ラオスの夕日はいつも感動的だ。今日は早出の日、まだ暗いうちに宿を出、村に近づいた頃、ようやく陽がのぼった。乾季は地平線上に塵が舞っているせいか、太陽がひときわ赤く大きい。ラオスは朝日も絵になる。
朝8時ごろ、なじみのTさんたち3家族はクボタ2台に乗ってモンキー・フォレスト(野生ザルがいる自然公園)へいった。近くの池で魚や貝もとってくるそうだ。観光兼漁労活動である。
早出とくれば、終日ポターに密着デーなのである。7時からKさん、Nさん、Pさん3姉妹の土器作りを観察する。彼女たちは6人姉妹で、ほかの3人は同じ村の中ではあるがちょっと離れたところに住んでいる。みんなお母さんに土器作りを習った。
この村では近所に住む姉妹が一緒に土器を作ったり焼いたりする。3人が1台の回転台を使って時間差で順次に作っていく。ただし、粘土や叩き板・あて具、野焼きの燃料等、材料・道具は個人所有である。
今日作る器種は全員モーウナムで、NさんとKさんが6個、Pさんが7個である。Kさんいわく。3人で一番うまいのはPさんだと。そこでPさんを一日徹底追跡することにした。末の男の子(子供は5人)はまだ1歳。土器を作っているお母さんのお乳をせがみに来る。
同じ母から習った姉妹でも技法や形に差が出るのが面白い。叩き成形前の原型はそれぞれ微妙に違う。Pさんは叩き板・あて具をそれぞれ二つずつ使い分け、丁寧に成形するのに対し、Kさん、Nさんは一つでやりきり、時間も早い。
Kさんはいつも「べらんめぇ調」。回転台上の水挽き成形で、1個をクシャと潰してしまった。苦笑い・・・・。マッカイという果物を木から何個ももいで、日本に持ってけと袋いっぱいに詰めてくれる。どこにでもいそうな気のいいおせっかいおばさんだ。年を聞くと「知らないよ!忘れた。」とはぐらかす。子供は10人いるそうだ。
夕方、翌日の粘土を唐臼で搗いて一日の作業が終わった。
しばらくして、庭先では夕食の準備が始まった。
毎朝、村へ通う道。陶器の壷がたくさん並ぶ家にふと目が留まった。車を止めて中に入ってみるとそこは酒屋だった。
カマドにかかったドラム缶では50kgのモチ米が蒸されている。これでハイと呼ばれる壷3個分の酒ができる。時々スコップでもち米をかきまぜる。横には麹を入れた発酵中のポリバケツが並ぶ。醸造した酒は別のカマドで蒸留してアルコール度数を高める。度数は50度。ふたつの蒸留装置の管からは水タンクで冷やされた酒が流れ出し、パンヤの綿で漉して壷の中に詰められていく。壷1個は25リットル入りで140,000kip(約1,500円)。1週間寝かせてから売りに出す。醸造後の米はどうする?横の豚小屋を指さした。彼らが処理するようだ。豚は酔っぱらわないのだろうか、心配だ。
ラオ・ラーオ作りの村としてはルアンパバンのサーンハイが有名だが、装置はどこも同じようだ。ブットーンのポターPさんの隣の家でも同じ装置で酒を作っていた。昨年行ったサラワーンの土器作り村では簡単に使える蒸留用土器を作っており、これで買ってきた焼酎ラオ・ラーオをさらに蒸留して飲む。1年前の大晦日、結婚式に乱入し、村長さんや酔っ払ったBさんらと盛り上がったのもこの酒だった。T氏が「叩き板」を賭けてBさんと飲み競った。数日後、Bさんに再会するとお昼過ぎにもかかわらず寝ていた。昨日隣の家が結婚式だったそうだ。目に浮かぶ。
村に着くと、今日粘土を掘っている人がいるとの情報をえる。約10分ほど歩くと、Tさんのお姉さんにあたるHさんが夫とともに粘土を掘っていた。ここはポターでもあるNさんの田。粘土はクボタ1台分で200,000kipという。朝8時から夕方までたっぷり1日かかる。直径1mほどの縦穴を背丈ほど掘る。上層80〜90?の粘土は使えないので除けておいて後で埋め戻す。
粘土掘りも家族総出である。二人の男の子と犬も一緒に来ている。周辺には去年掘ったところ、さらにその前掘ったところ、痕跡が残っている。これがたまに発掘されるまさに粘土採掘坑群の遺跡だ。袋状に掘る人もいる。
午後、ケンコ(チャンポン郡の中心地で、市場がある。クボタで村から1時間弱)から土器のトレーダーがTさん、Sさんの土器を買いにきた。夫が売りに行く人も多いが、定期的にこうやって仲買が取りに来る場合もある。村で売る場合にはモーウナム1個5,000kip(約55円)、市場では10,000kipと倍になる。クボタ1台で100個のモーナム、モーケンを積んでいく。彼らは行商もし、13号線沿いを南下して3日ほどかけて売り歩くという。村の夫達が売り歩く場合も同じだ。馴染みの村の村長さん宅やお寺に泊まりながら土器を売り歩く。調査中、10kmの道を歩いて土器を買いにきたおばさんがいた。二人はモーナム2個を天秤棒にぶら下げて帰っていった。このような場合、普通は物々交換である。おばさんはバナナと土器を交換していた。
夕食は宿から車で45分、サワンナケートに出た。メコン川の船上レストランで対岸のムクダハーンの明かりを見ながらタイ料理を味わった。タイ人たちはしきりに帰りたい!と叫ぶ。気持ちは分からないでもない。
ここはラオスである。
今日も朝一番にいつものTさん、Sさん姉妹の家に行く。昨日待ってたのにこなかったので土器焼いてしまったよ!と。
日曜日で学校は休み。いつもお姉ちゃんの脇で恥ずかしそうにしている9歳のOは、朝から土器をつくっている。「あたしもちゃんとできるのよ」誇らしげだ。
土器作りにはいくつかの道具がいる。この村では水挽き出来るくらいの性能の回転台(ペン・スィアン・モー、「板・回す・土器」という意味)を使う。叩き成形に使う叩き板(マイ・ペン)も重要である。これらはたいがいポターの夫が作る。家の下に蓄えてある建築廃材を利用する。家の柱はマイ・デンやマイ・ドゥという硬い木。梁や桁にはマイ・ヤンというちょっと軽めの木も使う。叩き板の樹種は硬いものが好まれ、だいたいはこれら4種程度である。子供用のは小さく軽め。体力に合わせて作る。
村の周りにはさまざまな樹木が生育している。驚くのは身近な建築材や食用果実がつく樹木だけでなく、ポターたちが多くの木の名前を知っていることだ。各地の土器作り村でポターやその夫たちに木の名前を聞いているが、この村の人たちが一番よく知っている。さすが森の民「ブッドン」。
内面のあて具(ディン・ドゥ)はポター自らが作る。あるポターがアシスタントに語ったところによると「30歳未満の娘はディン・ドゥを作っちゃいけないよ」「作るとお尻にささるよ」このディン・ドゥ伝説はポターたちの禁忌として注目された。翌日、Tさんに聞いてみたがそんな話しは知らないと、一蹴。娘のRもOも自分で作るよ。おばさんたちのしもネタだったのか。真相は闇の中。
今日もパクセーでの休日のはず。
ちょうど1年前の1月2日、パクセー郊外で、橋が壊れていて車が通れず訪問を断念した土器作り村があった。歩いて3kmだったがラオス出国時刻が迫っておりサワンナケートに引き返したのだった。
みんな知っている。私たちに休日はないことを。
メコン川を渡り西に向かう。車で40分ほど走ると昨年、壊れて渡れなかった橋がみえた。今年もそのままだったが、乾季は川底を通る迂回路があった。3kmでこぼこ道を走ると村の入り口についた。ところが今度は大きな川があらわれ、橋がない。水があって車は通れない。結局、車を捨てて歩いて村に入った。
Pさんとお姉さんのMさんが土器を作る1軒の家を訪ねた。キーマを噛みながらおばさんが土器を作っている。どこかでみたような光景と思ったら、昨年タイのウボンラチャター二―で調査した村と全く同じ技法の土器作りだった。叩き板のバラエティや名前が同じで、マイ・ラッという剣形木製品のような道具が特徴的だ。二つの村は現在はラオスとタイにわかれるが、わずか70kmたらずの距離だった。ルーツを同じくすることが推察された。
パクセーではオープンテラスのカフェでコーヒーを飲んだり、おいしいフランスパンを食べたり、久し振りに町のにおい嗅いだ。
名残惜しく、13号線を北上。5時間余りで宿のあるLAK35(サムシップハー)に着く。車にはPさんからもらったモー・ウ・ナムやモーケンがいっぱい。
このころからアシスタントの女性たちの合言葉は
「ノーモア・ポット!」
「もう土器はやめて!」
おそろいのリポビタンVのTシャツを着て記念写真。
アシスタントからの新年のプレゼント。
今日はラオス南部のパクセーという町に来ています。
コロニアルな建物とたくさんの欧米人が行き交う不思議なまちです。
夕べ、タイ人のアシスタントたちがプレゼントとしてくれたVサインの「リポビタンD」Tシャツを着ています。
27日にタイ東部ムクダハンからメコン川をわたりラオス国サワンナケート県・チャンポン郡の土器作り村に入りました。村の皆さんの全面的な協力でようやく地図作りや戸籍調査が終わり、ぼちぼち土器作り技術の観察や生業の聞き取りを始めたところです。こちらは1月1日よりも4月のソンクラーン(水掛け祭り)を年がわりの時期として大々的に祝うので、村の生活は普段と何ら変わりません。でも私たちはいちおう正月休みということで南部に旅行することにしました。車に揺られること5時間、チャンパサック県の世界遺産「ワット・プー」に到着。アンコール時代を主とする遺跡です。カンボジアやタイの遺跡に比べると整備は進んでいません。その分周囲の景観に溶け込み落ち着いた雰囲気があります。
行きは陸路。パクセーから40kmの距離。ガイドブックには2時間とある。世界遺産と思って甘く見たのが間違い。実際に走ってみてわかった。
帰りはメコンの渡しでパクセーに戻る。小船を3艘を連ねた台船に車を乗せる。一歩間違うとドブン!。ゆったり、月と対岸の明かりをながめメコン川を渡る。
バン・ブッドンは昨年のお正月にはじめて訪ねた村。ブッは「池」、ドンは「森」という意味らしく、村は森に囲まれた低丘陵上にあり、周囲には乾季でも水の枯れない池やクリークが点在しています。10歳未満の女の子がたくさん土器を作っているという世界的にも稀有な村です。つくなり、8歳の女の子が私が作ったのよと1つの土器をプレゼントしてくれました。村の人たちの顔を少しずつ覚え始めましたが、なにせ121戸800人あまりの人口。村の小学校には90人あまりが通っています。昨日、お邪魔した家では12歳の子は学校にいかずお母さんの土器作りを手伝っています。というより、もう一人前のポターです。妹と弟は小学校に通っています。帰宅するとすぐに村の池へ水汲みに何往復もします。世代を問わずみんながそれぞれの役割を果たし、うし、水牛、ぶた、やぎ、にわとり、あひる、いぬ、たくさんの動物たちと暮らしています。
今回は日本人4名とタイ人4名で調査に入りました。サワナケートから45分、LAK35という町のゲストハウスにとまり、村まで片道1時間のデコボコ道を通っています。新年は同室の九州大の院生と静かに一言「サバイディー・ピーマイ!」
調査はこれからが本番です。
今日は12月31日。世は「大みそか」である。
朝、市場の屋台のおばさんはお寺へのタンブン(徳を積むための寄進)の品々を準備していた。
町では若者がカウントダウンしたり、新年を祝って大騒ぎするらしい(確かに昨年の正月サワンナケートの町はうるさかった)が、村では特に変わった様子はない。
本日から本格的に土器作りの観察をする。
前日の夕方、唐臼(コック・モン)で乾燥した粘土を搗く。さらに笊でふるって、粘土粉末とチュア(籾殻と泥を混ぜて焼いた混和材)を2:1の割合で混ぜる。これに水をくわえて円柱状に練る。モーウナムだと1個約7kg、モーケンだと2kg、練りながら手の感覚で一定の大きさお粘土を取り分けていく。職人的なさばきだ。
粘土の塊を回転台の上に乗せ、水挽き成形と当て具による底押さえにより、口縁部が完成し、胴部は叩き成形前の原型ができる。この時点で底の厚さは5センチ余りある。ポター達はこの作業が一番難しいという。その後乾燥させ、口縁部が乾くと、胴部の叩き成形に入る。叩きは第1次〜3次まであり、それぞれの間に乾燥段階をはさみながら次の作業に進む。1〜3次の各段階で叩き板や当て具を使い分ける。
朝から始めて、1人1日8個ぐらいだとちょうど夕方に出来上がる。土器の野焼きは2日間ほど乾かし、ちょっと涼しくなる午後3〜4時ごろから行う。
この日観察させてもらったSさんには1歳の男の子がいる。いつもおかあさんのまわりを走り回って遊んでいるが、時折寂しくなると甘えに来たり、母乳をねだる。かまってくれないと乾燥中の土器をへこましたり、あばれて注意を引こうとする。そのたびに仕事は止まるのだが、母さんはばたばたせず、ころ合いを見計らって授乳する。周りにいるいとこのRやOたちに時折叱られている。彼女たちは年下のいとこの面倒をよく見る。乾燥中の土器をへこませるのは彼だけではない。人恋しくて土器の横で寝ている犬や、うろうろしている鶏も時々悪さをする。でもそんなことは大したことではないようだ。直せばいいだけだ。
お昼にTさん、Sさん姉妹の姉Hさんが遊びに来た。Hさんはまだ今シーズンの土器作りは始めていない。二人と同じ敷地に住む姉妹のお母さんがパパイヤをとってきてくれてソムタムを作ってくれた。オレンジパパイヤはそのままフルーツとして食べてもおいしかった。
昼食はみんなでここでごちそうになることにした。ソムタムはトウガラシを少なくしてくれたのでとても美味しい。もち米を自家製パラー(プラー)に浸けながらたくさん食べた。さすがにあとでお腹が痛くなった
きょうは朝から地図のチェック・修正をしながら、各家の柱にチョークで番付をした。人の家に勝手に番地をつけて(タイでは番地があったが、このあたりではもともと番地というものはない)表札がわりに番号を書くのである。ずいぶん無茶な話のようだが、みんな気にしない。3日間ひたすら村の中を歩いたおかげで、生活の様子がみえてきた。村の人たちにも私たちの存在を知ってもらえる。
この村のモー・ウナム(イサーンからラオスで水甕のことをこういう。一般的にはモー・ナム)はよく水が漏れる。どこの家の土器も水がポトポト垂れている。水甕はこうやって外に滲みた水分が気化することで熱を奪い、水温を低く保つ。しかし、これだけ漏れれば相当減るのではないか。水場が近いし毎日汲みに行くので気にしないようだ。水漏れしやすいのは土器の胎土や作り、焼成と関係する。
庭先の調理場で、底部に穴をあけたモーウナムを時折みかける。なんだろう、と思って聞いたら、蒸したお米を入れる竹編容器(ティップ・カオ)を燻(いぶ)す時の覆いのようだ。中に藁をいれ、火をつけて、ティップカオを燻すのだ。こうやって虫よけと耐久性の向上をはかる。
夜、宿で洗たく。コイン式の全自動洗濯機がある。何と良心的と思ったが、これはタイ製だ。コインはタイの10バーツコインを3枚いれる。ラオスにはコインはなく全て紙幣。近くのお店で7,500kipをタイの30bathに替えてもらう。
ゲストハウスはいちおうお湯(チョロチョロと)が出る。部屋掃除・シーツ替えは一切無し。カナチョロやアリや蚊は普通にいるが悪くはない。毎日朝5時半頃から街頭マイクで語る村長の大声をのぞけば、平穏である。ゲストハウス前にある食堂はベトナム人のオーナー(おばさん)が経営していて、夕食には時々、一品をサービスしてくれる。オーナーの娘たちと内股気味のレディー・ボーイが夕食を作って出してくれる。
快適かなとおもっていたら、アクシデントもあった。もともとお湯はあまり出ないが、ある日、全く水が出なくなった。久しぶりに9人も泊まったせいか、タンクの水がなくなったそうだ。それから数日後、シャンプーをしていて頭がアワだらけのときにまた水が止まった。しょうがなく、タオルで拭いてそのまま寝た。珍しく雨が降った日の朝には、起きるとなにやら部屋がくさい。トイレにいくとシャワー室が排水管から水が逆流して水没している。全部屋である。水を垂れ流ししている外の排水溝が詰まったのか、従業員が朝から排水溝の泥上げを始めた。一向に水はひかない。
結局、仲間のタイ人2人が溜め枡の蓋をあけ、溜まったヘドロを除去して何とか流れるようになった。オーナーにとっては未曾有の出来事だったらしい。
そうこうしているうちに洗濯機も壊れた。以後は手洗いの毎日となった。
なんだかんだ言っても1軒しかない貴重なゲストハウス(それでも村から車で1時間)。マイ・ベンライ、ケンチャナヨ!
村には6年前に電気が来て、いまでは121戸の2/3の家に電気が引かれている。夜は6時には暗くなり、電気をつけた家がぽつぽつみえるが、みんな寝るのは早い。
夕方4時半ごろから各家では夕食の準備がはじまる。庭先で五徳(三本足の鍋台)に薪をくべて米を蒸す光景が一斉にみられる。朝のもち米を暖めなおして食べることも多い。イサーンからラオスにかけてはもち米を蒸して、少ないおかずと一緒に食べるのが伝統的な食事。イサーンでは、夕食に炊いたうるち米を食べるのが普及しているが、ラオスではもち米食の伝統が根強い。
水は飲み水を池から汲むほか、打ち込み式の手押しポンプを設置してシャワーや洗濯、菜園用の水を得ている家が半数近くある。となり村では2kmも歩いてこの村の別の池まで飲み水を汲みに来る。雨季は天水も利用するらしい。
家は二間×三間程度の広さで高床式のワンルーム。雨季の台所にもなるテラスがつく。壁は竹を千鳥格子に編んだものや木の葉を竹で編みこんだもので涼しい。米倉は竹小舞の泥壁だ。床下は土器作りやティップ・カオ作りなど様々な作業スペースとなる。
どこの家にもトイレは無い。どこでするの?その辺の家の無いところ・・・穴を掘って。でもあんまり深く掘らないで・・・。村の中は牛や水牛、豚の糞だらけなので別に気にはならない。
驚いたのは牛や水牛たちが、朝ひとりで(2〜5頭程度が列をなして道を歩いてくる)田んぼへ出かけ、草をたべ、夕方自主的に戻ってくることだ(時おり子供が水牛を曳いていることはある)。イサーンでは男たちが綱を引いて田んぼに連れて行って、いないときは杭に綱を結んでいるのをみていたのでびっくり。ここでは牛たちも自立?している。村の道を普通に歩く豚や鶏たちをみるにつけ、動物達も人も自然だ。同じ生態系の一員として暮らしている・・・。ただそれだけだ。
女の子は15歳〜18歳ぐらいで結婚し、子供を産み始める。Sさんの娘は12歳でタイのムクダハーンに働きに行っている。姉のTさんの12歳の娘Rはもう一人前に仕事をして、兄弟いとこ連中のおねえさんとして堂々としている。土器を作って焼くだけでなく、山刀を自在に使って竹細工もする。近所に住む彼女のいとこの少年は両親と姉二人がビエンチャンに出稼ぎにいっており、一人で村に残っている。そんな暮らしぶりは経済的には決して豊かとはいえない。しかし、幼少期から保護的な環境下で育てられ、物質的に満ち足りた暮らしを享受する日本の若者にはない強さが感じられる。自由であれといわれる不自由、自己主張と同調圧力がともに求められる人間関係、選択肢があるようでない就職・結婚、便利になりすぎた情報通信、そんな社会環境は自立した人間を育むのにはむかないのだろうか。
村の人たちとの再会。
昨年の懐かしい写真を前に人だかり。今日一日はあいさつ回りで郡役所へ行ったり、村の中をあるいたり。情報収集である。
ゆったりした村の空気に慣れていく。
午後3時をすぎると、あちこちで野焼きがはじまる。そして4時に学校が終わると女の子たちはバケツを持って水汲み場に集まってくる。彼女たちも村の中を歩くのは基本的には素足だ(学校へ行くときはサンダル履き)。みんな足の指がしっかり開いて力強い。靴になれた自分の足がはずかしい。
マハサラカムからラオスに向かう日、ちょっと早出して、ロイエット郊外の土器づくり村バン・トゥ・タイに寄る。土器作りは廃れ、いま村は型成形のコンロ作りにシフトしている。伝統的なポターはもう3人しかいない。
ここにはワット・ノンサワンという土器でできたお寺がある。通称ポット・テンプル。
村にあるただのお寺ではない。観光に来る人もいる。イサーンの人にとっては知る人ぞ知るである。土器づくり村の昔の生活風景(農耕・調理・土器の行商など)を塑像で展示しているだけでなく、寺の裏が地獄めぐりのテーマパークになっている。これほどリアルな地獄絵をみせられたら子供は泣いてしまう。釜ゆでや腹を裂かれた人間のグロテスクな裸像が林立する。
ここは仏教の国タイである。
ムクダハンからメコン川のラオス・日本第2友好橋を渡りサワンナケートへ。あいかわらずラオスの入国審査はフレンドリーでゆるい。
ゲストハウスのある町につく。正月はあちこちで結婚式がある。飛び込み大歓迎。朝まで大音響の音楽とひとり漫才のような語り。朝までみんなで騒ぐのだ。