3連休で宿がなくて困っていたら、主催者側から改修中の空き家があるとお誘いをいただいた。風呂が使えなくて(徒歩1分に温泉あり)、トイレの水が流れなくて(夜修理に来てくれた。感謝!)、ちょっとカビ臭くて(リセッシュしたら快適)、ゴキブリやクモなどいろんな虫がいて(平気な子たちが退治)、蚊も飛んでいて(温泉から蚊取り線香一巻きをいただく)、不気味なふすまの張り紙に怯えることはあっても、それ以外何の不都合もない、われわれには十分すぎる宿だった。スタッフの温かいおもてなしの心に包まれてみんなで仲良く寝た。
翌朝、学生たちは5時半に起き、6時半からまちあるきに出かけた(私だけ7時まで寝ておりました)。7時半から明治年間に建てられ登録文化財になっている鈴木家の石蔵内部やお稲荷さんをみせていただく。外壁は見事な桜目の石材をふんだんに使っている。家主夫妻と長田さん(建築史)の解説を聞きながらその構造を勉強した。2階建ての石蔵は美術館別館となっていて「海女ちゃん」の写真が展示されている。朝から房総の海女のたくましさに触れて眠気が一気に醒めた・・・・
鋸山ツアーの一団約30名は9時にロープウェイ乗り場に集合。ここから、近世以前にさかのぼるとみられる山麓丁場、近世・近代に「中石」を取った山腹丁場と、道なき道を歩いた。普段歩いている落葉樹の森とは違い、照葉樹の森は暗いが低木が少なく歩きやすい。目立ったのはイノシシの「ヌタ場」。泥の上でのたうちまわったあとや、ミミズを探してか、土を掘り返した跡があちこちにある。サルも含め、野生動物被害はここでも深刻らしい。
もとの道を下り、ロープウェイで一気に山頂へ。房州石製のポストの前で記念写真。恋人の聖地。ここから手紙をを出すと思いがかなうらしい・・・・。思い人がいないのか、手紙を出す学生は誰もいなかった。
百尺観音のある日本寺の境内に入り、いよいよ山頂域の石切り場ツアー。切り立った壁の高さは、最も高いところで98mという。ここでは70m、80m級の壁が林立する。高畠では高くて30mにすぎない。そのスケールは桁外れで、奥に掘り進んだところもあり、ビルの廃墟のようでもある。
大規模丁場の前面にはズリ(くず石)や製品を搬出する細い通路がある。「口(中)抜き」という。こうなると手間がかかるため丁場は廃絶を迎える(鈴木氏の解説)。確かに高畠等でも同じような廃絶の仕方をしている。合点がいった。
圧巻は「樋道」と呼ばれる石降ろし道。急斜面に石を敷き、藤蔓で連結した石をウォータースライダーのように滑り落としたのだという。にわかには信じがたい話である。
鈴木氏の芳家石店の丁場では毎年、鋸山コンサートが行われる。ここでは壁に「桜目」を切り出した跡がみられた。また索道やチェンソーなどの機械類が錆びついたまま放置され、往時の賑わいと時間の経過を感じさせてくれる。今後は鉄のさび止め等の措置が必要となろう。
12時半をまわり、参加者に配られたおやつのバームクーヘン(金谷名物)をみんなで頬張る。
最後は、運搬役の女性たちがネコ車に80kgの切石を3個ずつ積んで下った「車力(しゃりき)道」。かつてはここを1日に3往復をしたという。ブレーキをかけながら下りるのは命がけである。そして上る時は約50kgのネコ車を背負って上る。考えられない。
2日間晴天に恵まれ、地域を愛し、石を愛する人たちと交流することができた。
地域で豊かに生きることは、先人たちの財産を引き受け、次世代につなぐ営みのなかに、集った人々が時の流れの連続性と土地の固有性に誇りを感じつつ、ありふれた日常に感謝しながら暮らすことなのだろう。
帰路、寝不足と山歩きで心地よい疲れが車中を包む。
東京湾アクアラインからスカイツリーを横目に首都高を抜けて、東北道にはいったころにはもう日が傾いていた。
9月25日から9月28日にかけて2年生の歴史学資料演習で山形城三ノ丸調査を行いました。(東側)の紹介でもあったように昔の城郭絵図資料を頼りに当時の三ノ丸にあった城内への入り口である口と土塁、水濠が現在の何処にあったのか、班ごとに実際に歩いて目で確かめ検証していきます。山形城の三ノ丸は全国的にも広く、11つの口があったとされ、またそれぞれの口の近くには稲荷神社が設けてあり、それも調査の対象として巡りました。
現地調査では当時の土塁跡などの遺構も少なからず残っており、それらの寸法の計測を行いました。そうした情報は後々現在の地図におとす上でも非常に参考になるのです。また発見のひとつとして城から西の小田口付近の稲荷神社には当時の小田口を絵に描いたものが奉納されており、その発見で当時の口が桝形虎口であって神社の位置も城内にあるという推定もたてることができました。
それで絵図もよく確認すると他の口の形態は、ほとんどが桝形の口で、入口がコーナーを描きそれに土塁、水濠も曲がった造りになっている事に気が付きました。桝形虎口でも二ノ丸の口と同様に三ノ丸の口も「外桝形虎口」と「内桝形虎口」の両方の造りがあり、そういった観点にも今回の調査では視野に入れ考え、それに伴った道のカーブも現在の道から発見することができました。桝形虎口は当時の近世城郭では多くみられる造りであり山形城では、ほとんどの口にそれが採用されています。また外からは城内が見えないことから権威の象徴としての役割も兼ね備えていたとされ、それら広大な三ノ丸に廻っていた立派な防御施設であることが今回の調査で改めて実感し、調査で丸2日かけて三の丸一周したこともあり...たしかに奥羽最大の城と言われる由縁もわかる気がしました。
朝6:30大学を出発。学生たちと房州石の里ー富津市金谷を訪ねた。
5回目を数える「石の町シンポジウム」。昨年、高畠にお招きした金谷ストーンコミュニティの代表の方々が主体となって企画運営している房州石の学術的価値づけを目的としたシンポジウムである。しかし、参加してみると分かるが、決して研究者だけの集まりではない。世代、職業を越えた各層の人々が参加し、県外からも応援団が駆けつける。
金谷の丘陵は江戸後期~明治・大正・戦前にかけて大規模に採掘され、その稜線は景勝地「鋸山(のこぎりやま)」と称されるほど石切りによって人工的な山容に姿を変えた。その規模は伊豆青石とともに全国一の規模を誇る。
房総の海をながめながらお昼の弁当を食べる。背景にみえるのは鋸山の山並み。
現在は国定公園となり首都圏から多くのハイカーでにぎわう。関東大震災の復興期には町の80%が石材業に従事したといわれる。しかし、もう石は産出していない。往時の石工たちはだれがこのにぎわいを予想できただろうか。
山中に眠るあまたの石切り場跡・石引道(車力道)、町なかの屋敷まわりを囲む石塀は「石の町」の記憶を呼び起こす。車の入らない路地が起伏のある地形に沿って複雑に入り組む町並み。どんな景色に出会えるか、ふと誰かに出会うかもしれないドキドキ感。不思議な魅力的をもった町だと思う。
金谷で生きることは、先人たちの暮らした土地の記憶を学び、その遺産の上に豊かな未来を展望することだ。そんな想いを共有する人々が集まるのが「石の町シンポジウム」。そして、想いに賛同する研究者が各地から集まってくる。人の交流がまた人を呼び寄せる。
「恋人の聖地」のモニュメントのある海辺のレストランで、石の好きな人が集まった夕食会がひらかれた。チーム「高畠まちあるき」の学生たちも一人ひとりが石の専門家である。「石蔵」「サイロ」「なつかわ(石船)」「石塀」「入川樋」「石祠」「石のある風景のスケッチ」堂々と自分をそう名乗ることができる。
学生たちには過分のおもてなしを受けた。握り寿司を食いきれなかったのが心残り。
ありがたいことだ・・・・・また来よう!
恒例の天羽高校吹奏楽部と合唱部によるミニコンサート、アニメソングからポップス・演歌メドレー。座っていられなくて手拍子を叩きまくった。金谷最後の石切り職人鈴木士朗氏と聞き書き甲子園の高校1年生。世代を越えて職人の魂を引き継いでいく。
防波堤のうえでお弁当食べる学生たちのとなりに親子3人。真ん中で控えめなお父さんととびっきりの笑顔をみせる母娘。同僚がカメラにおさめてあげた。房総の海を背景に素敵な家族の絵だった。
鋸山からは高層ビルが林立する首都ー東京、三浦半島、伊豆半島、箱根、富士山が一望できる。かつて、ここで石を切っていた職人たちは高みから変貌する社会をどのようにみていたのだろうか。
歴史資料演習で、山形城三の丸の調査を行い、三の丸土塁、堀の全体像を推定し現在の地図におとすという作業を行いました。三班に分かれ土塁跡や出入り口跡などを歩きながら調査しました。
私たちの班は小橋口から調査を始めたのですが、当時の面影はなく、道路や建物になっていました。次のかすがい口も広い道路になっており面影はありませんでした。その次の七日町口は済生館になっていました。時の流れというものを感じました・・・。横町口の近くには、近くの県営アパートの敷地に三の丸土塁の跡が残っていました。十日町口近くの歌懸稲荷神社の裏には史跡三の丸土塁跡があり、都会の真ん中に大昔の土塁が残っているという不思議な光景が広がっていました。
吹張口の近くに土塁跡があり、その付近だけ一段高くなって住宅地になっていました。
稲荷口近くの双葉公園は土塁と堀の形状を生かした公園として整備されていました。昔の面影が何もないところもあれば昔の跡がそのまま残っているところもあるんだなと感じました。
9月3日の13:00から大学内で東北文化研究センターと歴史遺産学科、霞城学園高等学校と協力し、
「鉄道と山形と私たちのくらし」という講座を開催しました。
一般の方6名、霞城学園の学生が9名に加えて歴史遺産学科から6名参加しました。
「鉄道の目的と役割」「地方鉄道の将来」という2つのテーマに関して講義をした後にそれぞれ意見交換を行いました。
講義の前には山形県立博物館の方から鉄道関係の貴重な資料を協力していただき本当にありがとうございました。
意見交換は社会人、芸工大生、高校生の間でさまざまな意見が交換できました。
「鉄道の目的と役割」では鉄道はただの移動手段にとどまらず、山形のPR の役割を備えているという意見や、鉄道のスピードアップに関しては移動速度を速めるために速度を上げるべきという意見や、景観を楽しむために今の速度のままで良いという意見が出たりしました。
「地方鉄道の将来」では鉄道の復旧・廃止の議論では鉄道は地方にとっては移動手段や都市との交流における最後の砦としての役割を持っているため、廃止してはいけないという意見が出ました。
今回の講座は、世代に関係なくいろいろな意見交換ができたと思います 。
参加した方々や資料を協力してくださった山形県立博物館の方々などありがとうございました。
今日でゼミ旅行も5日目、最終日です。
最初は4泊5日とか長いなあと思っていましたが、行ってみたらあっという間に過ぎました。
天気は曇りであまり良い天気ではありませんでした。
最終日はホテルを出て、どこにも寄らずに熊本空港にまっすぐ向かいました。
熊本空港に着いてからは、時間が余っていたのでそれぞれお土産を買ったりして過ごしました。
熊本空港から仙台空港に行くには伊丹空港を経由しなければいけないので伊丹空港に寄りました。
仙台空港行の便までは時間があったので伊丹空港でそれぞれ昼食をとりました。
仙台空港について解散。
それぞれバスや電車などで帰りました。
ゼミ旅行中は台風が近づいていたにもかかわらず九州についたのが台風が通過した直後だったようで天気がものすごく良くラッキーだったと思います。
旅行中にあったガイドさんやお店の人からも「運がいいね」と言われました。
長いようで短かったゼミ旅行ですが有意義に過ごすことができたと思います。
ゼミ旅行中お世話になったガイドさんや地元の方々、本当にありがとうございました。
9月7日、文献史学の佐藤ゼミ・竹原ゼミによるゼミ旅行4日目は熊本県熊本市内の研修でした。前日の天気予報は雨でしたが問題なく晴れでした。
はじめの見学場所は熊本城でした。建ち並ぶ黒い天守閣、櫓、塀などの建造物に武者返しを備える広大な石垣、その曲線美、さすが日本三名城のひとつと呼ばれるだけあり圧巻でした。かっこいい!!
天気予報とは裏腹に本日も日差しが強い…。でもガイドさんによると熊本では涼しいほうらしかったです。
大天守閣や小天守閣、各城門などは復元した建造物であるが、宇土櫓は約400年前の築城当時から現存している貴重な国指定重要文化財でありながら中に入って見学することができ、当時のままの床板や柱を間近に感じることができて感動でした。
2時間以上にわたりほぼノンストップで案内してくださったガイドさん本当にありがとうございました。
次に訪れたのが旧細川刑部邸です。
熊本藩54万石細川家の一門として代々家老を務めた上級武家屋敷とのことで、玄関の造りや絵の施された板戸など拡張の高さをうかがえる邸宅でした。
庭園はモミジなどの紅葉樹木が多くあったので秋に来るとさらに綺麗だろうなと感じました。
朝いちで福岡城上之橋御門の石垣修復現場をみせてもらった。堀縁につくられた枡形門の石垣。
水堀なのでさぞ地盤が悪いとおもいきや、岩盤の上に築かれていた。根石から2段が玄武岩や礫岩の自然石で、上部を花崗岩の割り石で積むという使い分けがなされていた。解体に伴い、背面栗石内部から大きな石を用いた石列が多数見つかって話題になった。石垣の背面構造にはまだまだ知らない技が隠されている。問題意識を持ってしっかり調査しないといけない。
午後から大分県の杵築城の藩主御殿の調査を見せてもらった。こちらも豊臣期の石垣、細川の城代、松井家時代の馬場の遺構(地下施設)が見つかったと話題になった遺跡だ。海浜に面した城で地盤が弱いため、建物の礎石の下には一石ずつ、長さ1m以上、太い松杭が5本ずつ打たれていた。クロマツではなく、アカマツを使っているところが面白い。北側には慶長期の石垣が良好に残っていた。杵築といえば、2年前のゼミ旅行で訪ねた城下町が印象深い。早朝の朝もやの中、勘定場の坂の上であった中学生の「おはようございます」の挨拶で、この街がいっぺんに好きになった。日本一着物が似合う町、サンドウィッチ型城下町?いろんな形容があり、観光地化しているが、それでも生活感ある街並みが好きだ。歴史館のホールにあるジオラマは一見の価値がある。往来を行き来する人、広場に集まる人がいる。金額を聞いて2度びっくり!いまではむりだろう。
暗くなってから中津城を見学した。こちらも2年前の最終日、福岡空港に向かう途中、城か唐揚げかで大いに迷ったあげく、断念した城だ。福岡城の黒田家が九州に来て最初に入った城。NHK大河ドラマが黒田官兵衛に決まって町は盛り上がっている。7世紀に作られた神護石を壊して石材を調達し、築いた城だ。石材が規格的で、後から附け足された細川時代の石垣より新しく見えてしまうのが不思議だ。
やっぱり、九州はいい。
みなさん、こんにちは。
今日は文献史学(佐藤・竹原両ゼミ合同)のゼミ旅行3日目の様子をお伝えしたいと思います。
この日の予定は、長崎市から熊本市への移動を兼ねて島原市を訪れ、島原城とその城下町の見学を行いました。
島原へは、JR長崎駅から電車に乗り・・・
諫早駅で下車して島原鉄道の黄色い汽車に乗換え・・・
長崎市のホテルを出発したのは8時30分ごろでしたが、島原駅に到着した時にはすでにお昼近くになっていました。
昼食は、島原の郷土料理「具雑煮」をいただきました。この料理は、島原の乱の際に原城に立て籠もった一揆軍が食していた雑煮が起源と伝えられています。とても美味しかったです。
島原城は松倉豊後守重政によって元和4(1618)年から築城が開始され、4年~8年の歳月をかけて築かれました。5層の天守閣を持ち大小の櫓が各所に配置された構造となっています。明治維新後、堀と石垣を残して櫓等はすべて解体されてしまいました。現在建っている天守閣などは戦後になってから復元されたものです。天守内は史料館となっており、「宗門人別帳」や「踏み絵」といったキリシタン関係の史料が数多く展示されています。
武家屋敷通り…
城下町には武家屋敷の外に、近代のレトロな建築も残されています。
赤いレンガで造られた壁のようなものは「うだつ」とよばれ、火事の際に延焼を防ぐ役割があるという事でした。このうだつは登録有形文化財に指定されています。
島原は湧水が豊富な土地であるためか、町ではよく「水神さま」を見かけます。
島原の町は小さな町ではありましたが、雰囲気としては、島原と同じく城下町である宮城県の白石や、山形県の上山に似ていると思いました。
島原の見学を終えた一行は、明日の行動予定地の熊本へと向かいました。
次回は熊本見学の様子をお伝えします。