ブログ投稿が大変遅くなりました、3年の櫛引です。東北芸術工科大学大学院並びに東北文化研究センターの内藤正敏教授、入間田宣夫教授が定年を迎え、今年度末で退職なされるということで1月26日に最終講義が行われました。会場には在学生、卒業生、大学教員から一般の方まで沢山の聴講者が詰めかけ、立って最終講義を見られる方もいるほどでした。
内藤先生は自身で撮影された美しい写真と共に「出羽三山の宇宙」、入間田先生は岩手県平泉の文化的景観の話も織り交ぜた「最上川の文化的景観~21世紀の地域づくりのために~」とそれぞれ題して講義が進められまた。最後には卒業生からの花束贈呈がありました。会場の割れんばかりの拍手と両先生の笑顔に感動しました。同時にこれが本当に最終講義なのだと実感し、感動と共に寂しさも感じました。
講義終了後には、両先生を囲んでの「交流の広場」が立食形式で催されました。こちらにも卒業生・在学生をはじめ、多くの方が参加され両先生とのお話を楽しみながら食事をしておられました。7階ギャラリーは、適度な騒がしさがもたらす楽しさと両先生への感謝の気持ちで満たされ、素敵な会となりました。
こんにちは、準備室です。
いよいよ来週から2012年年度東北芸術工科大学卒業/修了研究・制作展が始まります。
歴史遺産学科の卒業展示は本館2階210・210講義室にて行っております。
また卒展期間中には卒業論文口頭研究発表会・中間発表会、大学院歴史文化領域修士論文口頭研究発表会を行います。
学部4年生、院生が各専門分野で学んできた成果を発表・展示いたしますので、ぜひご来場ください。
歴史遺産学科卒業展示
■期間 2月13日(水)~17日(日)
■時間 10:00~17:00
■場所 本館2階210・211講義室
■内容 卒業研究に関する展示・学科紹介
*同会場で大学院歴史文化領域の展示も行っています。
2012年度歴史遺産学科卒業論文口頭研究発表会/大学院歴史文化領域修士論文口頭研究発表会
■日時
2月13日(水) 9:00~
2月14日(木) 9:00~
■場所
本館208講義室
■タイムスケジュール
卒業論文口頭研究発表会
2月13日(水)
9:05~ 考古学専攻 長井研究室
山形盆地内における珪質頁岩分布からの距離による石器生産体系の違い―縄文時代後期中葉から後葉にかけて―
山居遺跡にみる珪質頁岩製石錐の用途―使用痕分析と形態から―
縄文時代晩期・東北地方における塗彩土器出土遺跡の地域差
9:50~ 考古学専攻 北野研究室
東北地方北部における縄文時代晩期の注口土器の機能・用途―九年橋遺跡・安堵屋敷遺跡・是川中居遺跡の分析から―
東北地方の切子玉の研究―日本列島東北部の切子玉の特質―
10分休憩
10:30~
天明泥流被災遺跡からみる江戸時代後期のダイドコロ風景
伝世品・消費地遺跡出土品からみる陶磁器徳利の用途について―近世~近代の山形県内の徳利から―
山形県高畠町における石蔵の成立背景―施主と施工者から見る成立の背景―
全国紙と地方紙における、新聞報道の比較と傾向‐青森県青森市三内字丸山の特別史跡三内丸山遺跡を例として‐
10分休憩
11:40~ 文献史学専攻 竹原研究室
仙台藩における乱心者への処遇
江戸時代における酒田火防の実態‐伝統的町役人三十六人衆の活動を中心に‐
18世紀における盛岡藩御用商人・前川善兵衛家の土地所有構造
米沢藩における天保の飢饉の実態
昼食休憩
13:40~
山形県村山地方における行政文書目録の研究
明治期公立小学校における加設科目設置―宮城県を事例に―
明治三陸津波における救護・衛生対策
14:25~ 民俗・人類学専攻 謝研究室
メロン生産にまつわる葛藤―茨城県旭村のメロン農家を事例に―
10分休憩
14:50~ 民俗・人類学専攻 田口研究室
田植踊の門付けと伝承プロセスの考察‐日和田弥重郎田植踊を中心に‐
犬の宮・猫の宮:その変容と現在
現代子どもの遊び‐NPO法人クリエイトひがしねの試みを通して‐
出羽地区における水の利用‐七浦絞りを中心に‐
10分休憩
16:00~ 民俗・人類学専攻 田口研究室
青苧復活夢見隊の活動に見る伝統生業の復元とその模索―山形県西村山郡大江町の事例から―
土地利用から見る暮らしの変化―山形市滝山地区上桜田・東青田における土地利用変遷について―
2月14日(木)
9:00~ 民俗・人類学専攻 田口研究室
現代における庚申講の役割について―山形県山形市大字村木沢下宿集落の事例から―
音路三匹獅子舞についての研究―放射能問題と地域芸能の今後―
10分休憩
9:30~ 民俗・人類学専攻 謝研究室
平将門伝説からみた民衆の将門像―まつりと参拝を中心として―
八戸地方の蒼前信仰―南部駒に対する人々の信仰心―
旧仙北鉄道の役割と沿線住民の記憶―宮城県登米地域の軽便利用状況を通して―
卒業論文中間発表会
2月14日(木)
10:45~ 民俗学専攻 謝研究室
秋田県由利本荘市における鬼面に関する考察(仮)
修士論文口頭研究発表会
2月14日(木)
10:55~ 芸術文化専攻 歴史文化領域
鬼の形態生成論 -酒呑童子のフォルムがかたちづくられるまで-
姫路駅から城郭研究センターまで20分ほど。急ぎ足で歩いたら汗がとまらなかった。穏やかな日曜日。姫路は世界遺産見学の観光客でにぎわっていた。
伊丹からのバスに乗り合わせたのは、山形から姫路城を見に来た社員旅行の団体。偶然と言えば偶然。私を入れてオール山形。しつこく話しかける方にも問題はあるが、やたら気さくな運転手で道中、観光案内。高速走行中の運転手が客とこんなに話をするのって、ほんとは…と思いつつ。
姫路城は平成21~26年度まで、大天守の修理工事(漆喰壁や瓦)を行っている。この覆い屋だけで12億というから驚きだ。姫路市では修理工事を見学できるよう配慮するとともに、各方面で情報公開を行っている。大修理は50年に一度。平時の連立式天守も壮観だが、素屋根に覆われた姿と修理工事は一生に1度しか見られない。
全国城跡等石垣整備調査研究会、文化財石垣保存技術協議会(国選定保存技術保持団体)評議員会と2週連続で姫路に来たが、とんぼ帰りで結局お城は見学できず。今度はゆっくり修理工事を見学してみたい。
幕末、黒船の来航以後、各地で戦争に備えて砲台場(略して「台場」)が作られた。江戸の町をまもるために作られたのが、東京湾、品川沖の台場である。フジテレビのある「お台場」に国史跡に指定された「第3台場(写真中央やや左)」と「第6台場(写真左:レインボ-ブリッジの手前)」の二つの台場が現存する。
当初11基が計画され、実際には5基が完成したが、開国によって不要となった。史跡以外の3基は戦後、船舶航路の妨げとして撤去(第2台場)されたり、埠頭整備の埋めたて地(第1・第5台場)となって見ることができない。
1997(H9)年に第1台場の一部が発掘され、海中に石垣を築く当時の最先端の土木技術を知ることができるようになった。
今回調査しているのは第5台場跡である。昭和37年に品川埠頭の用地となり上部を撤去し埋め戻された。嘉永7(1854)年1月~12月、幕府が発注した民間JVによる請負工事でわずか1年で築かれた。近世初期の天下普請だったら、これくらいは数カ月で作ってしまうから、1年を早いとみるか遅いとみるかは微妙だが、資材確保の準備期間もなく、海中に石垣台を築く工事だったことを考えると急ぎ働きだったことは疑いない。
石垣石は江戸初期と同じで、伊豆半島の安山岩がメインである。しかし、江戸城の石垣と比べると、材を選ばず結構いろんなものを持ってきている。刻印の付いた江戸初期の残石、海に転落し波浪浸食された石、大きな玉石、海岸から手当たり次第取ってきたという感じだ。突貫工事だった様子がうかがえる。ほかにも裏込め用の石材や、波浪による地盤浸食を防ぐために石垣の前面に大量の捨石を沈めている。そして、圧巻は多数の木杭を打ち込んだ基礎工事や木枠工法である。石垣の裏込め(裏栗石層)には粒度調整の豆砂利が充てんされていた。
近世に発達した水濠の石垣や川除(護岸)、港湾工事などにより蓄積された伝統技術のノウハウがベースになったものとみられるが、詳細はわからない。今後の調査と研究に期待したい。
こんにちわ、あべちゃんです。我々4年生は最近は再来週に迫った口頭発表にむけて活動中であります。今回は、先週の土曜日に行われました、歴史遺産学科雪合戦大会の模様をお伝えします。
1月26日(土)10時にグランドに集合した、1年から4年、さらに先生方。各自装備を整えて、戦う準備万端であります。
雪合戦のルールは簡単。4つグループに分かれて、互いに雪だまを投げあい、あたった人は陣地の外に出るというもの。
1年生チーム、1・2年チーム、3年・先生チーム、4年生チームに分かれ、試合開始です!
目が合うと狙われるのは当たり前、後姿を見せてもだめ、狙っているのに気づかれると逃げられる…。
学生はもちろん先生方も非常に生き生きとして見える(!?)試合中。みんな何かたまっていたのかしら。
陣地内を移動しながら、相手に投げる、雪だまをよける…これが足元を取られて結構体力を使うんですよね。5セットの予定でしたが、3セット目で周りからは「つかれた~」「3セットで終わりでいいんね~?」との声。
ちょいちょい休憩しつつ、ちゃんと5セット行いました。さてさて結果は・・・?
4位 3年生・先生チーム、3位1・2年チームそしてなんと同率1位が1年生チームと4年生チーム!!!
急遽サドンデスで決勝戦が行われました。自らを犠牲にして雪だまをあて散っていく人やら、確実に相手の数を減らしていく人やら・・・。「サドンデスきつい!」の一言で、時間制限を設け、戦い抜きました。
最終的に優勝は1年生!!おめでとう!!!若さの勝利だ!!!!やったね!!!
その後は突然の雪上相撲大会や、タックルされて雪に沈む会、雪に埋められる人、チームオールド(3・4年生と先生)VSチームヤング(1・2年生と先生)に分かれての試合などなど、時間ギリギリまでがっつり雪にまみれました。1年生の男子は必ず1回は雪に投げ込まれて全身雪まみれになっていました。
各学年が集まって、交流するのは秋の芋煮会以来でしょうか?学年を越えての交流はなかなかすることができないので、とてもよい機会だったと思います。久々に運動できてなんだかすっきりしました。
企画と連絡、当日も8時過ぎから学校に来て会場設営をしてくれた1年生のみんな!
どうもありがとうございました!来年からはもっともっと人が集まると楽しいですね!
翌日筋肉痛で立ち上がるのもトイレに行くのも大変だったのは私だけではないはず…。
以上、考古学演習室よりあべちゃんがお送りしました。写真提供は謝ゼミの某bawdies君です。thanx!
どうも相変わらずテンション意味不明なパーカーです。
年明けました。今年は、今3年生の人は忙しい年になりますね。がんばりましょー。
とりあえず、鍋が食べたい季節真っ盛りになりました。
今年の冬は、引きこもることができないので、ショックを受けています。
前置きはこんなところで内容の方に移ります。
あっ、弁慶さん。前回の発表お疲れさまでした!
今回は、わたくしパーカーとトマトさんの発表でした。
(トマトさんってトマト好きなのかな?そうならトマト農家な私万歳!)
私はお馴染みの義経関係の発表でした。「義経神社と北海道にみられる義経伝説の傾向」というものです。
相変わらず長いレジュメ(最早レポート)で申し訳なかったです。
義経神社関連は、前回の私のブログ記事に記載しているので、そちらをご参照ください。
(佐藤ゼミスピーディ発表です)
北海道義経伝説の傾向は、道南、日本海岸側、道中央部は比較的東北でみられる義経像と同一のものが多く、地元の人と好意的に接していたものが多く流布しています。
しかし、道東地方では、悪人伝説といわれるものが多く流布しています。
その内容は、娘を騙し、巻物を盗むなど泥棒としての義経像があります。
ただし、同じ地方でも屈斜路湖周辺では、好意的なものがあったそうです。
悲劇的で善人として描かれることが多い義経に悪のイメージがみられるのは大変興味深い内容です。
上記は私の発表の一部です。
トマトさんの発表は、牛車についてです。
個人的に平安時代の話は面白いので好きです。
牛車が門を通る時に東と西で違うことや中門廊と呼ばれる中門近辺にある廊下の説明など丁寧にしてくれました。
牛車の装飾を弓と矢で飾ったものが評判が悪いため、取り外したという内容のものがありました。
トマトさんが史料から読み解き考察してきた絵から、全員がその牛車がどのような装飾だったのかを考察できたのがよかったです。
大昔のもので、史料からしか読み解くことができないため、それぞれの意見を聞いて考えることができました。
トマトさんの発表は、レジュメも簡潔に作られているので、いつも見やすいなと思っていました。
質疑応答の時間にやたらとカスタムという言葉飛び交っていましたことは、ここだけの秘密です。
次は、いよいよ打ち上げの話です。
後期も今期も含め、3年生最期の打ち上げpartyをしました。
7時から始まりました。場所はお馴染み寧々家さんです。
現地集合で、続々と集まりました。1名は既に店内にいましたが…。
先生が大御所のように最期に来たところで、(飲み物頼み中)…カンパーイ!
佐藤ゼミは意外と酒飲みが多いようです。ライスさんも相変わらず赤くなりながら飲んでいました。
しかし、隣のふじさんと斜め前のボーダーさん…テンションが上がってまいりました。
離れた場所で飲んでいるトマトさん…、全然変わらない…だと…。恐ろしや。
あっ、私はしらふです。飲むと直ぐ眠くなるんです。
話した内容は…あれ?おかしいな。ポケモンの話しか覚えてない。
ようは、ポケモンの話がほとんどでした。
佐藤ゼミっていつもこんなんですよ。
佐藤先生いつもすみません。みんなを代表して、謝っておきます。
なんやかんやで飲むペースの速い佐藤ゼミは、次々と注文し、店員さん忙しそうでしたYO!
そして、10時に電車組女子2名が帰り、残りのメンバーはカラオケに行きました。
人数が多いので、2部屋借りました。さぁ、運命の部屋決めジャンケン…結果はー!
8:蜻蛉、K、弁慶、stag
10:佐藤先生、ふじ、ボーダー、私 です。
まぁ、見事に男・女+先生で分かれました。
ある男子は、これじゃあいつものカラオケと同じだと言っておりましたのは、後日談です。
それからは、私のいる部屋は前の時よりはマシでした。(私はいつも通りでしたが、HAHAHA)
先生は、昔の歌を私たちが知っていることに驚いていました。
そして、すごく写真に撮られていました。先生は12時に帰りましたが、帰るときの歌が問題でした。
その後、メンバー交換を何度もし、私と蜻蛉さんは部屋から動きませんでした。
歌いまくった一同は、2時半に解散しました。こういうのまたやりたいですね。今度は全員でカラオケ行きたいです。
それでは、わたくしパーカーからは以上です。
貼った画像は、打ち上げとカラオケの1コマです。リンちゃんなう!
それでは、長々と失礼しました。おわります。
こんにちは、弁慶です。かなり久しぶりにブログを更新しました。
佐藤ゼミでは一応すべての人が発表し終わりました。本当はもっと早く更新したかったのですが、のびのびになってしまいました。
今回の私の発表でとんでもないことをしでかしてしまいました。本当に猛省せねば。
さて、今回の発表はMr.stagと弁慶でした。
Mr.stagは「大石田河岸で用いられた船舶について」で弁慶が「百姓について」でした。
実は今回、弁慶はMr.stagの発表をほぼ聞いていません。
いろいろやらかしてしまって聞けなかったのです。
肝心の発表のほうも、テーマを絞れず、漠然としたものになってしまい、もうなんかいろいろだめでした。
しっかりしなくては・・・
1月7日 最終日
朝、市場でお土産の果物を買ってD村のUさんに会いに行った。2008年に初めてお世話になって以来、毎年訪ねている。その姿は小屋の木陰にあった。いつもと違う場所で土器を作っている。近所のJさんも作っている。二人はこの村の稼ぎ頭。今年も健在だ。ほっとする。
Uさん、突然の訪問に満面の笑みで迎えてくれた。よく来たね!今年は一昨日から作り始めたばかりよ。稲刈りが遅かったから。蓋の文様がこれまでと違う。どうしたの?と聞くと、自分で考えたのよ、と。あれだけ保守的だったUさんが・・・。ちょっと刺激してしまったか?
旦那さんは留守だったが、いつになく元気なおばあちゃんがいた。事故にあってから手の自由が利かなくなって元気がなかった。裏の仕事場に、口をビニールで縛ったハイが3つ並んでいた。聞くとおばあちゃんが漬けた竹の子らしい。今回はおばあちゃんから漬物や水甕オーンについてたくさん話を聞くことができた。
Uさんには二人の子どもがいる。お正月、帰省してた息子はもうバンコクに帰った。娘も今年、町の専門学校を終えて、バンコクに働きに出る(実はもう行ってる)。これからは3人だけの暮らしになる。Uさんたちに、また来ます!と言って村をあとにする。
午後ちょっと早めに、ウボンラチャタニーの空港に着く。今年こそ平穏に帰国したい。そう思ったからだ。いつも使うLCCはいつのまにかドンムアン空港発着になったので、今年はタイ航空を予約した。
カウンターに行くと、「DELAY」の表示。定刻17:45が20:30、大幅な遅れだ。これは遅れでというより明らかに機材のやりくり。帰国は23時の深夜便なのでまあ余裕で間に合うわと思って待った。預け荷物の重量オーバー(10kg)も何も言わないし、例によって片手にぶら下げたモーナム、頼み込んだら何とか持ち込みを許してくれた。100B分のクーポン券をもらったので食事をしながらくつろぐことができた。
ところが、なかなか飛行機がバンコクから来ない。私と同じようにバンコク・スワンナプーム乗り継ぎの欧米人が騒ぎ出した。スタッフがてんやわんやの騒ぎ。こちらも乗り継ぎがあることを申し出ておいたら、荷物を優先的に出してやるから心配するなと。
出発時刻になってようやく飛行機が到着。それからあわただしく機材整備をしたのだろう。乗客が乗り終わるやいなや、あっという間に離陸した。モーナムは結局、棚には入らず、1時間膝の上に抱えたまま(エアアジアなら入ったのだが)。
離陸したのが21:20。スワンナプームが混雑していたら結構やばい時間。正直ちょっとひやひやした。ちょうど1時間で到着。預け荷物はすぐに出てきた。カートに乗せて、3階のカウンターへ。オーバーサイズバッケージから大型荷物を二つ入れて、出国審査場に並ぶ。あわててお土産を買い、搭乗口にいったらもう搭乗がはじまっていた。全く無駄な時間はなかった。というわけで、なんとかトラブルもなく帰国できることになった。ほっとして心地よく機上で眠りについた。
今年も村の人たちの暮らしや技術からたくさんのことを学んだ。そのたびに脳がピリピリ音を立てて反応する。自然に笑顔になる。そんな快感をもとめてまた通うのである。
Cさん(57歳)の家で、旦那さんが野焼きの最中だった。モーケン100個を焼いている。そばには昨日焼いたモーエンナムが40個。カンタラロームのお店からの注文だそうだ。
イサーンでは土器を設置する際、地面から浮かせるために焼き台を用いる例が多い。多くは粘土を焼いた円柱・角柱の焼き台を用いるが、ここでは高さ10cmの壷形土器を専用に作り、倒立して用いる。今日はバナナの木を高さ10cmに輪切りにしたものを使っている。バナナは水分が多いので燃えることはない。以前、北タイで野焼き用覆い屋の柱にバナナの木の皮を巻き付けていた。火が直接あたっても柱が燃えることはなかった。
旦那さんは昔は野焼きする人が多くて、バナナの木が足りなかったが、今は少なくなったので使えるんだ、と説明してくれた。わかったような、わからないような・・・・
PS村は160軒ぐらいあり、土器を作るのは現在3世帯しかない。
たまたま通りかかった爺さん(72歳)曰く。この村の土器作りはダーンクウィアンからK村を経てここに来たんだよ。確かに言われたとおりである。
Cさん夫妻から粘土採掘~成形~販売についてヒアリング。土器作り道具を計測させてもらう。
卸値は水甕モーエンナムは50B、湯釜モーサオロー35B、鍋モーケン20B、小型鍋モーケンノイ(モーフン)15B。モーエンナムはK村よりちょっと高い。
イサーンではここ100年、このようにコラート周辺から農民が2次的、3次的に移住を繰り返すことで土器作り技術が拡散した。レファートさんたちが立てた仮説だ。それ以前の古いタイ・ラオ族の技術は一部地域に痕跡的にしか見ることができない。示唆に富んだ話だ。
1月6日
朝、市場で朝食。もち米おにぎりカオチーを買う。ラオスではナンプラーを塗って卵につけて焼くが、イサーンでは塩味が多いらしい。
K村
ラシー・サライという町に来た。コラート郊外にある焼き物町ダーン・クウィアンから技術が伝わって、土器作りが始まったとされるK村を訪ねるためである。陶器村から技術が伝わった土器というところが引っ掛かっていた。
田園地帯を走るとホンデンという紫小玉ねぎを満載しトラックが行きかう。トムヤムクンなどタイ料理のスープには欠かせない食材だ。シーサケット県はホンデンの一大産地で、畑には水撒きや収穫に忙しく働く人たちの姿があった。村の入り口のお宅で、娘と二人でホンデンの出荷作業をしているPさん(39歳)から話を聞く。K村は3つの集落合わせて約300世帯があり、うち10世帯で土器作りをしている。
Pさんは9人兄弟、4姉妹の末娘。娘たちはお母さんに習って全員ポターだった。11月~6月に土器作りをするが、ホンデン作りもほぼ同じ時期。80日~90日で収穫できるわ。いまやってるのは10月に植えたの。ホンデン作りが始まったのは10~15年前。現在では乾季の貴重な現金収入源となっている。
向かいの家では長女のKさん(56歳)がお母さんのSさん(81歳)と一緒に作業をしていた。Kさんによれば、5年前からホンデン作りがとても忙しくなり、それで土器作りをやめてしまった世帯が増えたという。3姉妹はここで土器作りをしているが、3女は結婚して他の村にいったので土器は作っていない。
Sさんは11歳の時(70年前)に3家族でここに来た。第2次大戦のあとのようだ。「ダーンクウィアンじゃないよ」「アンプー・ノンスーンのバン・ポッポウという村だよ」「2家族は帰ってしまったけどね」「母親はポターだったよ」「いきなり、ここに来たんじゃないよ。途中、ウトンポンピサイという町に住んだんだよ」「汽車に乗ってきたよ」「田んぼを探しにきたんだよ」「旦那は早くに死んじゃった(Mさんが15歳の時)」
3世帯に囲まれた空き地に野焼きをした跡がある。昨日焼いたモーナムをポットショップの主人がピックアップで取りに来ていた。お店の人と一生懸命積んでいたのは、次女のMさん(49歳)。水甕モーエンナム(モーナム)83個、1個40Bで売る。こんなにたくさん積めないのではと思っていたら、ポットショップのおやじはさすがに慣れたもの。土器の間に藁を挟みながら上手に全部積んでしまった。Mさんは週1ペースで野焼きし、1回30~40個焼くそうだ。旦那さんが薪集めや野焼きを手伝う。昔は俺がクエン(牛車)で3日ほどかけて売りに行ったんだよ。今は電話注文で、車で取りに来てくれるから楽だよ。
Pさんの成形道具を計測し、叩き板や当て具の使い分けを教えてもらう。ここではチュア:粘土が2:1と前者が多い。耳を疑い、混合する際のバケツの分量を確認したが確かにチュアが多い。土器の断面もチュアだらけである。K村の土器作りは紛れもないコラート起源の技術であり、典型的なイサーンタイプだ。なのに,コラート近郊にある有名な陶器村ダーンクウィアンを引き合いに出してルーツと伝承するところが面白い。ただし、当のおばあちゃんは一言もダーンクウィアンと言っていないはず。
ポットショップのおやじ曰く、シーサケット県にはもう一つ土器作り村がある。カンタラロームのポンサイという村だ。K村から技術が伝わったって話だよ。昨シーズンは作ってたけど、今年はどうかな?
いかねばなるまい・・・・・