土地の記憶が形象化された場所を遺跡という。そして、土地と会話する手段の一つに「発掘調査」がある。担当者はその記憶をよみがえらせる役だ。
土地に刻まれた記憶は発掘調査してもなかなか答えてはくれない。しかし、その記憶の一部をとどめ置くことはできる。そうすれば、また多くの人々がその記憶と対話する。
土地が語る記憶は一つではない。時代とともに違った語り口がある。対話する人によって聞こえる言葉も違う。遺跡とはそんな場所だと思う。
埼玉県鳩山町赤沼瓦窯ーかつてこの遺構を残したいと思った人たちがいて、その努力で発掘した窯跡に覆い屋がかけられた。廃屋のようになってしまったが、周辺の確認調査が行われ、たくさんの窯跡・工房跡とともに、いま新たな史跡として現代によみがえろうとしている。土地の「記憶」が、ここの地域「らしさ」を物語るものとしてふるさとの住環境の整備に寄与するのだ。そして、この「廃屋」もその象徴として修理され、再生するという。
覆い屋を建てた人たちの想いに敬意を表したい。
当時の粘土採掘場の遺跡から掘った粘土で瓦塔を作る。惚れ惚れとするいい粘土だった。東日本の一大窯業地がここに築かれた地質的要因の一つはこの粘土だろう。耐火度は低そうだが、須恵器程度の焼きものでは良好な焼き締まりをみせる。
私の更新が遅いからこうなるのです
本当にすみません、いつも迷惑かけまくりなトラブルメーカーボーダーです。
最近は、パソコンと自分の体調の不良がいつくるのか、それにビクビクしながら生きてます。
パーカーさんが先に更新してましたが、このお話はその前の前の話になります。
Kさんと私の発表です。
Kさんは、おなじみ上杉謙信について。今回は、軍事面ということで川中島の戦いを例に戦略や軍功について発表されました。
今でも有名な川中島の戦いですが、実は私この発表を聞くまではほとんど知りませんでした(テヘペロ☆)。
私は、前回同様月事について。今回は『蜻蛉日記』なんかも使って女性視点から月事について考え、たかったんですけどね。
できませんでしたね。
卒論テーマもそろそろ絞れてきたかんじでしょうか。
私は、就活がなかなか進みません、圧倒的に足りない(エントリー数)。
載せるほどの画像もないのでここらへんで失礼します。
当日はあいにく小雨がぱらつく天気(この後本格的な雪!)となってしまいましたが、2年生の歴史学応用演習で長谷堂城に行ってきました。
はじめに本沢コミュニティーセンターの大沼さんに、長谷堂城の要所要所にて城のつくりや仕掛けなどをご説明いただきました。長谷堂城から上杉軍陣屋までの距離や山形城の方角など、お話を伺いながら実際に見ることができました。
日頃授業で読んできた、最上義光や伊達政宗の書状の内容など、改めて実感できたひとときです。
このあと場所を本沢コミュニティーセンターに移し、ボランティアガイドの会会長の伊藤さんから、慶長出羽合戦について、身振り手振りを交えてのお話を伺いました。
この合戦に由来して、いまでも十三夜の月見の餅は急いで食べなければならないという伝承など、地元に言い伝えられてきた興味深いお話が盛りだくさんでした。
お寒いなか我々のために現地でいろいろとご案内いただいた大沼さん、また熱い思いがひしひしと伝わってくる語り口の伊藤さん、本当にありがとうございました。
すっかり、寒くなり、雪も降り、風邪も流行に乗ってきました。
朝と夜が寒いので、みなさん風邪には気を付けましょう!
なぜなら、佐藤ゼミは前に週ごとに風邪をこじらせる人が連続したので…。
それなのにアイス食べたいとか言ってすみません。反省はしていませんが、言っとくだけ言っておきます。
さて、今回は、わたくしパーカーとstagさんと先々週の(もう先週の話なので)弁慶さんの史料の残りを発表しました。
なので、弁慶さんの発表は、先々週担当の人に任せます。
では、発表の内容の方に移ります。
まず、一コマ目のstagさんの発表は「大石田河岸における最上川差配」についてでした。
狙いは大石田河岸の利用方で、中でも最上川差配を重点的においたそうです。
大石田河岸は、最上川流域中部に位置し、上流には三難所を控えた中継河岸とされ、領主的運輸機構の中枢として発展した。
最上川船差配では、村役人が船肝煎を兼帯、他に船差と呼ばれる船問屋によって行われ、通船毎に取り立てた差配料、商荷運賃の十分の一庭銭の分配を行った。大石田河岸における川船差配は、村請の形で請け負われ、これに船方の代表として船差が加わる形となっている。
上記は、レジュメから一部抜粋してきました。
他に史料を読んで気になったワード「登荷物」
これが大石田から酒田を抜け大坂へ送られると説明にありましたが、船の航路を表すものなのか荷物自体をさすのか気になるところでした。
他には、古手ですね。”ふるて”と読むそうです。
中古品のことで古着も含まれるそうです。
廻船のことについては、知識が無いので毎回発表される度に勉強になっています。
次いで、私の発表です。
時間的に40~45分くらいしかなかったと記憶しています。
その中で急ぎ足で発表しました。
今回も義経関係で、テーマは「義経伝説と義経神社」です。
義経神社は、私の地元北海道平取町にある神社です。
平取は”びらとり”と読みます。間違えてひらとりと読まれるので念を押しておきます。びらとりです。大事なことなので二回言いました。
では、内容です。狙いは、義経伝説と義経神社の記述を重点的に調査しました。
義経伝説の記述では、義経が平泉を逃れ蝦夷に逃れたという記述と義経意外にも安倍氏と呼ばれる一族内でも敗戦後蝦夷に逃れるという逃げ道の手段があったようで、藤原泰衡も蝦夷に逃れようとして肥内群贄柵で討ち取られた。しかし、義経が蝦夷に逃れたという説は、裏付けがあるわけではないので、史実とはされていない。
義経神社では、創建説が諸説あり、一般的には1799年幕史近藤重蔵が蝦夷地探検で訪れ、義経がアイヌの人々に信仰されていることを知り、翌年に神田の仏工に彫らせた義経像を平取のハヨピラに寄進したのが始まりとされている。なお、この義経はアイヌの英雄神オキクルミと同一よ見られている記述が新井白石の『蝦夷志』などに記されている。
上記は、レジュメの一部を簡単にまとめたものです。
今回も決定づけるような史料を見つけてくることができず、調査対象が北海道なので書籍も山形の図書館では少ないことが仇となりました。
次回の発表は冬休み明けなので、現地に調査しに行ってきます。
では、長くなりましたが、ここでパーカーからの発表報告を終わらせていただきます。
画像は、stagさんの使った史料とわたしの蝦夷志の一部です。
ふじさん!パソコンは大事にしますよ!!
2年生が夏に体験した発掘調査を振り返りながら、遺跡を掘ること、残すこと、現代社会における考古学の役割について話し合った。
考古学をすることを通してあなたはどんな「美しいもの」「価値のある」ものに出会うのか。炎天下で行った発掘であなたは何を発見したのか、どんな未知なる自分と出会ったのか?
「自分の頭で考えられることはたかが知れている」これは私の恩師の一人が教えてくれた大切な言葉だ。
それは、体で考えろ、という意味と大勢の意見をぶつけあえ、という二つの意味を持っている。
わたしは前者の意味のことを現場でいつも言う。
今日は後者の番だ。
さすがに7人いると、直球、カットボール、スライダー、シンカー、フォーク、ナックル、大暴投・・・。実に面白かった。ボードに並んだ様々な意見。3時間があっという間だった。
かわるがわるやった座長もたいへんだったろうが、いい経験になったはずだ。まだまだ頭はかたい。だが意外と発想転換できる柔軟さをもっていることも発見した。今後が楽しみである。
高畠町日向洞窟(国指定史跡)は、1万年あまり前、氷河期が終わり人類が定住的な生活をしはじめた縄文時代草創期の遺跡である。1987年、洞窟西側の畑が町教育委員会によって発掘され、石器製作址から大量の石器が出土した。
3年生たちが石器の勉強にやってきた。
優美な石器や石核、大量の剥片に混じって出土した土器の量は本当に少ない。「人類が化学変化を利用した最初の発明」とも言われる土器。土鍋として使用するに足りる作りはしているが、薄作り・控えめな装飾以外、さして特徴はない。
しかし、石器作りへのこの異常なエネルギーはなんだ。
先史から古代・中世の土器を通時的にみていると、その強弱が繰り返す。かねがねそう思っていたが、石器技術もそうらしい。モノは社会をうつす鏡である。
モノの向こうに人・社会がみえるか。みようとするか。その目線と方法を獲得しよう。
高畠町にて
大変おひさしぶりですね、ふじです。
先日このブログを更新しようとしたところ
パソコンが動かなくなりました
もちろんそれだけが理由ではありませんが、、、
ところで、先々週もゼミのメンバーでパソコンが壊れた人がいました。
歴産3年生の学生は、これから卒論でパソコンを使う機会が増えていきます。
使用時間はもちろん、資料とパワポ作成でパソコンにガンガン負荷をかけていくと…
ぷちん。
ってキレちゃうんですね、ハイ。みなさんもどうか気をつけてください…
さて上記に絡めて本題ですが、いつも授業の様子ばかりなので、今回は授業のために使う資料(レジュメ)に注目して感想書きますよ。
たとえば同ゼミのライスさんは、なんと崩し字の史料の解読を数週間にわたって訳して資料を作っています。私がゼミ室に入るとそこには事典片手に悪戦苦闘のライスさんと先生が…
また、使いたい史料がメンバー同士でバッチングするという事例もあります。とくに「枕草子」が牛車と月経の両方で重要参考資料だったので大変だったよね…
そのほか、史料が無い、あっても散逸している(代表事例:最上)などなど…
こんな感じで血と汗と涙の結晶として出来上がるのが発表資料つまりレジュメなのです。卒論のこともあるのでウチのゼミのメンバーは皆パソコンで作っているようです。
なので…
みなさんくれぐれもパソコン様の機嫌を損ねないように!!
学生たちとともに村をあるく「高畠まちあるき」の活動は、2年目を終え、これまでに160軒あまりのお宅を訪ねてきました。
四季の移ろい、そのときどきの風景とともにたくさんの出会いと会話が記憶されています。日常の暮らしのなかに、地域を生きるうえでの大切な考え、ひたむきな生きざまに触れて美しいものをいくつも学ばせて頂きました。そんな小さな経験の積み重ねは若者の人間形成にも少なからぬ影響を与えているのではないかと思います。
学生たちに土地の歴史や生業・技術をうれしそうに語ってくれる住民の方々。石を持続的に利用してきたあたりまえの暮らしやありふれた風景にあこがれや価値を見出す人がいる。それに気づくことで自らのふるさとの良さを再認識したと言ってくれる人がいます。
このような双方向的な響き合いがまちあるきの楽しいところです。
知らない土地をあるくのは不安があります。面識のない人と会話するのは気がひけます。
いやな思いをしたり失敗しながら「倫理・振る舞い」や「コミニュケーション」を学んでいくことが大切です。
未知の世界と関係を切り結ぶ「偶然性の喜び」に目覚めた人は前に進むことができます。「出会い」を楽しむことができる人は豊かな人生を生きるといいます。
「まちあるき」を通して、そんな感覚が学生たちに芽生えてきているのをとてもうれしく思うこのごろです。