9月13日、小国町の黒沢峠敷石道保存会のみなさんと学生とで古道の測量に行ってきた。
数日前の台風のせいで沢筋の道の上にはトチやオニグルミが大量に落ちていた。
黒沢峠はイザベラバードの旅行記にも登場する有名な道だが調査・測量はほとんど行われていない。
そんな中で地元保存会の方々が継続的に道の保全活動を行い、活用にも積極的に取り組んでいる。
古屋敷と伝承される場所にかつての茶屋跡があり、沢筋(水源)からここへ水を引いた溝跡が現地に残る。
地形的に溝が通せないところに木樋(竹樋)を通した可能性のある遺構があり、茶屋から水源までの間を測量した。
雨上がりのせいか、沿道はきのこが雨後のたけのこのようにでていた。帰りがけに大きなタマゴタケを3つもらった。帰りがけに大きなタマゴタケを3つもらった。オリーブオイルで火を通して食べたら、ほんのり香る上品な味だった。
ゼミ旅行3日目は、まず妻籠宿住民の有志によって構成される妻籠宿案内人の会の方と一緒に妻籠集落内を廻りました。
案内人の方は、妻籠宿の町並み保存事業の歩みや、歴史、各地区にある建造物の様式や構造などを分かりやすくかつ丁寧に説明してくださいました。
その説明の中で私が注目したのは、妻籠宿の火災対策です。妻籠宿内には20mおきに消火栓と消火用ホースが「火乃要鎮」と書かれた木箱の中に収納する形で随所に置かれています。
さらには、木箱に収納せずとも景観を考慮して目立たない色にした消化栓や防火用の水槽、消火用ホースが収納されている格納箱なども見受けられました。
この木箱に収納されている消火用ホースは細く、かつ軽いため、女性の方でも扱うことができるようになっています。しかし、放水量はそこまで多くはないので、あくまで初期消火用として用いられているそうです。
このような他の集落には見られない防火設備の充実は、昭和51(1976)年に妻籠宿が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたことが大きく影響しています。妻籠宿内の建造物群は基本木造であるため、火災によってそれらが失われることがないように防火設備がしっかりと整備されていることが、重要伝統的建造物群保存地区の景観を維持していく上での大前提であるとおっしゃっていました。
集落内を歩くことで、その集落の町並みの保存事業の一端を窺い知ることができるというのも、集落散策の1つの魅力ですね。
案内が終了した後は、宿内にある俵屋里久と呼ばれるおそば屋さんにて、昼食としました。私は温かいかけうどんを食べました。ここで午後の妻籠宿から馬籠宿間の街道散策のための英気を養います。妻籠宿から馬籠宿までの道のりは約9㎞ですが、その間には馬籠峠と呼ばれる標高801mの峠があるので、みんなしっかりと食事と水分を補給しました。 昼食後は13時の街道散策の出発時間まで、各自昨日行った現地調査の不備を再調査し、いよいよ馬籠宿へと向かいます。
はじめは家や田畑の傍を通る道や、コンクリートで舗装された道を歩きましたが、次第に山道へと入っていきました。しかし、傾斜はそこまで急ではなく、登りやすかったです。山中を登っていく道中には小さな集落や棚田があり、私が想像していた山林が生い茂る街道の景観とは異なっていて、とても面白かったです。
また、街道の傍には庚申碑や道標、追分碑などの石碑や石像などが随所に見られ、それらがかつての街道の面影を偲ばせる景観を作り上げています。
そして、妻籠宿から馬籠宿間のやや馬籠宿寄りに位置する立場の茶屋にて、約10分間の休憩をしました。立場の茶屋とは、宿と宿の中間に位置し、ここを訪れる旅人が休憩するための施設です。自分も旅人の気持ちになって、一休みしようとしたところ、茶屋の店主からお茶と飴をいただきました。
飴をかじりながらぼんやりと外を眺めていると、2人組の外国人が茶屋の前を通りすぎ、それに気づいた店主が流暢な英語で挨拶をしていました。それだけ外国人がこの街道を通っているんだなと思いました。実際に茶屋で休憩する前の道中ですれ違う人達のほとんどは外国人で、日本語で挨拶する時はとても緊張しました(笑)。
そして、茶屋で休憩を終え、街道散策を再開。歩いてまもなく南無阿弥陀仏碑や三界万霊碑、墓碑などが見られました。かつてこの近辺に集落が形成されていたことを窺い知ることができます。
その後の道中は道草食っている私のはるか先導をゆくみんなに追いつこうともくもくと歩いていました。そして、ついに馬籠峠の頂上に到着しました。あとは峠を下るのみです。
下りの道中、猫さんを発見。こういう小さな出会いというのも、散策の醍醐味ですね。
猫さんと戯れている間に、またみんなとの距離が離されてしまったので、猫さんと別れた後はもくもくと歩きました。そして、竹原先生とゼミメンバーであるT氏に追いつきました。しかし、他のゼミメンバー2人を眼下に捉えることはできませんでした。
馬籠宿まで、もうひと踏ん張りです。
峠を越えた後の馬籠宿までの道のりは、ずっと下りの道だと思っていましたが、まさかの登り…。足に疲れが溜まっていた分、正直きつかったのですが、その登りの石段を登りきると広大な景色が眼前に広がっていて、その疲れは跡形もなく吹き飛んでしまいました。
しばらくの間、その景色にみとれていたので、また竹原先生とゼミメンバーT氏を見失ってしまいました。
しかし、この場所から少し先に進んだ見晴台にその2人は待ってくれていました。
この見晴台から見る景色は、先程見た景色よりも壮大で、かつ天気も快晴だったので、まさに記念写真の撮影にはもってこいの日です。
石柱の正面にあるのが日本百名山の1つである恵那山で、標高は2189mあります。
見晴台を少し下ると、馬籠宿の高札場がお出迎え。ここからが馬籠宿への入口となります。
馬籠宿は、木曽十一宿の南端に位置する宿場町で、明治・大正・昭和にかけて活躍した文豪、島崎藤村が生まれた町としても有名です。
馬籠宿は、斜面が急な坂の上に形成されているため、防火に必要な水が全体に行き届かず、幾度も大火災に見舞われた歴史があることから、古い建物はほとんど残っていません。
しかし、石畳や道路を直角に折り曲げた桝形と呼ばれる地形は現在も残っており、かつての宿場町的景観を偲ぶことができます。
馬籠宿到着後、各自妻籠行きのバスが来るまで、馬籠宿を自由に見て廻りました。自分は馬籠宿の防火設備に注目して集落を廻っていると、天水桶の形をし、「火乃要鎮」と書かれた木箱がありました。
その中をこっそり開けてみると、消火器が4個入っていました。このような木箱は自分が見つけた限りでは、表通りに4ヵ所ありましたが、20mおきに消火栓と消火用のホースが収納されている木箱が宿内に設置されている妻籠宿と比べると、防火設備は妻籠宿より充実しているとは言い難い印象を受けました。
そして、各自馬籠宿の散策を終えると、バス停に集まりバスが来るのを待ちました。その際、自分は野帳を紛失してしまったことに気付いたのですが、時間がなかったので、あきらめました(泣)。
17時19分発のバスに乗車し、20分後に妻籠宿へ到着しました。到着後は駐車場に停めていたレンタカーに乗り、宿泊先である自由旅クラブ木曽三河家へと戻りました。
これにて、怒涛のゼミ旅行3日目は終了です。1日中歩きっぱなしの1日でしたが、無事乗り切ることができました。
今日で、今回のゼミ旅行のメインとなる妻籠宿調査は終了し、明日は樹齢400年程の杉が立ち並ぶ戸隠神社へと向かいます。
竹原ゼミ旅行の2日目は、今回の調査演習のメインと言える妻籠宿の調査に向かいました。
宿泊した長野市内のホテルから、車で向かいました。道中には木曽十一宿の宿駅があるため、道路脇に宿駅があることを示す看板が見受けられます。
奈良井宿は、重要伝統的建造物群保存地区になっており、宿駅としての景観が整えられた綺麗な場所です。あまり長い時間見学することはできませんでしたが、見ごたえのある場所でした。
妻籠宿に到着して、まず初めに脇本陣奥谷を見学しました。
脇本陣は明治10(1877)年に建て替えたもので、詩人・島崎藤村の初恋の女性の嫁ぎ先でもあるそうです。国の重要文化財に指定されており、江戸時代に使用を禁じられていたヒノキを使って建てられているのが特徴です。
脇本陣の裏手からは歴史資料館に行くことができます。資料館では南木曽町や木曽路の歴史、町並み保全運動等について展示されています。
脇本陣を見学した後は、各々が事前に決めた調査テーマに沿って、妻籠宿の調査を自由に行いました。私は、脇本陣からほど近いところにある本陣を見学しに行きました。
本陣は平成7(1995)年に復元されたもので、こちらは島崎藤村の母の生家であるそうです。大名が宿泊する上段の間の復元が見学できる他、間取り図を元に再現された模型や、資料の展示等もあります。
本陣の見学後は、自分が定めたテーマを意識しながら妻籠宿の中を散策しました。
妻籠宿には特徴的な桝形の地形があります。現在は新道が作られたため桝形の地形は失われていますが、この地形の跡が残っています。桝形の地形は、外敵の侵入を妨げる役割があったとされています(写真左上)。
この桝形の跡から南へ進むと、寺下という地区に出ます。寺下は400年程の間火災に見舞われていない地区らしく、古い景観を良く残しています(写真右上)。
寺下には、妻籠宿における庶民の住宅の形式をとどめる「下嵯峨屋」と、木賃宿と呼ばれる宿泊施設であったとされる「上嵯峨屋」というふたつの町指定有形文化財があり、どちらも自由に見学することができました。
下嵯峨屋は昭和43(1968)年に、上嵯峨屋は昭和44(1969)年に解体復元され、現在のように保存されています(写真上が下嵯峨屋、写真下が上嵯峨屋)。
妻籠宿の北側には、復元された高札場や、鯉の形をしているとして名所になっていた鯉岩がありました。鯉岩は明治24(1891)年に発生した濃尾大地震で倒れてしまったため、往時の姿を確認することはできません。鯉岩は、大変わかりずらいですが、左側にある階段から後ろに周り、上に上ることが可能でした。柵も何もないのでそれなりに危険ですが、のぼるととても眺めがいいです。
それぞれ調査テーマが違ったので、橋や道幅の長さを測っている人もいたようです。妻籠宿は見所が多く、端から端まで見学するとそれなりに時間がかかるので、非常に充実した調査を行うことができました。
竹原ゼミでは、8月20日~24日の日程で長野県へゼミ旅行に行ってきました。
今回の主な目的は、長野県にある妻籠宿を中心とした宿場町についての現地調査です。
1日目は、長野までの移動のため、新幹線で山形駅を出発し、大宮駅での乗り換えを経て長野駅へ向かいました。
到着したのはお昼頃で、昼食は「千成寿司」というお店で全員、とんかつ定食を食べました。
午後からは門前町を散策しながら、国宝に指定されている善光寺へと向かいました。
長野県から善光寺までの十八丁(約2㎞)の道のりにわたって「丁石」という道しるべの石碑が、一丁(約109m)ごとに置かれていました。
歴史的な建造物と現代の建造物が混在した街並みで、観光地として景観づくりに力を入れている様子が伝わってきました。
また、善光寺本堂でのお戒壇巡りがとても印象的でした。
「お戒壇巡り」とは、御本尊が安置されている床下にある真っ暗な回廊を歩き、「極楽の錠前」を探り当て秘仏の御本尊と血縁を果たすと、極楽浄土へ行くことができるといわれています。
暗闇の中を、一列に並んで右手で壁を伝って錠前を探しつつ、ゆっくり進んでいきました。
全く目が見えない状態のため、前の人との感覚がわからず、何度もぶつかりながらもなんとか出ることができました。
実際よりも時間が長く感じて、不思議な感覚でした。
肝心の「極楽の錠前」は、よくわからないまま終わってしまいましたが、なかなかできない体験ができて楽しかったです。
善光寺を訪れた際には、ぜひ体験してみてください。
その他にも、善光寺周辺はすべて見切れないほど、見どころがたくさんある良い所でした。
竹原ゼミ旅行2日目に続きます。
3日目は軍艦島、原爆資料館、平和公園などに行ってきました。すみません、写真少ないです!!!
まず最初に向かったのは軍艦島!!
正しくは「端島(はしま)」という名前の島なのですが、岸壁が島全体を囲い高層鉄筋アパートが立ち並ぶ外観が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになったそうです。2015年に「明治日本の産業革命遺産」になったことでも有名な海底炭鉱の島ですね。
私たちは軍艦島上陸・周遊コースを予約しました。上陸については当日の軍艦島付近の波の様子を見ない限り可能か不可能かわからない中・・・無事上陸!!上陸時間は40分。荒廃が激しいため、見学場所は限られています。ベルトコンベアの支柱やレンガ造りの建物、桟橋への階段部分などが残っており、そこが当時どのように使われていたのか、どんなものがあったのかを知ることができます。
見所がたくさんある軍艦島ですが、この島は「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つです。福岡県の官営八幡製鐵所、山口県の萩反射炉など全23資産により構成されてこその世界遺産です。その横の繋がりを知らずに見学すると軍艦島の価値を学ぶのは難しいかと思います。また、炭坑としての軍艦島を知るには対岸にある資料館へ行く必要があります。
軍艦島はどんどん荒廃していきます。数年後、数十年後・・・どのような姿で存在しているのか、そもそも存在しているかさえわからない状態です。手を加えるべき遺産か、手を加えるべきではない遺産か・・・。軍艦島をどう捉え、どう扱っていくのかが問題であると感じました。
軍艦島の次は原爆資料館です。・・・なのですが、17:00に平和公園集合ということになり、約5時間ほど自由時間でした。(原爆資料館と平和公園は必ず見学です)
私は友達と2人でグラバー園と大浦天主堂に行ってきました。(丁度いい写真がありませんでした・・・)グラバー園の中には軍艦島と同じ「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の1つの旧グラバー住宅、国指定重要文化財の旧リンガー住宅、旧オルト住宅などがあります。すぐ近くにある大浦天主堂は国宝となっています。グラバー園は当時の建物を活かしながら、中に展示をしてありました。また、おすすめのフラワースポットや衣装の貸し出しなども行っているようで、インスタ映えを狙う若い人も多く訪れるような観光の工夫もしていました。写真を撮ることに集中して歴史を学ぶことも忘れてないかな~なんて思うこともありました。大浦天主堂には博物館も併設されており、旧羅典神学校、旧長崎大司教館が活用されています。キリシタンの歴史以外にも当時の建築についても学ぶことができます。
路面電車に乗り原爆資料館を目指します。なかなか乗る機会のない路面電車・・・とても良かったです。山形にも欲しいですね!
さて、3日目の最後は原爆資料館と平和公園です。
原爆資料館には平日にも関わらず多くの人がいました。(団体客、外国人の方が目立ちました)当時の写真や物、長崎の街の惨状を再現したコーナー、映像、絵・・・など様々な 展示がありました。中には、実際に触れることができる展示も・・・。常設展示や長崎原爆についての解説が聴ける12カ国語の音声ガイドがあり、戦争、原爆の悲惨さを知るべきなのは日本人だけではないということを感じました。
実際の遺品や写真などを見て、文章を読んで、音を聴いて・・・。物だけでなく、人の言葉や映像も遺産として残っていました。原爆資料館の資料を保護するのも、実際の体験談を語り継ぐのも、今回学んだことを人に話すことも、長崎の「戦争」「原爆」を保存することなのだと思いました。
「戦争」というものを多く学ぶことができる場所です。戦争を知らない世代である私たちは必ず行かなければならない場所だと感じました。
4日目は長崎に別れを告げ、熊本へ向かいます。またね、長崎!!!
北野ゼミ2日目はたびら昆虫自然園、田平天主堂、春日集落、出島などに行きました!
午前中は、たびら昆虫館は27年前に始まったそうです。以前はミカン畑だったとか・・・
ここの観察ゾーンと呼ばれる場所では平戸で見ることができる昆虫の観察ができます。
ガイドさんの説明を聞きながら、観察ゾーンを一周しました。この時期はカブトムシは姿を見せませんでしたが、クワガタムシや蝶、クモ、水棲昆虫などの生態を見ることができました。他にも数多くの動植物がここで生きています。
この時期のせいか、足の数か所を蚊に刺されたりもしました・・・
ここでは、生態系の保全のため、生き物の持ち込みや持ち帰りを禁止しています。その理由として、生態を壊さないようにする配慮があります。たびら昆虫館は生態系保全の最先端の施設だそうです。人と自然の関わり方を模索し、人為的生態系を作り、生態系の保存や活用に努めているとのことでした。
しかし、ガイド役(案内役)の高齢化により、後継者不足が深刻な問題になりつつあるそうです。
また、イノシシなどの害獣にも悩まされることもあるらしく、自然と人との生き方を考えさせられる場所でした。
次に田平天主堂に行きました。田平天主堂は、敷地内で貝殻を焼いて赤土とまぜるアマカワ(煉瓦用目地)を作り、1918(大正7年)に完成しました。今では重要文化財になっています。明治になり移住してきた潜伏キリシタンの人々の末裔が守り伝えてきました。現在も土地・建物は教区が管理しており、信者の方が見学者への対応をしてくれます。
教会の表には「ルルド」と呼ばれる場所があり、フランスのピレネー山脈のふもとの町のルルドの洞窟に聖母マリアが出現した、という伝説があります。田平天主堂も信徒移住百周年を記念して、洞窟を作り、聖母マリア像と聖ベルナデッタの像を置き、信心の場としました。
一応観光地化はしていましたが、今でも教会の中ではミサが行われるなど、今なお人々の信仰の場としてその役割を果たしている場所です。
ミサを見学したりすることはできないらしく、観光と人々の暮らしはきちんと分けられている印象を受けました。厳かな雰囲気の教会でしたが、ステンドグラスがとても美しい教会でした。
午後は春日集落に行ってきました。この場所は最近世界遺産として登録された、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産として登録されている村の一つです。
潜伏キリシタンは日本独自の文化、日本独特の信仰の形を今に残しています。
平戸はオランダとの交易が盛んで、平戸は初期のキリスト教繁栄地でした。
のちに、キリスト教は禁教として厳しい弾圧を受けることになります。仏教や神道を受け入れつつ、キリスト教も信仰したことにより、日本独自の信仰が生まれていきました。
今も信仰を守り続ける人はいますが、後継者、文化の担い手がいないことが問題になっています。
ガイダンス施設には村のおじいさんやおばあさんが交代で詰め、来訪者に応えていました。お茶や漬物などでもてなしてくれます。このように交流ができるのはよそ者にとってはありがたいのですが、、、まだ、戸惑っているようにも見えました。農道への車の乗り入れ自粛を呼び掛けているということは、意に反して観光客が迷惑をかけていることが想像されます。
平戸のオランダ商館と幸橋(アーチ橋)をみて長崎に急ぎました。
今の出島は当時の風景を再現しているどうです!建物の外観だけでなく、中の外装や家具も当時使われていたものが置いてありました。まるで、今でも誰かがそこで生活しているようでした。鎖国で制限された海外との貿易の中、この出島は海外と日本を繋ぐ重要な架け橋になっていたのではなでしょうか。
また、オランダの人にとって出島はとても思い入れのある場所らしく、ナポレオンに占領され数年ほどオランダという国が消えていた中、世界で唯一この出島ではオランダの国旗が掲げられていたそうです。
次は軍艦島を目指します!
私たち北野ゼミは9月3日から8日の5泊6日の九州に行ってきました!
今回は初日の9月3日を少し写真を交えながら紹介したいと思います。(写真が少ないなんて言えない・・・)
9月3日は、仙台空港へと集合し、仙台→福岡と経由なしで行きました!
ゼミ生は7名いるのですが、うち5名山形から高速バスで、ある人はご家族の方に送られて、私(投稿者)は直接電車で仙台空港へ行きました(-ω-)/
飛行機内では、本を読んでる人、ゲームしている人、わくわくしている人とかなり個性が出ていました。
福岡に到着したのは14時くらい、飛行機のタッチ&ゴー現象や搭乗時間の遅れで少し遅く到着しました。空港でレンタカーに乗り換え。8人のりの車に8人乗車。あれ?荷物はどこに載せる? 車は九州道から長崎道へ。
初日は「吉野ケ里歴史公園」に行きました!(着いたのは15時だったと思います)
「吉野ケ里歴史公園」は国土交通省が所管する数少ない国営歴史公園のひとつです。当時の遺構の実物大復元や出土品の展示などを通じて弥生時代を体感できる場所とのこと、先生からの説明を受けながら周ることに。
周っていると大きな櫓が( ゚Д゚)そこから見える景色は格別です!
復元された竪穴建物の中に入れます。
中には什器や人の模型が置かれていますが、生活感はありません。
火を焚いていないため、黴臭さが残ります。
遺跡の整備はハードだけでなくこれからは空気・匂い、人の動きなど無形の遺産の活用もあるといいのかもしれません。
博物館内には石鏃や多くの土器、装飾品、お墓(墳丘墓)、甕棺(かめかん)などがありました!
土器の復元や実測作業を見学できるのは面白い展示だと思いました。
北墳丘墓の遺構の露出展示は迫力がありました。一度発掘した遺構を公開するまでの整備工事の様子がパネルで紹介してありました。
空調管理設備、土壌保存の薬剤等、最新の機器・技術を使いながら、発掘後で取り上げた甕棺の再設置は意外に地道な手作業だということも分かりました。
本物の遺構の臨場感を見学者にも体験してもらうための展示の工夫がよくわかりました。
二時間、この吉野ケ里歴史公園にいましたが、全然時間が足りなく、全部詳しく見れませんでした・・・が、かなり貴重な時間でした!
見学後は長崎道にのり、佐世保を目指しました。
ふるさとが好き、だからふるさとを歩こう
歴史遺産学科では1年次から地域のリアルな姿に学ぶことを目的にフィールドワークに出かけています。
5月の村上市、7月の米沢市に続いて、この8月16~18日に上山市楢下地区でフィールドワークを行いました。
楢下は江戸時代の宿場町で、その街道や地割りがよく残ることから国の史跡に指定されています。また茅葺きの古民家やアーチ型石橋など、県指定、市指定有形文化財(建造物)、古文書も残っています。このような歴史遺産の保存活用、歴史的まちづくりを学ぶためにこの地でフィールドワークを行いました。。
お昼ご飯は毎食、地元ばあちゃんずくらぶによる手料理。学生盛りでおなかいっぱいです。デザートのプリンスメロン、スイカ、モモ。すべて地元産です。
16日 滝沢屋の展示の見学、楢下宿の保存と活用(上山市教委斎藤氏の発表、行政の取り組み)、羽州街道「楢下宿」研究会のみなさんと座談会(住民からみる史跡の保存と活用、取り組みの歴史と現在)
17日・18日は3班に分かれ、それぞれのテーマで調査した。
景観班
50年前に町並みを撮影した約40枚の写真をもとにそれぞれが同じアングルから写真を撮り、景観のモンタージュを行った。この50年何が変わり、何が変わっていないのか。山の植生、道路・水路、電柱、家屋、塀、庭木など。景観の見方を学びました。
古文書班
村に伝わる「宗旨人別帳」を翻刻し、幕末・明治初の村の人口や世帯をを復元しました。
民俗班
村の古老たちから戦前戦後の暮らし、生業、祭礼などを聞き書きしました。
住民の皆様、市教委には大変お世話になりました。ありがとうございました。
8月11日 今年も楢下の夏祭り(観音様の祭礼)に行ってきた。
楢下は江戸時代には宿場町だったところ。日本海側の大名らが参勤交代で行き来した。明治以降はありふれた農村集落として現在に至る。
明治150年、すでに宿駅機能が廃れて久しいが、この村がたどってきた独自の歴史が様々な遺産として継承されている。
斎藤幸彦さん(今年の地区会長)の弾き語り「おじいちゃんの村」「トマト」
秋田おばこにのせて女性たちが演じる「とっくり踊り」
若い男たちが倒れるまで踊る「丘を越えて」
「おじいちゃんの村」作詞・作曲/斎藤幸彦
1 僕のおじいちゃんの住んでる村は 緑のとってもきれいな村です
都会で生まれた僕にとっては 空の眩しすぎる村です
秋になれば色あざやかに 野山を彩るもみじ
小さな川は滝に流れて まるで絵葉書のような村です
2 僕のおじいちゃんの住んでる家は 茅葺き屋根の大きな家です
煤けた天井いろりの煙 昼寝のじゃまする柱時計
冬になれば軒の下まで 雪に埋もれるけれども
春には馴染みのツバメの夫婦が やって来る暖かな家です
3 僕のおじいさんのいけない癖は 話に夢中になると火鉢のふちを
トントン叩いて浪花節です 折れたキセルが年の半分
百三十段の石段 村の神様があります
息も切らさず毎朝登る とっても元気なおじいちゃんです
今年数え七十二才 とっても丈夫なおじいちゃんです