今日は戸塚山の発掘はお休み。学生2名と鶴岡にいってきた。
福島大学が調査している菱津古墳石棺をみせてもらうためだ。昨年、一緒に戸塚山の測量をした3年、4年生がそれぞれ進級し、上級生として調査をけん引している。卒業生も応援に駆け付け後輩たちをサポートする。暑い中、先生の指導のもと、いい緊張感をもって濃密な時間を過ごしているように見えた。
午後からは、湯田川温泉を抜けて田川の里を訊ねた。
いまは途絶えてしまった「田川櫛」作りゆかりの家々を訪ねるためだ。学生とともに自宅に保存されていた関係資料をみせていただき、お話を聞かせてもらった。
偶然出会った資料から細い糸をたどっていくと、その糸は枝分かれし、からみつつもだんだん太く確かなものとなっていく。そしてその先に隠れた歴史がよみがえってくる。
卒論でそんな研究の醍醐味を味わえた学生は幸せだろう。あんまりプレッシャーをかけると・・・・
北野ゼミ4年のしまです。
9月にはいって秋らしいお天気になるかと思いきや真夏日だったり台風だったり・・・。
不安定なお天気の日が続きますが、考古学研究室は雨ニモマケズ風ニモマケズ発掘調査の日々です。
日曜日は戸塚山古墳群の発掘がお休み。
手下の3年生3人を連れて福田ゼミが発掘調査を行っている大江町の長畑遺跡に行ってきました。
きょうは台風の影響で終日風が強く、トレンチの中で砂埃が舞う・・・。
戸塚山とは違って日差しをさえぎる木がなくてなかなかの日差しでした。
ゼミの垣根を越えてお互いの現場を行き来するのも新鮮な気持ちになりますねぇ
あしたからは戸塚山に参ります。
北野ゼミの3年生も少しずつ現場になれてきて、少しずつ仕事が早くなってきました。
13日からの合宿に向けてがんばりましょうね^^
2年生が来たら君たちも先輩なのだよ・・・
あ、きょうの目標のひとつだった柳川温泉のソフトクリーム、おいしく頂きました。
では遺物整理も終わったのでかえりまーす
その前に手下たちとラーメン食べてきまーす
大学前の公園から正面道路に出る階段を上ろうとすると、手すりのところで蝉がミンミン鳴いていた。ふと眼をやると朝からカマキリと熱い抱擁の最中。カマキリは両腕でしっかり蝉を抱いてはなさない。はかない命の物語だ。
一日の作業が終わるとそれぞれがその日の成果と明日の課題について発表し、全員で確認する。
各自が仮説をたて、発掘−検証を繰り返しながら、目標(石室構造と土器祭祀の解明)に向き合う。発掘で鍛えたいのはそんな思考プロセスだ。
掘り方や記録の取り方は一つではない。現場では柔軟な思考と確実な作業が要求される。まだ迷いや理解不足から生じる無駄な動きが多い。
毎晩心地よい疲れが体を包むようになってきた。発掘はまだまだ始まったばかり。正念場はこれからだ。そして「土壇場」はその先にある。まだ見ぬ自分に出会う日を楽しみに待ちたい。
今週の月曜日から福田ゼミの発掘調査が始まりました。今日の執筆は、さきほど20分くらいかけて書いたブログの文章がすべて消えた私です。ですので簡単に書きます。
発掘場所…大江町長畑遺跡
時期…縄文時代晩期中葉
現在の状況…すごい藪、棚田のような地形
※あと近くには月布川という良質の頁岩がとれる最上川の支 流がある
とりあえず、テンション下がったんで今日はさよならです。
みなさんこんにちは。謝ゼミ三年のbawdiesです。八月二十七日に謝ゼミで山寺へ行ってきました。
今回の学外活動はゼミ生がそれぞれ目的地を設定し、企画してきたもを皆で話し合い決めました。メンバーは謝先生、bawdies、SDK、KZ、TD(今度三人のHNを決めます)。
雨男のbawdiesがいたのに土曜日は快晴で、みんなで汗だくになりながら奥の院目指し登って行きました。山寺では多くの寺院があり、土曜日ということも影響してか大勢の観光客でにぎわっていました。各寺院を巡った後にはお昼にし、皆でソバの美味しさと山寺談議に花を咲かせました。
今回は山寺ということでSDKの計画でしたが、後期には他のメンバーの企画で学外へ出てみたいです。ちょこちょこではありますが、謝ゼミでも活動報告を中心にアップしていきますので、こうご期待!
昨日、4年生の卒論中間発表会が開かれた。
考古学ゼミでは博物館実習中の2名を除く6名が発表した。この1週間の発表準備でずいぶん考えがまとまり、研究の筋道が立ったように見えました。ひとまず御苦労さま。でも今年は例年より1カ月遅い中間発表。卒論提出日は変わらないので、このあとも気を緩めずにゴールを目指してください。
また3年生2名が、それぞれ韓国留学、韓国への短期研修の成果を発表した。いいお土産を持って帰ってきた。経験で得たものを言語に置き換えられるようこれからも努力してください。
ようやく前期の授業が終了した。
月曜日から大江町長畑遺跡の発掘が始まり、今年も考古ゼミは2現場体制で夏休みをむかえる。
戸塚山は一足早く土曜日に3年生がそろい、本格的に始動した。院生も4年生もいない現場は10年ぶり。
真新しいゼミTを着て、気合いが入る・・・・。
赤鬼が休みの土曜日、今日は「たかはた家」のランチ。和洋中それぞれ味は抜群、盛りも赤鬼に負けない・・・ここも育ち盛りの学生にはうれしいお店だ。
今日は午後からずっと雨。時折土砂降りとなるなかで、黙々と羨道を掘った。足の踏み場がなく、身動きできない体勢で掘るのは結構つらい。ようやく側壁が見えてきた。
帰ってきたら4年生が真剣な(@_@;)で仕事をしていた。
3年生、院生からアドバイスをもらって明日のレビューの準備をしているようだ。いい雰囲気(*^。^*)・・・・の演習室。
。。。。。
しかし土壇場でないと力が出せないのは考古の悪い癖(>_<)
今週は前期授業の最終週。授業の合間を縫って現場に通う日々。
現場周辺は蚊や虻や蚋の宝庫。帰り、車のドアを開けたすきに蚊が何匹も車内に入りこむ。帰路の車中、しばらくは蚊との格闘が続く。
今日は車のフロントガラスにアマガエルと虻が1匹ずつしがみついていた。虻は左右の足を交互に上げながら余裕をかましていたが、1kmほど走ったところでリタイヤ。
アマガエルも余裕をみせていたが、一瞬ジャンプして着地したところの足場が悪く、踏ん張りきれずにやがて空に消えた!
4年前まで掘っていた高畠町高安窯跡では、毎日たくさんのこおろぎが車にたかった。やはりほとんどが1km以内で振り切られていたが、ある日山形市内までがんばった一匹がいた。みんなで称え賞賛の拍手を送ったのだった。
旅する虫たちの物語である。
今日、仙台市博で「東日本大震災による城郭の被災」(第6回北日本近世城郭検討会)がひらかれた。
3.11の本震、4.7、4.11の余震により福島県、宮城県の近世城郭は石垣を中心に大きな被害を受けた。今後、どう復旧していくか、現存する石垣をどう保全していくか。議論の前提となる情報を共有し、問題点を整理するために文化財、土木工学、技能者、コンサル、まちづくり関係者、市民が集まった。
地震動(加速度・時間・周期)で石垣が崩壊、変形するメカニズムは、あれこれ理由があげられるが、どうも単純ではないらしい。各城郭ごとにこれからの調査で明らかにされて行くはずだ。
各地の事例発表を聞いていて感じたのは、石垣は裏栗石や背面地盤、基礎地盤も含めた「柔構造」物だということ。全体で揺れを吸収し、崩壊に耐える。五重塔の建築にも通じる。どこかを重点的に強化しようとすると、かえって全体のバランスを崩したり、異素材の結合部を簡略化するとそれらの「縁」を切ってしまい、ズレやひずみが生じてしまう場合がある。最近のビル建築も剛構造から、免震、制震の柔構造に転換している。
石垣には寿命がある。若い石垣は地震によく動くが振動を吸収する体力がある。しかし、たびたびの振動や風雪に耐えてきた老年の石垣は柔軟性に欠ける。大きな地震で大けがを負った石垣やもともと不健康で成人病を患う石垣もある。そしていつか崩壊する。
私たちはまだ寿命や健康状態を適切に診断するすべを持たない。今回の被災石垣はそのことの必要性を強く訴えかけている。
ところで我々は「石垣」の価値をどうとらえ、何を後世に伝えようとするのか。あたらためてそれが問われている。
?石垣遺構を残すこと、?石垣積みという土木技術(近世的な空石積み、石や土に対する自然知)、技能者を残すこと、?石垣のある景観を残すこと、?伝統的な石積みのあるまちなみや暮らしが良いと思う価値観を醸成し伝えること
こんなところだろうか・・・・・
?は史跡としての歴史的価値。現状保存が望ましい。できるだけ解体しないで「本物」あるいは「現物」を残したい。
?は無形の価値で、時代とともに変化してきた。城石垣の技術は文禄・慶長〜寛永期に一定の完成をみ、その後、時代とともに変容してきた。城の機能が変わった明治時代以降は、近代工法が導入され現在に至る。
石垣の保存には技能者そのものの継承、生計基盤の確立が不可欠だ。解体修理事業や?はその役割を果たすだろう。
史跡の石垣の修復は近代工法を駆使した崩れない「石垣」をつくることではなさそうだ。現代の我々が後世に伝えるべき(「歴史遺産としての」)技術とは何なのか。?を優先するとこの議論はおろそかになりやすい。強度、安全とのはざまでそのことをしっかり問わないといけないように思う。でないと、土木技術者にとって現代的な意味で擁壁として機能しない「石垣」は価値の無いものとなってしまうだろう。
石垣は崩壊してしまうと?の価値が一気に失われる。傷んだ石垣を放置すると、そういう目にあう。そのために診断と現況記録の必要性がようやく認識されてきた。
かといって安全・強度といって次から次から解体修理していくと平成の石垣ばかりで「本物」は無くなってしまう。?を重視するとそうなりかねない。
余談だが、崩れそうな石垣を新たな石垣(ハバキ石垣という伝統工法もあるが)や土で埋め込んでしまうと石垣は保存されるかもしれないが、本来の遺構プランや景観が損なわれてしまう。
一方で空積みの「石垣」は崩れるものだという認識を失ってはいけない。江戸や明治の技能者たちは崩れない石垣を目指して施工する一方、どこかでその限界を知っていたと思う。
崩れる石垣と共存していくというスタンス。過剰なまでに崩れない石垣を希求する姿勢、近代土木技術への盲信はその危険性への認識を薄め、そのメンテナンス意識や距離感(園路整備・防災)を狂わせかねない。「想定外の災害」むなしい言葉だ。
自然へ畏敬の念を失わず、自然災害と共存できる暮らし。石や土(木火土金水・日月−陰陽五行)と身体がリアルに向き合う技術。津波堤防や原発の安全神話崩壊に接し、我々が先人の暮らしぶりから学んだことの一つだろう。