「古峯神社」と彫られている。この石柱は集落内、あるいは山際に単独で立つ場合もあるが、神社に併設されている(鳥居の脇にある)例が多い。
もうわかっただろうか。これが曲者である。
ゼンリンの調査員は神社名を記録する際に、鳥居の脇に立つ「古峯神社」の標柱をみてそれが神社名だと思ったらしい。高畠には名もない「神社」がたくさんある。そんな「神社」はお祀りしている人に聞かないと何の神かはわからない。
ということで私たちも先を急ぐばかりに住宅地図の表記を鵜呑みにして「古峯神社」を乱発してしまったというわけだ。二日ほど空き時間を見つけて聞いて回ったら案の定だった・・・・・拙速は間違いのもと。ちゃんと裏をとるということを改めて肝に銘じた。
今日は夕方5時から歩いた。もうあたりは真っ暗。しかし、なんと2時間ほどで新規の石鳥居を2基発見してしまった・・・・・。おそるべし高畠の石鳥居。
上山市金山は江戸時代の参勤交代の道:羽州街道金山越(国指定史跡)の「間(あい)の宿」である。宝暦、天明年間には18~20戸、80~90人が住み、宿屋や茶屋があったという。明治20年代にも同程度の戸数があり、昭和47年10戸、平成11年2戸と減り、今は廃村になっている。わずかに、かつての在住者が旧宅の畑を耕しに通っているにすぎない。
昭和47年時点の集落平面図を持ちながら歩くと感慨深いものがある。発掘された近世遺跡をビジュアルにみているような錯覚に襲われた。
国の史跡である金山越えの道がこの夏の集中豪雨で何か所も崩壊した。沢筋に沿って作られた街道が土石流の発生で、木道や橋が流され、護岸の石積みが崩れた。石積みや石塁は街道に沿って数えきれないほどあり、幾たびも修理され維持されてきた。土岐氏時代の明暦年間に新道として付け替えられた道らしい。史跡にして保存するということは新たな維持管理の始まりでもある。2年間の災害復旧事業、史跡の価値と安全を考慮しつつどう修理・管理していくか。
1996年文化庁選定歴史の道百選
1997年楢下宿とともに国史跡