歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-09-22

日田の皿山-小鹿田

小鹿田(おんた)焼は国の重要無形文化財。機械化せず、朝鮮系の蹴轆轤の技術を一子相伝で伝えてきた。

昔は授業でよく紹介していたが、実は来たことが無かった。念願かなって今日訪ねることができた

皿山は上流の池ノ鶴とあわせ重要文化的景観にも選定されている。水路を各家庭に引き込み、水車で土を粉砕する音が、谷間の集落にこだまする。ロクロは一家に2台(親子)、水車は3基。あるお宅をみると水車が1基しかない。不思議に思って聞くと、跡継ぎの息子さんを亡くされたとのこと。お皿を買いながら少しばかり小鹿田焼の話をうかがった。

 

今日は地区運動会の日。夕方から皿山あげての宴会が陶芸館の2階で行われていた。あのビデオで見た光景がいまも続いているようで、うれしくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

皿山へのぼる途中の集落ではこれから稲刈り。秋晴れの空に黄色く垂れた稲穂とヒガンバナが映えていた。ふとみると、山里の神社に石鳥居が3基。思わず車を止めた。

 

鳥居を見てびっくり!扁額と額束が一石でできている。笠木・島木は2つの部材からなり額束の部分で連結している。いくつかみた神社の石鳥居はみなこのタイプだった。所変われば品変わる・・・・・

 

山を降りてから、日田にもどり、咸宜園と豆田町の重要伝統的建造物群保存地区の町を歩いた。秋ということでクリとブドウの大福を買ってみた。

 

2013-09-20

前庭部の埋戻しはじまる。

戸塚山175号墳

長かった調査もようやく終わろうとしている。

今日からキャリアダンプで現場に山砂を搬入して、前庭部の埋戻しが始まった。

追われるように最後のダメ押し調査を実施。補足の実測図を作成した。

残るは羨道の実測のみ。さあ・・・・埋めなれないように

2013-09-20

修羅と石風呂

高畠まちあるきで、またまた発見!

 

神社拝殿の床下にかつて活躍した修羅があった。大小2くさりあった。石引き用の修羅がいまでも残っているのはめずらしい。

 

 

そして、近くのお寺には保存状態のよい石風呂が。ご住職さんは、子供の頃に入った経験があるという。

大人が入ると身動きするのも一苦労。石で背中が擦れて気持ちがいいという意見も?

実体験としてモデルが入った写真をお見せできないのが残念である・・・・

 

 

 

江戸期の豊富な古文書とたくさんの聞き書きによって、大笹生の村の成り立ちや変遷、石切りの様子が蘇ってきた。

 

 

2013-09-20

文献史学ゼミ旅行二日目ー!!

更新忘れてました、すみませんm(__)m

二日目最初は「軍艦島」

フェリーに乗って、大海原へ向かいます!!!

大海原ってほどでもなかったのかもしれないけど…

フェリーって、走ってるときはいいんですが、停泊してる時の揺れがちょっと気持ち悪い

若干酔いました

 

長崎港を出たら、三菱の造船所を発見!!

うおおおおかっこいい!!

イージス艦もかっこいい!!かっこいいぞ!!

テンションが上がる

そんなこんなで船旅を楽しみながら、まず向かったのは「高島」

軍艦島と同じように、炭鉱の島ですね

高島には資料館があって、そこを見学しました

炭鉱の男たちが使った道具たちですね

 

作業員たちは、このような装備で炭鉱で働いていたんですね…

炭鉱は、海の下に延びているのだとか

島から地下に降り、そこから横穴へと入っていたそうです

これは、軍艦島も同じです

高島を出港し、次に向かったのは「軍艦島」

全体的に灰色っぽいですね

これは、軍艦と間違われてもおかしくない

この島は、廃墟をそのまま風化させているので、所々が崩れてしまってます

これは、軍艦島の校舎です

中はどうなっているのだろう…

 

この島の炭鉱が稼働している時代、人口密度は東京を超えていたとか。

こんなに狭い島なのに、東京以上の「人口密度」!!

…人口は越えてませんよ。越えていたら、ちょっと怖いです

真っ黒になった階段

炭鉱労働者が上り下りした階段ですからね

しかし、こんなに年数がたっても真っ黒だとは

あと、この階段、いつ落ちてもおかしくないようなのに、何故か落ちないんだそうです

なんでも、「炭鉱労働者達の執念」が詰まっているのだとか

 

坑道まで行くには、かなり深くまで降りるわけですが

今みたいなエレベーターではなく、籠みたいなのに乗って一気に降りたのだとか

気絶しますよね…

降りたら降りたで、坑道内は気温40度、湿度90%…

灼熱です…

実際、坑道に降りてから戻ってこなかった人も少なくなかったのだとか…

 

 

今回は、波も高くなく、天気も良かったために上陸できました

なんでも、上陸できない日のほうが多いらしいですよ

上陸した際に係員さんが「おめでとうございます」っていってたのは、こういうことだったのか…

と、あとで気が付く

 

 

 

次は出島!

出島と言えば、海に出っ張ってるイメージなんですが…

思いっきり陸続きになっていました

埋め立てとかがあったらしいです

出島が出ていないとは…なんてことだ…

分かってはいたんですけどね。

出島内で食事を済ませた後は、出島を見て歩きました

二階がカピタン部屋

畳にソファ…

圧倒的違和感…

 

そしてラストは孔子廟

中国には詳しくないけれど、なんかいかにも皇帝が住んでそうな入口だと思います…

住んではいないんですけどね

孔子の残した言葉「温故知新」とかの文章もあったりして、思っていたより楽しめました

ただ、孔子廟で一番インパクトがあったのは、お土産屋で売ってた偽キャラクターのキーホルダ―…

あれってアウトでは…??(笑)

 

 

 

2013-09-17

本物のナツカワ

ここは高畠町大笹生。

高畠石の石切りが最初に始まった聖地だ。ここの石は硬質で風化しにくい。質がよいのである。

いよいよ、このまちを歩く時が来た。

K氏宅にある古文書には、天保年間にはすでに12か所の石切り場の存在が記録されていた。

 

今日の発見はいろいろあったが、巨大な「なつかわ」が目白押しだったこと。

写真は最大のもので全長5mある。側面には柾石と呼ばれる石目が浮き出している。

宝船に見立て、舳先側が蔵に向くように置くのが本式だという。確かにそのように置かれている家が多い。石の産地に根付いた庭園文化。いまでも浮嶋や松をたて金魚を泳がせる家もある。

冬場は水を抜き、保温措置をして凍み割れを防ぐ。

 

 

2013-09-15

石鳥居をあるく 第2弾

第17回まちあるき、3年目にして初めて雨だった。

 

今日は石鳥居の2回目-高畠町南部の和田地区を歩いた。山間部、山麓部にたくさんの石鳥居が眠っていた。4班に分かれ、今日だけで40か所あまりの石鳥居をまわった。皇太神宮などを除くと、明神系鳥居が圧倒的に多い。

 

山の神、雷神(水神)、稲荷、火伏せの神、毘沙門天、千手観音など、さまざまな神仏を祀る。

村の鎮守だけでなく、個人宅や一族で祀る小規模なものも少なくない。住民たちが、人知のしれない自然を恐れ、感謝しながらその懐で真摯に生きてきたあかしである。

 

高畠の石鳥居は江戸中期~幕末に盛んに建てられ、その後、何度も修理しながら現在にいたっている。

ここは豪雪地帯である。また、凝灰岩にとってもっとも怖い凍結融解が頻繁に起こる地域である。そのせいで鳥居は倒れたり、部材が折れたりしやすい。折れたものはたいがい神社の片隅にひっそりと眠っている。

 

実際にまわってみて、倒壊したものや傷ついたものの多さが印象に残った。去年、雪で落ちた笠木・島木を上げたばかりなのにまた落ちた鳥居もあった。新潟地震で倒れ、木製に変えたものもあった。個人で祀っているため経費のせいで倒れたままにしてある鳥居もあった。大きなカシワの木の根元に石碑だけおいて祀っている神もある。一方で山の神講や古峰ケ原講が生きている地区もある。

 

一部で、石鳥居の所在が「におい」でわかるようになってきたとの声。それは地形や植生、集落構成を読むことだ。ちょっとは住民の目線に立てるようになったのかもしれない。

 

石鳥居を記録することは、高畠石の歴史をたどる作業であると同時に、この地に暮らしてきた人々の信仰のありようとその変化から、地域社会の現状と将来を考えることでもある。

 

 

 

 

2013-09-13

高畠石-石切、石工の声を聞く

12、13日の二日間、4人の方々から集中的に石切りの話をうかがった。

これまでは「まちあるき」のなかのヒアリングであったが、今回はお宅に上がらせていただき、それぞれのライフヒストリーに耳を傾けた。学生たちには、分かりづらい話は図解、実演し、時には山に出向いて往時の話をしてくれた。若かりし頃の写真もみながら。

 

石切りの皆さんは大正13年、昭和9年、10年生まれともう80歳、90歳のご高齢だ。それぞれ人生を振り返りながら、遷ろう社会のなかで石切りの仕事とどう向き合ってきたか。

貧しさや米を食べるために、暑い夏も、雪の冬も石を切った。ひたむきで一途な生き方は美化されがちだが、人生の節目節目で迷いや逃避もあった。そこで何を考えどう行動してきたか。

 

語り終えたとき、学生たちに向けられた眼差しと笑顔が忘れられない。

若者に託そうとした職人たちの思いを感じただろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユニックやレッカーを使わない時代、6人と棒一本(一本坊主という)で笠木をつりあげ石鳥居を施工した話。実に興味深かった。

いつか実演できないか。小屋にはひっそり三つ叉の竿木が残っていた。まだ現役だ。

2013-09-11

新発見!

発掘調査はだいたい終盤に大きなドラマが待っている。もちろん、そんなことはないに越したことはない。

 

前庭部からピット列が検出された。柱列の可能性が高い。1つは最初からみえていたが、精査したら3個になった。古墳の入り口に敷き石を囲むように木造のなんらかの施設が廻っていたようだ。

 

この古墳は円墳ということになっている。昨日の調査委員会でも指摘されたが、実は墳裾の石積みは多角形になっている。墳丘は東西が長く、南北は短い。遺跡は想像力(可能性)をもって調査に望まないと見落としてしまう遺構が多い(ほんとは見つけられる遺構の方が少ないのだろう)。

 

終末期古墳にはこのような形態は少なくないようだ。「円墳」という思い込み…は恐ろしい。

 

 

いよいよ埋め戻しが始まった。土嚢を開くといろんなものがでてくる。ヘビも。

2013-09-11

ラジヘリによる空中写真撮影

発掘現場では遺跡の写真測量図化や俯瞰写真撮影のため、ラジコンヘリや実機(ヘリ・セスナ)を使う。

 

今日、戸塚山でも175号墳でラジヘリによる写真撮影を行った。

実は発掘はまだ終わっていないのである。昨日、今日と現場に通っている。

 

昔は、現場にヘリを下ろすのが比較的簡単だったため、発掘のたびにヘリにのせてもらって空中散歩を楽しんだ。法改正か何かで厳しくなってからはヘリポートまで行って乗るようになった。

ヘリに大型カメラを積んで測量するのが一般化するまではセスナで空中写真を撮っていた。地上200mぐらいまで急降下し(失速ブザーが鳴る(>_<))、機体を真横にして、小さな窓から真下の遺跡の写真を撮った。キーを回し、エンジンを止めて急降下するパイロットもいて(一般的とは思いたくない)スリル満点だった。

 

図化測量は実機から、地上で操作するバルーンやリフトなど現場の環境に応じた多様な撮影機材が開発された。そして俯瞰写真が合わせてとれ、小回りが利くラジヘリが普及した。近年は地上の3Dレーザー計測が普及し、航空レーザーも遺跡測量に導入され始めている。測量成果をどう表現するか、機能性とコストのバランスによって今後も計測機器・搭載機械は変化していくだろう。

測量は機器の操作や表現力だけでない。一番大切なことは遺構と対話する力(問いかけ、読み取る力)であることを忘れないでほしい。

 

2013-09-09

文献史学ゼミ ゼミ旅行一日目

9月4日、文献史学分野の佐藤・竹原両ゼミで長崎・熊本への4泊5日の研修旅行に行きました。
今日は最初の一日目。
台風17号が鹿児島へ上陸したとの情報もあり長崎への天候を心配する声もありましたが、いざ着いてみる晴れていたので旅行日和だったと思います。

まず、訪れたのはグラバー園です。 ガイドさんからの話は事前に調べた情報だけでは分からない詳しい情報を知ることが出来ました。

 

 

 

次に大浦天主堂に向かいました。

現在、この場所を含め「長崎の教会群とキリスト教関連施設」として世界遺産登録を目指していることで話題になっています。

そのような場所に今、この時期に訪れたことは貴重な経験でした。 ステンドグラスや絵画、聖母マリア像など彫刻の完成度ともに神聖さを感じました。

 


夕食はトルコライス!! 訪れたお店は著名人も訪れる有名店!! たくさんサインありました。 一度食べたら完食するまで手が止まりませんでした。

 

最後に一日目の締めくくりとして稲佐山展望台に訪れました。 モナコ、香港と並び、「新世界三大夜景」の一つとして挙げられるとの事です。 感想としましては、「1000万ドルの夜景」と称される理由を体感出来ると思います。 長崎の坂の土地を活かした夜景は実際目で見る事によってその価値が分かると思います。
明日はどのような新しい発見があるのか楽しみです。

 

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