今日は朝5:00に村に着いた。そう朝駆けデーなのだ。まだ暗いのに台所は電気がついて朝ごはんのもち米を蒸している。そしてポター達はもう土器を作っている。早い人は4時からつくっている。
着くなりあわてて記録道具をかばんから取り出し、メモしたり写真を撮ったりするが、とにかく暗くてよく見えない。必死に観察しているといつの間にか外が白みはじめていた。今日一日お邪魔した家と隣の家から子どもたちが三々五々眠い目をこすりながら起きてくる。今日は土曜日、やがてどこからともなく子どもたちが集まってくる。賑やかこのうえない。孫守りしながらのポターも悪さをする暴れん坊のせいで何度も仕事を中断させられる。朝方、おとうさんは土器を山積みにしたリヤカーをバイクで引いて40km先の町まで売りに行った。お昼過ぎに帰ってくるというのに帰りがやけに遅い・・・・。
この村の土器つくりは叩き成形を駆使して作るので何回かの乾燥段階をはさむ。このときが休憩のチャンスなのだが、ポターが休んでいる時こそ、叩き板や当て具、成形途中の土器の形の実測など、息つくひまもない。これほど集中して人とモノを観察し、猛スピードにで実測することはそうない。我ながらびっくりしてしまう。
先発隊は40軒の1週間分の調理記録を作成した。何をどれだけ食べたのか。米蒸しの米と水分量の割合はどれほどか。こんな細かい調査によくつきあってくれるものだ。村の人たちの協力と支えがなければ考えられない。
昨日Rさんが亡くなった。祭壇に線香をあげにいくと、その前で村の女たちはにぎやかにトランプをしている。楽しそうだ。喪主にあたる娘だけは悲しそうなのに。そして葬式(火葬)ではロケット花火が飛び交いにぎやかに故人を送るのである。
明日からはラオスにはいる。
これからしばらくタイとラオスの土器作り村の様子をお伝えします。
9月に学生達と訪問した雨季のバンモーを紹介しました。
今は乾季、一番涼しい12月です。とはいえ昼間は34度、湿度40%ぐらい。結構暑いですが、汗ばむ気候は大好きなので苦になりません。
稲刈りがおわり、ポターたちは一斉に土器つくりに精を出しています。あちこちの庭先からポンポンという叩きの音が聞こえてきます。これがバンモーの「村の音」といえます。
懐かしいおばちゃんにあいさつをしながら歩いていると、またきたねと笑顔でかえしてくれる。あの大学生たちは元気にしてるかい?と。
田んぼではあさから蟹取りに忙しい女性たち。たにしもいる。面白いようにたくさんとれる。百発百中。昨年見たウボンの田んぼとはずいぶん違う。ここでも犬はふつうにいる。退屈そうに蟹取りをみたり、放牧している牛をおいかけたり、いい感じだ。
夜床屋にいってきた。顔中剃ってくれて、マッサージ付で50B。至福の時間を過ごした。
明日は朝駆けの日。4時起きで5時からのポターたちの1日密着する。そしてあさっては6時、ラオスに向けて出発する。
昔から県境をはしる電車(汽車)に揺られるのが好きだった。そんな環境に育ち、県境をまたいで行き来する生活をしていたせいだろうか。乗っては降り、降りては乗る、高校生やお婆さんたちの他愛のない世間話に耳を傾ける。訛りを聞きながら、人の行き交いに歴史を重ねてみる。
今回は尾張、伊勢、伊賀、大和の入り口まで行ったり来たり。今日は伊勢の津から伊賀神戸、名張をへて奈良県榛原に移動した。すぐそこはもう桜井だ。伊勢は寒いがよく晴れていた。が、伊賀に入ると雲がかかりだし、室生あたりから雪が舞い、榛原・宇陀は雪だった。
目指すは宇陀松山城。文禄〜慶長前期に豊臣系の大名が整備した城で、元和元年には破却されている。近年の発掘で城の全貌が明らかとなった。息を切らして山頂まで登ると寒風もなんのその、360度のパノラマが開けていた。石垣は短期のものがパックされており(天守郭と門付近で違いはある)、城割り(破城)の痕跡が生々しい。
松山の城下町はいま伝建地区に指定されている。城廃絶後は伊勢へ抜ける街道の在郷町として発展した。台格子・虫籠窓、屋根には煙出しのある町家がならぶ。漆喰塗りの白壁に混じって黒壁の家も少なくない。変に観光化されておらず、生活感のある町並みである。
「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」伊勢音頭の一節。最近では聞くこともあまりないかもしれない。
津は、薩摩の坊津、筑前の博多津ともに「日本三津」とよばれ、明にも知れた港町だった。ここに近世に織田氏、富田氏が城を作り、慶長13年から藤堂高虎が入った。伊勢を拝領した高虎は津城を平時の居城とし、伊賀上野は有事の城として整備したという。
津城は二つの河川の河口近くに作られた連郭式の平城。現在は内堀に囲まれた本丸(と西の丸)のみが城のたたずまいを残す。築城の名手−藤堂の慶長期の石垣は独特だ。とにかく角石が長く、規格性がつよい。隅角部は直線的で勾配がゆるい。伊賀上野城で見た特徴はここでも健在。ただし、慶長16年ごろから築城といわれるように、伊賀上野よりも新しい要素(築石・角石の面仕上げなど)が目立ち、慶長15年の尾張名古屋城に近い技術をもつ。
天守台と本丸南辺には慶長前期の石垣がのこる。藤堂以前の富田氏時代のものとみられる。古式の石垣は藤堂期に修理された可能性があり、東側は寛文期に大規模に修理された。
うわさに聞こえた忍者の里。
着くなり入ったどんぶり飯屋で「忍者うどん」が出迎えてくれた。町中のいたるところに忍者がいる。ここは伊賀忍者の里、上野市である。
伊賀上野城は豊臣系の筒井氏のあと、慶長13年に藤堂高虎が四国から伊勢・伊賀に入って、大規模な改修を行った。このとき上野城の名を世に知らしめたあの「高石垣」が築かれたのである。高さ約30m。柵もない石垣天端に立つと身震いがする。
昭和10年に完成した現在の復興天守は史実にもとづいたものではないが、同時期に鉄筋コンクリートで建造された大阪城天守閣と違い木造にこだわって建てられた。現在、市指定の有形文化財(建造物)である。
県立うきたむ風土記の丘考古資料館で「高畠石の歴史と未来」というシンポジウムを開催しました。
このシンポは高畠町の歴史や景観の特色を、自然資源である「高畠石」と人との、1万年の関わりのなかからとらえ直そうというのが主旨です。地域の歴史的・文化的個性を見直し、まちづくりに生かそうという試みが全国で始まっています。文化庁が主導している新しい取り組みでは、貴重な文化財を断片的に指定・保存していくのではなく、それらが集積した場所や、その景観もふくめ、総体としてとらえ直し、脈絡をつけて保存活用していこうとしています。
高畠の文化財群を「高畠石」(これを基盤とする丘陵も含め)を軸にとらえ直すと通時的な「脈絡」でとらえることができ、それらが個性としていまの日常風景にあらわれていることが分かります。歴史文化のかおりに満ち、誇りあるまちに文化財をどういかすのか。シンポジウムに参加していただいた熱心な地域の方たちとこれからも考えていきたいと思います。
冒頭の写真は文化財保存修復研究センター岡本篤志研究員の発表の様子です。三次元レーザー計測による石切場の鳥瞰映像を、「赤青めがね」でみているところです。
今日の考古学基礎演習(1年生)では、大江町からあおそ復活夢見隊の村上弘子さんと木村勝子さんをお招きして、復活した伝統の青苧糸作りを体験しました。授業で「あおそ(からむし)」「あかそ」「かなむぐら」などの植物から、古代の糸作りに挑戦しているグループが菊地和博先生に相談に行ったのがきっかけで、今日の企画が実現しました。
菊地先生によるアオソ栽培や上布(高級麻織物)に関するミニ講義のあと、大江町でのアオソ復活の活動を紹介したビデオをみました(とても若作りの「菊地先生に良く似た人」が解説している某テレビ局取材の番組)。
そして、いよいよ苧績みの体験です。苧引き(茎皮から繊維をとる)して乾燥した繊維の束から細く取り分けた糸を丁寧に繋ぎ、紡錘車で撚りをかけていきます。手取り、足取りの指導で糸作りの苦労を実感した様子でした。
今日は、美術科工芸コース(テキスタイル)の学生20人が辻・山崎両先生とともに参加しました。アートを志す学生にとっても、自然素材や伝統のワザを学ぶことは、ものづくりの本質として欠かせないことだそうです。研究テーマやプロセス、表現手法は異なりますが、伝統を見つめる学生たちの眼差しには共通したものを感じてました。
飛鳥時代の窯跡から出土した古代の瓦には布目の圧痕が一面についています。工芸の学生たちは細かい織り目に驚いていました。古代の布そのものが出土することはほとんどありませんが、このような遺物を通して古代の紡織技術を知ることができます。
葉っぱが落ちた晩秋の山はいい。
高畠町大笹生と細越。農作業中のおじいさんから昔の石仕事の話を聞きながら、久しぶりに石切り丁場をあるいた。
大笹生は高畠で最も早く始まった丁場で、戦前にはすでに廃棄されていたという。ここで切っていた人はもういない。登り口の路傍には山の神のほこらがひっそりとたたずむ。かつての喧騒を物語る「ずり(石屑)山」を均した石垣が幾段にも重なる。
谷筋をひたすら登っていく。石降ろし道の脇や斜面に露出する転石のそばに間知石(けんちいし 護岸用の小型石材、農閑期の副業に多くの家が生産した)を採った跡が点在する。
谷を登り切ったあたりから幾筋も大きな堀割がみえてきた。その先には「一二八(いちにいはち)」とよばれる長さ180センチ、重さ300キロの延石を切った石切り場がある。いったいいくつあるのだろうか。石垣で囲われたずり山と道具修理の鍛冶小屋跡(石積み基礎)が点在し、それらを結ぶ道が縦横にはしる。
全国に凝灰岩・砂岩など軟石系の石切場が数あれど、高畠石の丁場群は独特の景観をもつ。簡単に言うと小規模分散型。延石と間知石の複合生産を基本としつつ、石材資源の分布という自然条件、石工・石屋の存在形態、農家の生業などと深く関わりながら展開した。高畠固有の自然・社会条件がこのような遺跡景観を生んだとみることができる。また、石切り産業や各地の丁場の盛衰は、大正期の高畠鉄道開通やトラック輸送の拡大など交通事情の変容と重なる。
石切場のある風景は、現代、高畠町ではどこにいても視界に入る。これらは高畠の近代社会を知る上で欠かせない文化遺産であると同時に、地域アイデンティティーをなす文化的景観にもなっていると思う。
そんなことを考えていたら、突然、目の前を脱兎のごとく走る動物が・・・。そう、ちかごろ宮城県岩出山では「カンガルー」もどきが某朝テレビで話題になっているが、こちらは正真正銘の脱兎である。
つわものどもが夢のあと。
ちょうど2年前。ここはスス・コゲデビューした思い出の地−岩手県埋文センター。
1年生の時に書いた図面を修正しながら再調査しました。2年間の自らの成長を確認する作業でもありました。ひさしぶりの収蔵庫内での作業。結構冷えましたが、ストーブを用意してくださいました。ありがとうございました。
ここに勤務する先輩に励まされながら・・・・。
そして、夜はいつものごとくたくさん食べました。テーブルに並んだ皿を見て一言「食いしん坊たちが夢のあと」
土日に姫路で日本遺跡学会と文化財石垣保存技術協議会(国の選定保存技術保持団体)合同のシンポジウムがありました。城郭の保存とこれをいかしたまちづくりはいかにあるべきか、その問題点はなにか。
姫路は世界遺産「姫路城」のおひざ元。市民はどこの都市よりお城に興味を持っていると思いきや。さにあらず・・・・。関係者曰く。市民にとって姫路城はあまりにも当たり前の風景。とくに自分たちが何かをがんばって国宝や世界遺産にしたのではなく、むこうから勝手に称号がくっついてきたと。そんな感覚の人が多いらしい。文化遺産の自己アイデンティティーの形成とは何か?考えされられるエピソードだった。;
二日目のシンポ。市民はまばら・・・・
二日間、会場と懇親会のみでとんぼ帰り。姫路城には寄らずじまいだった。来春からは平成の大修理。修復工事の様子は巨大素屋根の中のステージから見学できるが、当分天守にはのぼれなくなるそうな。見たい人は早めにどうぞ。
この会は技能者(職人さん)と技術者(コンサルや工事元請け等)、研究者、行政担当者など、さまざまな立場の人が集う。文化財のありようを常に社会との関係で考えさせてくれる私にとって大切な場所だ。