1月5日
ラオスを出国する。ボーダーでちょっとしたトラブル。同行のタイ人のパスポートが消えた。ラオス側の窓口は通過した。しかし、タイ側に入ろうとしたときにパスポートはなかった。ラオス側で返してもらっていない…橋を引き返して聞くが知らないよ・・・どう考えてもミステリー。結局見つからなかった。闇ルートで売買されるといううわさも・・・
不審な段ボールを満載した車が止められた。これまで何度も行き来したが、はじめてX線検査を命じられる。明らかに疑いのまなざし。「中はポットだ!」信じてもらえない。みんな一緒にモニター画面を覗く。「次はスーツケースを持ってこい!」「・・・・・・・」テレビ画面には映ったのは、ここにも満載のポット・・・・。あきらかに不満そうな、あきれた顔の検査官。
ナコンパノム空港で帰りのチケットを取り、大切な荷物を日本に送るため郵便局に走る。半ドンの土曜日閉店間際になんとか飛び込む。再び空港に戻り、二人を降ろして一路ウボンラチャタニーを目指す。5時間かけて到着。ウボン在住のC先生と再会し、夕食を共にする。昨年のアッタプー調査や床屋の話で盛り上がる。LOTUSで下着やお土産を買いこみ、定宿でくつろぐ。
明日からはシーサケット県で最後の調査だ。
1月4日
今日も朝から2時間半ほど走った。村に近づくが車窓からみえる水甕モーナムはみな見覚えのあるNB産。土器作りが廃れて相当の時間がたっていることを予感させた。メコンの支流セーボン川に沿って二つの村はあった。PP村とKPS村。土器作りをやめて30年はたつという。KPS村はPP村から分かれてできた。戦争の後(1975年)、村は40軒だったよ。いまは103軒。20年前に川からポンプアップするようになって二期作をするようになった。案内してくれた親切なおじいさんが語ってくれた。村の中を貫流する水路は満々と水を湛え、たらい船に乗って遊ぶ子供たちの歓声が響く。どこの家にもNB産のモーナムが二つ、三つ並ぶ。
かつてのポターは3人存命だという。Tさん(86歳)を訪ねた。粘土採掘、成形、焼成、販売、懐かしそうに昔の話をしてくれた。自分が作ったモーナムを宝物のように30年使い続けている。どこを探しても古い地元産モーナムはカケラ一つ落ちていない。すでに道具を持っている人もいない。お願いして、中の水を出し実測と写真を撮らせてもらう。
将来の考古学者は在来の土器型式がすでに断絶したと時期とみなすだろう。これが壊れて捨てられて時、それは「混じり」と判断されるのだろうか。
この土器は村で土器作りという生業があったこと物語る生き証人である。おばあさんとともに長くここにあってほしいと願う。
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土器の野焼き(NT村)
午後から野焼きを見る約束していたNT村に向かう。いつもと違う国道13号から入る。集落が森を開拓し、田を広げていった様子がよくわかる。いまは炭焼きシーズン。皆忙しそうに窯づめ・窯出しをしている。
15:30村に着いた。待ってましたとばかりに、ポターや近所の女の子たちが、手に手に土器を持って田んぼに集まった。久しぶりの野焼きに女たちはお祭り騒ぎのようだ。年長の女性が仕切り、一番若いBさん(38歳)が手際よくさばく。樹皮と稲藁で焼くこの地域通有のやり方である。家路につく水牛たちが遠巻きにみている。
元村長が粘土採掘場を案内してくれる。田んぼのなかを30分歩いて、ホワイ(池)のほとりに着いた。国有地の干上がった池から掘る。地表から1m、現場仕立ての木の鋤で掘り、その下にある粘りの強い黒色土を採取する。
村へ帰る途中、時々田から煙が上がる理由を聞いた。ねずみを捕ってるんだよ。長い稲株を焼いて隠れたネズミをあぶりだす。針金ワナや竹筒ワナで取るのは見たことあるが、こんなやり方もあるんだと・・・・。
地平線に日が落ちると、空が紫からピンク、茜色に染まる。野焼き場所に戻ったころあたりは急に暗くなってきた。女たちが被さった藁を取って焼き上がった土器の出来栄えをみる。我々の帰りを待っている間、プレゼントした口紅を塗り合っておおいに盛り上がったそうだ。
ジョハリの窓からおばんです。蜻蛉と申す者ざんす。
私はお正月楽しく過ごしましたよ、母方の実家で卓球しましたしね。
正月太りもギリギリ回避しました。もし正月という魔物に屈してしまった方、まだ大丈夫、夏までに頑張りましょう。
今回はK氏とボーダーさんが発表した翌日に私が発表しました。
なぜ連続でゼミの発表をしたのかというと、後期の授業期間中にゼミ生全員の発表を終わらせるためです。つまり日程調整ですね。
ということで発表でございます。私の後期最後の発表は「天童氏に関する軍記物比較」というテーマで行いました。
皆さんは天童氏というものをご存じでしょうか?
天童氏は天童城(現・舞鶴山公園)を居城として、現在の天童市に勢力を築いていました。
伊達氏・最上氏と抗争を繰り広げ、村山地方北部に強い影響力を持っていましたが、天正年間に山形城の最上義光によって滅ぼされました。
今回の発表では、天童城落城について記されている『天童落城並仏向寺縁起』『天童落城記』『天童軍記』の3つの軍記物を取り上げ、それぞれの軍記物を比較・考察しました。
まとめとしては、『天童落城並仏向寺縁起』は天童氏についた将士の活躍に関する記述が大半であること、一方で『天童落城記』『天童軍記』では最上氏が天童氏についた武将に調略を仕掛ける様子や天童市に伝わる「喜太郎伝説」にも触れられているなど、『天童落城並仏向寺縁起』よりも読み物としての完成度を重視しているのではないかという結論に達しました。
ですが、天童落城に関する文書は非常に少なく、今回の軍記物に記されていることが事実かどうかを確認することはとても難しいということを改めて感じ、先のK氏同様、卒業論文への課題となりました。遅くても2月上旬あたりまでには最終テーマを確定したいですね。
そして私が発表で玉砕した後、その場にいたゼミ生全員で模擬グループディスカッションを行いました。
もちろん就活対策ですよ。私は進行役というものをやってみましたが、短時間で結論を導くために議論を進めるというのは非常に難しいことでした。
説明会参加や企業訪問、ES対策にSPI対策、面接対策とやることはいっぱいありますがどれも疎かにせず進んでいきたいですね。あ、もちもん卒論も。
明日は弁慶殿とMr.stagの発表です。詳細は2人のどちらかがブログを更新するのでそちらをお楽しみに…。
長くなってしましました、では皆さまおやすみなさい。私はこれから明日の授業のレポートをします。
社会の窓からこんばんみー。Kという者でありんす。
皆さん、お正月は楽しく過ごせましたか。
私は、あーー……………。
さて今回は諸事情により、私とボーダーさんが、発表の担当となりました。まずは私から。
私は例によって、上杉謙信を題材にして発表をしました。前回は川中島合戦に視点を置いたので、今回は関東出兵に関して発表しました。
とは言いつつも、内容自体は「概説」を深く調べて発表したというだけで、「論」というには程遠く(-_-;)。卒論を書く上での反省点となりました。
一方ボーダーさんは、前回に引き続き月事についてでした。月事の際の忌み期間はどれくらいかということで、日数についての問答や、物語の中での月事について読んでいきました。相変わらず野郎は突っ込みづらかったというのは秘密だ!!!
卒論もそろそろ動き出さないと、まずい感じですかね。就活もあるっていうのに。
……………………どっちもまだ始まったばかりなのに焦り気味なのって私だけ……?(汗)
兎にも角にも、どちらも成就するように頑張らねば……。という訳でこの辺で失礼します。
良い年になりますように。
1月3日
早起きしてNT村に車をとばす。年暮れ、陽が落ちてからようやく探し当て、再訪を約束した村だ。6~8年前にやめたというが、元村長の仕切りで、往年のポターたちが土器作りを見せてくれるという。もちろんタダとは言わないが。
8時半すぎに村に着くともう準備ができていた。経験者7名中(20名とも)、5名が集まった。4名は50歳以上であるが、Bさんは38歳、妊娠4カ月。まだ若い。土練り→台上成形→手持ち叩きと、全工程を、4器種すべてで再現してくれた。いつも作ってるような手際の良さ、久しぶりで楽しそうだ。時折、互いに品評し合う。よく聞くと、前日練習で10個ほど作ったそうだ。また、2年前にも注文があって、儀礼に使うモーナムを30個作ったらしい。土器作りをやめたといっても終わり方は様々である。
NT村は南3kmのNL村から分かれた。当初5軒から始まったという。Lさん(52歳)の親が移住1世なのでまだ新しい。6~7年前に電気が来た。15年前に町のほうへ出る道路ができた。それまでは行商に来た人の物を買っていたが、この道によって、買い物に出るようになったり、働きに出る人がでてきた。ベトナム商人が売りに来た金属鍋(ベトナム人が持ち込んだ鍋という意味で「モー・ベット」といい、「ツケ」で買えたという。)が広まり、土器が売れなくなった。売りに行くと値引きさせられる。価格競争に負けたんだよと。
竹かごに土器を入れ、ハープ(天秤棒)に下げて、4~5人で周辺の村に売りに行ったそうだ。売れるまで帰って来れないんだよ。だんだん売れなくなってきたのと、年取って疲れるので止めたさ。田では土器に代わって割れにくいプラスチック製の水入れを使うしね・・・・。昔からやってた機織りも4~5年前に止めたよ。これも他の村でもよく聞く話だ。
明日は午後4時頃から野焼きを見せてもらうことになった。急きょ、サワンナケートに移動する。
帰りにまたまたタンブン、みんなさわやかな笑顔だ。明日はサイブリーで二つの村を探してからここに戻る。
1月2日
年末年始、風が吹く寒い日が続いたがようやく穏やかな朝を迎えた。はじめての休日。
朝食後のカフェ・ボラン(古式コーヒー)。ふと、となりをみると床屋。小さな爺さんが一人でやっている。カフェのおばさん曰く。耳が遠いけど大丈夫だよ。バリカン1丁で刈り上げ、生え際をカミソリで剃る。水で湿らせるだけなのでちょっと痛い。手は小刻みに震えるが、カミソリをあてるとぴたりと止まる。年を聞いてびっくり。103歳という。5,000kip(50円)。若い女の子がやってくれたアッタプーの店の半値だった。
LAK35からタケークに向けて国道13号を2時間半ほど走る。イミグレーションで正月をタイで過ごした2人をピックアップ。町に戻って市場の調査。郵送荷物(土器)のパッキング。夜はメコン河畔、綺麗なレディーボーイがいるオープンテラスの店で食事。停電になるとタイ側の明かりがひときわ目立つ。星空を見上げつつ、たまには暗闇もいい。
1月1日
日常となんら変わることのない朝だった。違うのは昨夜遅くまで花火の音がうるさかったことと、LAK35にいることぐらい。
そういえば、車のタイヤがパンクしていた。昨日の悪路で釘を拾ったようだ。近くのパンク修理屋に預けて、市場に朝飯を食べに出た。素足の足の裏がチクチクする。小石が入ったと思って払いながら歩くがなぜか傷みが残る。ご飯を食べて、カフェ・ボランを飲みに行く時、石を踏んだとたんウッとなった。コーヒーを飲みながら足の裏を見ると血だらけになっていた。そう、ゴム草履の裏が車と同じことになっていた。血を絞り出し絆創膏を貼って、靴下をはくことにした。
今日も二つの村の予備調査。ケンコーまで行って、またダートを走り1時間余りでNa・Tuey村に着く。しかし、探していたのはNa・Thai村。似てるけど違った。正月早々幸先悪い。仕方なく、周辺でモーナムの産地調査をしてから引き返す。
●ラオ・ラーオ
当初、今日は半日休むつもりだったが、せっかくここまで来たので、3年前にブッドン村でお世話になった人たちに会ってから帰ることにした。途中、ラオラーオ(焼酎)作りを見学。3年前はタイ産の陶器ハイラオに貯蔵して運搬・販売していたが、最近は重いのでポリ容器になったよ。ここでも焼き物が駆逐されている。さらに大型水甕オーン、これがいま急速にセメント製に変わっている。在地産陶器はとうに廃れ、タイ・ラブリー県の製品(600THB=約1,700円)がラオスにも流通しているが、今ではより安価なセメント製オーン(120THB)が普及する。ここの主人はセメント粉を買ってきて自分で作る。製品と同じ値段で4個もできる。発酵したお米を蒸留するカマドの横でバナナチップを揚げていた。子どもたちが袋詰めする。一袋1,000kip(10円)。揚げたてはおいしい。
いざ出発!車に戻るとまたまたタイヤにネジ釘が刺さっている。あちゃっ・・・・。周りには何もないのでこのまま走るしかない。
●BD村
12:00をまわったころブッドン村についた。ポンポン、ポンポン、あちこちから土器を叩く音が聞こえる。
お土産を持ってTさんとSさん姉妹の家を訪ねた。あれ?誰?
見慣れない女の子が二人、赤ちゃんを抱いている。3年前ここにいたのは12歳のLと9歳のO姉妹だった。二人ともお母さんを助け、一生懸命土器を作っていた。Lは来年からビエンチャンに出稼ぎにいくと聞いていたので、いないことは分かっていたが、妹のOは・・・
聞くと、昨年やはりビエンチャンに出稼ぎに行ったとのこと。この村では12歳になると多くの子が出稼ぎにいく。
赤ちゃんを抱いていたのはSさん(31歳)の娘と友達?。Sさんの娘は15歳。3年前はタイに出稼ぎに行っていていなかった。妊娠したが彼氏と別れて村に帰ってきたという。お母さんと同じような年で母親になった。土器作るの?って聞くと、「いや」と。Sさんが籾摺り仕事を終えて家に帰ってきた。見慣れない若い男の人も一緒だ。聞くと旦那さん。彼も3年前は出稼ぎに出ていていなかった。おじいちゃんは?2年前に亡くなったわ。おばあちゃんは?森に行ってるよ。1歳だった末の息子は?お兄ちゃんと田んぼで遊んでる・・・。流動的な家族の姿にしみじみするところもあったが、ふと気づくと、子供が多かった頃の日本、私たちの親の世代とさほど変わらないのかもしれないとも思った。
Sさん、今年は田んぼの仕事が延びて、まだ土器を作り始めたばかり。これから忙しくなるわ、と。
●NS村
村の出口で、もう一つ探していたNS村の場所が分かった。
またまたダートを進み、14:00過ぎに着く。おばあちゃんが作ってる人いるよ、と案内してくれる。ここもアクティブな村だった。
田んぼ仕事がおわったばかりで、土器作りを始めた人はまだ2~3人。3月ぐらいには10名あまりになるよ。最年長は47歳、最年少は35歳。比較的若い。Lさん(38歳)の土器作りを観察する。5回行う手持ち叩きの2、3回目をやっていた。遊びに来ていた友達たちがサービス精神旺盛で、土練りから台上成形まですべての工程を見せてくれた。村長さんも丁寧に村の歴史など話してくれた。とてもフレンドリーな村である。2時間ほどの滞在だったが、予備調査を越える中身の濃い訪問となった。
17:00すぎ、朝立ち寄ったパンク修理屋に行く。社長にっこり。30,000kip(300円)。よくあるせいか意外と安い。ラオスのガソリンは10,000kip/ℓ
夜はLAK35で別のゲストハウスに泊まる。庭には周辺から集められたタマリンドの山。農家の人が袋詰めしてここへ持ってくる。オーナーは仲買いをしているようだ。
12月31日
今日も風が吹いて寒い。7:30に宿を出発。今日は二つの村を探すミッション。
●DKC村
サワンナケートから東へ1時間半ほど走るとケンコーというチャンポーン郡の中心地に着く。ここからソンブリーを目指し、ダートを走るが車は思うように進まない。悪路と壊れた橋をやっとの思いで渡り、11:00にDKCという村を探しあてた。3年前にブッドンという桃源郷のような村に出会った時を彷彿とさせる所だった。
村長さんたちと村の中や田を歩きながら、生業である製塩や製材の話を聞く。田には塩の結晶が析出する。それから土器作りの準備(乾燥粘土を小割して天日に干す)をする女性たちの家々を見て回った。10世帯ほどが土器作りをしており、アクティブな村だった。しかし、当の女性たちがいない。聞くといまはタマリンドの収穫に忙しいらしい。チュアの野焼きがセットされているが、今日は強風で焼けないという。ブッドン村とよく似た作り方であるが、回転台が高い、亀板に竹の皮を使う、特殊な叩き板があるなど地域色がある。機織りをしていたTさん(70歳)らから土器作りの歴史や技法について話を聞いた。1975年(戦争の終わった年)、村は15軒。全部の家で土器を作っていたらしい。
●NLC村
また悪路を戻り、NLC村を探す。地図がないので聞いては走り、走っては聞く。不思議なのはみんなよく村の名前を知っていることだ。100kmぐらい離れた村でも道を教えてくれるし、そこまでの距離を言う。ラオスやタイの農村でいつも思うこと。日本ではありえない。
300軒以上の大きな村だった。10世帯ぐらいが陶器をつくっていたが、4~5年前に停止した。理由の一つはアリ塚に作る地下式の窖窯が水没によって毎年壊れるからだという。もう埋めてしまってみれないよ。残念である。ほかには粘土掘りがたいへん、薪探しが難しくなったなど。コスト負担を購入に頼らず、自ら廃絶の道を選択した格好だ。
訪ねたお宅には旦那さん(56歳)が作ったという陶器があった。夫婦二人で回転台に向き合って作る。驚いた。器種が豊富なのである。7器種ある。甕のエンは3法量あり、使い分けている。作りもいい。それぞれ用途を教えてもらう。器形と使い方の対応がよくわかる。多くの焼き物村は末期になると、売れる器種に生産が偏り、作りは雑になる。ここは全盛期のまま突然消えたような感がある。近々もう一度訪ねるだろうという予感。後ろ髪をひかれる思いで村を後にした。
夜はLAK35という13号線沿いの町の安宿に泊まる。3年前長期滞在したゲストハウス。毎晩、経営者のベトナム人ママさんと子供たち(息子はレディーボーイ)の料理を食べた。一家は今年、タイ側のムクダハンに遊びに行ったということで、会えなかった。したがって懐かしのママパットはお預け。宿は埃っぽい、お湯が出ない、水が出ない・・・・、相変わらずだ。寒い中、3人でわびしい年暮れを過ごした。
12月30日
朝から強風で涼しい。昨日外に干した洗濯物が飛んで行った。
今日は二人がタイに帰るのでフレンドシップブリッジⅢからナコンパノムへ出た。空港とバスターミナルに二人を送ってから南下し、今度はムクダハンからフレンドシップブリッジⅡを渡ってサワンナケートに入った。
車は出入国で相当お金がとられる。挙句の果てに、サワンナケートではいわれもない罪でポリスにつかまる。600THBをなんとか400THB(なぜかタイバーツ)にまけてもらったが、もちろん領収書などない。あの警官たちは今晩何をたべるのだろうか。ラオスでは罰金とパンクはあきらめないといけない。
中途半端な時間だったので、夕方街中のポットショップの調査に出かけた。閉店していたが、外から覗いていると店主家族が中に入れと門をあけてくれた。モーナムやハイ、クロックは見覚えのあるもの。モーナムは一昨年調査したブッドン村、ハイはノンボック村の産だ。
なぜこんなにたくさん土器を置いてあるの?
おばちゃん曰く、よく売れるからだよ!
水道や冷蔵庫、プラ容器の普及で水甕はもう売れない、だから土器作り村が廃れる・・・単純にそう思っていたのでちょっと???
特に今年はよく売れたよ!それはね・・・・・
タイのイサーンからラオスでは「クンバンマイ」という新築儀礼に土器が不可欠なのである。新居の部屋の中に土器を置いて、水と米を入れて祀るのである。その後、いろんな村で聞いたところ、少ないところで1個、多いところでは5個使う。結婚式の祝儀入れにも使うさ。わざわざ土器が写った写真を持ってきて見せてくれた。もちろん葬儀にも使う。
このように土器は実用的機能とは別に、宗教的意味が付与されて、人生の節目節目で使われ続けているのである。日本でも素焼きの「かわらけ」がいまでも結婚式や厄払いに使われるのと似ている。