芦野石は白河石(福島県白河市)と同じ溶結凝灰岩。緻密で安山岩のような質感がある。2001世界石建築大賞を受賞したというストーンプラザを訪ねた。建築家隈研吾氏の設計による石の美術館である。歴史や技術も学べるが、石という素材の可能性を追求するアートな空間となっている。
見学の後は、まちなかと石切り場を歩いた。やはり多くのお宅に石の祠がある。何軒かのお宅や歴史探訪館の館長さんに聞いてみる。温泉神社との関連を示唆するも、信仰の詳細はよくわからなかった。路傍には石碑、石仏が散在するが、石の町を主張する気配は感じられない。街道筋の住宅には門前に旅籠名を入れた石柱が設置されており、宿場町の記憶を伝えようとしている。整備はこれかららしい。
私たちが調査している高畠と同じように、農村部に石が集積する町として著名な徳次郎にやってきた。といっても規模がまるで違う。その量に圧倒されながら、徳次郎6カ村の西根、田中、門前などを訪ねて歩いた。
地元の徳次郎石は緑色がかっていて、ミソと呼ばれる「ス」が少ない。したがって細工物や貼り石に用いられた。西根の集落ではメインストリートに面して蔵や石塀が林立するので石が目立つ。各家庭には石蔵が1~4棟あり、石瓦の屋根も少なくない。家財をいれておくだけでなく、アーチ形の入口をもつ「アマヤ」は農作業場や、農機具置き場として利用されている。かつては芋なども貯蔵した。石蔵といっても大谷の延石(五十石)を縦積みした構造体をなすものと、木骨の外壁に徳次郎石の薄板を貼り付けたものがある。後者が古いらしい。
石蔵は、巷間いわれるように火災から財産を守る(西根集落では110年間火災がないそうだ)だけでなく、上層農家の富貴の象徴として建てられた。蔵の窓や庇の装飾がとにかく派手である。垂木や斗供表現、唐草・雲形文、七福神のレリーフ・・・。また、ギリシャ神殿建築の円柱表現がやけに目につく。和洋テイストがごちゃまぜの感。もはや過剰デザインの域に達している。
作る側、使う側の、その時々の信仰やあこがれ意識がこのような多様性を生んできたと思われる。高畠には見られない世界がここにはある。
古い住宅の母屋は木造で基礎は延石ではなく、玉石を使う。高畠では明治以降は6尺の延べ石を使う。母屋が石積みの家が1軒だけ残っていた。蔵外壁の石材配置パターンもさまざまだ。近年建てた住宅で外壁にすべて大谷石を使っている家もある。建築基準法と折合いながら石の景観を大切にしている。
西根集落は、平成23年2月に認定公表された「とちぎのふるさと田園風景百選」に選ばれ、バス見学ツアーの団体もくるそうだ。
道路を歩いていると、車で通りかかったおばさんがわざわざ降りてきて、見どころを説明してくださった。外部からの注目を集めることで、住民に石の里の景観を守って行こうという意識があるようだ。現在はNPO法人大谷石研究会(景観整備機構)と宇都宮大学が調査に入っている。成果が公表される日を待ちたい。
そんななか、東日本大震災はこの町にも被害を及ぼした。石蔵や石塀は地震に弱い。大棟や屋根の石瓦、石壁が落ちたままの家がある。棟石が崩れて屋根をトタンに替えた家もあった。一番大きな被害のあった石蔵は壁が落ちたまま手がつけられず放置されていた。
各世帯には裏庭(山)に氏神様を祭る石鳥居と石祠がある。祠は1~3つで、ほかに稲荷神などを祀っている。聞いてみると祭日やお供えは各家庭で異なっていて、あるお宅では10月10日に尾頭付き(サンマなど)と赤飯、お神酒を供えて、注連縄と幣を新しくするという。あるお宅では正月だった。井戸神や水神の祠もあった。高畠の屋敷明神と比べると、こちらは立派な構えであるが、家と豊作、豊かな水を願う心は同じである。
その他土留め、石垣、水路の護岸、置石等、踏み石、橋、洗い場、集石など多様な使い道は高畠にも通じる。それでは高畠の特徴ななんだろうか?
酪農と結びついたサイロ、庭文化として根付いたナツカワや自然石の多用、住宅基礎への延べ石の積極的利用とその転用としての境界石や土留め石、野積みの石塀、間知石や端材利用、各種生活道具(珍品が実に多い)が思いつく。昭和35年頃から機械掘りが普及した大谷石にはチェンソーの石目がつく。高畠で最後まで手掘りだったため、表面感が野趣に富み軟らかい。
石の里の魅力はその「量」や「派手さ」ではない。高畠石の生産は大谷から見れば小さい。しかし、ここには独自の採掘技術があり、徳次郎とは違う生業、社会があった。ふんだんに石があって価格も安い大谷とは石材に対する価値観も異なる。高畠の石使いには手仕事のぬくもりと資源を持続的に使い続けるという、味わい深い魅力があることを改めて感じる旅であった。
6月の末に学生たちと石の町-大谷(宇都宮市)と芦野(那須町)を訪ねた。
大谷資料館
大谷は東日本屈指の石材(凝灰岩)産地。房州石や伊豆青石とともに首都圏の近代化を支えた。
大谷資料館は震災後、岩盤崩落の心配から閉鎖されていたが、この4月に再開された。石材採掘技術を学ぶ展示室と地下の垣根掘り丁場が公開されている。震災前より見学者が増えているように感じていたら、学生曰く、最近話題のアニメ「進撃の巨人」のエンディングテーマ「美しき残酷な世界」のミュージックビデオがここで撮影され、若者にも知名度があがったそうだ。親切で勉強熱心な2人のボランティアガイドが付きっ切りで説明してくれた。というより、こちらが質問攻めにして離さなかったというのが正確だった。
切り出す石の標準サイズは「五十石(ごっといし)」といって、5寸×10寸(=1尺)×3尺、すなわち長さが90cm、断面が15cm×30cmである。30㎝四方の石を切り出して、これを二つ割にする。1本1本背負子で担いで貯石場まで運び出す。この規格的な五十石で建物や石塀が造られている。
房州石など、各地の石材はいずれも3尺が標準である。高畠がなぜ6尺の「一二八(いちにいはち)」という大きな石を現代まで標準としたのか。往時は手掘りで1日10本、1本切り出すのに4,000回ツルを打ったという。高畠石は80歳のG氏が引退間際で6尺×1尺2寸×8寸、1本を切るのに4,200回余り(若いころはもっと少なく、切り出しは1日1~2本程度といわれる)。大谷の五十石で4,000回はちょっと大げさだろう。資料館周辺には露天掘り丁場跡がいくつもある。石切り場はどこも埃っぽくて、殺風景だけれども職人のにおいがして好きだ。
それから大谷の町を少し歩いた。そこかしこに石造りの建物があって「石の町」独特の雰囲気がある。しかし石材産業は斜陽の趣があって、廃墟感が漂う。さすがの大谷も例外ではない。
さらに、市街地にある教会建築を二つ見学した。松ヶ峰教会は1932年竣工、戦争で罹災後、1948年に復興した。登録文化財として活用しながら保存されている。親切な神父さんが中を案内してくれた。エレベーター付設の際に取り付けられた屋根の雨水排水口に「蛙」の石造物が使われている。どうみても「カメレオン」にみえるが、神父さんはゴム靴を履いた「カエル」だと言い張った。建築当時の司祭が宮沢賢治と深い親交があり、童話「蛙のゴム靴」に登場するカエルにちなんで作ったのだという。
帰り際にお礼を言って出ようとすると「また来てください!」というので、「今日は下見、今度は結婚式で・・・」というと微笑んで見送ってくれた。
夜はお決まりのギョーザ。閉店間際に並んで食べる。食うと決めたら食う!
そういえば行きの安達太良SAから食欲旺盛。お昼もおいしいラーメンも30分並んで食べた。欲があってなかなかよろしい。
7月2日火曜歴史遺産文献購読1で佐藤ゼミの3年生は山形県寒河江市の慈恩寺に行きました。
4月28日~7月15日まで公開されている慈恩寺秘仏展を見るためです。
今回公開されている秘仏は非公開の木造阿弥陀如来坐像(国指定重要文化財)、木造大日如来坐像(県指定有形文化財)と秘仏の木造勢至菩薩立像(市指定有形文化財)、木造観音菩薩立像(市指定有形文化財)の計4点です。
秘仏が公開されている場所は三重塔内部に木造大日如来坐像が、残り3体の像が本堂に於いて公開されていました。
まず本堂に行くと、一般公開されている弥勒菩薩を始めとした仏像の説明を受けた後に3体の秘仏が置かれる部屋に向かいました。
感想としましては、その部屋に置かれる秘仏はどれも圧倒されるものばかりでした。
どの仏像も細かなところまで掘られており、その施された細工は美しいものばかりでした。
そのために一部欠損箇所があったのが悔やまれます。
しかし、それを差し引いても秘仏たちが並ぶ姿は部屋の独特の静けさもあり、神秘的な光景でした。
写真撮影厳禁でしたので秘仏や置かれている部屋の雰囲気をお伝えできないのが残念です。
三重塔に向かうと内部の中心に木造大日如来坐像が置かれていました。何でも、中心に像を置くように作られたとか。塔は心柱でバランスをとるような仕組みになっていますが、中心に像を置くために心柱はニ階までとなっていました。
本当に山形のお寺の中でも大きなお寺だったと感じました。多くの仏像と歴史の重みからもそのことを感じさせられました。本当に今回行けたことは貴重な体験だったと思います。
6月21日に石碑チュートリアルに行ってきました。
今回は14時集合ではじめました。人数はいつもより少なめでした。
今回も、先輩たちが以前に調査した石行寺岩波観音堂の石碑を確認しに行きました。
前回の残りの分です。
今回も石碑の確認が順調にいくと思ってましたが…
この石碑遠くから見るとよくわかりませんが一面に文字がびっしりと書かれてます。
全て書き写さなければいけないということだったので頑張りました。
残念ながら時間になってしまい次回への持越しとなってしまいましたが、半分位は終わりました。
この他にも 入口の鳥居付近でサイズは小さめですが、文字がびっしりと書かれた石碑がありました。
こちらは先生の協力のおかげで時間内に書き写すことができました。
写真で持ってるのは懐中電灯です。石碑に書かれた文字を読みやすくしてくれます。
石行寺を上に進むと古い建物がありました。
こちらはまだ調査中ということだったので、これから調べていくかもしれません。
どんなことがわかるか楽しみです。
山王窟を見たあと、バスで移動し、いよいよ骨寺荘園内の散策に出発です!!
ガイドの金野さんの後に続き村の西に位置する駒形根(こまがたね)神社から骨寺の稲作には欠かすことのできない重要な川「本寺川」沿いに東へ移動していきました。この日は天気も良く気温もかなり高かったため、みんな熱中症に気を付けながら、金野さんの説明を聞いていました。
これが、骨寺が国の重要文化的景観に選ばれている理由になっている水田。少し見えづらいが後ろの水田と比べると大きさが明らかに違うのが分かる。
どの屋敷も屋敷の北側、若しくは西側に「エグネ」と呼ばれる防風林が冬の冷たい風から屋敷を守るために植えられている。
このような風景を見ながら荘園内を散策していきました。そして、最後に向かったのは村の西の端に位置する慈恵塚(じえづか)、慈恵大師拝殿でした。私有地のため、普段は立ち入ることはできないのですが、今回はガイドさんが同行してくれたため特別に入ることができました。ところで、なぜ本寺地区が骨寺と呼ばれていたか気になりませんか?実は本寺地区には「ドクロ伝説」と呼ばれるものが残っており、それが骨寺の由来となったという説があるのです。今回は慈恵塚に登ったところで、その「ドクロ伝説」の話をガイドの金野さんから聞くことができました。方言で語られる話にみんな耳をかたむけていました。
その後下山して慈恵大師拝殿へいきました。ここは慈恵大師を祀っている神社で、冬に行われる骨寺村荘園米納めでは安全祈願のために使われています。
本当ならこの後不動窟(ふどうのいわや)に行く予定でしたが時間の関係上なくなってしまいました。最後にお世話になったガイドの金野さんにお礼を言って今回の調査は終了でした!!
あんなにすごい田園風景を見る機会は中々ないので今回は貴重な体験になったと思います!!!
一関博物館を見学したあと、博物館の隣にある道の駅厳美渓で昼食を済ませ、次に向かったのは骨寺村荘園交流館【若神子亭】でした。ここでは、骨寺の魅力を紹介するムービーや模型などがとても分かりやすく展示してあり、初めて骨寺を訪れた人にも親しみをもってもらえるような工夫がしてありました。その後、ガイドの金野さんとここで合流し、まずは骨寺から少し離れたところにある山王窟(さんのうのいわや)までバスで移動しました。山王窟はかなり高い場所にあり、骨寺においては重要な役割を果たしていたようです。ちなみに昔は登ることができたらしいですが、現在は私有地及び登るのに危険な悪路を通らなければならないため立ち入り禁止になっています。
次は骨寺地区を自分たちの足を使って散策してきた様子をお伝えします。
更新遅れました。6月2日の日曜日、2年生は歴史学応用演習1の授業の一環で「骨寺村」(現・岩手県一関市厳美町本寺地区)に行ってきました。骨寺は中世の田園風景が現存しているなどの理由から国の重要文化的景観に選定されています。今回は実際にここを歩いてきました。
最初は一関市博物館に行き、博物館2階にて骨寺村の歴史や骨寺村絵図、平泉と骨寺村の関係を学芸員の磯部さんに説明していただきました。また、企画展「お姫様のお国入り」が行われており、男性中心だったとされる近世において、女性同士のやりとりやつながりがあったことも丁寧に説明していただきました。一方、博物館1階には骨寺を紹介するパネルが展示されており、絵図の完成を目指すパズルも置いてありました。これなら小さいお子さんにも楽しんでもらえるのでは?と、ふと思いました。
前日までの雨はどこへやら。まちあるき晴れのジンクスは今年も健在。
あたらしく1年生が参加し、各学年と卒業生がそろった。昨年から参加している2年生は班リーダーに昇格し、自ら質問し、聞き取りシートも記入するようになった。
夏の暑い日も、冬の木枯らしの日も、ただひたすら石の写真を撮り、寸法を測るという単調な作業の繰り返し、先輩のかげで石の話に聞き耳をたてていた去年までと、いまは全く違う世界が見えているのはないか。
ともあれ、今回はフレッシュな顔ぶれがそろったことでチーム全体が明るくなった。不思議なもので、それはお話をしてくれる住民の側にも伝わる。
昨年土地を買って引っ越してきたHさん(昭和33年生)。奥さんの生家はお向かいの隣の家。したがって40年ぐらい前のこの辺りの景色を鮮明に覚えている。「ここに柿の木があって、その根元に屋敷明神があったよ」と。「その藪の向こうに祠があるから、行ってごらん」「むかしは石塀はなくてみんなウコギ垣だったよ」「ほら、まだそこはウコギだよ」
ウコギと言われても学生たちはピンとこない。怪訝そうな顔をしていると、傍に行って新芽を摘んでくれて「てんぷらにして食べな!」 見て、触って、食べて・・・・
お向かいのうちの小屋には昔「お菓子を焼く窯があったよ」。Kさん家を訪ねてみると、裏にはに窯を解体した石材が土留めに使われていた。家人のばあさんに訪ねると、焼きまんじゅうを焼いて滝沢屋に納めていたんだよと。
そこにはアーチ形の石橋があって、冬は坂でソリをしたわ。そこにあった分校は3つの集落の1~2年生が冬の間だけ通ったの。わたしが最後の生徒で翌年からはスクールバスで町に通うようになったと。ひとつひとつ子供時代の記憶をよみがえらせ、懐かしそうに案内してくれた。
山から柴を刈ってきてささげの蔓竿を削っていたSSさん(76歳)。中学2年のとき、沢福等から大きな石をリヤカーで引いてきて、ひとりで「なつ川」を彫った。近所の石切りATさんにツルを借りてほったさ。当時はどこの家にもあったし、買うとお金かかるからね。夏には川で雑魚をとってきた生かしておいたよ。ここには木を植えて魚が隠れられるようにしたんだ、と。4~5年はそうやって使ったよ。
別のSさん家でも魚の隠れ家がある「なつ川」に出会った。魚好きだった爺さんの弟(石工)がほったんだよ。いまでも夏になると毎年、水草と金魚を生けて観賞するよ、と奥さん。
そして奥さんがやってる床屋には最近、石工さんに頼んで作ってもらったという安山岩製の石鉢があった(写真)。中をみると水の中に金魚が「泳いで」いるではないか。さすがなつ川を現役で使っている人らしい・・・涼しげでいいですね、というと。ニヤリ・・・。金魚は偽物だった。だんなもだまされたというから、なかなかの代物である。
「なつ川」が何か、長年の疑問がひとつ解けた。米沢藩時代に始まった藩士の贅沢を慎む箱庭に淵源があることを2年生が調べてきた。なるほど…と思いつつ、やや脚色の匂いもするかな・・・・。いずれにしてもなつ川は近現代に新たな価値が付与され、土地の石工たちが山で彫り、住民たちが憧れて思い思いに使ってきた。庭と石を愛する心が根付き、夏の風物詩として小魚(金魚)を生けるという慣習が細々とではあるが続いている。