12月26日 朝7:00出発 ポンサリーのゲストハウス前で野菜を売っていたおばさんからブンヌアのD村で土器を作っているとの情報。探し当てて聞くともう誰も作ってないよと。かつてのポターを訪ねると男性の焼き締め陶器作りだった。1965年から2年間、政府関与のもと中国人の指導で陶器を作り始めたという。1971年プロジェクトが終了したので窯を買い取って自分たちで1995年まで焼いていた。庭先にはハイパデックやハイなど村で焼かれた製品があった。窯は25mのと50mのがあったそうだ。跡地をみせてもらう。長大な龍窯か。ここもやはり中国文化圏の一角だった。
ブンヌアはポンサリーでは珍しい開けた盆地だった。D村についたとき気温があがりはじめようやく朝霧がはれてきた・・・・
家の前をプランテーションの収穫物を積んだ大型トレーラーが土煙を上げて走って行った。そして、傍らを畑で採れた野菜を籠に担いで行商するアカ族の女性たちが歩いていく。このコントラストがラオスの現実だ。
11:00にポンサリー・バンヨーに戻ってきた。三差路に面して建つ中国系のトウモロコシ会社の隣でマンキャオを売るアカ族の女性たち。民族衣装がきれいだったので一つ買って写真を撮らせてもらう。傍らで別の男性が田んぼで捕まえた子猫のような大きさのネズミを2匹売っていた。袋の中で元気よく暴れていたが、通りかかった客が品定めして買っていった。
まだ明るい時刻にムアンサイに戻ってきた。ゲストハウスの前に「博物館」の看板があったので長い階段を登って行ったら閉館中。
今度は隣にある長い階段を上る。修行僧が掃除をしていた。上にお寺があるらしい。頂上に金ぴかの塔と仏像があり、夕焼けに染まる山の端を背景に荘厳な雰囲気をかもしていた。こびとハウスみたいなところに「おみくじ」があって、仲間が試しに引いてみたが書いてあることはさっぱりわからなかった。
入れ違いにたくさんのファランが下りてきた。「プータットの丘」は街を一望し、日没に仏を拝む観光名所らしい。修行僧たちが外国人慣れして妙に俗っぽいところが気になった・・・・
今日はムアンサイからラオス最北の町-ポンサリーを目指す。地図だと250kmほどの山道。実際にはかなり過酷な旅だった。
車は霧の中、深い峡谷を進む。道路は斜面を無理やり段切りして通したもので、法面保護工をしていないためあちこちで崩れていた。雨季はしょっちゅう通行止めだろう。
谷筋は中国市場に送る野菜、山はゴムやバナナ。山頂まで焼畑が及んでいるものの、まだ「森」がいくらか残る。焼畑による陸稲もみられた。
タイ北部からラオスにかけて今の季節一番目立つのは「クリスマスツリー」
日本では鉢植えのポインセチア。こちらでは人里に大小様々な木があって、枝先の葉が真っ赤に染まっている。青い空に緑と赤の葉がとても鮮やか。
14:00すぎにポンサリー県のヨー村に着く。タイルー族の村で四双版納から移住してきた時は37世帯だったという。いまは175世帯に膨らんだ。中国に行く道とウドムサイへの道の分岐点にあり、三差路は賑わっている。ここも20年前に土器作りはストップしている。
Yさん(70歳)が土器作り経験者の家を順番に案内してくれた。Pさん(86歳)から移住や昔の土器作りの話を聞く。Yさんの実演を見て驚いた。石製当て具の大きなものは砲丸ほどの大きさがある。5kgほどはあろうか。これまで見た中で最大だった。なお、昨日のウドムサイ県ヨー村はここから移住した。Yさんは、両親は一昨日泊まったムアンベンから来たと話し、遠く離れても同族の村同士は長く交流していることが分かる。
村を歩きながら目に着いたのはどこの家にも竹竿の束があること。これは畑でインゲンやキュウリを作る時に使うものだ。米を作るよりも田圃を潰して中国資本が買い付ける野菜を作った方がもうかるのだろう。
焼畑の陸稲
日が傾き17時前に村を出る。ここからが遠かった。どこまでも尾根道が続く。19;30ポンサリーの町の明かりが見えてきた。ここはリトル中国。野菜を運ぶ大型トレーラーが道路脇に並ぶ。
手ごろな値段のゲストハウスはどこも古かった。そして、どの部屋も洋式便所の坐る所が無いか、割れている。訳を聞いて納得。もちろん暖かいお湯はでない。寝袋にくるまって寝るしかなかった。今日はクリスマスだ。
翌朝のゲストハウス前
朝食をたべている店の前を学校に急ぐ子供たちの姿。自転車の列が途切れることはなかった。小さな町なのに・・・・人口拡大社会に暮らす子どもたちの多さよ。
8:30村に着く。早速土器作りの準備にかかる。まず、回転台に刺す心棒を削って土中に埋める。Kさん(62歳)がモーオという小型品を成形。Wさん(73歳)、Sさん(?歳)3人のお年寄りが伝統の技を最終工程までみせてくれた。今日はなぜか衣装が華やか???と思っていると理由がわかった。ほどなく中国人の団体が15人ほど見学に来た。いわゆるエスニック・ツアーらしい。そのために女性たちは民族衣装に着飾って作業しているというわけだ。工房は5組の夫婦がグループで援助を受けている。男のリーダーBさん(52歳)があわてて出て行った。彼らのためにお寺で伝統の剣舞を演じるそうだ。この村ではほかにパシーン(巻きスカート)用の布を織るグループもある。これら村の手仕事や民族芸能を政府が誘致する観光客に見せ、わずかではあるが商品を売って稼いでいる。午後からはファランの団体が来ており、工房にはたくさんの布が展示されていた。
一連の活動は少数民族の村が観光開発によって豊かになろうという観光局のEDB(Economic Development Board)プロジェクトによるものだった。住民たちの多くはトウモロコシやバナナのプランテーションで働き、外国人観光客の落とす金で経済的にはその恩恵を受けている。否応なく貨幣経済と情報社会に巻き込まれていく。若者たちとは別に戸惑っているようにみえるお年寄りの姿が印象的だった。僅か1日半ほどの滞在ではそれ以上のことはわからない。
午後から同じタイルー族の土器作り村-P村、NG村、NL村、X村の4村を訪ねる。聞き取りと土器や道具の調査をした。いずれも移住や分村の歴史で系統関係を持っている。かつて女性たちはみな土器を作っていたが、いずれも20~10年前に止めている。おばあちゃんたちはほとんどが経験者だ。牛や水牛が減って野焼き燃料の牛ふんが得られなくなったから止めたという共通の語り。
1970年代後半、ベトナム戦争・内戦が終わって道路が開通。安価な労働力と広大な土地を求め中国資本が入ってくる。舗装道路ができ農業開発が進んだ。山の焼畑や段丘上はゴム、トウモロコシ、バナナ園に、沖積地の天水田にはインゲンやスイカ、葉物野菜が広がる。自給的な暮らしは大きく変貌し、現在進行形でさらに景観を変えている。外からの目線で資源と労働の搾取と語ることは容易だ。ポターたちは昔の生活を懐かしそうに語る。その背後にどんな思いがあるのか…、村や家族で起こっている葛藤まで聞く時間はなかった。
NG村へ行く道は橋が落ちて車が通れない。通りかかったバイクを拾って行く。
古い村にはだいたい焼酎の蒸留用土器がある。使い方を教えてもらう。
Yor村ではさまざまな手仕事をみることができる。ふいごを使って日常的に刃物の手入れ。鍛冶場の遺構を彷彿とさせる。
まだ、脱穀していないトウモロコシを収納した倉庫。
12月23日 ルアンナムターの朝の気温は5℃。町は深い霧に包まれていた。7:30に出発する。
朝食を食べて近郊のBT村を訪ねる。10年前には5~6軒は作っていたけど、もう誰も作ってないよ。朝から焚火で暖をとっていた人たちが集まってきた。ここはユアン族の村。Kさん(65歳)から道具と土器を見せてもらいながら往時の話を聞く。
もう作らないのかと思ったら、5年に1回、1月のタンブンの時にのみ土器を作るという。1月の第3週目に2軒が作るそうだ。昔は自由に田土をとったが、今はクレイソースが黒タイ族の土地に割り当てられたので採掘には許可が必要になった。
回転台を使い、多様な器種を作る。まだ土器はかなり残っていた。ここにも平底モーナムがあり、野焼きは牛フンを使う。
BT村を出て一路、ウドムサイを目指す。10:30ごろから気温が上がり霧が晴れてくる。あいかわらずカーブの連続で山はとうもろこしとゴムとバナナ。道路には中国語の標識がかかり、中国資本のとうもろこし工場などが点在する。国境の町ボーテンの手前まで来た。もうすぐそこは中国だ。お昼をとうに過ぎてからウドムサイに着く。
遅い昼食をとり、情報のあった土器作り村を探す。河川に添った段丘上にバナナのプランテーションが延々続く。これでもかと密植し、房を覆う青いビニール袋が連なる。
町から1時間あまり。突然目に飛び込んできたのは「Welcome to Ban Yor」「The Tailue Cultural Village,・・・・・」道路脇に大きな看板とモニュメント。いったいこれは…
看板のとおりタイルー族の村で、元はポンサリー県Yor村から移住して来たそうだ。50~60年前、最初は5軒で移住したという。周りにもタイルーの村があり、かつては他の4つの村でも土器を作っていたことがわかった。タイルー・コミュニティーを形成しており、親村も含めて通婚圏になっている。
看板に添って土器作り「工房」を訪ねる。土器をつくる夫婦がいて聞いてみると、政府の援助で窯と工房ができたという。3年前にできた地上式レンガ造窯の横に、ちらりと地下式の窖窯が見えた。もしや、これは!と思いあわてて見に行くと、どこかで見たような形態。聞くと、去年ルアンパバンから職人が来て作ったという。明らかにこれはバンチャンの窯だ。一昨年調査に行った村だった。
もともと女性たちの土器作り村だったところに政府の援助で男性の焼き締め陶器の技術が参画し、融合している。道具や土器、昔の話をきくとやはり西双版納系の土器作り技術だった。
工房では赤ちゃんをおんぶした女性が金属製の回転台で土器を作っていた。聞くと昔の伝統的土器作りをできるおばあちゃんがまだ3人いるらしい。昔の回転台と技術で作ってほしいと頼むと快く引き受けてくれた。そして、明日は朝から中国人の団体が見に来るんだよ????
庭先で綿糸を紡いでいる女性に聞いた。綿は山の斜面で作っている。自分たち用に布を織るが、綺麗に洗って糸を売るのもあるよ。今の時期、トウモロコシの収穫がちょうど終わり、倉の中は脱穀した芯でいっぱい。この寒い時期の暖房用に焚く。薪資源の節約だという。
村から近いムアンベンという小さな町に泊まることにした。GHが2軒ほどあった。1軒をのぞくとおばあちゃんが店番。お金数えられないよ・・・・・う~ん。
あたりは真っ暗で食堂は少ない。聞くと、もうご飯はなくなったよ!まあいいか。
12月21日 いよいよメコン川を越え、怒涛の北ラオス紀行が始まる。
今月11日に開通したばかりのフレンドシップブリッジ4を渡る。近所の住民の話では、車の国境通過申請書に貼る印紙が郵便局でないと買えないらしい。今日は土曜日。郵便局は閉まっている。別の店でも買えるよという情報があったので朝から探すがどこも閉まっているか「ないよ」。まあ国境に行けはあるだろうとたかをくくって行ってみる。ところがイミグレーションの係官に聞くとないよ!もしや月曜日までここで待機か・・・・
ボーダーで1時間ぐらい右往左往していたら、困った様子を見ていたドライバーがたまたま余分があるやるよ、と印紙をただでくれた(20B×10枚)。いつも国境を行き来しているドライバーらしい。困った時、必ず助けてくれる人がいる・・・。
出国手続きを終えて、さあ出発とタイ側のイミグレーションを出たら同行のタイ人が宿に忘れ物をしてきたと。その旨告げると係官は即座に「じゃあ、行って来い」。車はUターンして30分後にまたボーダーにもどってきた。この辺の対応が臨機応変でありがたいのがこの国だ。
橋の手前で車は右側通行に変わった。フレンドシップブリッジ4は中国とタイの援助ででき、イミグレーションの建物も中国の援助でできている。ダイヤモンドをかたどった立派な記念碑が建っていた。すでに供用されている1~3に関わったオーストラリアや日本、イタリアに比べ自己主張が強い。中国の南進にかける強い意欲が感じられるモニュメントだった。(どこだったか、日本の支援で建てられた小学校の小さな看板がひっくり返って放置されていた・・・)
ラオスのイミグレーションを抜けたのが11:00。やはりここにも自転車で国境を越えてきたファランがいた。彼らはいったいどんな体力をしているのだろうか。
国境の町ファーサイで昼食をとり、180km先のルアンナムターを目指す。
途中食堂のおばさんから教えてもらった土器作り村(NT村)を訪ねる。中国から南下してきたタイルーたちの村だった。20年前に土器作りは廃れ、最後のポターは5年前に止めたという。回転台を使う格子叩きの平底モーナムが特徴的だ。Sさん(54歳)ら元ポターから話を聞いた。村の中に残っている土器も少なくなってきた。やがてそんな伝統があったことは忘れ去られるのだろう。
ファーサイからルアンナムターまでの道路は雲南省・昆明から続くアジアハイウエー3号線。中国の援助でつくられた素晴らしい道路だ。アップダウンやカーブの連続だが、コンクリ打ちの側溝があり路盤がしっかりしているので穴ぼこはほとんどない。ただ山の中では時々崖から落下した大きな角礫が転がっているので危ない。2連式のフルトレーラーや大型コンテナを積んだトレーラーが時々のろのろと坂道を登っていく。これらを追い越しながらいけば時速70~80kmでは走れる。おそらくラオスでは最も整備された道路のひとつだろう。
途中、昆明発ルアンパバン行きの国際バスとすれ違う。ビエンチャン行きもあるそうだ。3日かけていく。通行する車の数は少ないが、「云」ではじまる中国雲南省ナンバーの車と何台もすれ違った。
もともと点在していた山村の中を高速道路が突き抜けていくような感じだ。道端で無邪気に遊ぶ子供たちや路肩を延々と歩く薪運びの女性たちの姿が印象的だった。そして一番驚いたのは、山々の斜面が軒並みゴム林のプランテーションにかわっていたことだった。おそらく昔は多様な作物を移動しながら栽培する焼畑地だっただろう。10年前にルアンパバン県北部の村を訪ねた時は確かにそうだった。ゴムは6年ぐらいたつと収穫できるが、大半は収穫前の若木だった。
その夜、中国、ミャンマーと国境を接するルアンナムターに着いた。中国式のゲストハウスや食堂、カラオケ・・・・。ファランが多いせいか目立たなかったが、よく見ると中国資本の店だらけ。その傍らにはマンキャオやジンジャーなどの農産物、工芸品を売るアカ族の女性たち。ここはゴールデントライアングル。かつての麻薬覚せい剤の密造地帯だ。
恒例の年末年始ラオス-タイの土器作り村調査。
今年の目的地は、前半がラオス北部。あいかわずノープランで出たとこ勝負。ローラー作戦で土器作り村を探す。後半がタイ東北部のウボン。間にタイ北部チェンマイをいれた。
12月20日、学生たちの卒論提出を確認して深夜便で羽田からバンコクへ飛んだ。
バンコクは思ったより涼しかった。そのまま早朝便で北タイのチェンマイに移動。ここで同行の日本人2人、タイ人2人と合流。
町を出ると道路脇に刃物を売る露店があったので発掘用スコップ(掘り棒)を買いこむ。店番のおばさんがついでにこれどう?と大きな刀を振りかざしてきた。ちょっと怖い笑顔だった。
ラオス国境を目指して車を飛ばす。チェンライまで250km。途中、悲惨な交通事故現場を目撃して一同青ざめる。
気を取り直したのはチェンライの入り口にあるワット・ロンクン(Rongkhun)というお寺。タイの芸術家が私財をなげうって建て始めた白亜の殿堂。サグラダファミリアほどではないが、10年前から建設がはじまりまだ途上である。入口には「地獄」絵巻のアートがあってタイの寺らしい。なんとなくテーマパークに見えてしまうのは日本人だからか。
チェンセーンからメコン川沿いを進み国境の町チェンコーンに入った。この時期ラオス国境にはファラン(欧米人)がたくさんいる。本格的なサイクリング自転車でいくつも山を越えてくる人が少なくない。
夜になって急に冷え込んできた。気温は10℃を下回っている。こちらのゲストハウスのベッドはうすいベッドカバーのようなものが1枚あるのみ。クーラーはあっても暖房はない。もちろん車も。この12月、東南アジア大陸部はどこも寒い。異常気象なのか。一昨年のルアンパバンで寒い一夜を震えて過ごしたのに懲りて今年は寝袋を持ってきたのが功を奏した。
あけましておめでとうございます。
ごたごたしていて去年中に更新できませんでした、申し訳ありません。
今年の目標は、「崩し字をもう少し読めるようにする」です。
石碑の文字を読む際に、多々苦労することがあったので。
2013年最後の石碑調査を飾るのは、土坂観音堂。
そういえば、敷地内に遊具がありましたが、調査地で遊具を見かけるのは二度目です。
神社の広い敷地は、子供たちの遊びの場にはうってつけなのでしょう。
今回の写真は、この神社を調査している際に妙に目についたものです。
なんじゃこりゃ、と思ってよくよく周りを見たら…
「畜魂碑」
ああ、なるほど。
妙に変な形をしていると思ったら、これは牛をかたどったものだったんですね。
こうやって見ると、なかなかかわいい。
作業自体は、基本恙なく進みました。
流石に一年調査をし続けましたからね。
もう雪も降ってしまいましたし、恐らく今年度は外に出ての調査は終了かもしれません。
追伸。
この石碑調査の成果を冊子にまとめることになりました。
こちらの作業も、大学がある間は隔週で行われるはずですので、興味がある方はお気軽にどうぞ。
半年間、鳥居探しをしていたら悪い病気に感染した。車窓から鳥居の風景が勝手に目に飛び込んでくる。学生のなかにもいるらしい。
まちあるきの中でいくつか不法投棄防止の赤鳥居に出くわした。
繁華街の立小便や山中のゴミの不法投棄を防止するために日本人の道徳心に訴えたものらしい。前者はミミズに小便をかけると○○が腫れる、神社の鳥居に○○すると・・・・・・・・という伝承が広く流布しているからだという。
神社で無作法なことをするとバチがあたる。そんなしつけも昔からあった。その象徴が鳥居なのだろう。
赤は目立つのと稲荷神社の神徳を表しているのかもしれない。また狐は祀らないと祟るともいう。
写真は私が高畠の山の中で出会った鳥居。
額束の文字がふるっている。高畠では「山神」を祀る社が非常に多い。よく見ると「山羊神」だ・・・・・
この鳥居を作った人のユーモアに拍手!
日頃の活動を町民の方々に知ってもらうために高畠町交流プラザでポスター展示を行っています。学生たちが製作したポスターをぜひご覧ください。
12月13日は同所にて報告会「高畠石の現在」が開催されます。
12月8日。毎年、最後のまちあるきはうっすら雪化粧をした風景を見ながら歩く。
この日も明け方に降った雪が、里山の木々を軟らかく包んでいた。
今回はこれまで集めたデータの補足調査が中心だった。1年生から卒業生まで多彩な顔ぶれが揃った。これまで頑張ってきた4年生が締切りまで2週間足らずという卒論の追い込みで出られないのはしょうがない(そんな中、朝8時に参加する気満々で来た4年生がいた。あなたの心意気を忘れません!)。
私の班は唯一未調査だった市街地の新規鳥居を調べて回った。
2つの興味深い事例に接した。1つ目は個人宅で祀っていた稲荷神を家主が亡くなった後、町の鎮守とは別に近所の人たちが自分たちの神として祭祀を受け継いでいる例があった。2つ目はかつて地主の個人宅にあった鳥居と祠が、その土地が料亭に売却されたことを契機に移転し、それを町内の鎮守として祀っている例である。元は木製の明神系鳥居だったが、改築に際し、祭神に合わせ石製の神明鳥居に変わった。ちなみに石材は高畠石ではなく安価な外国産御影の加工品が用いられている。
神社や鳥居もこうやって社会の荒波にもまれ変遷していることがわかる。
かつて村々にあった八百万の神、請われて田舎に引っ越してきた神。逆に大きな神社には諸事情で合祀されるようになった神が集っている。人が作りだした神様ゆえか、そうやって人の都合で右往左往させられもしてきた。
神社とそこに集積する石碑の数々は、自然を畏れ、その恵みに感謝し、人と人のつながりを大切に生きてきた地域の信仰の証である。現代社会に暮らす私たちは先人たちが伝えてきたこの信仰と「装置」をどう受け止め次の世代に渡すのか。半年間、たかはたの石鳥居を歩きながらそんなことを考えてきた。
愛宕山神社の鳥居。手元の写真を見てみたらしばらくの間に随分姿をかえていた。
上:2009年
中:2011円震災後 貫が折れ額束落ちる。右の木鼻がトラックにぶつけられ破損脱落
下:現在 2012年に貫・木鼻が木材に
最下:愛宕山山頂の勝軍地蔵堂
実は愛宕山鳥居のすぐそばにもうひとつ別の鳥居があったことは余り知られていない。
明和年間の銘を持つ薬師堂(羽山)の鳥居と同工品でKさんの庭に立つ諏訪神を祀る鳥居(八角柱で台輪も八角)だ。90度向きが異なり羽山の方を向いていたという。30年あまり前にここから現在地に移築された。おばあちゃんが現地で往時のことを語ってくれた。
この3年間のまちあるきの中で、そんな小さな変化をたくさん見、そして記録してきた。
静的な事象を記述するのではなく、変化するコトやモノが束になって、ストーリーとなってはじめて今の高畠らしさが描きだせるのだろう。途切れることのない地域の暮らしの歩みから醸し出される個性。移りゆく社会に翻弄されながらも土地に根付きひたむきに生きてきた人々の足跡をもう少し追いかけさせてもらおう。