タイトル通り、11月29日に石碑調査をしてきました。
天気は曇りでしたが風が強くてすごい寒かったです。
参加人数わずかに3人… 人手が欲しいですね…
今回はここにある石碑を調査しました。
地面が雨のせいかブヨブヨしていてちょっときつかったです。
いつも通りにメジャーで測ったり、
文字を読んだりしました。
ここにある石碑はもともと別の場所にあったものをうつしたものということを通りかかったお爺さんに聞きました。馬頭観音の石碑があるということです
石碑には地域の消防団?に関することが書かれてました。
もともとあった場所にいってみると確かに馬頭観音の石碑が置いてありました。
しかし写真は撮っていませんでした…。すみません。
冒頭にもいいましたが、本当に人手がほしいですね…
1・2年生のみなさん今からでも参加してみませんか?
城郭遺構の年代をきめるのは難しい。城は主が変わるたびに改修を繰り返し、現在残っているのはその最終形態であるからだ。
いま東北の戦国史でホットな話題となっているのが米沢の館山城。上杉の町で売っている米沢は、伊達氏の故郷のひとつでもある。伊達政宗が育った「米沢城」は実はこの館山城だったというのが最近の見方である。市教委が行っている確認調査で今年度、枡形門周辺から石垣がみつかった。また、その前面から門・土塁の整備、郭の造成の際に埋め立てられた大規模な空堀も見つかった。
さらにこの石垣等が最終的に「きれい」に壊されて城が廃絶している。いわゆる「破城」である。この壊し方にも特徴がある。
問題はこの石垣造りの格式高い枡形門を整備したのは誰か?
そして、城を壊したのはいつ、誰が?
石垣構築以前の空堀からは16世紀前半~半ばの遺物が出土するという。
石垣の型式属性は、隅角部算木積み。角石直方体化。角脇石なし?。築石控え長く小面ノミ加工多用。布積み傾向。
上杉には慶長5年に築城途中で放棄された会津若松市の神指城があり、一部本丸の石垣が調査されている。
これだけ特徴や比較材料がそろえば年代はかなり絞れる。
あきらかに最終段階は伊達の城ではない。
さてどんなストーリーが描けるか。
遺構は文献史料には出てこない歴史を描き出す。だから面白い・・・・。
もう一題。
米沢市の戸塚山では201号墳の発掘が行われている。従来ないと思われていた山の北麓から見つかった古墳状の高まりだった。調査の結果、やはり古墳だったが、中世に積石をして塚として再利用していることが分かった。周辺からは同様の塚がほかに二つ見つかっており、この山は古墳時代以降も信仰の山として利用されて続けてきたことになる。古墳単体としてはそのような例は珍しくないが、ここではほとんどの支群で多様な中世墓が複合している。史跡としての価値付けをどのような観点で行うか。これから歴史学の研究も取り入れながら調査が続く。
旅行口コミサイト:トリップアドバイザーが選ぶ、行ってよかった城の№1は「熊本城」だという。築城400年祭の平成20年度は観光客220万人余りを集め、その後減ったとはいえ昨年度は約160万人が訪れた。年間総入場者数でも世界遺産の姫路城や二条城、大阪城、名古屋城の上を行っている。
観光客は日本人だけではない。中国人、韓国人、タイ人などアジアを中心にたくさんの外国人の姿を見ることができる。
国の特別史跡「熊本城跡」ではここ15年で本丸御殿など7つの建造物が復元され、現在は馬具櫓と平左衛門丸の塀の復元が行われている。城の象徴ともいえる天守(模造RC造)は1960年につくられた。それまでは誰でも天守台の石垣に登れたという(委員長談)。扇の勾配を実感できたわけだ。熊本城の慶長初期の石垣は進入角が45~50度と浅く、中ほどまで簡単に登れるが、「ノリ返し」のある上部では直立してロッククライミングのようになる。
ここは石垣だけでなく、宇土櫓をはじめ11棟の櫓、ほかに門や塀、たくさんの重要文化財建造物が魅力を高めている。これに先の復元建造物を加え、全国各地で進む平成の築城ブームの最先端を突っ走っている。
しかし、この2月、復元整備の根拠となる調査や研究、体制が不十分であると文化庁からクレームが付き、市は仕切り直しすることとなった。今回はその1回目の会議だった。
地元の経済界や市民(観光プロモーションが専門の人もいる・・・さすが熊本)、様々な研究分野の人々の意見を聞きながら事業が進められる。
ところで日本人はなぜこんなに城が好きなのだろうか?
わたしは城マニアではないし、仕事以外で行くことは少ない(しいて言えば石垣マニアかもしれないが)。
確かに城跡は、観光地が共通して持つ、壮大さ、美しさ、静けさ、古さ、珍しさなどを併せ持つ。熊本城の大きな魅力である石垣もこれにあてはまる。このほか日本人が城跡が好きな理由で大きいのは、地域性とストーリー性ではなかろうか。
多くの日本人は身近な場所に「城」をもっている。いつの頃からか定住性が高くなり、生まれ育った土地の記憶に深く思いを寄せるようになった。地域アイデンティティーを記念物や郷土の英雄に託するのである。自分の「城」とよその「城」を比較してそのありかを知る。
戦乱の時代に城を舞台に繰り広げられた物語は近世以降多くの書物に記録され今に伝えられてきた。今の戦国武将ブームはゲームや漫画から始まったかもしれないが、それは昔からずっとあった。死が今よりもはるかに身近だった時代に、生きる力をみなぎらせていた人々を憧憬するからなのか。血沸き肉躍る、下剋上や国盗りのスリルや人間ドラマに興味をそそられるのか。人の命が軽く扱われ、残虐な人間の本性がむき出しの社会だったことには目をつぶりつつ・・・
来年の大河ドラマは「黒田官兵衛」。たまたま今年、姫路や中津や福岡と官兵衛ゆかりの城を見て歩いた。官兵衛ほど伝説逸話の多い武将も少ない。どんな脚本なのか。どんな人物像を描くのか。現代社会を映す鏡となるはずだ。
大河ドラマは昔「天下御免」というのを見た記憶があるが、それ以降まともにみていない。さてどうしようか。そんなことを考えながら、城を歩いた。
写真は銀杏城の異名を持つ熊本城。葉が黄色く染まる。古城(第一高校)の石垣、枡形門を入る学校の正門。野良猫軍団にがんつけられる。
晩秋の北陸道を新潟県から石川県の南端まで走った。
車窓を眺めていてはっと驚いた。平野が緑のじゅうたんに覆われている。
一面、黄緑色。ちょっと黄色みがかったところは稲刈り直前の田んぼのようにも見える。そして所々に緑の濃いところがあって、こちらは減反の麦が作付されている。落葉樹の紅葉と植林のスギの緑がコントラストをなしている山と、田んぼとが対になっていて面白い。
北陸では8月下旬から早生の稲刈りが本格化する。9月半ば、台風シーズン直前にコシヒカリを刈り取る。10月には切株から「ひこばえ」が成長し、やがて結実しない稲穂が一斉に立ち上がる。ちょうどそんな田んぼが絨毯のように広がって初秋の稲田のように見えたのだ。子供のころ、稲刈り後、広大な空き地となった田んぼでよく遊んだ。ひこばえが伸びきった頃には天気が崩れ、やがて冬を迎える。そして湿気の多い雪が稲株もろとも腐らせてくれる。
ひこばえは根で年を越す多年生野生稲の遺伝子の存在を物語る。以前ラオスで現存する野生稲(多年生と一年生)をみたことがある。多年生は池の様な所でススキのように群生し、乾季には干上がって枯れるが、雨季になるとまた芽をふいてくる。水田に適応したイネだ。
山形ではそんな風景があったことを忘れていた。内陸では刈取り時期が遅く、冬の到来が早いせいか、穂のついたひこばえはあまり見ない気がする。
晩秋から初冬の稲田にもそれぞれの土地の風景があることを思い起こさせてくれた。
高畠の石鳥居の悉皆調査、数はもう120基(木製も含む)を超えたらしい。
しかし、学生たちは芸工大の御膝元にある重要文化財の鳥居を見たことがないというので急遽、1時間のぷち見学ツアーに出た。
元木、蔵王成沢、空清水(石切り場)。
さすが見どころが違う!高畠で鍛えられた目は伊達ではない、と思う場面もありました。
高畠は12月8日(日)が最後の調査です。年度内に記録をまとめます。
鳥居の石切り場跡
秋が深まり震災で崩れた石垣の復旧工事が急ピッチで進められている。
17日、18日(太平洋側)はよく晴れた。こんな日は作業がはかどる。
これから東北は寒い冬をむかえるが、石垣の復旧工事は季節に関係なく進む。関係者の皆さんのご苦労に頭が下がる。
福島県白河小峰城跡
仙台城跡
高畠町大立洞窟 入口に2本の柱が見える。この巨岩が笠木だ!
11月16日のまちあるき鳥居編。
この日は朝一、引地さんが角石を切っている瓜割丁場に行ったあと、源福寺鳥居、愛宕山鳥居と高畠の名物鳥居をまわる。他に例のない「野趣に富んだ」鳥居を作った石工の感性に脱帽する。
明和6年製の薬師堂鳥居を記録した後、個人宅に立つ諏訪神の鳥居をみせてもらう。薬師堂鳥居と同工品である。聞くとかつて(20~30年前)は愛宕山鳥居のそばにあり、羽山を向いてたっていたという。
それから立林の鎮守に向かう。ここは千手観音が本尊で鳥居はなかった・・・・作業をしていたおじさんに尋ねると、大立洞窟(縄文草創期から利用された洞窟遺跡:国史跡)のそばで赤い鳥居を見たことがあるという。
近頃は地図に記録されていない鳥居を探すのがひそかな楽しみとなっている。
行ってみると、人家のない山の中に個人が祀っている稲荷神社があった。
ついでに、大立洞窟を見ていこうと沢を登ると巨岩が姿を現した。洞窟の入り口に立つ。
一瞬、わが目を疑った。白い丸柱が2本立っているではないか。もしや鳥居ではないか。
恐る恐る中に入る。貫と木鼻がみえた、やはり・・・・・
そして洞窟の天井をみあげて2度びっくり!
笠木島木がない。柱が天井に刺さっている・・・・
洞くつ天井の巨岩が笠木・島木なのだ。大正4年と銘がある。
地元ではお不動さんと呼ばれており、剣3本が祀られていた。そういえば、二井宿の観音岩の岩陰にも神社があった。あちこちに巨岩が露頭する高畠では、岩陰を信仰の場とし、そこに祠や堂を置き、神や仏を祀ってきた。神秘的でおごそかで、おもわず手を合わせずにはいられない、そんな空間である。
11月15日金曜日に行われた石碑調査チュートリアルでは前回まで調査を行っていた地域の八森から土坂へ場所を変え調査を行いました。
今日は天気予報によると午後からは雨との事でしたので天候が心配されましたが、曇りの天気でしたので調査はスムーズに行われました。
今日は土坂の阿弥陀清水という場所の石碑を調査しました。訪れてみると火曜日に降った雪がまだ融けていないところもあり、少し早めの冬の知らせを感じることとなりました。今回は前回の反省皆さんコートやマフラーをして寒さ対策の完全装備を行ったため比較的寒さを感じることも少ないようでした。
ここの石碑は数が多いというだけでなく、かなり文字が多い石碑が複数あり作業に時間がかかりました。調査した石碑は仏教関連のものが多かったように感じました。
さて、来週の調査の天候が気になるところでありますが、何より1・2年生の参加者がほしい所です。
兵庫県にある中世山城-置塩城に登ってきた。
山頂からは瀬戸内海に浮かぶ家島、淡路島、小豆島が一望できる。
場所は旧「夢前(ゆめさき)町」。合併されていまは姫路市に属する。日本で唯一「夢」のある自治体名だったらしい。
あたりまえだが山城は登るのがたいへんだ。簡単に登れるようでは山城ではない。
地元の保存会の方々が遊歩道を整備してくれているのでまだ歩きやすいが、標高350m(比高300m)の山頂まで一気にのぼる。丁石が設置されていてまだかまだかと数えながら登る。ゴールは「十八丁」。
山はよく手入れされ、景観に配慮した案内板やたくさんの樹木札がかけられている。地元の方々の想いが伝わってくる。しかし、イノシシは相変わらず縦横無尽。地面のあちこちを掘り散らかしている。表土が浅いので、遺物が露出する。困ったものだ。
置塩(おきしお又はおじお)城は播磨守護-赤松氏の居城である。
赤松氏といえば室町将軍6代義教を暗殺した赤松満祐が有名だ(嘉吉の乱)。城は応仁の乱後に守護となった赤松政則が築城したとされてきた。発掘調査の結果、16世紀半ばから石垣や瓦葺き建物をもつ屋敷が本格的に整備されたことが分かってきた。その後、天正年間に秀吉軍が入ってきて城割り(破却)されるまで続いた。
姫路城で生まれた黒田官兵衛は置塩でも活躍したらしい。そこで大河ドラマを見込んだ地元の観光熱がわきあがってきた。そのせいでもなかろうが、懸案だった史跡の保存管理計画策定、整備事業がこれからはじまる。
長年、史跡を大切にしてきた地域の人々の熱い思いがこれから実を結ぶ。
ただ、史跡の保存管理には観光化とのあいだで難しい問題がいくつもある。関係方面と合意形成しながら未来の人たちに土地の歴史をつないでいかねばならない。
久しぶりに野焼き場に煙が上がった。
洋画の院生が土器でトチノミのあく抜きをした。制作のテーマが木の実食だという。
民俗例を聞き書きし、本も読んで木の実食の歴史を勉強して、実際にやってみたいという。
生(水浸け)のトチを味見し、加熱したアクを舐め、トチを齧る。そして、灰合わせした煮汁を舐めて、びっくり!
芸術を志す学生がリアルを求めて世界を広げようとしている。表現の根幹に何があるのか。自分とは、人とは、人と人の関係(社会)とは、人と自然の関係とは・・・・そんな問いを持った時、われわれは彼らと同じ土俵で話ができる。
作品は頭や技が生み出すのではない。自分自身を肥やし、己を表現するのだ!
恩師の言葉である。
おもわず、がんばれ!と応援したくなる。