歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
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2013-01-14

男が土器を作る村(その2)

12月29日

今日は男が土器を作るNB村でハイやモーウナムの成形を見た。

この村で伝統的な土器を作れる男性はもう2人しかいない。Gさん(53歳)とTさん(62歳)である。内戦中、男たちの多くが村から離れ、土器作りは衰退した。Gさんはこの村で生まれ、戦後、父から土器作りを習い19歳から仕事を始めた。若いころは何度も出稼ぎに行き来し、村を離れた。タイにも行ったさ。

いまは田んぼが終わったばかりで、家を建てたり、窯を掘っているので成形は始めた所。男性助手が回す回転台でハイを作っていた。粘土紐を20本ほど積んでから内外にコテをあてて水挽きする。

今焚いている窯があるというので案内してもらう。アリ塚の窯が2基あった。タイミング良く、閉塞間際の窯焚きを見ることができた。最後には太い丸太を押し込み、青草を詰めて閉塞する。チャン村では草は閉塞操作の時に熱いからだというが、ここではその水分が表面を黒くすることと関係するという。煙道は閉塞しないのはチャン村と同じだが、ここでは焚口は入念に密閉する。窯出しした製品をみるとやっぱりしっかり還元がかかり焼きしまっている。銀化したものよりも紫(~緑)がかったのがいいという。窯焚きは一晩あぶって、1日半焚く。一窯で大小クロック1,200個、20,000Bの収入。薪代は1,000B。

窯の設計・掘削の寸法は「身体尺」を使う。肘から指先までの前腕の長さソーク(45cm)が単位だ。窯づめ中の窯に入らせてもらって実測した数値をあわせてみるとピッタリ。

焼き締り具合の見方や火止めのタイミングは?接するように並べたハイが収縮する隙間をみる。火前は焚口からみるし、奥は煙道から覗き込む(炎を避けるための盾がある)。

昔は女性は窯の中に入れなかったよ。精霊が怒るから。いまは産業的になっているから大丈夫だよ。

ここでは人間の身体や自然知を駆使した伝統的な窯焚きがよく残っている。

 

 

午後はTさんの成形をみる。今年はまだお米が終わったばかりでまだ仕事を始めていない。Tさんは13歳から作り始め、15~33歳まで軍隊にいた。22歳で初婚、今は4人目の奥さん。急きょ回転台を設置し、昨年の粘土を使いデモをしてくれた。

野焼きする土器と窯焼きの陶器とでは粘土が違う。土器にはチュア(もみ殻と粘土を練って焼いたシャモット)を混ぜる。成形は紐積みで原形を作り、水挽きする。息子が粘土紐を用意し回転台を回す。強弱、留めるタイミング、二人の息がぴったり合わないといけない。夫婦であれ、親子であれ、そこには無言の会話がある。小さい頃、親父の夜なべ仕事を一緒にしていた時のことをふと思い出した。

この村は先に陶器を作っていたところに、後から土器が入ってきたらしい。定かでないがタイのほうから来た女性が持ち込んだという伝承がある。野焼きを見ることはできなかったが驚くべき方法だった。100個を横倒しにし、50個×2列、うなぎの寝床式に置き片側から焼く。樹皮と稲藁による覆い型野焼きである。まったく同じ方法は北タイのチェンライ近郊の村にあるというし、ベトナム南部にも似たような方式がある。

NB村の陶器はかつて、大型水甕ハイ・パクワンや醸造発酵食品用の狭口壷ハイ・ラオやハイ・プラデックなど、基本器種をすべて作っていたが、他産地のものやセメント製品に押され、現在は消費量の多いクロック専業にシフトしつつある。電動ロクロが入ってきたのは20年前、小物の時だけ使うようにしていると。

不思議なことに、現在は土器の水甕モーウナムがよく売れるそうだ。これは利用が一定量あるのに生産者が減ってきたため、ということもあるがそれだけでない。理由はあとで。

消費生活が大きく変動するなか、生産者は村の置かれた伝統や環境に応じて、それぞれ工夫しながら土器作りを営んでいる。多様な土器作り村のあり方を教えてくれた。

 

 

2013-01-13

おばあちゃんたちにとっての土器作り

 12月28日

SL村と兄弟村のK村を訪ねる。ここも土器作りをやめてもう10年以上になる。

村の入り口で訪ねたお爺さんの家には4個の水甕モーウナムが並んでいた。みな死んだ母が作ったものだという。大事に使っている。

元ポターだというYさん(70歳)を訪ね、2階にあがって話を聞く。昔使った土器作り道具は大切に屋根裏(釣り天井)にしまってあった。叩き板や当て具は囲炉裏の煙で煤けている。驚いたのは当て具が木槌のような木製だったこと。これは珍しい。ほかに酒がこぼれないよう指で押さえて飲む角杯型容器もあった。回転台もちゃんと保管してある。自分がポターだったことを確認するように、道具はその証なのだ。

 

この辺の村では女の子は小さいころまず織物を習うよ。アメリカ人の人類学者レファートさんが来た時、撮っててくれた写真が壁に飾ってあった。あの時は現役だったさ。成形技法は道具と聞き取りからおおよそ分かった。南のサバンナケート地域と共通するようだ。

 

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午後から昨日のSL村を再訪する。

昨日の婆さんたちの所へ行くと、キンマを噛みながら当て具を作っていた。パユーンという油分がある硬い木を山刀で削っている。この村も形は違うが、当て具は木製である。年長のTさん(72歳)、次いでSoさん(63歳)、Shさん(62歳)。昔とった杵柄、楽しそうだ。しばらくすると「やっぱり疲れるわ」「年だね」と。そしてまた笑いが。

土器を作ることは彼女たちのアイデンティティーなのかもしれない。

 

帰りがけにあるお宅をみると、在地産とともに見慣れない水甕モーナムが見えた。よくよく聞くと、40年前(ベトナム戦争後)、ベトナム人がこの村に1カ月ほど滞在し、土器を作っていたという。当時、ベトナムはラオス人の職業訓練のために各地に技術者を派遣していたそうだ。モノは黙して語らないが、そんな政治や経済政策を反映してそこにあるのだ。

 

この正月はどこを走ってもお寺のタンブンと言って、村人が車を止める。2,000~5,000kipほど差し出すとにっこり笑って小さな飾りをくれる。徳を積めるなら幸いだ。あくまでもお布施。にっこり強盗とは言うまい・・・・。

 

 

 

タケークに戻り、NT村を探す。幹線道路から入る道がなかなかわからない。ようやく見つけダートを1時間走ると村へ入る細道にたどり着いた。もう日没で月が昇り始めた。

 

18:00暗くなってからようやく村に着いた。暗闇に異邦人が来たためちょっとした騒ぎに。やはりここも土器作りは6~8年前にもうやめたという。でも依頼があれば作るよ。というので年明けに出直してくることにした。

 

 

 

2013-01-13

楽しい家族

夜は町で唯一というゲストハウスに泊まる。あたりは真っ暗。車はほとんど通らない。星空が本当にきれいだ。夏の高畠を思い出した。

隣の食堂で晩飯を食って戻ると、外でGHのママさんがパジャマ姿で息子とトランプをしている。我々も入って夜更けまで盛り上がった。マイ・チュア(「信じないよ」の意、日本ではダウトというゲームに近い)や“豚のしっぽ”みたいなゲーム(瞬発力が問われる)。ババ抜きや七並べもやった。ラオス人、タイ人、日本人、トランプに国境はなかった。

負けたものがビール1杯を飲む。いちばんいい思いをしたのはママさんだ。自分とは関係なしにビールの売り上げが伸びる仕組みだから。最後は娘さんや酔っ払った深夜番のいとこも混じって楽しい夜をすごした。

19:30 あたりはもう真っ暗だ

母と子どもたちを囲んでトランプで盛り上がる

2013-01-13

男性が土器を作る村(その1)

12月27日

●NB村

メコン川に沿って50分車を走らせNBという村に着いた。

ここはカムワン県では有名な窯焼きの村である。100名余りの男性がクロック(搗鉢≒擂鉢)を作っている。電動ロクロを使う人もいるが、伝統的には回し手と挽き手が2人で組む手回しロクロである。昨年訪ねたルアンパバン・チャン村のように夫婦の場合、男二人で成形する場合がある。

これだと何の変哲も窯村なのだが、ここが変わっているのは、男性が土器の水甕モーウナム(・小型鍋モーケン)を野焼きで作っていることだ。土器は本来女性の仕事のはず。なぜ、ここでは男性が行うのか。

現在、土器を作れる男性はもう2人しかいない。その一人、Tさん(62歳)のお宅を訪ねる。ことしは稲刈りが終わったばかりでまだ作っていない。粘土も用意していないということで後日訪ねる約束をする。

田の中を15分ほど歩いて窖窯を見に行った。稼働中の窯は村はずれに10箇所ほど点在しているという。不思議に思った。なぜか成形場所の近くにまとまらないんだろうか?

答えは「アリ塚」を利用して地下式窯を築くからである。東北タイのダーンクウィアンや北タイのムアングンなど、古くはみなアリ塚に窯を築いたと聞かされていた。森や田の産米林に形成されるアリ塚は土が硬く天井が丈夫だからだという。ここだと3年~10年はもつよ。ほかにも地下を掘る労力や雨季対策などが考えられる。冷却中の窯を見せてもらった。チャン村と違って、クロックは還元がかかりよく焼きしまっていた。

●SL村

午後はタケークから一路東へ、奇岩が林立する石灰岩の山並みを縫うように走った。この先はベトナムである。60kmほど走るとヨモラートという小さな町に着く。さらにSL村を探しダートを走る。途中橋が壊れており迂回する。

ようやくたどり着いたが、土器作りは10~15年前に途絶えたという。かつて作った経験のある女性が3名いた。水甕モーウナムはやたら胴長である。

道具はもうないから今は作れないが、用意して見せてあげるからまたおいでと。う~ん…….

 

Old three potters

村の子供たち

おそるおそる渡る

 

2013-01-13

タケークに入る

 

 

12月26日

 

タイ、今年の年末は平穏

マハサラカムで今回の同行者3名と合流。今日はラオスへの移動日。

カーラシンからサコンナコーンを経て、新しくできたナコンパノムのフレンドシップⅢを目指す。途中の山間部で野生サルの群れに出会う。国道沿いで餌をねだるようなしぐさ。人慣れしているようだ。いずこも同じ。ほどなく行くと、今度は「野生ゾウに注意!」の看板。さすがタイである。

 

ナコンパノム-タケークのイミグレーションは閑散としていた。施設は何もなく、人もいない。ここではラオス側の出入国カードも省略されている。

同行のタイ人女性はパスポートを忘れ、IDカードで入る(3日間はOK。実際は罰金を払って延長)。

野生ゾウに注意

国境のメコンを渡ると車は右側通行に変わる。車はイミグレーションを通るだけで関所が3つも4つもあって細かくお金を取られる。

 

 

 

 

夕方、ラオス・タケークの町に入った。    

 

生徒たちの下校風景

フレンドシップⅢ

タケークの街の建築

 

 

 

  

 

 

 

 

 

クリスマスケーキ

メコン河畔で 今年は時々停電する

 

  

2013-01-13

最後の女性たち・・・歴史の語り部

 12月25日

 

国境の町ノーンカイに来た。メコン川にかかる国境の橋(フレンドシップブリッジ1)をたくさんの車が行き来する。川岸にはラオスに送る建材を船に積みこむ労働者が上り下りしている。

 

 

 

●ND村

Kさんモーケンの成形

市街地から10分ほどの所にND村はある。Kさん(45歳)はこの村最後のポターになった。皮肉なことだが、周りのみんなが辞めたため、逆に注文がそれなりにあるという。現代的な貯金箱やタイスキの鍋も作る。忙しい時は引退したおばあさんをヘルパーに雇うのだと。この村も100年前、コラート(現在のナコンラチャシーマー)から移住してきた人たちによって開かれたという伝承を持つ。したがって、土器作り「タイ・コラート族」(Lefferts&Cort2000)の技術と共通する。ここで作っている水甕モーナムには高台が付かないことを記憶しておこう。

 

粘土採掘場

仕事場の傍らに木製の鋤(スコップ)があるのを見つけた。これは以前が学生たちと尋ねたマハサラカム県のモー村でみたものと同じだ。聞いてみると池(国有地)から粘土を掘るのに使うという。そこで採掘場所まで案内してもらった。周辺には青々とし、忙しく二期作の田植えの最中だった。

 

 

●KS村

  

この時期、イサーンの北部はウドンターニーを中心にサトウキビを満載したトレーラーが国道を埋め尽くす。巨大なプラントの煙突から白い煙が何本も立ち上る。 

ノンブアランプ―県の東端にあるKS村はコンケーンのWT村から分かれた村である。ここでも土器作りの多くの要素が共通する。水甕モーナムに地元の世界遺産バンチェン遺跡にちなんだベンガラ模様を取り入れて付加価値を高めている。面白いのは小型鍋モーケンがイサーンスタイルではなく、タイ中部スコータイスタイルなのである。世界遺産スコータイの町はここから西約300kmにある。村を走る国道はイサーンの北部とスコータイを結ぶ幹線道路である。村は物流拠点にあり、国道沿いの出店ではスコータイやダーンクウィアンなどタイ各地の焼き物を集め、販売している。10年前にできた窯は、スコータイから職人がきた職人が作った。モーケンも教えてもらったそうだ。

スコータイスタイルモーナム

人やモノが頻繁に移動するなかで、この村では鍋の形をイサーンスタイルからあこがれ意識の高いスコータイスタイルに変えたのだ。

 

 

 かつて訪ねたスコータイTR村は旧王都らしい装飾性の高いモーナムを作り、低コストの野焼きをしている。一方、コラート近郊にあるダーンクウィアンはタイ屈指の窯業地として知られるが、生産の効率化・量産化とともにコスト高が避けられなくなっている。確かに窯焼きの燃料消費はすさまじかった。年々卸価格が上昇しているそうだ。スコータイからの製品がおしゃれで安いからよく売れるよと。なるほど。

KS村の土器作りも風前のともしびである。いまは3~5軒に減った。Sさん(59歳)・Nさん(37)母娘いわく、いまはサトウキビの収穫と炭焼きが忙しいからまだ作らない。現金収入を得る

バンチェンスタイルモーナム

ための手段が優先される。粘土採掘場の池が、灌漑用貯水池に大規模に造成されてしまって粘土を掘るところがない。あと何年続くだろうか。

 

○NBKS村

ノンブアランプ―県を西の山間部に向けて走る。ここでも道路脇にはトラックが落としていたサトウキビが散乱する。

この村の土器作りは途絶えてしまった。Bさん(65歳)は2年前にやめた最後のポターだ。年取ったのと目が見えないのでやめたよ。以前は10人はいたね。3年前に一人になった。ひと月前に連れ添いを亡くしたばかりだという。

Bさんに移住してきた頃の話を聞く

Bさんは48年前、コンケーンのWT村から最初に移住してきた家族の一人だ。いま48歳の長男がおなかにいる時だったので記憶が定かである。3世帯は田を求めてここにたどり着いた。近くに粘土が取れる場所があったからここにしたよ。あとから続いて来た世帯もあったそうだ。おなかに赤ちゃんを抱え、まる3日間、100kmを歩いてここにたどり着いた。

 若いころ土器は1個2バーツだったよ。粘土は池で首まで水に浸かって掘った。ここにも木製の鋤があり、たまたまバンコクから帰ってきていた息子さんが使い方を説明してくれた。生粘土を使う伝統は故地と共通する。

 

 

 

 

2013-01-13

土器作り女性たちのセーフティネット

12月24日

ラオス入国前にタイ東北部の村を訪ねた。

窯やロクロを使わない、伝統的な土器作りは女性の仕事である。東南アジア稲作農耕民の土器作りは乾季(農閑期)の副業として行われるのが普通で、世帯の一員として男性も粘土採掘や、野焼きの薪集め、行商などの労働を分担する例が多い。

夫や息子が補助的に関わる土器作りでは、彼らがいなくなると女性たちは困る。男は先に逝くのが常だ。実際に、夫の死亡や離婚によってお一人様になった女性は少なくない。高齢化して土器作りがしんどくなった頃に、大切なパートナーがいなくなると途方に暮れることになる。

 

コンケーン近郊のWT村。2年前にも訪ねた。女性ポターは10人に減り、伝統的な土器作りが廃れる一方で、男性が行うロクロ成形・窯焼きの植木鉢やタオ(七輪)生産が共存。野焼きは極一部で行われていたが、女性たちの作った水甕や土器も窯で焼くようになっていた。

 

村に入るとポンポンと軽快に土器を叩く音がする。訪ねたのはCさん(53歳)のお宅。現状を聞いてみると、あれから高齢の3名の女性が引退したという。

今日は大型の水甕モーナム20個を作っている。いつ焼くの?と聞くと、彼女は自分では焼かないという。夫が病気で具合がよくないからだ。よって、Cさんは向かいのBさんに未焼成の土器を売るのである。

この村ではウボンラチャタニーから来たロクロを使う男性が工房を開き、窖窯で土器を焼いている。自分で粘土を用意したり、野焼きできない女性は工房に雇われて仕事をしている。タイの土器作り村では高齢になった女性や様々な理由で一貫して生産・販売をできない場合、「ヘルパー」という制度をもっている。他の女性の家に出向き、叩き成形のみ請け負うのである。また、お年寄りが鍋蓋作りや七輪の灰落としの穴あけなど簡単な仕事を請け負うこともある。生まれつき手に障がいがあって土器を作れない女性が、みんなの粘土の足練りを請け負うという村もあった。女性コミュニティにおけるセーフティネットだ。 

 

WT村のかつての成形姿勢は、東北タイに一般的な、成形者が作業台の周りを何度も回る「人間ロクロ」だった。ところが30年ほど前から、行政の支援により導入された回転台を使用するようになった。(回転台を受け入れない女性が一人いたが、今年は病気で作っていないという)。蹴ロクロのように使うところが面白い。水甕モーナムは丸底だったが、12.3年前から高台を付けるようになった。

成形動作に無駄がなく、スピードが速い。大きなモーナムだと1日20個が普通。小型鍋モーケンだと最大70個できると。とんでもない数である。タイの多くの土器作り村では回転台の導入に失敗して放置されている。その意味では自らの動作習慣を変えた稀有な例と言える。

 

焼成は、伝統的な野焼きをやめ、村の3か所に設置された昇炎式窯や窖窯で土器を焼くようになった。今年訪ねてみると、昇炎式窯はすべて壊れ、新たに1基の窖窯が作られ、植木鉢やオブジェなどともに、すべてを3基の窖窯で焼くようになった。保守的で新技術を受け入れない村がある一方で、このように柔軟な対応、積極的に受容する村もあるのだ。 

 

 

今日はBさんの裏庭に設置されたばかりの窖窯の初窯の日だった。モーナムが300個入っているという。朝4時から焚いて、午後1時に閉めた。明日午後窯を開ける。燃料代は1,000Bほどかかっており野焼きよりはコストが高い。

 

この村では50歳代未満で土器作りをついでいる女性はいない。今後10年、どう変化していくのだろうか。

この村の住民たちはコラート近郊から来たと伝承される。そして50年前、さらに何世帯かが北に100km離れれたノンブアランプ―県KS村、NBKS村に移住した。基本的には農地を求めての移住であるが、付随して副業である土器作りも拡散していくのである。80歳代の母がKS村に住むと言う人もいる。

 親族が両村に分かれていることもあり現在も密接な交流がある。KS村は国道脇に位置するため、出店で土器がよく売れる。そこで、WT村で焼いたものをそこで売っている。WT村の土器のほうが赤くてよく売れるそうだ。

WT村でもクロック(擂鉢)のようなここで作っていない製品を他から買ってきて村で売っている。品数を多くして消費者を呼び込んでいるのだ。商売に長けている。

 

2013-01-13

ラオス・タイの土器作り村を歩く2012-2013

今年もお正月をラオス・タイの土器作り村で過ごした。

例年は一か所に滞在して、自然環境や世帯、ライフヒストリー、生業、土器作り技術、調理などを総合的に調査する。しかし、今回は2週間余りの間に16か所の村々を訪ね歩いた。

 

20世紀末~21世紀前半は、人類史上一万年にわたって継承されてきた「土器作り」という生業が途絶、あるいは大きく変容した時代として記憶されるだろう。急速な社会環境の変化の中で、その瞬間は突然訪れる。その現場に立ち会い、変化の渦中にある村人たちの声を聞きたくて通っている。

2012-12-28

今年最後の佐藤ゼミ発表は?

久しぶりの投稿になります。ライスです!!

今年もあと3日で終わってしまいますね…。今年1年、皆さんはどうでしたか?私は、忙しい日々が毎日続いてばかりで、ある意味充実してこの1年を過ごせたかなぁ?と思います。

 

さて、本題に入りましょう。

12月21日に、今年最後の佐藤ゼミがありました。発表したのは、都合により私1人だけです…。ちょっと寂しい気はしましたが、気を取り直して、頑張って発表させていただきました!!

 

発表内容は、「御徒組と先祖の繋がり」についてです。

前回の発表では、「分限帳」という史料を基に発表しました。ですが、その史料のくずし字を全て読むことができず、深く内容を追求することができませんでした。なので、今回の発表では、読みきれなかったくずし字の内容と前回の質問に対する説明を中心に発表していきました。

PS:今回も史料と画像が多くて、ゼミの皆さんにはページをめくる際、苦労をかけたと思います…。(汗)

 

ゼミの最後に、余った時間を利用して、青本を使いゼミの皆で互の短所・長所を見つめ直す…なんてこともやりました。

自分の短所・長所を10分で青本に書いたのですが、これがなかなか書けないっ!!短所はスラスラと書けるのに、長所は全く書けなかったです…。

その後は、皆で、その人の短所を長所に変えていきました。なんだか、心が軽くなったような気がします!

 

今度の佐藤ゼミは、来年になります。なので、今度の発表者は時間的にも余裕があるわけです!なので、来年のゼミの発表者には期待しておこうかな?と思っています。(笑)

 

皆さん、良いお年をお過ごし下さい!!

 

 

2012-12-23

雪舞う骨寺

 2012年も残り10日を切りました。一年とは早いものだなぁとしみじみ感じますね、KUSSYです。少しばかり報告が遅れましたが12月9日に岩手県一関市骨寺地区にて行われた『中尊寺米納め』へ参加してきました。この催しは、中世の頃より強い結びつきを持っていた骨寺荘園と平泉中尊寺の一端を現代に復活させ、この伝統を未来へと継承していくことを目的とし、その年に収穫した荘園米を中尊寺に奉納するというものです。

 

 前夜からの降雪により、骨寺は一面の銀世界となっていました。白装束や荘園米を担いだ蓑の行列と雪景色がマッチして、夢か現実かと思われるほど幻想的な光景でした。駒形根神社~慈恵大師拝殿までの雪で隠れてしまった田園沿いの道を進み、途中にバス移動も挿みながら平泉中尊寺拝殿まで巡行し米を納めました。

 骨寺地区のお爺さん・お婆さんから地元の小学生までと米納め参加者年齢は幅広く、この様にして上の世代から下の世代へと伝統の継承が行われつつ、中尊寺と骨寺との結び付きも継続していくのだと感じました。

 余談ですが、駒形根神社で頂いた甘酒が大変おいしかったです!甘酒と雪景色の組み合わせに風情を感じました!

 

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