早朝、まちなかを歩く托鉢の少年たち。毎朝この光景が繰り返される。
今日は村一の作り手といわれるSさんの土器作りを観察する。動きに無駄がない。流れるような動作連鎖・・・。熟練の技にみとれてしまう。
午後、NさんとTさんの野焼きを観察。血縁の人たちが手伝う。
村には毎日、朝から酔っ払っているおにいさんがいる。今日は野焼き場をうろうろ。みんな適当にあしらうが、いい距離感でついたり離れたり。村の食堂で絡まれたが、後味はそんなに悪くないのが不思議だ。明らかに問題を抱えているようにみえる彼ではあるが、村では決して排除されていない。
動物と人との距離といい、この感じが居心地のよさなのだろう。
野焼きが終わってポターたちと記念写真を撮っていると、どこかへ消えたはずの彼が忍び足で戻ってきて、しっかり後列隅に写っていた。満面の笑みで。
夜はヤソトンのMKにいく。突然、店員が軽快な音楽とともにダンスを始める。その名もMKダンス。お客さんも一緒に踊る。楽しい夕食のひと時。
終日、Pさん家で叩き板と当て具の実測。
叩き板は、工程によって2枚3面を使い分ける。基準は重さと平滑度である。最初は重いことが大事で、終盤は軽くて平滑なことが重視される。また土器の面形状によっても使い分けることがある。Pさんは丸いところをたたく板はあらかじめ面を削りこんでいる。すり減った板を意図的に使う例はほかの村であるが、この例は珍しい。
今日も何人かお客さんが来て、Pさんちの在庫はほとんど尽きた。よって家族総出で土器作りに励んでいる。
Pさんは午後、昨日叩いたモーエンナム・ギボフンの花びらと高台をつけた。
夜、BIG−Cの本屋で変な本をみつけた。
今年のタイは例年に比べて涼しいらしい。昨日強風が吹いてから確かに朝晩涼しい。夜は冷房なしで眠れる。
今日もPさんちでお世話になる。
朝7:40にお父さんと婿さんがピックアップ・トラックに粘土を満載して帰ってきた。朝5時30分からパノーン・パイまで土を掘りに行ってきた。ここでは生粘土にチュアを混ぜて素地とする。粘土は水をやって乾かさないようにする。チュアは甕に水つけした粘土にもみ殻を混ぜる。野焼きしたチュアは竪杵でつぶしてふるう。
今日もPさんは忙しかった。作っているとどんどんお客さんが来る。パノンパイからはトレーダーが車2台で村に買い付けに来ていた。一人はこの村出身の人らしい。
闘鶏場のオーナー夫妻はお客さんに出すハーブスープ用に大量のタオとモーケンのセットを買っていった。通りかかったバスの運転手やお客も買っていった。おかげでPさんの店は完全な品薄状態。品物がなくてお客さんに断ることもある。
こちらも実測したい土器が売れてしまい、しかたなく乾燥中の生の土器を測らせてもらう始末。
タイのイサーン、ヤソトン近郊のNKN村に通っています。
今日は風の強い涼しい一日。終日Pさんのお宅にお邪魔しました。
お母さんと娘が土器を作り、お父さんと娘婿も何かと手伝いをします。この村では、伝統的な水がめや鍋のほかにタオとよばれる七輪をたくさん作っています。タオがよく売れるので若い人(20代〜40代)はほとんどがタオを中心に仕事をしています。タオ作りは熟練者でなくてもできるといわれ、若者に受け入れられやすいのです。タオは農村家庭では調理に不可欠な道具なのでよく売れます。タオ生産にシフトしたことで、若い世代を取り込み、伝統機種の生産と共存しながら活性化しているのです。窯焼きを導入したことで、フラワーポットなどを大量生産できるのも強みです。
村にはサハコーン(農協?)・大学から寄贈された煉瓦窯が2基あり、大量生産する人は窯で焼きます。しかし、小規模生産者、窯焼きの人でも数が少ない時は野焼きをします。市場経済に巻き込まれ、伝統技術の再編を余儀なくされつつも、新技術とうまく折り合いをつけて融合、発展させているようにみえます。大学からのデザイン指導もあるとのこと。
Pさんは進取の性格で、伝統的器種をアレンジしたオリジナルのモーナム・ギボフンを作ります。道路沿いに面した設けたショップには、村で一番のお客さんが来ます。今日は日曜日で、土器作りの合間にもお客さんが来て忙しそうでした。正月にバンコクから帰る子供のためにトムヤムセットを買いにきた夫婦、お葬式があるのでモーサオローを買いにきた娘、タオのすのこを買いにきたお婆ちゃん、スターフルーツ型のモーナムを買っていった夫婦などなど。
娘(27)は奥でひたすらタオを作っているのでした。本当によく働きます。バンコクの有名デパートで働いていたのですが、2年前結婚して戻ってきた。いまはノーンカイ出身の婿さん(煉瓦とモルタルで塑像をつくる)と一緒に家業を継いでいます。
夕方、村長さんちの裏庭でタオの野焼きを見せてもらう。バンモー以上に豪快だ。大きな火柱で近づけない。
帰りは村長さんのピックアップの荷台でホテルまで送ってもらった。
マハサラカムから南下してヤソトンに来た。
ここで1週間お世話になることにした。
まずは村の地図作りとポターの把握。3班に分かれて1軒1軒訪ね歩く。最近はグーグルアースのおかげで地図作りが楽になった。拡大写真には母屋だけでなく納屋までみんな写っている。野焼きの煙までみえるのだ。ちょっと怖い気もするが。。。
ちょっと歩いてみて、今までの東北タイの土器つくり村とは何か違う・・・。
道路沿いのポターは家の前に大小の店を出す。品ぞろえが豊富で、見たことのない器種もある。
モー・オプ・ティップ。名前の通り、蒸し米を入れる竹製容器ティップカオや蒸し器フアットを燻すのに使う。
4年前から作り出したというガター・ガン・ファイ。タオの上に載せて火や煤が上にあがらないようにする。鍋や竹製蒸し器を保護する。
水甕モーナム(ここではモーエンナム)にはノーマルタイプのほか、ボーウ(かぼちゃタイプ)、ギボフン(花びらタイプ)がある。
この村の特徴の一つはタオ(七輪)作りである。
薪用のタオ・フン(50B)、炭専用のタオ・ターン(3サイズあって20〜40B)、薪炭兼用のタオ・サーン(50B)、がある。この順に発生してきたが、併存して使い分けられている。かつて、土鍋はゴンサオと呼ばれる三石で調理していたがタオ・サーンが20数年前に登場した。
タオは型作りで作るむらもあるが、ここでは伝統的な紐作りと叩きで作る。その分、耐久性があって人気がある。ロイエットのトゥータイ村は伝統的土器作りがほぼ消滅し、タオ生産主体になったが、ここのものよりも品質がよいとの評判である。
今日はコンケーンからマハサラカムに移動し、おなじみのバン・モーに来た。もうみんな顔なじみだ。村長さんにあいさつし、まず野焼き場に行ってみた。以前より狭くなったなあと思ったら、中島に通じる道路が舗装され、野焼き場の一部が道になったせいだった。
その後、昨年から2期作をはじめた川沿いの田を見に行った。しかし、今年はやっていない。尋ねてみると、乾季作の米は硬くておいしくないのと、地主が貸したがらないのが理由という。
村の中を歩くと、今日は静かだ。あの、ポンポンという軽やかな叩きの音が少ない。目あてのTさんの家に行くと留守。ほどなく小学校から孫が帰ってきたので聞いてみると、今日は親戚の家のタンブン(善行を積み重ねる行為)で朝から準備に行っているとのこと。仏教の国タイでは「仏日」が多いが、今日は死んだ人を供養する、日本で言う「法事」。親戚中が集まり、故人を偲んで、飲めや歌えやの大騒ぎとなる。アンプと大スピーカーを設置して、村中に響き渡る大音量でカラオケをやってる。もちろん、夕方はお坊さんが来て読経もやる。実はこの日、村ではもう1軒、別のところでも法事をやっていた(2009年9月学生たちとたずねたガイヤーサー作りの家)。今日は仏日(ワン・プラ、新月と満月とその中間日)だったらしい。というわけで、村中親戚のようなものだから、多くの人はどちらかの家に集まってしまっているのである。
お願いした土器作り道具の実測が終わり、法事の家をたずねると、無礼講のようなありさま。仲間に入れてもらってカノム・チンという米粉の押し出し麺を御馳走になる。ココナッツ+唐辛子味の甘辛いスープをかけて食べるが、のど越しが良く、骨付きの肉も入っていておいしい。
夕食後、町の床屋へ行った。カットのあと顔の隅々まで剃ってもらって40B。夜遅く、鹿児島からけんちゃんが合流した。
朝一、アシスタントのUが合流。北タイのチェンマイから夜行バスで10時間かけてきた。バスの発達したタイの移動では驚くことではない(正月明けに、Mimはチェンマイからラオスのパクセーまでバスで来た。おそるべし・・・)。
さっそく2号線を北上、1時間足らずでW.T村に着く。村長さんの家であいさつしていると、ポンポンと心地よい音が聞こえてきた。土器を叩く土器作り村特有の音だ。気がはやる。下見情報によると、この村は伝統的な土器作りのポターは少数で、いまは窯焼きに変わったという。
1軒1軒訪ね歩き、話を聞いていく。
この村も土鍋など伝統的な土器を作るのは女性だ。しかし、ここには電動ロクロで植木鉢を挽く男性2人がいて、叩き作りの女性ポターたちと共存している。タオと呼ばれる七輪作りもやっている。炭用、炭薪兼用があり、各家庭の必需品である。
ロクロを挽くひとりは3年前にウボンから来た青年である。この村が大きく変貌するきっかけとなった「窯」を作りにおじいさんと一緒に来た。おじいさんは帰ったが、若者はここでの仕事のほうがいいと連れてきた奥さんとともに根付いた。
もう一人は、この村の人で1年余り前から始めたという壮年の男性。人を雇って工房にしている。技術はまだまだ。植木鉢などを挽いている。ピッサヌロークから雇用した人に習ってはじめた。
ロクロ工房では夫がいない女性など、ひとりで野焼きするのが難しい人たちを雇い、大量生産して窯焼きする。
一方、昔ながらの土器を作る姉妹2人は成形だけして、穴窯を経営している末の妹に生のまま売る。窯は一度に700〜1,000個体が入り、12時間かけて焼く。
これとは別に100個体ぐらい入る昇炎式窯(3個あるうち2個は壊れている)もあって、これを利用する人もいる。もっと小規模なポターは野焼きするし、窯焼きの家でも小さな蓋だけを野焼きすることもある。
この村では、廃れかけた土器作りが、窯やロクロという新たな生産手段の導入と、売れる器種を作ることで再生した。イサーンの大動脈−2号線に近いことも味方した。この村で作っていない器種(擂鉢クロックなど)は他から買ってきて、一緒に売ることで品揃えを増やしている。また、50年前に100kmほど離れたノンブアランプー県K.S村に多くの世帯が移住したが、製品をこの土器作り村へ持って行って販売している。
東北タイの土器作りは、生活の近代化のなかで多くが消滅し、残っている所も後継者がいないので早晩消える運命にある。ポターの娘たちや家族は社会の変化の波のなかで、より豊かな生活を求めて主体的に今の姿を選択している。
W.Tは変貌する土器作り村の一つの姿をみせてくれた。「また、おいで!」とBさん(54)。今度来た時はどう変わっているのか。
夜、コンケーンのセントラルプラザに繰り出した。この日は大学の卒業式。町中、白にオレンジのストライプの入った卒業式の服を着た学生であふれている。家族も来るのでホテルはどこもいっぱいらしい。タイの国立大学では国王や王女が直接ひとりひとりに卒業証書を手渡すそうだ。そのため全国で時期をずらしながら卒業式がある。
レストラン街で日本の「8番らーめん」を見つけた。8番らーめんは石川県加賀市の国道8号線沿いにあった小さな店が発祥だ。私の実家から歩いて15分のところにあった。昭和42年創業で当時から大人気だったのを覚えている。野菜が大もりで子供には食べきれなかった。なつかしかったが、8番らーめんには入らず、タイスキの店「MK」にいった。いまや日本にも出店しているタイ人に大人気の店だ。野菜や麺やおでんや、なんでも鍋に突っ込んで食べる。店員さんがきびきびしていて、明るくて楽しい店なのである。
授業が終わるとスーツケースを抱えて新幹線に飛び乗った。
正月のタイ・ラオス調査に参加して3年目になる。
去年の出発のドタバタはひどかった・・・
今年はそんなことがないように・・・
するはずだったが・・・・・
やっぱり今年も成田のホテルで朝まで年賀状を書く破目になった。
というわけで、とにかくバンコクに着いた。
ここで群馬からきた「カマドのかあさん」と合流し、コンケーン行きの飛行機に乗る。機中でヤードムを鼻に突っ込むお姉さんをみて、タイに来た実感がわく。
7時半過ぎにコンケーン空港に着き、出迎えに来てくれた先発隊と合流する。初めてアメリカ人のレファートさんに会う。なんと大きな人なんだろう!東南アジアの土器作りを研究する人にとっては神様のような存在だ。韓国ドラマでハングルをしゃべるアメリカ人が時々いて違和感をもつが、タイ語を流暢に使いこなすレファーさんもそんな感じ。1年間こっちに住んでいるそうだ。なるほど。
そして、アシスタントのOさんとMim、1年ぶりの再会を懐かしむ。今年から参加したのはNam。「大阪出身の日本人でタイに留学している」と紹介され、夕食の間そう信じていた。タイ語も英語もうまい。日本語は口数少ないが訛りはない。
しかし、すぐぼろが出た。彼女はれっきとしたタイ人だった。高校生のころ日本に留学して神戸に住んだことがあるらしい(留学したのは15年前だという。レディーに年齢は聞かない・・・・・)。
彼女が素でしゃべる日本語はなかなかのもの。語尾が大阪弁まるだし。いつかテレビのコマーシャルで、外国人が流暢に日本語を、逆に日本人が外国語をしゃべるのをやってた(一瞬ドキッとさせられる)けど、人は姿かたちでその人にあるイメージを重ねて先入観でみてしまう。レファーとさんといい、Namといい、しょっぱなからやられてしまった。
先発隊と明日からの調査工程を打ち合わせする。
なんと今回は調査する村が決まっていないのだ。悪く言うと、いきあたりばったり、良く言うと臨機応変。
予約しておいたホテルは、別のお客さんが先に来てお金を払って入ったから部屋がないという。急きょ別のホテルに。それが常識らしい。確かに・・・合理的かもしれない。日本の常識がどこでも通用するわけでない。そんなこんなで一夜で異国にいることに順応してしまった。
こんにちは、準備室です。
今年も残すところあと2週間程度になりましたね。
4年生は今が一番大変な時期。体調に気を付け、無事乗り切ってください。
さて今回は考古学応用演習2の様子をお届けします。以前の記事にも何度か書いたと思いますが、この演習では9月に発掘調査が行われた飛島蕨山遺跡の出土遺物を整理しています。
これまで洗浄・注記の作業が行われていましたが、この日は遺物の実測図を書く作業をやっていました。
実測図は遺物を観察し、その正面・側面・断面図などを書き下ろしたものです。他にも遺物の長さなどの計測値や実測図だけではわからない情報も書き込まれます。
完成したものは報告書などに掲載され、写真ではわからない凹凸や割れなどの情報を伝えるために使われるそうです。
この日も考古学ゼミの上級生が後輩の指導をしていました。
来年の授業では拓本という作業をやるそうです。
歴史遺産学科のオープンキャンパスに参加したことのある方ならご存じかと思いますが、次回はその作業の様子をご紹介いたします。
こんにちは、歴史遺産準備室です。
寒さが一層、厳しくなってきましたね。風邪などひかないよう気をつけましょう。
特に学科4年生は要注意です!!
さて、今回は1年生の演習風景をお届けします。
先週の金曜日、資料撮影演習(といっても授業ではないらしい)にお邪魔してきました。
写真を撮りつつ、準備風景を眺めていると何やら違和感が…
設置が完了したものを見ると納得。
違和感の正体は、下向きにつけられたカメラと、前方に傾いた状態で固定された三脚でした。
このような状態でいったい何を撮影するのでしょうか?
答えは歴史資料と呼ばれている古文書や書状。
三脚とカメラが上の写真のように設置されている訳は撮影台に乗せられた資料を真上から撮影するためでした。
この演習では歴史資料を撮影し、記録する作業について学んでいるそうです。
なぜ資料を撮影し記録するのか。それにはいくつか理由があります。
1.資料の写真を撮影し、整理することによって、どこにどのような内容の資料があるのかわかりやすくなり、利用しやすくなる。
2.元の資料が消失してしまっても、写真があればその内容がわかる。
3.資料を閲覧する際、撮影した写真を使用することによって、資料本体の劣化を遅らせることができる。
資料本体の代わりに使用される写真なので、ただ撮影すればいいというわけではありません。資料に書いてある文字が判読でき、また資料全体の形がわかるように撮影しなければならないそうです。
T先生の軽いレクチャーを受けた後、数人のグループを作り撮影の練習。
初めての撮影のため勝手がわからず、苦労しているようでしたが、楽しそうに撮影していました。
今回ご紹介した資料撮影演習は希望者のみで行っているそうです。
このように専門的な技術・知識を得るためには、自ら行動を起こさなければならない時もあります。自分が興味を持っている分野や事柄のシンポジウム、イベントなどには積極的に参加しましょう。