歴史遺産学科

歴史/考古/民俗・人類
*
2012-01-18

雪だるま


今日はぽかぽか良い天気!!こんな天気が続けばいいのに・・・。鏡橋から池を見ると池の上の氷の上には無数の足跡が、、、毎年いるんですよね〜滑りたい願望を抑えられない人。大学の池はスケートリンクではありません!池の氷も大分溶けてきていて危険なので、池には入らないようにしてほしいものです。。。

池の近くには大きな雪だるまが☆3段でなんとも可愛らしいです!そして準備室にも小さな雪だるまが・・・。

さてさて卒展まであと約1か月、今の時期、特に4年生は大忙しです。
歴史遺産学科の展示は2月14日(火)〜19日(日)本館409講義室・410講義室。歴史遺産学科の口頭研究発表会は2月15日(水)・16日(木)9:00〜 本館408講義室で行います。
4年生の集大成、今から楽しみです☆


2012-01-17

冬の田植え


 寒さが一段と厳しくなるも、ふと日が長くなったかなと感じる今日この頃、みなさんいかがお過ごしでしょうか。こんにちは謝ゼミのBawdiesです。

 今回は先日の14日に大江町で行われた雪中田植えという年中行事のレポを行いたいと思います。

 雪中田植えは小正月の予祝行事として行われる田植えです。その名の通り、雪の中で田植えを行います。と、その前に今回はせっかくなので15日まで行われたアオソについて取り上げた企画展の様子もレポしていきます。

 今回の企画展は歴産でもお世話になっている「あおそ復活夢見隊」の方々が主体となり田口ゼミのゼミ長さんも運営に参加して行われものです。

 展示だけではなく、アオソを実際にコースターなどに加工する体験コーナーもあり、この日は大勢のお客さんでにぎわっていました。

 正午には猛吹雪の中、年中行事である雪中田植えが行われました。見る方もする方も寒かったと思います。笑

 この後は地元の民話についての民話の会があったりを田楽豆腐をいただいたり、楽しいひと時を過ごしました。

 今回は大江町での展示で、足を運べなかった人もいるかと思います。でもご安心!来月の2月6日から図書館二階のガレリアノルドでも展示するとの情報を田口ゼミのゼミ長さんから聞きました。これはみんなで行くしかないですね!

 今月や来月は何かと忙しい日々が続くと思われます。そんな中ですので、皆さま体調管理にだけは気を付けてください。
 謝ゼミが誇る寒がりの申し子(ヒー〇テック買いました。笑)がお届けしました。長文失礼しました。

2012-01-12

卒論締切!!


今日は4年生の集大成、『卒論』の締切です!締切まであと15分!!去年は駆け込みが激しかったようで・・・余裕をもって提出してほしいものです。研究室でみんなで提出するゼミもあり、微笑ましい限りです☆
たった今締切10分前、4年生全員無事提出が終わりました。よかったよかった。。。
提出された皆さん、本当にお疲れ様でした!!

2012-01-10

秋山郷 その3

 こんにちは。歴産3年のさちこです。
今回は、秋山郷の郷土食「あんぼ」の紹介をしたいと思います。

 「あんぼ」とは、米粉で作った生地にあんこや野沢菜漬けを包んで焼いた「お焼き」のことです。昔は、どこの家庭でも朝食として日常的に食べていましたが、現在はお正月前や気が向いたとき(!?)に作る程度だそうです。


 栃の実を練りこんだ「栃あんぼ」、カボチャを生地に使った「カボチャあんぼ」などバリエーションも豊富です。また、米が現在のように手に入らなかった時代は、稗や粟を生地に練りこんでいました。家庭に囲炉裏があった昭和40年代ころまでは、囲炉裏の灰の中に入れて火を通していたのですが、現在はお鍋で茹でたり、茹でたものをストーブなどの火で焼いて食べるのが一般的だそうです。

 今回おじゃまさせていただいたお宅で、実際にあんぼを作るところを見せてもらいました!

 作っていただいたのは、米粉をお湯で練った生地に、野沢菜漬けを包んで茹でたものでした。米粉でできているためか、野球ボールほどの大きさでも結構腹持ちがいいです。米粉と野沢菜漬けのしょっぱさがよく合います。出来立てのあんぼ、おいしかったです。ごちそうさまでした!

2012-01-07

秋山郷 その2


明けましておめでとうございます、民俗の方のたかはしです。
まったりブログなんて書いてる場合じゃないんですが、気分転換に…。

さて、今回の宿は、鈴木牧之も宿泊したという民宿苗場荘。何回か秋山郷に来ていても私は苗場荘は初めてでした。

私の担当は、木工関係。秋山木工についてお話を中心に聞いて回りました。
秋山郷で現役最後の一人となったこね鉢職人さんにお会いしたり、当時、集落で一番に製材所を立ち上げたおじいさんなどなど。先生や集落のおばさんたちの紹介で、新たにたくさんの方にお会いし、お話を聞くことができました。
卒論でも、植物利用についてやっているので、こういうお話を聞くのは本当に面白いし、興味が尽きません。ブックレットでは、集落の変化を迎えた時期に、生活の中の一部である木工がどうなっていったか等々、紹介出来ればと思います。

さて、どんなブックレットになるかは、お楽しみですね。

2012-01-04

目からうろこが落ち、そして腑に落ちた!

D村の最終日。

 今日は村の北半と郊外で土器をつくっている人を訪ねる。

 人の話はできるだけたくさん聞いた方がよい。常々感じることだ。記憶は定かでないし、悪気はなくても適当に答えるもので、つじつまの合わないことは少なくない。それを物証で押さえながらストーリーを紡いでいく。何度も何度も検証を繰り返す。それが民族調査の醍醐味だ。
 以下はマニアックな話なのであまり気に留めないでほしい。

 この村のポターたちは今から26、27年前、役所の肝いりでバスに乗って先進地視察に出かけた。その先はなんとあのマハサラカム・バンモーだったのだ。2年前学生たちと訪ねた村である。ここから200km離れている。
 あるポターはそこで高台と蓋のついた新型モーナムをみた。綺麗だったと、その時の気持ちを語ってくれた。D村ではそれまで丸底で蓋のないモーウナムしか作っていなかった(需要は減ったが今でも作っている)。以来この村では新型水甕モーイオイの生産が始まった。
 さらに何年か後に、男性の蹴ロクロ作りの職人Pさんがこの村で作陶を始めた。これも役所の援助だった。彼女たちはPさんから花瓶や植木鉢作りを習い、モーイオイのパァ・ギャッなどを教えてもらった。彼の作陶の痕跡は今もお寺の一角に残っていた。
 実はパァ・ギャッの口作りがパァ・ベン平縁だったのだ。これ以来、お客さんの嗜好も加味し、飾りが無くてもパァ・ベンとしたり、デザインに敏感なポターは凹線紋風の口作りを始めたりと、バラエティーが増えてきた。
 このように一見バラバラに見えていたD村の土器の口縁部も、その歴史と製作者の概念から2種に大別することができた。
 消費者の嗜好に敏感なポターがいる一方で、かたくなにパァ・タマダ、パッコムしか作らないポターもいる。当初は年齢により分かれるのではないかと目論んだが、そんな単純ではなかった。技法に対する先取性、お客の動向に敏感かどうか。蓋に描く紋様へのこだわりなどとは対応関係がありそうだ。

 たかだか、これだけのことなのだが、私にとっては「腑に落ちる」大きな収穫だった。

 今年も村の人たちからたくさんのお土産をもらって帰ろうとしている。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 5年前にお世話(早朝から晩までの密着取材)になったNさん。若いころは韓国や台湾で働いた。以前いきなりハングルで挨拶されてびっくりした。今はゴムの収穫で毎日忙しい。土器は去年休んだけど今年は2月から作るよ!
ずいぶん痩せてしまったね、というとうれしそうにほほ笑んだ。
帰路20:30、ウボン空港からエアアジアに乗ってバンコクスワンナプーム空港へ。そのまま、23:55の深夜便で成田に帰るはずが、ブッキングを間違え1日早く着いた。仕方なく一晩空港で寝るはめに(10月は韓国で乗り遅れたが今度は1日早かった・・・・笑えない)。4月に来た時も空港で寝たので、いい場所はしっかり押さえた。お金があればバンコクに戻ったのだが、財布の中には100バーツ札1枚。風邪が悪化しだしたのとあわせ、ちょっと心細い夜だった。

2012-01-03

一人ひとりの声に耳を傾け、モノとワザを観察する。

 東南アジアの土器つくり村を歩いていると、それぞれの土地で、共通点や差異が見い出される。

 ウボン県のD村は水甕の口縁部端部に多様な形があるのが特徴だ。一見、バラバラにも見える。
 今回の調査の目的はなぜそうなのか?理由を探すためにやってきた。

 考古学者は土器の細かいつくりに注意する。とくに口縁部形態には異常なほど敏感だ。

 昨年来た時も、一人のポターの家に違ったつくりのがあったので聞くと、「そんなの去年と今年で違うわよ!」と平気で言うのだ。単純に職人の規範が緩い、自由度が高いなどと思っていた。

 多様な口縁部形態が生まれた理由を探すため一人ひとりから話を聞き、土器を1点1点実測して歩いた。

 初日の調査で、ポターの間にはパァ・タマダ(ノーマルな口作り)とパ・ギャッ(指で波状の飾り付けをした口縁部)、パッ・コム(丸縁)とパァ・ベン(平縁)という口作りに関する概念があることが分かった。

 Jさんが新型水甕モーイオイをつくっているのを見ていたら、12個のうち5個が丸縁で7個が平縁だった。葉っぱで口を水挽きする時の指の当て方が明らかに違うのだ。これまでは一人は一つの技法で成形すると勝手に思い込んでいたので、目からうろこが落ちるようだった。
 次々訪ね歩くと、やはり同じように両方の口作りをもつポターに出会った。これはいったいどういうことか。ある人は30年前から両方あるよ、私は3年前から平縁をつくったよ、などバラバラだ。私は丸縁しか作らないよ、いったいこれは?
 そして、旧型水甕モーウナム、鍋モーケン、湯釜モーヌンは、平縁がわずかで、丸縁が圧倒的に多い。
 これはきっと何かあるに違いない。わくわくしてきた。

 話は変わるが、朝一でYさん家にいくと見たこともないモーケン(消し炭入れに使用)に出会った。土器を注文し、取りに来たウボン・ワリンチャムラップ(1日に行ったC村のある地区)の人が持ってきたそうだ。よその村で作られた製品が持ち込まれる。我々は「搬入品」と称しており、遺跡でもよくあることだ・・・・

 

 

2012-01-02

岐路に立つ伝統的土器づくり

お正月の朝は車も人も少なく、商店は閉まっているところが多かった。みな帰省した子供や親せきとたのしい新年の酒盛りなのだろう。
2日になり、開いている店も増えたが、行きつけの飯屋はまだ休業中。

タイへ来ていつも不思議なのは、こちらの犬は左見て、右見て道路をちゃんと横断できることだ。もちろん人も交通量の多い道路を平気で横断する。中国ほどではないが、横断歩道や信号はほとんど必要ない。
信号機や交通ルールは「秩序」といえる。人はこれに従えば安全安心でいられるような気になる。歩行者信号を青で渡っていれば車は突っ込んでくるはずはないと思ってしまう。危機意識の欠如である。

ノーヘル二人乗りバイクが車の間をすり抜けるように走っている道路では車の運転もわき見はできず、細かいハンドルさばきがうまくなる。
車道には犬や牛や水牛もいる。気を抜けない。人もアクセルを緩めたかと思うと平気で飛び出してくる。あうんの呼吸で人と車が共存している。
ピックアップの荷台には人がすし詰めで乗っている。子供たちも何もつかまらないで楽しそうだ。先日の高速道路のバスと同様に急ブレーキを踏んだらみんな吹っ飛んでいく。

事故った時はダメージはあるが、どっちがいいのか考えてしまう。現代社会は秩序を選んで社会を作ってきた。これからもそうなるだろう。しかし、そのことで失うものがあることをしっかり自覚し、時には取り戻すことが必要だろう。

今日一日はなじみのD村で一人一人ポターを訪ね歩いた。
今は稲刈りを終えてひと月ほど。土器作りはまだ始めていない人が多い。もちろん、製作に熱心なポターはもう作っている。お正月も関係ない。
普段働き者の女性たちもこの時は、思い思いに集まりしゃべり、食べ、昼寝する。ごろごろして一日を過ごす。
ここでは4月のソンクラーンを大々的に祝うので、西洋暦の正月はそれほど重要ではない。バンコクに働きに出た子供たちが帰ってくる時期という感じなのだ。この日はUターン準備の若夫婦が何組かいた。
40代、50代のポターたちは10代後半にバンコクに働きに出、そこで結婚(婿取り)、出産して里へ帰る。そして土器づくりを再開するというのが典型的なパターンだった。
しかし、いまの子どもたちは結婚しても帰ってくる夫婦は少なくなった。逆に孫もりのために、婆さんがバンコクに行く時代になった。

村では土器つくりの傍らで現金収入を求めて新しい動きが加速する。2006年から始まったマンサンパラン(キャッサバ。タピオカでんぷんやバイオ燃料)、ヤンパラ(バラゴムの木)の栽培が田をつぶして行われている。村長も今年からヤンパラを始めたそうだ。毎日朝から晩まで仕事している。ゴムの木が生長するまで6-7年待つ。これらの作物は稼ぎはいいが、土地が荒れる弊害があるといわれている。
マンサンパランは芋のまま出すと3バーツ、スライスして出すと6.5バーツ。相場に変動がある。魅力的な金額である。

土器作りは販売価格が据え置きのまま、粘土や薪の材料費が高騰してきた(ここ5年で約1.5〜2倍)。そのためにここ数年でやめてしまったポター、継続するか、やめるか、岐路に立っている女性が少なくない。土器つくりの衰退は、貨幣経済の浸透が大きく、台所の電化やポターの高齢化だけが原因ではない。

2012-01-01

消える火、受け継がれる火


ウボン郊外に未知の土器づくり村があるとの情報でC村を訪ねた。

タイの大洪水はこの村も襲った。イサーンを流れる大河ムーン川が増水し周辺が水につかった。

ポターは10年ほど前までは3〜4人いたが、もう引退し誰も作っていないという。当時からのポターで生きているのはもう二人になった。75歳のG婆さんと85歳のC婆さんだ。

C婆さんは10月の水害で家の一階屋根まで水が来て、土器つくり道具はみな流されてしまったという。G婆さんちも1m50?ほど水につかった。小学校で避難生活をしていたそうだ。最後に作ったのは昨年の3〜4月。若いころは村で20人以上土器を作る人がいたらしい。なんとかヒアリングで土器つくりと野焼き技術の概要を知ることができた。彼女たちが作った土器は近所の人が持っているものが少数あるだけ。

またひとつ、長年伝えられてきた手わざが消えようとしている。自分たちにできるのはそれを記録し、伝えてきた人たちの声に耳を傾けること。

この村は現在、男性が参加するタオ(七輪)生産にシフトした。粘土がある地の利を生かし、もみ殻の覆いで焼くという野焼き技術を受け継ぎながら社会の変化に適応して自ら選択して変貌した。彼女たちの土器作りは消えても、その技術と知恵は確実に受け継がれている。


2012-01-01

世界遺産・カオプラヴィハーン


タイでは「カオプラヴィハーン」、カンボジアでは「プレアヴィヒア」と呼ばれている世界遺産がある。
アンコール時代の遺跡で「天空の寺院」として人気が高い。さならがアジアのマチュピチュといった感じだ。

1962年の国際司法裁判所の判決でカンボジア領とされ、2008年カンボジアの申請により世界遺産に登録された。
かつてはタイ側からも入れたが、これを機会に両軍がでて紛争となり、タイ側からは国定公園の入り口から先が入れなくなった。

周辺はタイとカンボジアが領有権を争う国境未確定地域にあり、毎年銃撃戦が起こる。2011年2月と4月には両国軍の戦闘で計28人の死者が出た。

この問題に対するユネスコの態度に疑義を抱いたタイは、国民感情もあり世界遺産条約脱退へと動いた(最終的には政権交代で撤回となったが)。
2011年7月、国際司法裁判所は両軍の撤退などを指示する判決を出し、両国政府は受け入れる方針で話し合っている。

朝のテレビニュースで新年をカオプラヴィハーンで迎える人々が映し出されていた。急きょ行ってみることにした。
行ってみると、かつて遮断されていた国定公園のゲートは通れるようになったが、遺跡の中にあるカンボジア側の小さなゲートが閉ざされたままで山の上まではいけない。タイ側からは残念ながら、長い階段を列をなして登っていくカンボジア人たちを望遠鏡でみるしかないのだ。

クメールはカンボジア人のアイデンティティ。しかし、タイ東北部イサーンにも南部3県を中心にクメール系の人がたくさん住んでいる。ラオ系の人々が主体のイサーンは、世界遺産アユタヤにつながるバンコク王朝に対して、地域内に点在するアンコール(クメール)遺跡を自らのアイデンティティとしている。その状況の中でこの状態はなんとも複雑だ。

カンボジア側が閉じているゲートの前には一歩でも近づきたいタイ人たちが集まる。そこへ向こうからカンボジア人のおじさんが近寄ってきた。煙草を売りつけている。ラークやマルボロがなんと1カートン160バーツ(400円ほど)という。怪しいと思ったらどうも箱だけで中みは偽物らしい。商魂たくましい。
道路脇や草むらには鉄条網が張り巡らされ、小銃を持った兵士がいたるところで警備している。紛争地のにおいがぷんぷんするが、観光客に交じった兵士に緊張感はないようにみえる。

岩陰にはたくさんのトーチカが設けられ、兵士が野営している。その間を縫って遺跡を見学する。寺院本体はみれないが、パーモイデンからのカンボジア平原、磨崖仏、サトゥ・コーなどを見ることができる。

ビジターセンターは模型があるのみでがらんとしている。アプサラ?の女性がやさしく並んで記念撮影してくれるのが救いだ。

遺跡は誰のものか。世界遺産という名の功罪を思わずにはいられない







最近の投稿

最近のコメント

アーカイブ

カテゴリー

メタ情報

東北芸術工科大学
TUADBLOG