人生の先輩たちがライフヒストリーを若者のために訥々と語ってくれる。
最初は、断片的で、私的であるが、やがてひとりの、家族の人生ドラマとなり、それが束になってこの地の生業や社会の歴史としてリアリティーをもって我々に迫ってくる。
地域に根づき真摯に生きてきた人々の語りに耳を傾けられる幸せ。自分と向き合う時間だ。
Aさんは石を切って50年。その歴史と仕事(作品)を写真をみながら一つ一つたどる。地元だけでなく上山や寒河江にも鳥居の部材を切り出した。6mの角石を矢で剥がす。写真見る限り矢は30本以上あった。その重さで土ゾリがしなって危うかったと奥さん。
なぜ山石工が田んぼを持つようになったのか。興味深い話だった。
印象的だったのは奥さんが旦那さんの仕事の時期と内容を細かく記憶していること。石工の女房が影でその仕事を支えてきたことが垣間見えた。
二井宿街道の特徴的な景観構造物として円筒形の「サイロ」がある。
酪農が盛んだったころ、トウモロコシ等の飼料を保管する施設として各家庭に作られた。地場の資源と結びついて高畠石製のサイロができあがった。面を50cm角に仕上げ、アールを付けて円筒形に積み上げる。
しかし、現在残るのはコンクリート製のものがほとんど。オリジナルの石製サイロは少なくなった。
これは平成10年に開園した町の歴史公園とかかわりが深い。
この時に舗道に使う敷石材として、サイロに目が付けられた。サイロを一斉に壊し、その部材を薄くスライスしてこの材料としたのだ。新たな用途に再生されたわけだ。
まちあるきをしながらサイロが林立した昔の姿をふと想像してみる・・・・
石製サイロが消えるのがあまりにも急だったのと、再生方法が原形をとどめない形で行われたのはちょっと残念な気がしないでもない。
Uさんの庭をみていて、ふと顔を上げると巨大なサイロ?が目に飛び込んできた。
家人にたずねると、これは某酒造と当家の給水塔らしい。合点がいった。それにしてもすごい!用途はサイロではないが、かつてあった石製サイロのシンボルとして十分な迫力を持っている。
どうも、佐藤ゼミ一体力のない男こと弁慶です。ひとつ前のパーカーに引き続きゼミ旅行二日目のことについて書きたいと思っています。
ちなみに安土担当?です。
二日目は、安土城郭資料館→信長の館→観音寺城跡の順に回りました。
城郭資料館では100%間違いないとは言い切れないとはいえ、安土城の1/20スケールが展示されていました。すごい迫力でしたよほんと。
信長の館では安土城上部が展示されていました。
ここでも圧倒されっぱなしでした。
さて、肉体的にはここからが本番でした。観音寺です。観音寺山という山はなくて、標高433mの繖山(きぬがさやま)という山に観音寺と観音寺城跡があります。
ちゃんと石段があり、本格的な登山ではありませんでしたが、あんなにきついとは思いませんでした。
途中で一人だけへばったりしてみんなに迷惑をかけてしまいました。でも、その甲斐あって観音寺城跡の石垣をみることができました。石垣全盛期ではなかったのに、かなり本格的だったので驚きました。
画像を載せて締めたいと思います。
上から安土城1/201スケール
安土城内部
観音寺からの風景
観音寺城跡の石垣
観音寺城跡の本丸跡
です。
では、三日目をお楽しみに。
終盤に入り、難敵が続く。
どこのお宅も奥が深い。裏にまわると続々と石が顔を出す。下駄子町はかつて屋代川やその支流の氾濫に悩まされてきた。梅雨時期にはしょっちゅう水がついたそうだ。
AさんやTさん宅の東側には本格的な石塁が築かれていた。信玄堤や直江石堤には規模では及ばないが、石の産地−高畠らしい切り石積み石垣である。家人は先祖が作った遺構として誇りをもって保存している。
Aさん家の前面を区画する石塀は、増水した水が家に流入しないように作ったものである。入り口には堰板をはめる溝がある。
ここでは農業用水から取り込まれた入川樋(イリカド)が各家庭を順に潤す。床下に入り、台所や庭の池を通って水をリレーする。渇水期の現在も水は流れている。
水と共に生きる。
秋になり田の稲穂も垂れてきた。
連日、最後の出荷の時期をむえているデラウエアを食べながら石の話を聞いている。
今日は、仕事が終わってから久しぶりに日本製乳と瓜割山を訪ねた。
夜はゆうきの里に泊まる。
Sさんの差し入れで豪華な夕食。温泉の後は夏の名残りを惜しむ花火大会。最後は火の回りを輪になり、マイムマイム(踊りはしないけど)。
その後、まちあるきのまとめ方について日が変わるまで議論・・・・休み石さん、ナツカワさん、ドンヅキさん いつのまにか石のニックネームの話に脱線し、就寝。
お久し振りです
佐藤ゼミのパーカーです
何故、急に書き込みをしたかというと、タイトル通り9月1日〜4日までゼミ旅行に行っていたからです
知っての通り、滋賀県は琵琶湖とひこにゃんがいる彦根城が有名です
そして、私が担当するのは1日目の彦根城です
初日というとことで、移動に時間を取られてしまい彦根城を見るのが慌ただしくなってしまいました
1時間の中で博物館と天守の中を見れたのは、ゼミ生と先生の動きが今まで見たことない程に素早かったらだと記憶しています
ここからは、行ってみてわかったことなどを載せていきたいと思います
まず彦根城博物館ですが、館内では、有名な井伊の赤備えの具足に始まり、雅楽の楽器や能装束、茶道具、古文書、庭園の展示がされていました
中でも刀の展示で、ゼミ内でも話題になった柄が青色の刀があったことでした
青色の物は珍しいそうで、地味だと言われていましたが、展示されていた物を見た時は、綺麗な刀という印象を持っていたので、今回見ることが出来て良かったです
そして、井伊家が能や雅楽や茶道などに深い関心があったのは、江戸時代の武士の心得とされいたからのようです
江戸時代の武士は文武両道を求められていたように思えました
そして、井伊の赤備えは武将1人ではなく、藩主以下家臣団までもが、甲冑や旗指物を朱色で統一したものを呼ぶようです
ルーツは甲斐の武田氏にあるようで、徳川家康が井伊直政を強力な大将にするために武田の遺臣を中心とした117名を直政につけ軍事力の増強を図りました
勇猛で知られた武田家有力武将、飯富虎昌らの赤備えにあやかり、軍団を赤一色とするように命したそうです
直政は徳川家臣団の中で最強といわれるようになり、徳川四天王の1人に数えられたので、赤備えの効果は効いたようでした
これまで井伊家のことを知れていなかったので、今回のゼミ旅行はいい機会となりました
次に彦根城ですが、天守に上ってきました
彦根城の石垣は立派で、どの城でも思うのですが、当時の人達は現代のような便利な機材が存在しない中で、大きな石を運んで積み重ねたのか、当時の建築技術の高さが想像できました
石垣脇を通り、門を2つ抜けると本城に着きます
天守の階段は急になっていて現代人の足には負担がかかりますが、同時は、敵が容易に天守まで上って来られないようにする防護の場所でもあっただと思いました
天守からは彦根市て琵琶湖が一望できました
ここから戦の指揮や戦況を考えていたと思うと、城の重要性を感じることができました
まだ語りたいことはあるのですが、文字数の関係上ここまでとさせていただきます
刀の画像、右側が柄の色が青色の物です
見えない方はクリックお願いします
それぞれ写真をアップしていたので、アップして見たい人は画像を、クリックして見てください
それではパーカーからでした
次、2日目安土担当の方にバトンタッチです
今日もたくさんの人たちと「石」談議に花が咲いた。
ここでは「石」といえば、いわずもがな高畠石だ。
かつて石を切っていた職人たちはみな80歳前後。出稼ぎと夏場の石切りの苦しい二重生活を語りながらも、その表情には腕一本で角石を切り出した自負がにじみ出る。
ある美容院の奥さんは改築にあたり、石が好きなので外装に古材を再生して利用した。
サイロのある荒れた土地を買って、これを保存しつつ周辺環境を整備しようとしている人もいる。
新築に際し、全く石を使わない家がある一方で、上記のように地元の石を愛し、これを持続的に利用しつづける人が大勢いたことが、二井宿街道のこの独特の景観を形成してきた。
生活環境が変化し、不要になった石製品に別の機能を付与し、再利用する。石臼や火鉢(ロブチ)、手水鉢、ナツカワなど。庭に見ることが多い。住宅の基礎石は改築すると宅地や庭の境界石・土留め石に早変わり。端材は材木置場の土台にしたり、敷地の傍示にする。余ったら集積し、次なる需要に備える。
気障にいうと「再生の美学」とでも言いたくなるが、住民にとってそれはあまりにも当たり前のことなのだ。
金原や駄子町ではクマ・サルの被害があいつぐ。
サルの群れが旧家の大棟に乗って遊んでいて破風を落下させたという話は笑えない。
発掘が終わって1日お休み。今日から高畠まちあるきプロジェクト夏休み編が始まった。1週間集中的に歩く。
残暑とはいえ、発掘現場からみるとずいぶん涼しい。住民の方々と木陰や作業場で高畠石を語らいながら、土地の歴史、個人の歴史をよみがえらせる時間は実に楽しい。
いつまでも話を聞いていたいが、先をいそぐ旅でもある。
昨年6月から牛歩のあゆみで二井宿街道を上り、ようやくぶどう・まつたけラインを越えた。めざす米鶴酒造はもうすぐそこだ。
予定より1日延びたものの、本日所期の目的を達し、戸塚山175号墳発掘調査が完了した。
今年度の主な調査成果
?1/100地形測量図を作成した。直径約15mの円墳である。
2年生+1年生の活躍と4年生の指導があった。
?墳丘東側のトレンチで墳丘盛り土の断面と周溝を検出した。盛り土端は石積みで土留めしている。周溝上層から墳頂部で破砕されたとみられる須恵器大甕等の破片が多数出土した。
?横穴式石室の実測図を作成した。玄室長3.5m。戸塚山では最も大きな石室の一つ。戸塚山タイプ石室の石積みの特徴が明らかになった。石材は凝灰岩質砂岩と頁岩の使い分け。
?前庭部調査区で羨道前面の石積みを検出した。大型石材3段積みで直線的。羨道入り口部には石敷き面(墓道?)が存在する。石敷きの西側から須恵器甕がつぶれた状態で出土した。同時に出土した須恵器杯から築造時期は7世紀後半と判明した。羨門部に伏せられていた杯は8世紀初頭のもの。時期差があり、追葬時のものか。
8月6日に始まった今年の発掘調査。これほど暑い夏はなかった。雨が降ったのはこの間、わずか10分ぐらい。
異例はもう二つ。調査中に現地説明会がなかったこと。毎夜資料作り追われることはなかった。現説は、これから始まる米沢市教委の発掘調査と合わせ、10月に合同でやることになっている。
そして、上記に関連し、最後の土のう祭り(埋め戻し)がなかったこと。やや盛り上がり(異常な興奮・錯乱状態?)に欠けた感はあるが、最終週は早出や遅仕舞いでささやかな土壇場を迎えた。
現場は4年生が指導的役割を果たし、各調査区担当の3年生の仕事を助けた。期間中皆出席の2年生が3年生と切磋琢磨し、いい刺激になった。そして1年生も序盤、中盤、終盤、それぞれの段階でかけがえのない人材として調査に貢献した。少人数ながらいいチームワークだった。
発掘現場の記録は、写真実測や3D計測、トータルステーション全盛のご時世である。そんななかで我々はあえて手測りの実測を行う。方眼紙をみるのはもう嫌というほど石の図を描いた。手測り実測は1点1点の石や土器片と対峙する作業である。この果てしない繰り返しの動作がモノを観察する、仮説を立てる時間なのだ。
現在の発掘現場では記録の効率化の影でそんな時間が失われている。図面や遺構の上に滴る汗、目にしみる汗、ひたすら石にコンベをあてた夏を忘れないでほしい。
再び、竹原ゼミのプリキュアです。昨日でとうとう長かったフィールドワーク特別演習が終わりを迎えました。今回は、8月29日〜31日までの活動について紹介します。
【29〜30日】
前田村文書の撮影です。
前田町睦会のみなさんにより、すでに茶封筒への袋詰めとナンバリング、一部の目録が作成済みでした。私たちは今回、撮影と茶封筒から中性紙封筒への入れ替えのみしました。結構さくさくと撮影が終わりました。
たくさん史料があるなか、まるで週刊少年誌のような分厚さのものがあり、1ページ1ページ全て撮影しなければならないため、うおお…、となることもありました。このとき、そのような史料が出てきたら、ジャンプと呼んでいました。
また、大きな横帳が出てくると見開きで撮影しようとすると撮影台からはみだしてしまうものが出てきます。そんな史料のために、新兵器のフネを使います。上の写真で、フネ、使ってます。史料の下にある薄い板っぽいそれです。フネは中性紙封筒で包まれています。なんでフネって言うのかは聞きそびれました。
南原公民館で撮影をしたのですが、クーラーきいてて扇風機もあって凄く快適でした。また、睦会の方がお茶ときゅうりの差し入れをしてくれました。私は自炊をまともにしないので、きゅうり久々で美味しかったです。みんな河童になる勢いできゅうり食べました。そして東文研の蛯原さんがアイスを持ってきてくれました。夏など忘れて撮影できました。
私は授業以外でフィールドワークにあんまり参加しないのですが、楽しかったです。わかんない〜私にはできない〜、なんてこと、なかったです。先生と先輩が助けてくれるし、友達が助けてくれるし、後輩も助けてくれるし。助けてもらったおかげで、ようやっと私も撮影、覚えました。あと、もっとピリピリした雰囲気の中で撮影するんだろう…と勝手に思っていたんですが、適度に自分のパートナーと雑談したり、気が滅入ってどうしようもない!なんてことも起こりませんでした。
実践、と聞いただけで苦手意識を持ってしまっていましたが、そんなことなかったです。たくさん笑いました。
【31日】
最終日は撮影した前田村文書の画像処理と目録を作成しました。
画像処理ではあまりすぎてる余白をトリミングして見やすくしました。撮影した画像を見返していると、余計なマグネットや指が写り込んでいたり、撮影に失敗しているものをたくさん見つけて、みんな落ち込みました。でも、失敗しないようにと張りつめた環境の中で撮影するのは心身ともに疲れてしまう…。ので、あくまで丁寧に撮影するようにしましょう!これから!
目録作成は、自分のパートナーと一緒に行いました。撮影した画像を見ながら、くずし字で書かれた史料とにらめっこです。くじし字の辞典ともにらめっこです。私のパートナーはスガヌマ様で、彼はとても真面目でくずし字もセンスがあるので圧倒されました。私はくずし字苦手なので、くずし字辞典で史料にある字と似たような字を見つけるたびにスガヌマ様に鑑定してもらいました。
自分一人ではどうにもわからないことも、パートナーがいれば少し先に進めるかもしれません。また、もっと人がいると、同じような史料で目録作成している人に聞くことだってできます。
授業の終わりには、みんなで月〜金の活動報告をしました。今回経験してみてわかったこと、改善していかなければならないこと、自分が興味をもったもの、などなど、建設的な報告会だったと思います。とりあえず、フネは改良するらしいですよ。
授業のあとは駅前のお店にて打ち上げをしました。
5日間を通して、2年生と3年生、お互いを知ることが出来てだいぶ仲良くなったと思います。このフィールドワーク特別演習は2年生に積極的に動いてもらうために3年生が指示&サポート、運営するのがねらいですが、協調性を意識的に身につける、という先生の願いもありました。きっとみんなクリアできたはず!
次回の更新は、来週の月〜金までのゼミ旅行だと思います。たぶん毎日、誰かが更新すると思います。竹原ゼミの中で結成された旅行クラブは果たして自分たちで立てた計画を遂行できるのか?乞うご期待!
また来週。
キュアチヅルンでした。
戸塚山からこんにちわ、あべちゃんです。
連日の猛暑にも負けず、最近は実測に明け暮れる毎日です。
とにかくあつい・・・めげそうになる・・・そんな私達をおいしいお昼で支えてくれる食堂あかおにをご紹介します!
素敵なお姉さま方とおいしいご飯があるそこは、まさに楽園です。毎日お昼のあかおにタイムが私の心の支えです。いやほんとに。
今日は今シーズン最後の日。一か月お世話になったお礼と、毎年恒例の記念撮影をしてきました。
さて、あかおにに通ったことのある方ならだれでも知っている・・・(?)そう、
毎週金曜日はカツカレー
今日は最後ともあって、ほとんどの人がカツカレーでした。幸せすぎる満腹具合。午後の活力です。幸せついでにとなりの席の後輩のみっちゃんにカツをおすそ分けしました。とても嬉しそうでした。
3年間通ったあかおにも4年の私にとっては今日が最後…
あかおにからも卒業か!?と思いましたが、
Wさん「来年もこらんなねべ!また来年な!」
との嬉しい一言により、あかおに卒業はもちこしとなりました!またきます!
今まで沢山の先輩方があかおにに通い、お付き合いは10年以上です。棚には、毎年撮った写真、プレゼントしたTシャツを飾っていただいています。これからもきっと、沢山の後輩が通うことでしょう。今までお世話になりました!これからもよろしくお願いします!
一年生の4年間あかおに記念写真に写り続けるという話…
私は達成されることを祈っているよ!!!!
さて、現場の方は
今日で作業は終了・・・ともいかず、明日も作業は続きます。まだまだ暑く、体力は奪われるばかりで、仕事もまだ残っているけど、なんとかする精神で明日も乗り切りましょう!!!!!やるぜ!!!!
以上、戸塚山からあべちゃんがお送りました。
かまどうまとは知り合い程度になりました。
PS,来週の高畠まちあるき、参加者まだまだ受付中!